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生ウサギの歌
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「一匹、二匹、いや、どうも違うようだ。一羽、二羽――、か。
飛べない鳥もいる。
さて、今日はどこで寝ようかな。
『低気圧と熱帯夜、夢のようだね。今日は元気がないようだけど』
問いには誰も答えない。豚。
――言わなくてもいいんだよ。ちゃんと分かっているから。アホだろうが、バカだろうが、もちろんサルにもフタコブラクダにも……。だからって、無駄に生きるな。例え毎日がクソみたいだからといって、労働して、挫折して、悩んで、悩んで、悩んで、悩んで、死ぬほどの病気にかかって、身体を壊すギリギリだって飯は食える。食え。健康のまま、死んだ奴だっているんだ。消化? できなくても構わない。排泄は快楽だ。苦しみは成長だ。悲しみは――、誰も答えは分からない。誰も彼もが生きているのかどうかさえ怪しいもんだ。そう、生きているかどうか。それが重要だ。生きているのかどうか、だ」
(「シドラの夢」より一部抜粋)
「数十年前のある日、世界を白い霧が覆った。その霧は猛毒で、人々の視力と倫理を奪った。空、土、海は汚染され、この世界はそこで一回終わったの。白い霧とはいったい何だったのか。それは誰にも分からない。……らしいわ」
「らしい?」
「らしい」
「らしいって?」
ここ最近、イライラが止まらない。それは単に寝不足もあるとは思うけど、いや、違う。
ぼくはこいつが嫌いなんだと思う。
「わたしだって、人から聞いただけだから」
「その、人から聞いたってことを――」
ただのルームメイトになっただけという関係のぼくに言わないでほしい、と言いかけたところで、咳。
「大丈夫?」
のどが痛む。キッチンに行ってなにかを飲みたい。ぼくは意識をのどに向けながら、ベッドが鳴るか鳴らないかのぎりぎりのところで寝返りを打って、姿勢を少しだけ変える。
奴隷。ぼくたちは囚われている。自由に部屋から出ることさえできない。
価値観が人を殺すというのなら、ぼくはこの世界をそこまで嫌いにはならないけど、価値観を構築する自身の中に潜んでいる見えないもう一人の自分は、憎むべき対象だと思っている。いつも。それは明日の世界を極端に狭めてしまうから。
「そういえば、きみはどこから来たんだっけ?」
彼女は、先日ここに来た。その前の彼女の代わりだ。
「わたしは、もっと狭いところから」
ぼくは思い出す。シドラの夢。それがいったい何だったのか、シドラとはいったい何なのか、何者なのかも思い出せないけど、「シドラの夢」という名前の何かが確かに存在していたということだけは覚えている。
「あなたは、優しそう」
彼女の目は潤んでいる。ぼくはもうすぐぼくではなくなってしまう。家畜。昔、人間は家畜と呼ばれていた。長い戦争。その果てに、人間は家畜から脱却し、ようやく自由を得たというのに、なぜ、ぼくたちは再び家畜として生まれてきてしまったのか。
「ぼくは、優しい人が好きなんだ」
「例えば?」
自身の価値観が世界を作っているとしたら、この目に見える世界は鏡だ。だとしたら、この目の前の女も、ぼく自身の境遇も、反射した世界、つまり、ぼく自身が作り上げた世界ということになる。ああ、目を閉じよう。瞑想。ぼくは、優しい人になりたかった。
――ある女性が自殺した。噂によると、手首を切って。僕はその話を、しょうもない飲み会のときに、しょうもない人から聞かされて、その場で泣きそうになりながらも、くだらない会話に合わせて、むりやりに笑顔を作っていた。その子は、僕の働いていたお店によく来ていたお客さんだった。……朝日のようなきれいな目をしていた。覚えている。今でも。音楽が好きだった。バンドを組んでいて、その名前も、一度だけ見た、あのライブも、そうして、顔だけが徐々に薄れていって、それでも、たまに思い出しては、そっと名前を呟いてみたり、アルバムを開いてみたり、ネットで検索したりする。今でも。たぶん、これからも。もしかしたら僕は、彼女のことが好きだったのかもしれない。そんなに仲良くはなかったと思う。一緒に遊んだことだってない。それでも、僕は好きだった気がする。断言はしない。できない。恥ずかしさもあるが、ここで僕が断言してしまうと、なんというのか、報われない気がするから。誰が? 分からない。でも、なんとなくということは、きっとそういうことだ。彼女は歌を歌っていた。あの日、あのステージ上、暴れていた。あの歌声、あの表情、露わになっている太もも、息づかい、沈黙、予測のつかない言葉、動き、揺れ動く心、いったいどのぐらいの人が覚えているのだろうか。まさか、誰も彼女が死ぬなんて思ってもいなかっただろう。いや、辞めた。正直に告白しよう。僕は彼女が好きだったのだ。ショートカットで、アーティストで、めちゃくちゃで、人見知り。優しい人。そうなろうと思った。好きでいようと思った。優しくなりたいと思った。先日、娘とディズニー映画「リメンバーミー」を見た。死んだ人は現世の人から忘れられると、あの世からも消滅するという。僕は彼女を忘れたくなかった。ずっと思い出せる一人でありたかった。瞑想中、たまに死んだ人のことを考える。なにも彼女だけじゃない。兄だって自殺した。後輩も、先輩も、考えれば、死は思った以上に身近にあふれていて、その上で、それを覚悟した上で僕たちは生きている。ああ、また説教くさくなってきた。年かもしれない。年をとればとるほど、人は死んだ人間を忘れていく。自身は死に向かっているというのに。死。まだ、まだ。彼女のことを思い出すときは、いつも唐突だ。死も、生きることも。思い出した。あのときスタジオで、なにを喋ったのかを――。
「なにを話したの?」
「シドラとは関係のない話」
「そう、それなら――」
それなら。
ぼくは目を開ける。
隣にいる彼女の顔が近づいてくる。
そのとき。
――ドアの開く音。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。
彼女は連れていかれた。
ぼくはどうやら、また一人になってしまったようだ。……
「生ウサギ。それはニンジンが嫌いなんです。生ウサギ。それはいつだって空を飛ぶ夢を見ているのです」
生ウサギ。ぼくは目をとじる。
生ウサギ。
その数え方を、その跳び方を、その生きる生き様を。
夢。なんだっていい。忘れないように。爪。その壁に。
彼女は言った。
ぼくだって、言いたいことが山ほどあるんだ。
記憶の中で、まだ、きみの歌は終わっていない。
まだ。まだ。
生きているかどうか、それが重要だ。
生きているか、どうか。
それなら。
生ウサギ。――
それは、今でもどこかで生きている。
飛べない鳥もいる。
さて、今日はどこで寝ようかな。
『低気圧と熱帯夜、夢のようだね。今日は元気がないようだけど』
問いには誰も答えない。豚。
――言わなくてもいいんだよ。ちゃんと分かっているから。アホだろうが、バカだろうが、もちろんサルにもフタコブラクダにも……。だからって、無駄に生きるな。例え毎日がクソみたいだからといって、労働して、挫折して、悩んで、悩んで、悩んで、悩んで、死ぬほどの病気にかかって、身体を壊すギリギリだって飯は食える。食え。健康のまま、死んだ奴だっているんだ。消化? できなくても構わない。排泄は快楽だ。苦しみは成長だ。悲しみは――、誰も答えは分からない。誰も彼もが生きているのかどうかさえ怪しいもんだ。そう、生きているかどうか。それが重要だ。生きているのかどうか、だ」
(「シドラの夢」より一部抜粋)
「数十年前のある日、世界を白い霧が覆った。その霧は猛毒で、人々の視力と倫理を奪った。空、土、海は汚染され、この世界はそこで一回終わったの。白い霧とはいったい何だったのか。それは誰にも分からない。……らしいわ」
「らしい?」
「らしい」
「らしいって?」
ここ最近、イライラが止まらない。それは単に寝不足もあるとは思うけど、いや、違う。
ぼくはこいつが嫌いなんだと思う。
「わたしだって、人から聞いただけだから」
「その、人から聞いたってことを――」
ただのルームメイトになっただけという関係のぼくに言わないでほしい、と言いかけたところで、咳。
「大丈夫?」
のどが痛む。キッチンに行ってなにかを飲みたい。ぼくは意識をのどに向けながら、ベッドが鳴るか鳴らないかのぎりぎりのところで寝返りを打って、姿勢を少しだけ変える。
奴隷。ぼくたちは囚われている。自由に部屋から出ることさえできない。
価値観が人を殺すというのなら、ぼくはこの世界をそこまで嫌いにはならないけど、価値観を構築する自身の中に潜んでいる見えないもう一人の自分は、憎むべき対象だと思っている。いつも。それは明日の世界を極端に狭めてしまうから。
「そういえば、きみはどこから来たんだっけ?」
彼女は、先日ここに来た。その前の彼女の代わりだ。
「わたしは、もっと狭いところから」
ぼくは思い出す。シドラの夢。それがいったい何だったのか、シドラとはいったい何なのか、何者なのかも思い出せないけど、「シドラの夢」という名前の何かが確かに存在していたということだけは覚えている。
「あなたは、優しそう」
彼女の目は潤んでいる。ぼくはもうすぐぼくではなくなってしまう。家畜。昔、人間は家畜と呼ばれていた。長い戦争。その果てに、人間は家畜から脱却し、ようやく自由を得たというのに、なぜ、ぼくたちは再び家畜として生まれてきてしまったのか。
「ぼくは、優しい人が好きなんだ」
「例えば?」
自身の価値観が世界を作っているとしたら、この目に見える世界は鏡だ。だとしたら、この目の前の女も、ぼく自身の境遇も、反射した世界、つまり、ぼく自身が作り上げた世界ということになる。ああ、目を閉じよう。瞑想。ぼくは、優しい人になりたかった。
――ある女性が自殺した。噂によると、手首を切って。僕はその話を、しょうもない飲み会のときに、しょうもない人から聞かされて、その場で泣きそうになりながらも、くだらない会話に合わせて、むりやりに笑顔を作っていた。その子は、僕の働いていたお店によく来ていたお客さんだった。……朝日のようなきれいな目をしていた。覚えている。今でも。音楽が好きだった。バンドを組んでいて、その名前も、一度だけ見た、あのライブも、そうして、顔だけが徐々に薄れていって、それでも、たまに思い出しては、そっと名前を呟いてみたり、アルバムを開いてみたり、ネットで検索したりする。今でも。たぶん、これからも。もしかしたら僕は、彼女のことが好きだったのかもしれない。そんなに仲良くはなかったと思う。一緒に遊んだことだってない。それでも、僕は好きだった気がする。断言はしない。できない。恥ずかしさもあるが、ここで僕が断言してしまうと、なんというのか、報われない気がするから。誰が? 分からない。でも、なんとなくということは、きっとそういうことだ。彼女は歌を歌っていた。あの日、あのステージ上、暴れていた。あの歌声、あの表情、露わになっている太もも、息づかい、沈黙、予測のつかない言葉、動き、揺れ動く心、いったいどのぐらいの人が覚えているのだろうか。まさか、誰も彼女が死ぬなんて思ってもいなかっただろう。いや、辞めた。正直に告白しよう。僕は彼女が好きだったのだ。ショートカットで、アーティストで、めちゃくちゃで、人見知り。優しい人。そうなろうと思った。好きでいようと思った。優しくなりたいと思った。先日、娘とディズニー映画「リメンバーミー」を見た。死んだ人は現世の人から忘れられると、あの世からも消滅するという。僕は彼女を忘れたくなかった。ずっと思い出せる一人でありたかった。瞑想中、たまに死んだ人のことを考える。なにも彼女だけじゃない。兄だって自殺した。後輩も、先輩も、考えれば、死は思った以上に身近にあふれていて、その上で、それを覚悟した上で僕たちは生きている。ああ、また説教くさくなってきた。年かもしれない。年をとればとるほど、人は死んだ人間を忘れていく。自身は死に向かっているというのに。死。まだ、まだ。彼女のことを思い出すときは、いつも唐突だ。死も、生きることも。思い出した。あのときスタジオで、なにを喋ったのかを――。
「なにを話したの?」
「シドラとは関係のない話」
「そう、それなら――」
それなら。
ぼくは目を開ける。
隣にいる彼女の顔が近づいてくる。
そのとき。
――ドアの開く音。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。
彼女は連れていかれた。
ぼくはどうやら、また一人になってしまったようだ。……
「生ウサギ。それはニンジンが嫌いなんです。生ウサギ。それはいつだって空を飛ぶ夢を見ているのです」
生ウサギ。ぼくは目をとじる。
生ウサギ。
その数え方を、その跳び方を、その生きる生き様を。
夢。なんだっていい。忘れないように。爪。その壁に。
彼女は言った。
ぼくだって、言いたいことが山ほどあるんだ。
記憶の中で、まだ、きみの歌は終わっていない。
まだ。まだ。
生きているかどうか、それが重要だ。
生きているか、どうか。
それなら。
生ウサギ。――
それは、今でもどこかで生きている。
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