小説「あの海に」

有原野分

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あの海に

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 あの海に。
 懐かしいという感情は生きてきた結果なのか、生きていく動機なのか。波のうねりが影を差す。海底には見えない思い出が沈んでいる。
「あなたは人生を楽しみましたか? 後悔はありませんか」
 髭を剃るのを忘れていたように思う。深く、ただ深く潜る。遠くを船が通ったのか、波が泥を巻き上げて三十センチ先も見えやしない。悲しいことは、薄っすらと光を感じ、その光に当たった自身の影を追いかけることだ。少しずつ意識が遠のいていく。淡い人生だった。誰かにそう言われた気がした。
 刺す。
「最後にみんなで海に行かないか? いや、別にやり直そうとか、そういう訳ではなくてさ、ただ行きたいんだ。……なんとなくだよ」
 雨。晴れ。雨。晴れ。晴れ。晴れ。晴れ。雨。晴れ。雨。雨。雨。雨。雨。――
 曇り空の上には太陽が輝いているだなんて馬鹿なことを言うもんじゃねえ。見えない先の世界になんの意味があるって言うんだ。なにもない。見えないのとなにもないのは同義語なんだ。バカにしてやがる。みな、不幸だ。私だって、幸せになるために、そうだ、幸せになりたかったんだ。光。
「パパの飛び込む姿をよく見ておくんだぞ!」
 陽光を反射してガラスのように光る水面はぶつかると同時に不幸の味がした。見えない先の世界。水の中はなにもない。酸素はもちろん、愛も、夢も、生きてきた証も――。手を必死で動かして、ああ、思い出した。幼い頃、砂場でよく穴を掘って遊んだっけ。その要領だ。穴を掘る。海の中で、海をかき分け、海に穴を開けていく。
「この貝がらを持って帰ろう。きっといい思い出になるよ」
 愛している。その言葉を最後に聞いたのはいつだっただろうか。肺が海で溢れていく。痛みに徐々に慣れていくと、海に開いた穴からは光が漏れていた。
 空気だっ!
 海の中は海であり、そして海は海としていつまでも太陽と月を反射する。(そこまでは通説だが、実際にはどうだか……)
 魚が泳いでいる。気がついたら目の前は澄んでいた。果てしなく静かだった。誰の声も、過去の栄光も聞こえない。なにも見えない。あれほど自身を苛めた孤独感も、ここではなにも感じない。
 欲。それがなくなったのかもしれない。苦しみは欲から生まれる。だとしたら、私はようやく幸せになれたのだろうか。
 月明かりがぼんやりと見える。海面が揺れている。あっ、そういえば、シャワーはどうすればいいのだろうか。歯磨きだってまだしていないのに。
 目を閉じる。そこでようやく声が聞こえる。
「パパ、この貝がら、とてもキレイだね」
 そうだろう、そうだろう。海だって、本当はキレイなんだよ。なにも怖くはないんだよ。もし、君が溺れるようなことがあれば、パパが一目散に駆けつけて、そっと君を抱き上げるから。ああ、きっと、約束だよ。もちろん、愛してるさ。……あの海に……おやすみなさい。
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