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1章 弓島の民
賊の名
しおりを挟むセトが帰った後、ビルマはカルムの母が用意してくれた朝餉を丁寧に断り、ひとり族長の執務室に篭っていた。
無傷とはいえ内心傷ついているだろうとビルマを慮り、今日の狩場の選定は族長が引き受けてくれたが、別に仕事が残っている。昨日各隊から上がってきた収獲の報告を書き留めることだ。後々の狩場選びに役立てるため、どの辺りでどういった獲物が獲れたかを記していく。
備えつけの棚には、歴代の族長達が記してきた原野に関する記録がずらり並んでいる。紙は貴重品で、島でこうして書物が並んでいるのはここと神殿の書架のみ。島では紙を作ることができず、交易に頼る他ないからだ。
紙の匂いに包まれひとり静かに葦筆を走らせていると、彼女の胸を掻き毟る様々な感情が凪いでいく。書を通じ、祖先達に見守られているような気になれるのだ。
そしてここ記録をしたためるのに費やされた膨大な時を思うと、自分がいかに小さきものかが感じられ、抱えた悩みすらも矮小なものに思えてくる。
けれどここにある殆どが、今となっては用を成さぬ物だと、ビルマは身をもって知っていた。
大嵐で原の何もかもが一掃され、それ以前の記録はまず参考にならない。加えて、徐々にではあるが原野は確かに蘇りつつあり、環境は日々変化している。ほんの三月前の記録でさえ当てにできないのが実情だ。
一度崩壊した生態系がどう戻るかなど――ましてこの独特な進化を遂げた原野の生態系なら尚のこと――到底人智の及ばぬところであり、今後の見通しはまるで立たない。
今こうして記している物も、塵になるかもしれない。
それでも彼女は記さねばいられかった。例え自らの命がある内に役立つことはなくとも、いつか同じような天災に喘ぐやも知れぬ子孫のために。それが小さな自分に今できる唯一のことなのだと信じて。
しばらく無心で綴っていると戸を叩く音がした。応えを返すと、現れたのはカルムだった。両手で品良く戸を開け、カルムは子供らしい笑顔でぺこりと一礼する。
「あんなことがあったばかりなのに、もうお仕事ですか? 姉さんの気丈さには頭が下がります。僕も負けないよう、訓練頑張ってきますね」
ご無理なさいませんよう、と言い添え戸を閉めようとするカルムを、ビルマは筆を走らせたままで呼び止める。
「カルム。話がある、入りなさい」
「ですが、もうそろそろ訓練が」
「新しい指導官には、わたしに用を言いつけられていたと言えばいい。入りなさい」
族長の名代を務める従姉の手伝いとあっては、誰も遅刻を咎めまい。カルムは部屋に入ると、文台越しにビルマと向かい合った。
ビルマが筆を置くのを待って、黙って小首を傾げるカルム。そのいかにも幼さを装った仕草に、ビルマは冷ややかな視線で応じた。
「何故あんな嘘をついた」
半ば咎めるように尋ねると、カルムは目を瞬く。
「嘘? 何のことでしょう?」
「惚けるな。わたしが賊を短剣で追い払っただと?」
「実際、僕が駆けつけた時、姉さんは短剣を手にしてらっしゃったじゃないですか」
ビルマは掌を文台に叩きつける。筆架が跳ねガタリと音を立てた。
けれどまだ一二の従弟は、眉ひとつ動かさず微笑み続けている。その子供らしからぬ態度が、彼女の疑いを確信に変えた。
「わたしの手の中の短剣が見えていたのに、相手の顔が見えなかったとは言わせないぞ。なのに何故あんな騒ぎを起こした!」
「何せ僕も動転していたので」
「白々しいっ。アダンはわたしの親友だ、知らないわけではないだろう……!」
苦渋を滲ませ詰るビルマに、カルムの瞳がつと細められた。
夕べの経緯はこういうことだった。
夜も更け、家人も寝静まりしばらく経った頃。
寝所に設えた文台に向かっていたビルマは、窓の外に何者かの気配を感じた。不審に思い手を止め、耳をそばだてると、かすかに聞こえてきたのは忍ばせた足音。音が出ないよう気を払うのは家人への配慮ではあるまい。やましいことがあるからだ。
(賊か)
ビルマは相手に気取られぬよう静かに立ち上がると、上掛けを羽織り、寝台の枕の下へ手を差し入れた。彼女も妙齢の女性、それも島の長の一人娘である。万が一寝込みを狙われた時のため、常にそこへ短剣を隠していた。
鞘から抜き放ったそれを手に、息を殺し窓に近付く。彼女に助けを呼ぼうという考えはなかった。護身のための鍛錬は日々している。腕に覚えがないわけではない。何よりこの家には、彼女の他に病身の父と細腕の叔母、そして幼い従弟がいるのみだ。巻き込むわけにはいかなかった。
窓脇の壁に背を貼りつけ、簾を払う時宜をはかる。気配はひとつ。窓のすぐ外にいる。
呼吸を整え、風で簾が膨らんだ刹那、潜めていた殺気を一気に解放し身を翻す。
ところが、
「待てビルマ、オレだ」
気を読んだかのようなタイミングでかけられたその声は、彼女のよく知るものだった。
「……アダンか?」
そっと簾を押し上げると、やはりアダンが立っていた。
賑やかな春の星々に照らされ、葦の地面に降りた夜露がしらしらと煌いている。それを踏みしめ佇むアダンは、いつになく真剣な眼差しをしていた。
対して、肩透かしを食いすっかり脱力したビルマは、窓枠に肘をもたせかけ腕を投げ出す。
「驚かせてくれるなよ、何だこんな夜更けに。てっきり賊かと思ったじゃないか」
目の前にぶら下がる抜き身の短剣に、アダンは慌てて両手を上げた。
「悪ぃ、無礼は承知だ。ってか、そんな気軽に物騒なモン出すなよ」
「無礼は承知なんだろう? 刺されなかっただけありがたいと思いなよ」
悪戯っぽく微笑み、剣を後ろ手に隠したビルマは、
「で、どうしたんだ? 何か相談事でも?」
一旦待たせて着替える間を惜しみ、早速話を促した。相手が気の置けないアダンだからというのも勿論ある。けれどそれ以上に、夜更けにわざわざ訪ねて来たのだ、喫緊の用か人払いを要す話があるのだろうと慮ってのことだった。
アダンは姿勢を正すと、その場に片膝をついた。目を丸くするビルマへ、懐から取り出した物を差し出す。それを見たビルマはますます目を瞠った。
「それは……」
日頃粗野な幼馴染が恭しく差し出したそれは、美しく整えられた蒼鷺の羽根。当然その意味を知るビルマは激しく狼狽えた。けれどアダンは彼女の揺れる瞳を真っ直ぐに見上げ、告げる。
「受け取ってくれねぇか」
「よしなよ、相手を間違えてるんじゃ、」
「間違えるかよ、こんな大事なこと」
冗談に逃げようとしたが、真摯な視線が許してくれない。
それはビルマにとってあまりに突然の告白だった。
ビルマは今この瞬間まで、アダンの想いに少しも心付かずにいた。父の名代を務めるようになってからは忙殺され、離れがちではあったものの、幼い頃から常に一緒にいたと言っても過言ではないのにだ。
ぶっきらぼうなこの幼馴染が、いつから自分をそう見ていたのか考えもつかない。
それだけビルマは、幼い頃から一心に彼女の想い人――セトのみに視線を注いできたのだ。いくら親しいアダンの申し出とはいえ、その気持ちは微塵も揺らがない。
けれど親しいからこそ、断ることにも勇気が要った。今までと変わらぬ三人でいることなどできなくなってしまうだろう。
俯いたビルマの視界で、きらりと光る物があった。空の星より、夜露の雫よりもはっきりと輝く物。アダンの左手に巻かれた、彼女自らが贈ったバングルだった。
心から信頼し、共に島の未来を築いていってくれるだろう二人へ贈った物だが、もしかしたらそのせいで勘違いさせてしまったのかもしれない。思わせぶりな自分がいけなかったのだと歯噛みするビルマに、アダンは声を和らげる。
「ビルマ、正直に言ってくれていいんだぜ? 分かってるからよ、お前がいつも誰を見てたのか」
「アダン……?」
アダンの真意を探るよう、ビルマはこれまでにないほど一心にアダンを見つめ、その眼差しを一身に浴びたアダンは満足げに微笑んだ。
「手前勝手で悪ぃな。オレはただテメェの気持ちにケリ付けに来ただけだ。あの朴念仁に発破かけようにも、お前の本心を聞かねぇままじゃどうもやりきれなくてよ。だから聞かせてくれねぇか、お前の気持ちを」
そう告げるアダンの顔は、妙にこざっぱりしていた。気負いもてらいもない。ただ一本芯の通った男の覚悟があるだけだ。
それを見て取ったビルマは、ひとつ深呼吸をする。それからその覚悟に答えるべく、震えを殺し唇を開く。
「わたしは……――」
その時だ。
突如背後の戸が荒々しく開かれた。咄嗟に立ち上がったアダンの顔が、室内から零れる明かりに照らしだされる。
現れたのはカルムだった。短剣を手にしたカルムは、部屋に飛び込んでくるなり大声で叫んだ。
「ビルマ姉さんご無事ですかっ? 姉さんには指一本触れさせないぞ、この賊め!」
その声に、家人が起きだす気配がする。
「やめろカルム、そうじゃ……」
「窓から離れてください姉さん! この不届き者め、僕が相手になるぞ!」
「やめろ!」
ビルマが必死に宥めようとするも、興奮した様子のカルムは止まらない。廊下の向こうから駆け寄ってくる足音がし、神殿の宿舎の窓にも次々に明かりが灯る。
(このままここに居てはいけない!)
ビルマは肩越しにアダンを振り返ると、目だけで逃げろと訴えた。瞬時に察したアダンは、唇を噛み踵を返す。駆け出したその背は、瞬く間に闇に紛れ消えていく。
「待て、逃げるな卑怯者!」
「よせカルム、よせったら!」
追おうとするカルムを押しとどめているうちに、族長ばかりか異変を察した神官長までもが駆けつけて来た。
「無事かい、ビルマ!」
血相変えた父らを落ち着かせるべくビルマが説明しかけたが、阻んだのはまたしてもカルムだった。
「賊です! 卑劣にもビルマ姉さんを狙い、忍び込もうとしていたんです! けれど流石は姉さんです、僕が物音に気付き駆けつけた時にはもう、自ら追い払ってしまうところでした」
ハッとしたビルマが、握ったままの短剣を隠そうにももう遅い。それを見た誰もがカルムの言を疑わなかった。急ぎの用なら早く聞いてしまおうと、身支度もせず応じたことが徒になったのだ。
「一体誰が……恐かったろう、ビルマ。相手の顔は見たかい?」
「それは……」
言いかけてビルマは口を噤む。
ここでアダンの名を挙げてしまえば、さながら彼が賊のようになってしまう。否、常識的に考えれば、こんな深夜に未婚の娘、それも族長の一人娘の寝所を訪ねてくるなど、どんな理由があったとて非常識な行為には違いない。傍目に見ればアダンは充分咎められる立場にある。
その上、その非常識な行動の理由を尋ねられてしまったなら、アダンの求婚を――もとい、自らの想いに終止符を打ち、ビルマの想いに力を貸そうと言ってくれた気持ちを皆に曝すことになってしまう。
(何としてもそれだけは避けなければ)
想いに応えることはできずとも、誠意には応えなければならない。例えそれで、病身の父に心労をかけることになろうとも。そう心を決めると、彼女はぐっと手のひらを握った。
「いいえ、」
小さく首を横に振り、
「見ていません……暗かったので」
鉛じみた重い一言を吐き出したのだった。
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