カンテノ

よんそん

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第1章 ディキャピテーション

1-1 想

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「星の歌が消えてしまった」

  目の前に立つ男はそう呟いた。
  薄暗い空間で、僕はその男と向かい合っている。
  ここはどこだ? なぜこのような場所にいる? 眼前の男は、僕に何をするつもりなのだ? あらゆる疑問が沸々と沸き上がる。
   そして眩暈めまい。頭でも打ったのだろうか。よろめき、へたり込みそうになる。このまま倒れてしまいたくもなる。それでも、今僕は自分が置かれている状況を、把握しなくてはならないのだ。思い出そう。
 
 そうだ、数時間前まで僕はいつも通り職場にいたはずだ。その時間の感覚でさえも、全くもって定かではないのだが。


   今朝は体調も悪くはなく、普段通り出勤していた。仮に体調に不良を来したとしても、僕は仕事を休むつもりはないが。
   主にWebデザインの仕事をやっているのだが、その時も猫背でモニターと向かい合っていたのだ。

「おい、弖寅衣てとらい。お前、本当冷めてるし、愛想ねぇよな」

   名前を呼ばれ振り返ると、職場の先輩にあたる横沢さんが不機嫌そうな顔をしていた。
 
「明日の飲み会もこねぇんだってな。まじノリわるっ!」

  そう言いながら、彼は僕の右肩を殴ってきた。本気ではなかった様だが、力が入っている。
  彼は何かにつけては、僕にこうして腹いせや憂さ晴らしをしてくる。そう、嫌な先輩だ。人にいきなり殴りかかるなんて、普通だったら失礼なんて話じゃ済まされない。暴力沙汰の事件にされてもおかしくない。

  この職場に掲げられているスローガン、「協力し合って和やかな空間を維持」は表向きに聴こえを良くしているだけであり、実際にはセクハラやパワハラがあっても大事にせず、和気あいあいを演じていろという暗黙のルールが成り立ってしまっている。
  仕事を続けたいのなら、多少の苦痛は我慢して当然だなどという部長の考えは常軌を逸しているが、それでも従わなければならない。仕事を続け、生活を維持するためにも、穏便に済まさなければならない。被害者側が我慢しなくてはならない。

  2年以上もこの職場で働いているせいか、僕も感覚が麻痺してしまい、常識が判別できなくなりつつあるのかもしれない。

一颯いぶきさんはもちろん行くよね?」

  と、彼は僕の斜向かいの席で仕事をしている彼女に突然話を振った。僕に接する時と声色がまるで違う。恐らくこの人の狙いは最初から一颯さんだったのだろう。

「えぇ、はい、参加させていただきます」

  突然話題を振られ、動揺を見せたものの、柔らかい笑みを浮かべながら彼女は答えた。
  一颯さんは僕と同期にあたる。人柄もよく容姿端麗であるためか、部署内に留まらず社内の男性から好印象を得ている。
  その一颯さんの返事に気をよくしたのか、横沢さんは、ほらなと僕の肩をまた叩いてきた。今度は平手だったが、心無しか先程より強い。

  男性陣から人気のある女性と言えばもう1人いる。僕らより1年後輩にあたる塩見さんだ。
  彼女はちょうど今3人の上司たちと談笑している。化粧が濃く、くるくるに巻いた髪は金髪に近いくらいに明るい。以前からこの人は上司のご機嫌をとり、媚びている印象がある。世渡りが上手いということなのだろうか。

  その彼女が談笑を終え、なぜか僕の方へとやってきた。

「弖寅衣さーん、あそこの台車に乗ってる荷物、全部倉庫に片付けてほしいって部長たちからの指令でーすっ」

  すごく耳にキンキン響く声だ。彼女が指さす方を見ると、確かにダンボール箱5つほど積んだ台車がある。

  しかし、部長から頼まれたというのは嘘だろう。先ほどのやりとりでは部長は全くあの荷物を見ていなかったし、彼女もまた見ていなかった。
  おそらく彼女個人が使った物であり、それを僕に片付けさせようというのだ。したたかってやつだな。
  彼女を疑う素振りも見せず、僕は素直に了承し台車を引いて倉庫に向かうのだった。


  倉庫は廊下をまたいだすぐそこにある。書類や備品などを整理するための棚が簡易的に並んでいるだけで、さほど広くはない。お昼を過ぎたこの時間では誰もおらず、静まりかえっていた。
  問題の荷物を収納しようと辺りを見回したのだが、棚はほぼ埋まっており、唯一見つけたスペースは棚の一番上しかなく、脚立を使わなければ届きそうにない。
  性悪な塩見さんが、僕にこの作業を押しつけた理由はこれだったのか。仕方なく傍にあった脚立を立て、ダンボール箱を1つずつ棚の上へと運んでいく。もちろん慎重に。

  4つ目のダンボール箱を置いたその時、見間違いかとも思ったが、何か黒い影が棚の上で動いた。
  その直後、先ほど載せたダンボール箱がぐらりと棚から落ち、僕は慌ててそれを受け止めようとするが、咄嗟とっさの事態と足場の不安定により体勢が大きく崩れてしまった。
  このまま落下するのを防ぎようがなかった。僕の足が脚立から離れていくのを感じる。
  そして、その時に見えた。あれは、先ほどの黒い影は……

 ――――あれは、猫だ……黒猫だ……。

  なぜこんな所に猫が。どこからか迷い込んだのか。
  しかし、その疑問も束の間、バンッという大きな音をたてて、僕は倉庫の床へと打ち付けられてしまった。全身に痛みが走る。その途端、意識が遠のいていく。

  そう感じた矢先、また僕の体に衝撃が走った。先ほどとは違う。全身にガクンときて、そのあと体がふわりと浮かんだかのような。


 何が起こったのかと目を開けたら、そうだ、この薄暗い空間にいたのだ。

「星の歌は消えてしまった。種は既に蒔かれていた。それが実を結び花を咲かせ、再び星の歌を奏でなくてはならない」

  目の前に立つ男の言葉は続いていた。
  その詩のような言葉の羅列は全く頭に入ってこない。自分の置かれている状況がまだ飲み込めないのだから。これはやはりあの世か?

  そして、この暗さに慣れたせいか、ようやく男の風貌を捉えることができた。
  男の黒い前髪は異様に長く、ストレートに伸びたその毛先は口元に届いてる程。ゆえに、前髪で隠れたこの男の目の色を窺い知ることはできなかった。
  異様なのは前髪だけではなかった。身長だ。2m以上はあるのではないかという長身で、それでいて細い。手足も長い。細長いシルエットをしている。
 僕と同じくらいの年齢だろうか。だが、大人びた口調と、威厳すら感じる佇まいからは、僕よりも年上なのではないかという印象を受ける。


 「あの……ここはどこ……なんでしょうか?」
 
  怖ず怖ずと、それでもやっと言葉を振り絞って出すことができた。

「世界の敵と、戦え」

  前髪男は僕の質問を無視し、一方的に告げた。そして、静かな言葉の直後、予想外の事態が起きた。
  その言葉を皮切りにしたのか、目の前の前髪男は僕に飛びかかってきた。一気に距離を縮めたかと思うと、その長い脚で僕を横から蹴りかかってきたのだ。
  咄嗟にその方向に腕を構えることしか出来ず、僕の体は宙を舞った。着地も出来ずに床に打ち付けられたが、これは先ほどの倉庫のような固い床ではない。絨毯? ならここはどこかの部屋なのか?
 
 体勢を立て直そうとした瞬間に、あの男の拳が飛んできた。顔を狙っている。怖い。今度こそは避けるしかないと判断し、僕は思いっきり横に飛んだ。
  間一髪で回避できたようだ。安堵したのも束の間、前髪男の第二の拳が、倒れている僕目掛けて放たれていた。さすがにもう駄目だ……。
  その時だった。

「はい、ストーップ! 流石にやりすぎだよー?」

  すごく間の抜けた声が空間に響いた。
  いや、この声は……この声の主を、僕は知っている。
  前髪男は僕に放とうとした拳を止め、その手を開き僕に差し伸べ、立たせてくれた。
  あの声……絶対に、忘れるわけがない。絶対に、忘れる事なんて出来なかった。

「うぃーっす! そーくん元気にしてたぁ?」

  弖寅衣 煉美れんび
  6年前に亡くなった僕の姉がそこにいた。
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