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共通章
◆1 誘惑
桐原忍は、入学当初から目立つ男だった。
東京美術学校の予備科に入学した生徒、約70人の中、人より頭ひとつ高い上背と、男らしく眉目秀麗な顔立ちで、容姿が一際抜きん出ていたこともある。
だが目立つことになった一番の理由は、ある噂だった。
彼が朝、校門前で女性と別れを惜しんでいたという話を聞いたのは、一度や二度ではなく、相手は玄人っぽい女性だったとか、人妻のようだったとか、憶測とやっかみを含んだ醜聞が後を絶たなかったのだ。
そんな彼を、私、千種有恒は、やや冷静な目で眺めていて――羨むことも、蔑むことも特になく。だが親しく話すこともなかった。
子爵家の一人息子として育った私は、周囲から常に品行方正を求められ、そしてその期待を裏切ることがないよう生きてきた。
親の意向に逆らったのは、日本画を学びたいという気持ちを貫いてこの美術学校に入学したことが、初めてで――そして最後になる筈だった。
ここに入ることが、私の、最初で最後の我儘だとそう誓ったことで、ようやく、親を説得することが出来たのだ。
卒業すれば絵はきっぱり諦めて、父の仕事を手伝うことを約束させられていた。
そんな私とは真逆に、普段から自由奔放そうに見える彼は、全く違う世界に生きている――そんな風に感じていた。
だから私は彼に関心がなく、まともな会話も交わさないまま学生生活を送り、三年目の本科への進級後、ひと月ほど経とうとしていたある日――
「君をモデルにして絵を描きたい」
桐原から、そんな話しを持ち掛けられたのは、全く予想外のことだった。
夕暮れの、人気のない校舎の廊下だ。
二人だけの状況を狙っていたかのような雰囲気があった。
……分からなかった。
彼の周りには、美しい女性の影が常にあるようだったし、なぜ男の、しかも交流も何も無い自分なのかと。
「どうして、私なんだ?君の為なら幾らでも美しい女性がモデルに志願してくれると思うけれど」と、率直に尋ねてみた。
「女は駄目だ。皆、僕にのぼせ上がるから面倒なんだ」
「………成程」
噂通りの男らしく、そんな事を悪びれる様子もなく言ってくるので、一瞬返答に困った。
「だからと言って、それが私に声を掛ける理由にはならないだろう」
尚もそう言い募ったら、彼は華が咲くような、屈託のない笑顔を向けてきた。
「君は僕に関心がない上に、顔立ちが美しいから。丁度良いんだ」
丁度良い、という言い草が可笑しくて、私は笑った。
「誘い文句として、あまり上等とは言えないんじゃないかな」
「……優しい君なら、僕の願いを断らないと思ったから」
まるで昔からの親友のように肩に手を回してきて「頼むよ」と懇願してくる。私のことを理解しているような口調だった。甘いテノールの、囁きかけるような声がやけに心地良く耳に響く。
彼の言う通り、何故か私は断れなかった。
――そして、そこから、付き合いが始まったのだった。
東京美術学校の予備科に入学した生徒、約70人の中、人より頭ひとつ高い上背と、男らしく眉目秀麗な顔立ちで、容姿が一際抜きん出ていたこともある。
だが目立つことになった一番の理由は、ある噂だった。
彼が朝、校門前で女性と別れを惜しんでいたという話を聞いたのは、一度や二度ではなく、相手は玄人っぽい女性だったとか、人妻のようだったとか、憶測とやっかみを含んだ醜聞が後を絶たなかったのだ。
そんな彼を、私、千種有恒は、やや冷静な目で眺めていて――羨むことも、蔑むことも特になく。だが親しく話すこともなかった。
子爵家の一人息子として育った私は、周囲から常に品行方正を求められ、そしてその期待を裏切ることがないよう生きてきた。
親の意向に逆らったのは、日本画を学びたいという気持ちを貫いてこの美術学校に入学したことが、初めてで――そして最後になる筈だった。
ここに入ることが、私の、最初で最後の我儘だとそう誓ったことで、ようやく、親を説得することが出来たのだ。
卒業すれば絵はきっぱり諦めて、父の仕事を手伝うことを約束させられていた。
そんな私とは真逆に、普段から自由奔放そうに見える彼は、全く違う世界に生きている――そんな風に感じていた。
だから私は彼に関心がなく、まともな会話も交わさないまま学生生活を送り、三年目の本科への進級後、ひと月ほど経とうとしていたある日――
「君をモデルにして絵を描きたい」
桐原から、そんな話しを持ち掛けられたのは、全く予想外のことだった。
夕暮れの、人気のない校舎の廊下だ。
二人だけの状況を狙っていたかのような雰囲気があった。
……分からなかった。
彼の周りには、美しい女性の影が常にあるようだったし、なぜ男の、しかも交流も何も無い自分なのかと。
「どうして、私なんだ?君の為なら幾らでも美しい女性がモデルに志願してくれると思うけれど」と、率直に尋ねてみた。
「女は駄目だ。皆、僕にのぼせ上がるから面倒なんだ」
「………成程」
噂通りの男らしく、そんな事を悪びれる様子もなく言ってくるので、一瞬返答に困った。
「だからと言って、それが私に声を掛ける理由にはならないだろう」
尚もそう言い募ったら、彼は華が咲くような、屈託のない笑顔を向けてきた。
「君は僕に関心がない上に、顔立ちが美しいから。丁度良いんだ」
丁度良い、という言い草が可笑しくて、私は笑った。
「誘い文句として、あまり上等とは言えないんじゃないかな」
「……優しい君なら、僕の願いを断らないと思ったから」
まるで昔からの親友のように肩に手を回してきて「頼むよ」と懇願してくる。私のことを理解しているような口調だった。甘いテノールの、囁きかけるような声がやけに心地良く耳に響く。
彼の言う通り、何故か私は断れなかった。
――そして、そこから、付き合いが始まったのだった。
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