Prelude(前奏曲)

彩城あやと

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プレリュード 第一章

プレリュード 第一章 ①

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同じ部屋の空気を吸っている。そう感じただけで、嬉しくて。
 同じ時間を過ごせてる。そう思っただけで、ドキドキした。
 きっとこの甘く胸をしめつけるような想いは、恋なんだろう。
 俺は目の前でピアノを引く彼に、初めて恋をした――。


 彼と出会ったのは、俺の勘違いから。
 ばぁちゃんに「広瀬さんの家に野菜持ってけ」そう言われて、広瀬さんの隣の家に、野菜を届けたのが、きっかけだった。
 俺は野菜の入ったビニール袋を抱えて、ピアノの音がかすかに鳴り響く、平屋一軒家のインターフォンを押した。
 でも待っても、待っても、家の中から、返事は返ってこないし、誰かが玄関先に出て来る気配も感じない。
 年寄りは耳が悪いのか。足腰が悪いのか。ピアノの音楽が在宅を告げているのに、インターフォンに反応してくれない。
 こんな田舎で在宅中に鍵をかける住人なんて、滅多にいるはずもなく、野菜を届けないと帰れない俺は、玄関の引き戸に手をかけた。
 扉は案の定、ガラガラと音を立てて開く。
「広瀬さーん」
 俺は出来るだけ大きな声を出したが、年寄りの耳には届かなかったようで、返事は返ってこない。
 くぐもったピアノのCDは鳴り鳴り止まず、玄関を開けたことによって、さらに大きく俺の耳に響いた。
「広瀬さん、森野です。お邪魔しますよー」
 広瀬さんは俺を小さな頃から知っていた。そんな安心感からか、俺は勝手知った調子で靴を脱ぎ、それでも来客を告げるように、俺はどたどたと足音をさせて上がり込んだ。
 その時ふと感じた違和感。
 なんだろう? 昔、広瀬さんの家に訪れた事があったけど、こんなにガランとした印象の玄関だったっけ? う~ん。まぁいいか。もう広瀬さん、歳取って耳悪かったし、勝手に上がり込んじゃったけど、CDが鳴りっぱなしに鳴ってる部屋にいなかったら、帰ろ。
 俺はピアノの音が漏れてる洋間らしき古びた木の扉を押した。
 でもそこから流れ出たのは、澄んだ音の洪水。ピアノの音はCDの音じゃない。音が違う。生きている。そう言うんだろうか。
 次々と生まれていくはかない音と、形を変えていく躍動音、耳に残る残響音。
 まるでシャボン玉が次々生まれて消えていくような。雲がすごいスピードで、風にどんどん流されていくような。
 こころが震えて。音に魅入られてしまった俺は、その場にどさりと野菜の入った袋を落としてしまった。
 ピアノは扉を背に男が弾いていた。
「誰だ?」
 ピタリとピアノの音が止んだ。
 白いシャツに立派な体躯を包んでいた男が、振り向きもせずに低く漏らした声が、シンとした室内に響いた。
「あ……ひ、広瀬さん……ばぁちゃんがこの野菜持って行けって……」
 男は振り向かない。
「広瀬……? ああ、広瀬さんの家は隣だな」
「え!? あ……」
 どうしよう。そういえば昔訪れた広瀬さんの家の玄関には、色あせた折り紙の毬のようなものや、古くなって埃っぽい造花、
粗品でもらったような人形や、骨董品のような立派な壺が、ただ並べればいい。そんな感じで所狭しと、置かれていた。
 なんで俺、この家に入った時にすぐに、気が付かなかったんだろう……。
「ごめん……家を間違えた……」
 俺が呆然と立ちすくんだままそう言うと、白いシャツを着た男の肩が笑ってるみたいに少し揺れて、座ったままの姿勢で振り返えった。
「間違えた?」
 男は日に当たった事のないような、透けるような白い肌をしていて、色素の薄い髪と瞳が印象的だった。
 広い肩幅、引き締まった筋肉。細身でも鍛えたような体つきなのに、インドアっぽい不思議な印象も受ける。
 何より振り返った男は恐ろしく整った顔をしていた。切れ長の瞳、綺麗に伸びた鼻梁、情熱的でふっくらとした唇は綺麗に口角が上がってる。でも目を細めて、喉を鳴らして笑っている姿は、俺と同い年くらいにしか見えない。
 良かった。何となく話やすそう……。
「一応インターフォンも鳴らしたんだけど、返事なくって、広瀬さん耳悪いから、聞こえてないのかと思って勝手に上がり込んじゃった」
「ああ、この部屋、防音してるから逆に外の音が聞こえないんだ」
「あ、そうなんだ。でもこのドア開けた時にすぐ声をかければ良かったんだけど、CDかと思っていたのに、生演奏だったのに驚いて………ここがどこだか、何しに来たのか、一瞬分からなくなってしまって、声をかけそびれて。ホントごめん」
 俺がそう言うと、男は驚いて、目を丸くした。
「そう言ってもらえると、家を間違えてくれて良かったような気がする」
「いや、それは俺が強盗じゃなかったから言えることで……。あんまりピアノに夢中になるなら、玄関には鍵、かけといたほうがいいよ」
「そうだな。これからそうする」
「ん……じゃあ、俺はこれで。お騒がせしてごめん」
「ああ」 
 野菜の入った袋を持ち上げて、ドアノブに触れて、一瞬躊躇した後、振り返った。
 ピアノの音が耳に残ってる。
「やっぱり……もう少し君のピアノ聴かせてもらってもいいか? 少ししか聴けなかったけど、あの音に鳥肌が立って、もう少し聴いてみたいような…ダメかな?」
「クラッシクが好きなのか?」
 男の指先が滑らかに、鍵盤をなぞり始めた。
「いや。全く。ピアノなんて全然よく分らない」
「なら観客が寝てしまわないよう、努力しよう」
 彼はくすくすと笑いながら俺でも知っているようなクラッシクを弾き始めた。
 見た目が完璧に整い過ぎてて取っ付きにくそうな感じがするのに彼の弾く曲は軽快なリズムで、俺でも聴きやすいようにアレンジされていた。
 音色とリズムとハーモニーとの冒険的な連鎖。彼の指から形づくられる音のおもしろさと、知ってる曲だからこそ次の音を連想させる楽しさを感じる。
 たぶん。彼の技術力もすごいんだろう。でもそれを上回る表現力がすごい。
 音楽なんて詳しくない俺は彼の奏でるピアノに惚れてしまった――。
 
 それからだ。俺は学校帰りに、少し遠回りして彼のピアノを聴きに、その平屋に度々訪れるようになった。
 彼は俺と同じ高校2年生で、名前を湊(みなと)と名乗った。湊と言うのが、性なのか名前なのか、俺はそこまで聞かなかったけど、特に気にならない。名前なんて二の次でいい。
 平屋は湊の自宅ではないらしく、湊の両親がピアノを自由に弾けるようにと、知り合いから少し防音効果のあるこの部屋を、湊の為に借りたものらしく、ピアノの音を自由に操る湊は、どうやら目が見えていないようだった。
 最初湊の目が見えないということは、見た目にはまったく分らなかったから気が付かなかった。
 けど、湊は耳を澄まして様子を伺ってて違和感を感じた。綺麗に澄んだ色素の薄い瞳は使われてない。ピアノの前に座ったっきり、決して動こうともしない。
 俺は港のピアノが聴けたらそれで良かったから、別に気にならなかったんだけど、それでも湊は目が見えないことを、俺に知られたくなさそうにしていた。だから俺も知らん顔を決め込むことにした。
 湊のピアノの音は優しい。湊自身も同じに。
 俺が学校帰りに来ることを知っていて、鍵は玄関先の鉢植えの中にしまってくれてたし、暑い日には小さなテーブルの上に飲み物やタオルを用意してくれてた。
 湊はピアノの前から決して動くことはなかったけど、でも事前に俺の事を想って用意してくれてる。そんな見えない優しさ彼の特長だった。

 そして湊と出合って、一年も過ぎたころ。
 俺が好きなのは湊の弾くピアノだけじゃなく、湊自身のことも好きだから、毎日のように湊の奏でるピアノを聴きに来ていた事にハタと気が付いた。
 間抜けな話だけど、俺はただ、湊に会いたくてピアノを聴きに通ってたんだ。
 それは俺にとっての初恋で、しかも男。まさか恋に落ちたなんて思うはずもなかった。
 ドキドキとした胸の高鳴りは芸能人を見て憧れるようなものなんだと思ってた。時々苦しくなる胸の痛みも港のピアノが聴けない禁断症状のようなものなのかと思ってた。
 でも答えは至ってシンプルなもので。気が付けば恋に落ちてた。それだけのことだった。
 恋って言うのは昔からよく言うように、お医者様でも草津の湯でも、恋の病てのは治せやしないもんだ。どれだけ悩んでも、苦しんでも、恋してしまったことはどうしようもない。やめようと思っても、湊を想う気持ちをやめられるものでもない。   
 そして。
 会いたい。港にただ会いたいと言う気持ちも抑えられるはずもない。
 俺は湊への気持ちを隠して、平屋で彼の奏でるピアノを聴き、湊は目が見えない事を俺に隠して、平屋でピアノを奏で続けた。


 そんなある日。
「明日は来れない」
 ぽろろろん。
 ピアノの音が鳴り止むと。湊は唐突にそう言った。
 なんでも明日は湊の誕生日になるそうで、湊の為にちょっとしたパーティーをするらしかった。
 湊の誕生日を、祝う。というよりお披露目的なものらしく、なんだか湊の家は上流階級なんかじゃないかな。そう匂わせ。湊は少し憂鬱そうにため息を付いてた。
 そしてその次の日。
 俺は湊がいないこと知っていたけど、ケーキをふたつ買って、平屋に訪れた。
 誕生日を祝うのは明日にすればよかった。でもいつもは湊のピアノを聴く時間。家でじっとなんてしていられなかった。たとえ湊いなくても湊の香りのする平屋で、湊の生まれてきた日を、俺一人だけでも祝いたかった。でも今日はいない湊の文章のケーキも買ってみた。主人公は港だから、いなくてもケーキは必要になる。
 生まれてきてありがとう。そして誕生日おめでとう。
 そうあったかい気分で平屋の前まで訪れると、耳に届いてきたのは、澄んだ綺麗な音色。湊の奏でるラプソディー。
「今日、来れないって……言ってたのに……」
 部屋に入ると港は、無表情な顔で「なんだ、今日も来たのか」と、そう言った。
 港の耳は少し赤い。そしてこの顔は本心隠したポーカーフェイス。つっけんどんなものの言い方は照れ隠し。
 俺はケーキを片手にピアノを弾く彼に歩み寄り、とうとう「好きだ」と気持ちを抑えきれなくて、彼に伝えてしまった。
 湊は告白驚いたように、俺を振り仰いだので俺も驚いた。
 しまった。口を滑らせた。慌てる俺に、港はなりふり構わず、手探りで俺を探し始めた。
「森野、もう一度言ってくれ」
「湊……もう目が見えない事、隠さなくていいよ」
「………! 森野……」
 俺がそっと港の肩に手を置くと、湊は俺を引き寄せてギュッと抱きしめた。
 俺の心臓は驚いて飛び跳ねた。でも俺を抱きしめる湊はかすかに震えてる。
「会いたかったんだ。森野に。だからパーティー抜け出してきた」
「そ、そんなことして、大丈夫?」
「さあ? ちょっとした騒ぎにはなっているかもな。でも自分を抑えられなかったんだ。たった一日、森野に逢えないそう思うとたまらなく辛かった。逢いたくて。逢いたくて。俺も森野の事が好きだ。きっとおまえが想うより強く、好きだ」
 必死にしがみつくように抱きしめてくる湊の背を撫でた。
 どうしようもなく嬉しくて。言葉なんか出ない。
 今日は、湊の誕生日。
 ふたりでケーキを食べて、湊は楽しそうにピアノを弾いていた。


 平屋で湊のピアノを聴きながら、あたたかい幸せに包まれて、春を、夏を越していった。
 湊は色んな曲を弾いてくれた。即興で躍動感のある曲も、おそろしく長い曲も、超絶的な技巧練習曲なんかまでも。
「ふたりで会っても、ピアノ、ピアノばっかりで飽きないか?」
「港のピアノは聴いてて、飽きない」
 俺がそう言うと、湊はピアノの前で笑った。
「森野も参加するか?」
「参加って……俺ピアノなんか弾けないし」
 それでも面白そうなので、湊の隣に並んでピアノを覗き込むと、湊は窓際にかけてあった火鉢で出来た変わった風鈴を指さした。
「ピアノだけが音楽じゃない。あの風鈴を演奏の合間に、ココだ。と思うところで鳴らしてみろ」
 無茶ぶりだな。俺に音楽性は皆無だぞ。そう思いながら風鈴の前に立つと、湊は俺が好きでよく弾いてる曲を奏でだした。
 この曲なら、合いの手入れられるかもしれない。
 そう思いながら、チリリリン。とよく響く風鈴を合間、合間に鳴らした。
「お、おもしろいかも」
「なら続けて行くぞ」
 そして湊とのセッションが始まった。
 湊のピアノを聴くのは好きだった。
 でも港のピアノに合わせて時々風鈴を鳴らす。一緒に音楽を楽しむ。そんな行為はたまらなくおもしろかった。
 ちょっとリズムもズレるし、ここで鳴らすんじゃなかった。そんな風鈴の響きだったけど、失敗さえも面白くて。湊も楽しそうに笑ってて。港と過ごす時間がとても幸せに感じた。
 次の日。湊はカホンという楽器を俺に与えた。
 カホンと言うのは、ペルー発祥の打楽器らしく、中が空洞の直方体の形をしていている木の箱で、側面に1つだけ打面を持っていて、打面以外のある1つの面にはサウンドホールが空けられているものだった。
 打面は他の面より薄くて、 打面の裏には弦や鈴が仕込まれてて、叩くと特徴的なバズ音が鳴る。
 俺はカホンの上に跨って、湊のピアノの音に合わせて、打面やその縁を素手で叩いた。
 打面の中央を叩くとバスドラムのような低い音が鳴り、端の方を叩くとクローズドハイハットのような鋭い音が出た。打面でない面を叩くと、中音域のサウンドが出るし、また、仕掛けが施された楽器の端を平手で叩くと、スネアドラムのような音色も鳴る。
 カホンは手で叩けるドラムみたいなものだった。
 楽譜もなんにもない、いや、楽譜があってもどうせ俺には読めない、俺に与えられた楽器。
 湊もその時の気分に合わせて、ピアノを自由に弾くし、俺も同じように感覚で叩くし、二人だけの即興曲が平屋に鳴り響いた。
 ふたりで何かをしている。それが楽しかった。
 そして時々、キスもしたし、抱きしめ合ったりもした。
「男同士で付き合ってるなんて、見つかったら親に反対されるかも」
 誰にも言えない、二人だけの時間、湊は椅子に座ったまま俺を見上げて笑った。
「森野に会えなくなるくらいなら、いっそ死んだほうがましだと思える」
 完璧にまで整ったような容姿でそんな事を真顔で言われたら、俺は居場所をなくしてしまう。
「ただでさえ惚れてるのに、これ以上惚れさせるなよ、港」
「森野」
 切なげな港の声。表情がたまらない。港がそっと手を伸ばしてきたので、俺は港の長い指先に自分の指を絡めた。
 そしてこんな幸せを与えてくれる湊に、俺も何か出来やしないかと考える。
 港はピアノを聴かせて俺に聴かせてくれる。一緒に音楽を奏でる楽しみも与えてくれた。
 湊はこの平屋までタクシーで来て、タクシーで自宅へ帰っていた。湊の家がどこにあるのか俺は知らなかったけど、湊は自宅と平屋以外、外に出るような感じがしなかった。
 目が見えないから、きっと港は出歩かないんだろう。それでも目が見えない。そう思われるのが嫌そうに見える。
 外は木枯らしが吹いていた。
 湊はこの景色を見ることが出来ないだろうけど、でも澄んだ空気や、落ち葉を踏みしめる感覚を味わわせてやりたいと思った。
 でも。
 目の見えない湊をどう連れ歩いたらいいか分らない。港が出歩く事を嫌がったらどうしよう。そう考えると臆病な俺は、ただ平屋で湊と同じ時間を過ごすしかなかった。
 だから、俺は高校卒業後の進路を選ぶとき、盲導犬のドックトレーナーを目指すことに決めた。
 介護士でも良かったのかもしれないけど、湊のそばに俺が常についてられるとは限らない。だから、自分の代わりに、ずっと湊のそばに居てくれるパートナーを探したかった。
 湊には俺がドッグトレーナーを目指していること秘密にして、無事合格したら教えてやろうかと思ってた。
 
 ――でも結局、伝える事は出来なかった。
 平屋で港と抱きしめ合ってるところを、たまたま訪れた湊の母親に見つかった。
 湊の母親は、俺との。男との。交際を認める訳がない。
「湊は目が見えないけど、うちの立派な跡取りなの。結婚して、子供を作って、目が見えないからこそ、まっとうな人生を送らせたいの。私も人の親として言うわ。あなたも一時の同情心なんかに惑わされないで、きちんとした人生を歩みなさい」
 身なりいい、自信に満ち溢れたような湊の母親は、俺を直視しながら、ハッキリとそう言った。
 俺は、湊との関係をどう説明すればいいのか分からなくて言葉に詰まった。
 いくら湊が好きでも、一生そばにいると誓えても、湊を幸せに出来ると言い切る自信なんて、高校生の俺にあるはずもない。
 親の保護下にある俺が、湊の母親になんて言って、付き合わせて欲しい。と説得することが出来るんだろう。
 俺が言葉をなくして立ちすんでいると、湊が母親を引きずるようにして部屋を出ていった。
 取り残されたのは、俺とピアノとカホン。
 ……湊は戻ってくるだろうか。
「森野に会えなくなるくらいなら、いっそ死んだほうがましだ」
 湊の言葉が脳裏をよぎった。
 もし、湊が戻って来て、ふたり一緒にいられないことを嘆くなら。
 俺は湊の望むまま、一緒に死のう。
 港と一緒にいられないのなら、俺は死んだ、同じなんだから。
 
 でもその時から、湊が平屋に訪れることはなく。湊の携帯も両親の手によって、解約されてしまったのかつながることがなくなってしまう。
 湊に会いたい。
 湊の声が、ピアノが聴きたい。少しでも、少しでも同じ時間を湊と過ごしたい。
 そう一縷の望みを抱いて、俺は毎日のように、学校帰りにピアノの音を探して平屋の前に訪れる。
 でも平屋の扉は固く閉ざされたまま。俺を受け入れようとはしない。
 そんな日が何日か続いたある日、俺の携帯に彼からの着信が入った。
 ……でも湊の口から飛び出したのは。
「別れよう」
 たったそれだけの言葉。
 俺は会いたい想いが募って、必死になって縋った。
「お前の両親を説得してみせるから、俺が一生幸せにしてみせるから。それでも反対されたら、俺はおまえと心中する覚悟だって出来てるから……! 湊と一緒にいたいんだ……! 死んでも一緒にいたいんだ……!」
 そう言うと、湊はしばらく沈黙した後。
「心中なんて出来ない」
 そう言って、ぷつりと電話を切った。
 湊は母親の言うように、一時の感情に惑わされて、俺といただけなんだろうか。でも親に見つかるまで、俺と居てあんなに、あんなに幸せそうにしていたのに。
 あれは……あれは……まやかしだったのか……。
 ぷつり。張りつめていた想いが、途切れたような気がした。

 次の日学校帰りに平屋を覗いたら、玄関前にはひとつのダンボールが置いてあった。
 それは俺が平屋に持ち込んだ私物だった。
 俺は固く閉ざされた平屋の玄関を背にして、ダンボールを抱えて歩き出す。
 数歩踏み出したところで、ダンボールが邪魔で地面が見えなくて、立ち止まった。
「男が、そうそう泣くもんじゃない」
 剛毅なばぁちゃんの言葉が頭に思い浮んだ。
 俺は、悲しくても、辛くても、今まで泣かないで生きてきた。それが男だと教えられてきたからだ。
 でもばぁちゃん。
 辛くて。辛くて。歩けないほど悲しいのに、それでも男は泣いたら、いけないものなんだろうか?
 俺は道行く人の目も気にしないで、声を張り上げて、いっそわんわん声を張り上げて、泣いてみたかった。
 湊が女の子のなら。俺が女の子だったら。
 それなら、今も湊と同じ時間を過ごせたのかもしれない。
 ずっと、ずっと同じ時間を歩めたのかもしれない。
 ダンボールが揺れると、リリン。と独特な響きの風鈴が鳴った。
 ……風鈴は俺のものじゃないのに。
 俺は湊が詰め込んだ思い出の入ったダンボールを抱えたまま、ぐっと涙が出ないように歯を食いしばる。
 俺は女じゃない。
 涙が出ないように空を見上げると、青く澄み渡った空がいつもより、高く、高く、見えた。


 それから、受験を迎えていた俺は進学を諦め、大手鉄工所の内定を取った。
 俺は彼の為に盲導犬のドッグトレーナーになる。という必要性を見いだせなくなったからだ。


 それから半年後。
 冷たい雨の降る三月のある日のこと。
 ピアノを弾いてた彼は春を待たずに、癌で亡くなった。
 と、広瀬さんからそう聞いたのか、ばぁちゃんが、ぽつり。そう漏らした。
「心中なんて出来ない」
 そう言った湊は、たった一人逝ってしまった。
 あの時なら、一緒に逝けたのに。
 湊はそれを選ばなかった。
 会えないくらいなら、死んでもいい。俺はちゃんと湊に伝えたつもりなのに。
 いや、伝えたからこそ、湊は一人で逝ってしまったのかもしれない。
 俺は冷たい雨の降る中、とぼとぼと歩いて、平屋に訪れる。
 彼の家を知らない俺は、彼に線香をあげる事も。見送る事も。出来ない。
 何も知らない、出来ない俺は、ただ、平屋の前で立ち尽くすしかない。
 俺はここでの湊しか知らなかった。
 もっと、もっと、湊を知っておけば良かった。同じ時間を過ごせば良かった。もっと湊に触れれば良かった。そう悔やんでも、もう遅い。時は戻らない。
 湊の奏でる綺麗な音色で満ちていた平屋に雨が降り注ぐ。
 扉を開けば、湊の笑顔も。声も。香りも。優しさも。当たり前のようにそこにあったのに。
 今は湊のピアノの音が外からも聴こえない。
 隣の広瀬さんが、呆然と立ちすくむ俺に気が付いて「濡れるから、傘かしてやる」そう言って傘を貸してくれた。
 しとしと。
 雨が平屋に降り注ぐ。
 時間が流れて、指先に感覚がなくなっても、足が棒になってしまっても。
 ずっと雨は平屋に振り注ぐ。
 新聞を取りに出た広瀬さんが俺を見て、慌てて駆け寄って来た。
「一晩中そこにいたのかい!? ああ、あんた……泣きもしないで……ここの子と友達だったんだろう? 泣いてもいいんだよ。死者を送る涙は、悪いものじゃないんだから」
 ざあああああ。
 雨脚が急に強くなって。
 視界が滲んだかと思えば、涙がぼろぼろと溢れ出した。
 
 
 同じ部屋の空気を吸っている。そう感じただけで、嬉しくて。
 同じ時間を過ごせる。そう思っただけで、胸が高鳴った。
 この胸の甘い高鳴りは、恋。
 俺は目の前でピアノを引く彼に、初めて恋をした。
 でもその彼はもう。
 どこにもいない。
 平屋に満ちていたあの綺麗な音色は、二度と聴こえない。
 

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