『愛するあなた』

砂月かの

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『愛するあなた』

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『いってらっしゃい』

それは送り出した言葉



なのに……
返ってくるはずの言葉がなかった。

変わったことなんて何一つない
虫の知らせ?
私にはなかった

それなのにどうしてあなたは無言の帰宅なの
いまでも玄関の開く音がするのよ

「俺の可愛い〇〇ちゃ~~~ん、パパのおかえりでしゅよ」

愛しの娘を抱えるあなた

「パパおひげ痛いよ」

そういいながらも娘は嬉しそうに抱きついている

「おっ! 今日の夕ご飯はなんだ?」
「ご飯の前に着替えてきてくださいね。あなた」
「冷めたらもったいないからな。速攻で着替えてくる」

笑顔で娘と着替えにいく姿は日常のなんでもないワンシーン


けれど、もう主役がいないの
物語の続きは迷宮いり

事実を耳にしたときも眠るあなたをみても何も感じなかった
涙さえ浮かんでこなかったのよ
そっと触れて、冷たいあなたにキスをし、唇から浸透する冷たさにようやく理解した

あなたをもっと見ていたかったのに、私の瞳はそのまま涙に溺れた


声の届かない耳に語りかける言葉なんて何もないのよ
私を映しだしてくれない瞳も見たくないの
ぬくもりを与えてくれないその腕も必要ない
一番聞きたい声を聞かせてくれないその口でさえいらない

なにもほしくないのに……
『あなた』がほしい



いつでも頼って、力になる、何でも言って……
周りはみんな、涙が出るほど優しいの。
でもね、全然嬉しくならない。
あなたにはわかる?



あなたと同じ冷たい土に沈めるときにね
娘が私に問うのよ

「どうして、パパを埋めちゃうの」

って
答えられるわけないわ
だって、私もその答えを知りたいのだから……

「どうして、あなたを埋めてしまうの」

って


そして、みんなが口をそろえて娘にこういうの

「パパはねお空にいったんだよ」


なら、
空にいったらあなたに会えるの?
青い空にたどりついたらあなたはいるの?
空の彼方にいけばあなたに触れられるの?

“誰か答えてよ”



深海に沈められたのは私
その水圧に押しつぶされそうなの
その冷たさに体温を奪われてしまいそうなの
その光の届かない闇にのみこまれそうなの

心が……
身体が……
私が……
助けてと悲鳴をあげているのに、あなたはもう対の言葉をくれないの?




とおりぬける風が耳をかすめた

『    』

わずかに響いた声に私は振り返る
誰もいない
風が優しく私を包んでくれる
まるであなたの腕の中のように心地いい


耳元に再び響く愛する声は

『ただいま』


“おかえりなさい”

あなたはすぐそこにいるのね


これで、私は歩いていけます
娘と一緒にね

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