陛下を捨てた理由

甘糖むい

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お前は、必ず立派な王妃になる。

それは王家に嫁ぐ最後の日に、父が残した言葉だった。
成人して間もないジェニエルの頬に大きな手を添え、父はそう言って唇を噛みしめた。
粗く日焼けした綺麗とは言えない手。
だが、いつもその手のひらは温かく、少しだけインクの匂いがした。

父は厳格だった。
誰もが恐れ、敬意と畏怖を込めて名を呼ぶフィンガルド家の長。
けれど、ジェニエルにとっては違って見えた。
夜更けまで政務に追われても、約束だけは決して破らない人。
「花が咲く頃、一緒に庭を歩こう」
そう言って、春の朝には必ず彼女の手を取り、咲いたばかりの花を見つめてくれた。
それが、幼いジェニエルにとってこの上ない幸福の記憶だった。

陛下に恥じぬ娘でいなさい。

王城へ嫁ぐ日の朝、父は扉の前で立ち止まり、淡々と告げた。
娘を送り出す顔ではなかった。
あれほど穏やかだった眼差しが、まるで石のように硬く、冷たく見えた。

「実家を出たら、お前はもうフィンガルド家の娘ではない」

その言葉は、刃物のように心に刻まれた。
理解できず、ただ恐ろしくて、泣くことすらできなかった。
だが今なら分かる。
あれは娘を王家に縛りつけるための呪いではなく、これから訪れる孤独に耐え抜けるようにと、父が最後に授けた祈りの形だった。
今になってジェニエルは漸く不器用な愛情の形を理解できる気がした。

――私は、ちゃんと立派な王妃になれたかしら。

宛名のない真っ白な便箋を閉じてジェニエルは自問した。
誰にも届かぬ問いを胸の奥で転がす。
返事はない。
宛名もない、封蝋も押さない手紙。
それを置いたままジェニエルは立ち上がり寝室に向かった。

机の上に静かに置かれた手紙の上に月の光が淡く落ちる。
柔らかな光がインクの文字を透かすころ、人影がひとつ落ちた。
ジェニエルの誰にも明かす事の出来ない心情を大切そうに拾い上げた影はすぐに闇に溶けて消えていった。
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