カンテノ

よんそん

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第4章 ナターシャ

4-22 怨

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 目の前に立つ全裸の少女は「ナターシャ」と名乗った。しかし、この少女は先程まで椅子に縛り付けられていたあの少女だ。
  その身体に直接触って調べたわけではないが、少し離れた所から見てもあれは確かに死んでいた。
  肌は腐敗してなかったので、死んでから日も浅いものだと思っていた。ただ、その肌は明らかに生気を失っていたのだ。

  僕はこの3週間、ずっと山中であらゆる生物を見て、その命の息吹を感じてきた。だから、生命のエネルギーみたいなものを感じ取れるようになったのかもしれない。
  だが、先程あの少女の遺体からは全く生命エネルギーを感じなかったのだ。呼吸、脈拍、心臓のリズム等を感じ取る事が一切できなかった。
  ならば、今、目の前にいるこの少女は幽霊なのだ。その結論に至るしかないのだ。

「あぁ、うわ、そんな……幽霊、幽霊がいる……」

  僕は恐怖と困惑で頭がいっぱいになり、理性を失いつつあった。その時、背中に衝撃を受けた。どうやらドドが僕の背中を叩いたようだ。

「しっかりしろ想。俺も幽霊は怖い。だが、思い出せよ。煉美さんもシクスも幽霊だろ? お前は俺達よりも幽霊と日頃から話してんだからよ」

  ドドは真剣な表情で語っていたが、その言葉を伝えてから僕を見て微笑む。
  そうだ、ドドの言う通りだ。幽霊なんていつも見ているんだ。大した事はない。

「ナターシャと言ったね。君は、ここで監禁されていたんじゃなかったのか?」

  僕は気を取り直して、目の前の幽霊の少女に質問する。ボサボサ頭の少女は無表情で僕を見る。

「あなたが弖寅衣 想ね。悪霊達から聞いているわ。私は、元々ゼブルムの人間よ。そして、永遠の命を手に入れるため、悪魔と契約したの」

  僕の名前を知っている。そして、この少女は生贄にされたわけでも、組織に利用されたわけでもなかった。自らが進んで霊となったのだ。足下のあの魔法陣はそのための儀式に用いたものだったと言うことか。

「永遠の命だと? そんなもの、可能なわけねぇだろ!」

  声を荒らげ始めたドドに向けて、ナターシャは手を伸ばした。すると、触れてもいないのにドドのあの巨体が吹き飛び、壁に激突した。

「あなた達は何もわかっていないわ。この教団は毎晩生贄を捧げていた。それは悪魔への忠誠を誓うものでもあり、それと同時にこの場所でも生贄を捧げ、悪魔の力と人間の生命エネルギーを混ざり合わせる事によって私の存在を確立し、私に悪魔の力を注いで霊力を増幅させていたのよ」

  そうか、クラリスが目の当たりにしたと言っていたのはこの事だったのか。ナイトサイド・エクリプスはその宗教活動の傍ら、このナターシャを匿い、エネルギーを増幅させていたのか。

「そ、それでも! 生贄なんて許せませんわ! そんなの、間違ってますわ!」

  ミルちゃんは僕の隣で震えながらも反論する。そのミルちゃんをナターシャは無表情で見つめる。

「あなた達と分かり合うつもりはないわ。これ以上の会話は無駄ね。安心して。犠牲になった生贄は、こうして今も私に仕えているのだから」

  そう言ってナターシャは空気に溶け込むように消えた。その代わりに、僕は背後に気配を感じた。
  そこに、老人がいた。虚ろな表情をし、口をだらんと開けていた。

「ぎゃあぁーあぁ! いやっ、いやぁー!」

  隣のミルちゃんは悲鳴を上げる。目の前の老人の霊は、その開け放たれた口から黒い液体を出しながら僕とミルちゃんに向けて手を伸ばしている。

「そいつらに手ぇだすんじゃねぇよ」

  ドドがいつの間にか起き上がり、霊の背後まで走って来ていた。そして、老人の頭部目掛けて左の拳を振りかぶる。
  だが、老人の横顔に打ち込んだはずの拳は、老人の頭部を突き抜けていく。

「くそ、幽霊だから当たらねぇのか!」

  と、勢い余って身体のバランスを崩したドドの首を、老人の霊が背後から締め付け始めた。こちらの攻撃は通じないのに、あちらからは触る事ができるなんて、そんなの反則だ。
  だが、老人に首を締め付けられ、足が地面から浮いていたドドの身体は突然消えた。

「ごほっ、ぐほっ。ミルちゃんか? 助かった」

  ドドは僕達のすぐ隣にいた。ミルちゃんが転移してくれたようだ。老人の霊は、突然目の前の標的が消え、狼狽えている。

「はい。でも、わたくし、こんな幽霊と戦うの無理ですわ……」

  ミルちゃんは今にも泣き出しそうにしている。その気持ちはとてもわかる。僕も逃げ出したくて堪らない。

「ミルちゃん、辛いかもしれないけど、でもこのまま幽霊に襲われるわけにはいかないんだ。生き延びよう。大丈夫、3人で力を合わせれば何も怖くないさ」

「うぅ……想様ぁ……」

  僕の言葉にミルちゃんは目を潤ませ、ドドも笑顔で頷く。
  だが、そこに別の悪霊が現れた。先程僕を襲った黒いワンピースの女だ。女は、僕のすぐ傍に立ち、僕をじっと見つめていた。

「ひやぁっ!? あぁー、もう、やめてくれー!」

  格好つけた直後に情けない声を出してしまったが、すぐに気を取り直してその女の霊を殴る。もちろん、僕の拳はその女の顔を突き抜けただけだった。
  顔に僕の腕がのめり込んだ女は、僕の胸に手を当てると、そのまま僕の身体を床に叩きつけた。

「ごはあっ!」

  激痛が走る。まだ前の戦いの傷も完治していないため、その痛みに僕は顔を歪ませる。
  そして、女性では有り得ない腕力だ。これも悪魔の力の恩恵なのか? 

「想様から離れろ!」

  ミルちゃんはそう言って、霊に向かってナイフを投げた。いや、無駄だ。この悪霊達に物理攻撃は一切通じない。僕もドドもそれを痛感した。
  しかし、目の前で予想外の事態が起きた。ミルちゃんが投げたナイフが、僕を押さえ付けている悪霊の女の頭に刺さっているのだ。

「え? なんで? どうなってるんだ?」

  僕だけでなく、目の前の黒いワンピースの女も驚き、そしてその顔が苦痛に歪み、低い呻き声を上げて苦しんでいる。

「まさかとは思いましたが、効きましたわね。そのナイフは銀で出来ておりますの。そして、聖水を掛けさせていただきましたわ」

  聖水を帯びた銀のナイフ。そうか、それで攻撃できたのか。普通の霊だったら、それ程ダメージはないかもしれない。だが、悪魔の力を受けた霊だからこそ、ここまで効き目があるのか。

「聖水なんて持っていたの!? ありがとう、ミルちゃん、助かったよ」

  僕が起き上がって礼を述べると、ミルちゃんは微笑む。

「いえ、想様がご無事で何よりでございますわ! 以前世界を旅した時に聖水を頂きましたの。まさか、それが役立つ時が来るなんて思ってませんでした」

  本当に幸運だった。そして、聖水を帯びた銀のナイフを突き刺された女の幽霊は、傷口から煙を出しながら蒸発するように消えていく。

「聖水なんて本当に存在するのか。なぁ、ちょっと俺の手に掛けてくれねぇか?」

  ドドはそう言って手の外側をミルちゃんに差し出す。ミルちゃんは疑問に思いながらも、陶器の小瓶から聖水を垂らした。

「しゃっ!」

  短く叫んだドドは勢いよく走り出した。その先には、あの老人の霊がいた。先程からずっとぼーっと突っ立っており、口から黒い液体を垂れ流していた。ドドが近付いた事に気付いても、しばらく反応できないでいた。

「ジジイ! さっきはよくも首締めてくれたな!」

  そう言って、ドドは老人の横顔を容赦なく殴った。当たった。
  聖水を帯びたドドの拳は、老人の顔を突き抜ける事無く、そのまま当たり、老人は吹き飛び壁に激突した。
  その頬は溶けながら煙を出し、先程の女の霊と同様、蒸発するように消えていく。

「すごい! これなら戦えるね」

  絶望的だと思われていた幽霊との対決に活路が見え、僕達3人の顔に希望が満ちる。

  ――――ピタッ。
  その時、僕の首筋に何かが落ちた。冷たい液体だ。頭にも何かが触れている気配がする。ドドの顔が凍り付いている。
  恐る恐る、僕は頭上を見上げた。そこに、天井にいた。天井に、張り付くように、先程のナターシャの椅子があり、逆さまの状態であの遺体が椅子に座っている。

  そして、そのボサボサの髪が僕の顔に触れている。遺体であるはずの口が開き、そこからネバネバした液体が垂れてきている。気持ち悪い。

「おのれ、小娘。まさか、聖水を所持していたとはな」

  遺体であるはずの口が動く。その目は黄ばんでいるような色をしていた。

「あ……あぁ、ひぇっ」

  僕は慌てながらも、部屋の隅に転がっていたバケツをグラインドで投げつける。が、それはナターシャの遺体の目の前で空中に浮かんだまま静止する。
  ナターシャの遺体から霊体のナターシャが飛び出し、そのバケツを受け止めていた。

「非道い事するわね。返すわ」

  そう言って、僕にそのバケツを投げ返してきた。

「ナターシャ! 非道い事をしているのはあなたです! 許しませんわ!」

  ミルちゃんは天井からぶら下がるナターシャに向けて、銀のナイフを投げた。

「それは嫌いよ」

  ナターシャはそう言って、ミルちゃんのナイフを払い落とした。その時、一瞬だけナターシャの手は黒くなったように見えた。それであのナイフに触れる事ができたのか。
  だが、ずっと無表情だったナターシャが、その時、目を見開いて苦痛の表情を浮かべた。

「くっぅうー、小娘め」

「今のナイフは囮ですわよ。ちなみに聖水も掛けていません。本命はそれですわ」

  天井からぶら下がるナターシャの遺体の脇腹に、銀のナイフが刺さっていた。そちらには聖水が掛かっていたようで、遺体の脇腹から煙が出始める。ミルちゃんがテリファイアでもう1つナイフを飛ばしていたのだ。

「おのれぇ!」

  ナターシャは遺体に近付き、そのナイフを引き抜くと、ナターシャの遺体はどこかへ消えた。この部屋のどこにもない。
  そして、ミルちゃんが持っていた聖水の小瓶が突如割れた。

「よくも私の綺麗な身体に傷をつけたわね。これでもう2度と攻撃できないわ」

  部屋に残っていた霊体のナターシャはそう言った。
  その直後、僕達3人の身体は一斉に吹き飛ばされ、それぞれ別の方向の壁に激突した。

「いったーいですわー!」

  ミルちゃんは半泣き状態で叫んでいた。

「もうあの忌々しい水もないわ。ここで悪霊に食われなさい」

  ナターシャはそう言って消えた。そして、壁に激突して倒れた僕を取り囲むように、何人もの霊がいた。僕の顔を覗き込むように見ている。
  黒い顔をしたその霊達は、僕に覆い被さるように倒れ込んできた。僕は、為す術もなく、ただただ怯える事しかできなかった。
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