小説「サナギ」

有原野分

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サナギ

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「今まで出会ってきた人の中で、あなたほど魅力のない人はいなかったわ」
 そう言って彼女は出て行った。ばたん、と一人残された部屋が揺れる。貧相な六枚の畳の上にはぼくと、その汗の匂いと、彼女の透明な残り香が充満した。涙が氾濫し、年季の入ったアパートの頑固な汚れが滲みでては浸水さながらねばねばとした泥水がかさを増していった。ぼくは膝近くまで飲み込まれている。
 つらい。
 何もかもがつらい。世界が歪むのは全て自分のせいなんだ。――死ぬか。
「……できない。とてもじゃないが、でも、いっそのこと生まれ変われたら――」
 部屋に渦巻く悲しみを目一杯吸いこむと、ぼくはトイレに駆け込んで全身の液体を全て吐き出しそのまま蒲団に潜りこんだ。
 のろくさく空気が動く。全身が沼地に沈みこんで、しかし息はできるようで、鼻から熱い気泡が上に、また上にいき、にぶい波紋が水面に重なった。
 三日間、そのまま。
 死にたくない。ふとそう思うと同時に、僕は起き上がって押し入れに無我夢中で避難した。きっとあのまま蒲団の上にいたら溺死していただろう。そのせいか、ぼくの体は本来不可能に近い体勢で縮こまってしまった。手足を折り曲げ、丸くなった猫のように、そのまま三日間――時間は分からないが多分そのぐらい――また経過した。
 うつらうつらと目が覚めると、ぼくはなんとサナギに変態していた。皮膚は固く、枯れ木のように今にもぺきぽきと音がなりそうだ。腹のあたりに力を入れてみようとするも、ぎゅるるるると不気味な液体の流れる感覚があるだけ。一部の神経と呼吸器系以外はドロドロに溶けているみたいだ。ぼくはサナギなんだ。――ぼくは生まれ変るんだ。
 次の日、もうれつに体内がむず痒く、しかしそれは痒いというよりなにか希望に満ちた安心に近い、そう、もうすぐだろうか、とにかくぼくはその痒みを楽しんでいた。
 イメージ。――かっこいいぼく。頭のいいぼく。成長しているぼく――。
 孵化は突然に始まった。身の引き締まる思い。殻が音を立てて割れる。おお、あれは頭だ! 今、ぼくは生まれ変わるんだ。新しい世界を、新しい人生を……。
 体を覆う粘膜が光沢を放ち、ぼくは全裸で立っていた。華奢だったぼくとは比較にならない程引き締まった体格、少し背も伸びたかな? 目鼻も整っている顔は自分でも惚れ惚れしてしまう。あれ? でも変だ。なぜぼくはぼくを見ているんだ? なぜぼくは押し入れから、部屋に立っている自分を眺めているんだ? ぼくがきょろきょろと目玉を動かし、生まれたばかりの仔牛のように重力と向き合っている。なぜそれが見えるんだ? それは確かにぼくなのに、それをぼくは傍目で見ている。……あれは一体何なんだ? 一体誰なんだ?
 数分のち、ぼくが視界から消えた。シャワーの音が聞こえてくる。ぼくは考えた。
「あれは確かにぼくだ。生まれ変わったぼくだ。しかし、もしそうだったらいまのぼくは誰なんだ? サナギの抜け殻? いや、心はここにある。確かにある。あれを眺めているぼくがいる。意思もある。ではあれは一体なんだ? 意思はあるのか? 心は? ぼくはサナギの中に閉じ込められてしまったのか? ああ、生まれ変ってもこれじゃあ……」
 玄関を叩く音が聞こえてきた。一週間前に別れた彼女だった。ぼくは服を着て、迎え入れていた。
「連絡してみたら電話にも出ないし、もしかして死んだのかと思って。ごめんなさい。でも、アナタ何か変ったわね。なんだか、凄くドキドキする……」
 ぼくが彼女にキスをした。ぼくはそれを眺めている。そして押し入れが閉められた。その瞬間、ぼくが、ぼくに向かってニヤリと笑った。
 暗い押し入れの中、ぼくはただ声を聞いていた。彼女の話し声、ぼくの笑う声、テレビの声、そして二人の夜の声。
 そんな日が当たり前になって、怒りと、開き直った悲しみが込み上げてはくるが、涙は出なかった。サナギのぼくには目玉なんてありゃしない。
 ある日、聞きなれない女性の声が聞こえてきた。甘い声。二人は抱き合っているのだろうか、きっと愛のない、肉体からの声。――あんなのはぼくじゃない。
 ああ、破局。彼女がまた出て行った。もう終わりだ。ぼくはぼくを心から殺したかった。
 そして突然押し入れが乱暴に開かれた。なんとぼくがぼくを睨んでいるではないか。 
「……お前が先に裏切ったんだろう?」
 そしてぼくはゴミ捨て場に運ばれた。かさかさと崩れそうな固い皮膚は欠片を落しながら宙を舞う。月が明るい。それを反射してぼくのサナギは、さも三日月みたいに見えるだろう。
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