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3章 太古の森で
麗しのクラライシュ郷
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それからクラライシュ郷へ着くまでの道のりを、シャルカはほとんど記憶していない。
幾度か食事や給水のため起こされはしたが、それ以外の時間のほとんどを兄の膝の上で眠り過ごした。
酒場では大柄な傭兵を小芝居ひとつであしらい、一回りも年上の兄をぴしゃり窘めたシャルカだが、まだほんの十二の子供なのだ。
わけも知らぬまま異郷の牢に入れられたのは、故郷を出てわずか二日後。以降、唯一の頼りである兄はノンナにかかりきりになってしまったのだから、その心細さや心労は相当なものだったろう。
武骨で多少座り心地が悪かろうとも、今のシャルカにとってはそここそが最上の寝床なのだった。
「……シャルカ、起きろ。シャルカ、」
外套の裾を巻き込みぬくぬくとまどろむシャルカを、兄の大きな手が揺り起こす。それでもなかなか目を開けられずにいると、
「おーいシャルカ、もうすぐ着くぞ。起きて見てみろよ、もう見えてきてっから」
弾んだローの声が喧しく響いた。
「……着くって、どこにです?」
「なぁに寝ぼけたこと言ってンだ。愛すべき我が故郷、麗しのクラライシュ郷に決まってんだろっ」
芝居がかった言葉に、シャルカは外套を跳ねのけ飛び起きた。けれど思いのほか空気が冷たく、再び引き寄せる。
「もう着くんですかっ? クラライシュ郷って、古森の民の郷でも山の一番高い所にあるんじゃ……!」
「おう、よく覚えてたな。相変わらず兄貴と違ってオマエは賢いなー」
「そこにもう着くって、ぼく一体どれだけ寝て、」
「結構」
「大分」
それぞれ答える兄達に、シャルカはさぁっと青ざめる。
「ローさんのご家族もいらっしゃるのに、なんて失礼なことを……! どうしようっ、皆さんお気を悪くされてはないでしょうか? ノンナさんは……!」
けれどローは豪快に笑い飛ばし、
「気にすんなぃ、慣れねぇ旅で疲れっちまったんだろ? 実際誰も気にしてねぇよ、むしろ何度も『馬車の中へ』って誘いに来てた、ノンナもな。そのたンびにセトがでっかい図体縮めて断る姿、なかなか面白かったぜ」
「余計なことを言うな」
苦い顔でセトが小突く。
シャルカが長いこと眠っている間に、兄達の間でどんなやりとりがあったのか、ローはすっかり明るさを取り戻していた。
「それよりもホラ、見てみろって。むしろ見よ! あれがおれらの自慢の故郷だ!」
びしっとローが指した先を見、シャルカは思わず歓声をあげる。
つづら折の坂の果て、針葉樹の梢の上から、不思議な形の家々が頭を覗かせていた。
六面の壁に鋭角な屋根をいただく家々は、さながら森を母岩に生える水晶柱。壁は白、屋根は丹色の揃いの塗料で彩られ、南天からの陽を艶やかに照り返している。窓には蔦草模様の飾り格子が嵌められており、なんとも風雅な佇まいだ。
「すごい! まるで物語の挿絵みたいです!」
感激して叫ぶシャルカに、ローは満足気に鼻を擦る。
「そうだろそうだろ、良いだろークラライシュ郷は! オマエらに見せてやりたかったんだよ」
「わ、わっ! 見てくださいあに様、あの建物すごく高いです!」
「なんせ山ン中で、家建てられる平地が少ねぇからよ。建物はどうしたって上に伸びる。二階建て三階建ては当たり前だ」
「ニカイ……サンカイ?」
身を乗り出す弟をよそに、兄は聞きなれない単語を繰り返す。兄は古森の民独特の家屋自体は経由してきた郷で見ていたため、眺めよりも言葉の方が気になるらしい。
「あの屋根、どうしてあんなに尖ってるんでしょう?」
「冬には結構雪が降るからな、雪下ろしが楽になるようにだ」
「ユキオロシ……?」
「なんで六角形なんですか? 機織の民の郷も木製の建物でしたが、サイコロみたいに真四角だったのに」
「古木の巨神が宿るご神木のお姿になぞらえてんのさ。六方に襞みてぇな、そりゃあ立派な根を伸ばしててよぉ。落ち着いたら案内してやんよ」
「本当ですか? 今から楽しみですっ」
南方の低地にある泥の原で、重い建物が建てられぬ浮島に住んでいた兄弟には、見るもの聞くもの全てが新鮮だ。
好奇心旺盛なシャルカが次々に繰り出す質問に、ローは面倒がるでもなく答えてくれる。紫の瞳は目の前の郷にもう釘付けだった。
「あぁ……あんなに素敵な郷に、一体どんな人達が住んでるんでしょう」
うっとりと漏れ出た一言に、ローはビッと己を指さして言う。
「しっかりしろぃ、住んでるのはおれらだ」
「童顔で小人さんみたいな可愛らしい住人……ぴったりですね、本当に物語の中みたいで!」
「しっかりしろぃ、このクラライシュ・ラウ・ドット・コン・ローの前で小人さん発言しちゃうか?」
「すごく幻想的ですっ、素敵ですっ!」
興奮したシャルカには、ローの言葉などろくに届かない。あんぐり口を開けて物言いたげな顔をするローに、兄はすまなさそうに目礼した。
馬達は軽やかな足取りで坂を登りきると、見るからに堅牢な門を潜り、いよいよクラライシュ郷へ入っていく。
門の両脇には丸太組みの柵が連なっている。外側へ斜めに突き出された柱は鋭く研がれており、原野の民が戦の際に用いる馬防柵に酷似していた。それを見、セトは人知れず胸を撫で下ろす。
一つ前の郷で小休止した際、ローの父が馬を借り先触れに発っていたため、広場にはすでに大勢の人々が集まっていた。
シャルカの目はまず郷人達の衣に引きつけられる。
男達は襟の詰まった短衣、女達は首から膝下まで覆う長衣とも一繋裳ともつかぬ物を纏っており、どちらも身体のラインにぴたりと沿うよう仕立てられている。襟元と袖には刺繍が施され、アルカイックな様式美を感じさせた。
「不思議な服、」
思わず呟くと、ローが台を降りながらまた自慢げに鼻をそびやかす。
「良いだろー? 古森の民の伝統衣装だ。郷にいる時は皆アレ着て過ごす。良ければあとでオマエ達にも着せてやるよ」
「はい、是非!」
勢い込んで頷くシャルカに目を細めると、ローは馬車の後方へ回り込み、備えつけの踏み段を下ろした。まず母、二人の姉、そして最後にノンナがおずおずと降りてくると、人々は手を叩き喝采を浴びせる。
「…………!」
「……?」
「……っ!」
しかし発せられる言葉は、兄弟には全く理解できない言語だった。
「あに様、皆さんなんて?」
「俺に解ると思うのか」
「そうですよね」
あっさり引き下がられてしまい、台を降りた兄は所在なく頬を掻く。
「……ほら、ローの名前にも使われてるだろう? 古森の民に伝わる古い言葉……あれだそうだ。郷で古森の民同士会話をする時は、もっぱらそれを使うらしい」
「ますます不思議です」
差し伸べられた兄の腕に抱え下ろされながら、シャルカは首を傾げる。
「ムール平野では、南端の原野でも北東の水源でも、砂漠の向こうの土地でだって皆同じ言葉を使います。いくつかの民の古書の写しを見たことがありますが、今と同じ文字、同じ言葉で記されていました。民によってクセや訛りはありますけど、理解できないということはありません。
……それなのにどうして、平野の真ん中のエレウス山で、独自の言語が使われているんでしょう」
それを聞き兄も首を捻る。
「それが何故不思議だ?」
「え? えっと、」
シャルカは一瞬説明しかけてやめた。この兄に伝わるよう話を咀嚼し説明するには、それなりの時間を要すだろう。懸命な判断だった。
その間にノンナは数人の少女達に囲まれ、抱きしめられていた。
正面からノンナをきつく抱いている少女は、例の蛇に噛まれた親友なのだろう。彼女を見たノンナは感極まって泣き出した。
その周りを囲む数人の少女達は、ノンナに向けしきりに頭を下げている。おそらくノンナと連れだって雲糸郷に向かった友人達だ。言い交わされる言葉は分からなくとも、その表情や仕草から充分に彼女達の関係性が見てとれる。
その光景に、改めて兄弟がホッと顔を見合わせた時だ。
「ノンナ!」
人ごみを掻き分け、ひとりの少年がノンナに駆け寄ろうとした。途端、ノンナはびくりと肩を跳ねさせる。
すかさずローが彼の前に立ち塞がった。
珍しく厳しい顔つきになったローは、彼へ一言二言短く告げる。彼は懸命に何かを言い募ったが、ローはすげなく首を横に振るばかりだった。
「揉め事でしょうか、」
問うともなしに呟くシャルカに、セトは彼を見据えたままかすかに眉を寄せる。
「多分、ノンナ達に同行していた露払いだ。ノンナに直接詫びさせてくれと、そう言ってるんだろう。ノンナが男に怯えることを抜きにしても、ローにも思うところはあるんだろうが……」
その言葉で、シャルカは彼が帯剣していることに初めて気付き、小さく頷いた。
兄は愚かというわけではない。視点が、物事の捉え方が、シャルカとは大きく異なるのだ。シャルカは島を離れてから、そのことを強く実感していた。
ローに食い下がる彼の必死さ、そして真っ赤に腫らした目許を見、シャルカも彼が憐れになって言う。
「あの人、きっとノンナさんのことが好きなんでしょうね。今日までどんな気持ちだったか……」
するとセトは目を丸くした。
「そうなのか? 何で分かる?」
「…………」
シャルカは遠い目をして兄を仰ぐ。
兄は愚かというわけではない。ただ、どこまでも疎く鈍感な朴念仁だった。
そうこうしていると、ついに諦めたらしい彼が力なくふたりへ歩み寄ってきた。彼もまた兄の腰の剣に目をとめ、深々と頭を下げる。
「貴方がノンナを助けてくださったんですね……ありがとうございました」
かけられた言葉は、兄弟のよく知るものだった。
「いや、」
兄が憔悴した彼にかける言葉を選んでいると、彼の足許の地面にぽたり雫が落ちた。地面の染みはひとつふたつと増えていき、彼の喉から押し殺した嗚咽が漏れる。
「オレがついていたのに、目の前で彼女を攫われて……これで露払いを名乗ってるんだから、原野の方から見ればとんだお笑い種でしょ? 情けない……本当に、本当にありがとうございました……!」
シャルカは焦って兄を見上げた。
まさか早速彼と話すことになるとは思わず、余計なことを耳に入れてしまった。朴念仁の兄が要らないことを言いやしないかと気が気でない。
傍らの弟がハラハラしていることなど露知らず、兄は彼の肩を掴み引き起こした。驚きに瞬かれるその両目をじっと見据え、静かに語りかける。
「誰がお前を笑えるか。武器をとって誰かを守ろうとする者なら、明日は我が身だ。どんなに優れた戦士であっても、力が及ばない時は必ず来る。
ローだってきっと頭では理解してるはずだ。ただ、今は感情の整理が追いつかないんだろう。……だからそんな顔するな」
そう言い聞かす兄の横顔に、シャルカはハッとなる。
まだ若い彼へ向ける兄の眼差しは、原野で指導していた少年達に注いでいたものと同じだった。少年達が憧憬を寄せてやまなかった、力強くも穏やかな目。
「あに様……」
彼が立ち去ると、シャルカは兄の外套をぎゅっと握りしめ、原野の少年達と同じ熱をもった視線でその顔を仰いだ。
が、それ故見てしまった。
気付いてしまった。
兄の後頭部の髪が一束、妙な具合に跳ね上がっていることに。
兄の性質からして、気付いていないのではなく気にしていないのだろう。
「…………」
シャルカの目つきがまた遠いものになる。
「あに様……それでもぼくは、あに様を心から尊敬してますよ」
「何だいきなり。いや、『それでも』って何だ」
「えぇ、大好きですとも」
「凄く引っかかるんだが」
言い合っていると、馬車の周りにかたまっていた人々が少しずつばらけ始めた。泣き疲れた顔のノンナが、友人達に手を振っている。そろそろ家に戻ると、そんなことを言っているのだろう。
ローは数人を引きとめ何か告げたあと、兄弟の許へ戻ってきた。
「シャルカ、まだ寝足りねぇか? 良けりゃこのままざっと郷ン中を案内してぇんだけど」
「ぼくは大丈夫ですけど……ローさんはノンナさんについてなくて良いんですか?」
「アイツはとりあえず眠りたいってさ。それによ、」
そこで一旦言葉を切り、ローは脅かすように声を低くする。
「郷にしばらく滞在してもらうことになるオマエらには、郷の掟に従って、まず行ってもらいてぇトコがあんだよ」
「郷の掟?」
何やら仰々しい物言いに、兄弟は思わず顔を見合わす。そんなふたりの様子ににんまり歯を見せて笑うと、ローは馬車を指した。
「まぁそう心配すんなぃ。そこはちょっと奥まった場所にあるからよ、そこに行きがてら郷ン中を案内してく。行こうぜ」
オークルの肌の友人はひどく愉しげだ。
どこへ連れて行かれるかは分からないが、悪いようにはされまい。そう言いたげな兄に目で頷いて、シャルカは促されるまま御者台へ足をかけた。
幾度か食事や給水のため起こされはしたが、それ以外の時間のほとんどを兄の膝の上で眠り過ごした。
酒場では大柄な傭兵を小芝居ひとつであしらい、一回りも年上の兄をぴしゃり窘めたシャルカだが、まだほんの十二の子供なのだ。
わけも知らぬまま異郷の牢に入れられたのは、故郷を出てわずか二日後。以降、唯一の頼りである兄はノンナにかかりきりになってしまったのだから、その心細さや心労は相当なものだったろう。
武骨で多少座り心地が悪かろうとも、今のシャルカにとってはそここそが最上の寝床なのだった。
「……シャルカ、起きろ。シャルカ、」
外套の裾を巻き込みぬくぬくとまどろむシャルカを、兄の大きな手が揺り起こす。それでもなかなか目を開けられずにいると、
「おーいシャルカ、もうすぐ着くぞ。起きて見てみろよ、もう見えてきてっから」
弾んだローの声が喧しく響いた。
「……着くって、どこにです?」
「なぁに寝ぼけたこと言ってンだ。愛すべき我が故郷、麗しのクラライシュ郷に決まってんだろっ」
芝居がかった言葉に、シャルカは外套を跳ねのけ飛び起きた。けれど思いのほか空気が冷たく、再び引き寄せる。
「もう着くんですかっ? クラライシュ郷って、古森の民の郷でも山の一番高い所にあるんじゃ……!」
「おう、よく覚えてたな。相変わらず兄貴と違ってオマエは賢いなー」
「そこにもう着くって、ぼく一体どれだけ寝て、」
「結構」
「大分」
それぞれ答える兄達に、シャルカはさぁっと青ざめる。
「ローさんのご家族もいらっしゃるのに、なんて失礼なことを……! どうしようっ、皆さんお気を悪くされてはないでしょうか? ノンナさんは……!」
けれどローは豪快に笑い飛ばし、
「気にすんなぃ、慣れねぇ旅で疲れっちまったんだろ? 実際誰も気にしてねぇよ、むしろ何度も『馬車の中へ』って誘いに来てた、ノンナもな。そのたンびにセトがでっかい図体縮めて断る姿、なかなか面白かったぜ」
「余計なことを言うな」
苦い顔でセトが小突く。
シャルカが長いこと眠っている間に、兄達の間でどんなやりとりがあったのか、ローはすっかり明るさを取り戻していた。
「それよりもホラ、見てみろって。むしろ見よ! あれがおれらの自慢の故郷だ!」
びしっとローが指した先を見、シャルカは思わず歓声をあげる。
つづら折の坂の果て、針葉樹の梢の上から、不思議な形の家々が頭を覗かせていた。
六面の壁に鋭角な屋根をいただく家々は、さながら森を母岩に生える水晶柱。壁は白、屋根は丹色の揃いの塗料で彩られ、南天からの陽を艶やかに照り返している。窓には蔦草模様の飾り格子が嵌められており、なんとも風雅な佇まいだ。
「すごい! まるで物語の挿絵みたいです!」
感激して叫ぶシャルカに、ローは満足気に鼻を擦る。
「そうだろそうだろ、良いだろークラライシュ郷は! オマエらに見せてやりたかったんだよ」
「わ、わっ! 見てくださいあに様、あの建物すごく高いです!」
「なんせ山ン中で、家建てられる平地が少ねぇからよ。建物はどうしたって上に伸びる。二階建て三階建ては当たり前だ」
「ニカイ……サンカイ?」
身を乗り出す弟をよそに、兄は聞きなれない単語を繰り返す。兄は古森の民独特の家屋自体は経由してきた郷で見ていたため、眺めよりも言葉の方が気になるらしい。
「あの屋根、どうしてあんなに尖ってるんでしょう?」
「冬には結構雪が降るからな、雪下ろしが楽になるようにだ」
「ユキオロシ……?」
「なんで六角形なんですか? 機織の民の郷も木製の建物でしたが、サイコロみたいに真四角だったのに」
「古木の巨神が宿るご神木のお姿になぞらえてんのさ。六方に襞みてぇな、そりゃあ立派な根を伸ばしててよぉ。落ち着いたら案内してやんよ」
「本当ですか? 今から楽しみですっ」
南方の低地にある泥の原で、重い建物が建てられぬ浮島に住んでいた兄弟には、見るもの聞くもの全てが新鮮だ。
好奇心旺盛なシャルカが次々に繰り出す質問に、ローは面倒がるでもなく答えてくれる。紫の瞳は目の前の郷にもう釘付けだった。
「あぁ……あんなに素敵な郷に、一体どんな人達が住んでるんでしょう」
うっとりと漏れ出た一言に、ローはビッと己を指さして言う。
「しっかりしろぃ、住んでるのはおれらだ」
「童顔で小人さんみたいな可愛らしい住人……ぴったりですね、本当に物語の中みたいで!」
「しっかりしろぃ、このクラライシュ・ラウ・ドット・コン・ローの前で小人さん発言しちゃうか?」
「すごく幻想的ですっ、素敵ですっ!」
興奮したシャルカには、ローの言葉などろくに届かない。あんぐり口を開けて物言いたげな顔をするローに、兄はすまなさそうに目礼した。
馬達は軽やかな足取りで坂を登りきると、見るからに堅牢な門を潜り、いよいよクラライシュ郷へ入っていく。
門の両脇には丸太組みの柵が連なっている。外側へ斜めに突き出された柱は鋭く研がれており、原野の民が戦の際に用いる馬防柵に酷似していた。それを見、セトは人知れず胸を撫で下ろす。
一つ前の郷で小休止した際、ローの父が馬を借り先触れに発っていたため、広場にはすでに大勢の人々が集まっていた。
シャルカの目はまず郷人達の衣に引きつけられる。
男達は襟の詰まった短衣、女達は首から膝下まで覆う長衣とも一繋裳ともつかぬ物を纏っており、どちらも身体のラインにぴたりと沿うよう仕立てられている。襟元と袖には刺繍が施され、アルカイックな様式美を感じさせた。
「不思議な服、」
思わず呟くと、ローが台を降りながらまた自慢げに鼻をそびやかす。
「良いだろー? 古森の民の伝統衣装だ。郷にいる時は皆アレ着て過ごす。良ければあとでオマエ達にも着せてやるよ」
「はい、是非!」
勢い込んで頷くシャルカに目を細めると、ローは馬車の後方へ回り込み、備えつけの踏み段を下ろした。まず母、二人の姉、そして最後にノンナがおずおずと降りてくると、人々は手を叩き喝采を浴びせる。
「…………!」
「……?」
「……っ!」
しかし発せられる言葉は、兄弟には全く理解できない言語だった。
「あに様、皆さんなんて?」
「俺に解ると思うのか」
「そうですよね」
あっさり引き下がられてしまい、台を降りた兄は所在なく頬を掻く。
「……ほら、ローの名前にも使われてるだろう? 古森の民に伝わる古い言葉……あれだそうだ。郷で古森の民同士会話をする時は、もっぱらそれを使うらしい」
「ますます不思議です」
差し伸べられた兄の腕に抱え下ろされながら、シャルカは首を傾げる。
「ムール平野では、南端の原野でも北東の水源でも、砂漠の向こうの土地でだって皆同じ言葉を使います。いくつかの民の古書の写しを見たことがありますが、今と同じ文字、同じ言葉で記されていました。民によってクセや訛りはありますけど、理解できないということはありません。
……それなのにどうして、平野の真ん中のエレウス山で、独自の言語が使われているんでしょう」
それを聞き兄も首を捻る。
「それが何故不思議だ?」
「え? えっと、」
シャルカは一瞬説明しかけてやめた。この兄に伝わるよう話を咀嚼し説明するには、それなりの時間を要すだろう。懸命な判断だった。
その間にノンナは数人の少女達に囲まれ、抱きしめられていた。
正面からノンナをきつく抱いている少女は、例の蛇に噛まれた親友なのだろう。彼女を見たノンナは感極まって泣き出した。
その周りを囲む数人の少女達は、ノンナに向けしきりに頭を下げている。おそらくノンナと連れだって雲糸郷に向かった友人達だ。言い交わされる言葉は分からなくとも、その表情や仕草から充分に彼女達の関係性が見てとれる。
その光景に、改めて兄弟がホッと顔を見合わせた時だ。
「ノンナ!」
人ごみを掻き分け、ひとりの少年がノンナに駆け寄ろうとした。途端、ノンナはびくりと肩を跳ねさせる。
すかさずローが彼の前に立ち塞がった。
珍しく厳しい顔つきになったローは、彼へ一言二言短く告げる。彼は懸命に何かを言い募ったが、ローはすげなく首を横に振るばかりだった。
「揉め事でしょうか、」
問うともなしに呟くシャルカに、セトは彼を見据えたままかすかに眉を寄せる。
「多分、ノンナ達に同行していた露払いだ。ノンナに直接詫びさせてくれと、そう言ってるんだろう。ノンナが男に怯えることを抜きにしても、ローにも思うところはあるんだろうが……」
その言葉で、シャルカは彼が帯剣していることに初めて気付き、小さく頷いた。
兄は愚かというわけではない。視点が、物事の捉え方が、シャルカとは大きく異なるのだ。シャルカは島を離れてから、そのことを強く実感していた。
ローに食い下がる彼の必死さ、そして真っ赤に腫らした目許を見、シャルカも彼が憐れになって言う。
「あの人、きっとノンナさんのことが好きなんでしょうね。今日までどんな気持ちだったか……」
するとセトは目を丸くした。
「そうなのか? 何で分かる?」
「…………」
シャルカは遠い目をして兄を仰ぐ。
兄は愚かというわけではない。ただ、どこまでも疎く鈍感な朴念仁だった。
そうこうしていると、ついに諦めたらしい彼が力なくふたりへ歩み寄ってきた。彼もまた兄の腰の剣に目をとめ、深々と頭を下げる。
「貴方がノンナを助けてくださったんですね……ありがとうございました」
かけられた言葉は、兄弟のよく知るものだった。
「いや、」
兄が憔悴した彼にかける言葉を選んでいると、彼の足許の地面にぽたり雫が落ちた。地面の染みはひとつふたつと増えていき、彼の喉から押し殺した嗚咽が漏れる。
「オレがついていたのに、目の前で彼女を攫われて……これで露払いを名乗ってるんだから、原野の方から見ればとんだお笑い種でしょ? 情けない……本当に、本当にありがとうございました……!」
シャルカは焦って兄を見上げた。
まさか早速彼と話すことになるとは思わず、余計なことを耳に入れてしまった。朴念仁の兄が要らないことを言いやしないかと気が気でない。
傍らの弟がハラハラしていることなど露知らず、兄は彼の肩を掴み引き起こした。驚きに瞬かれるその両目をじっと見据え、静かに語りかける。
「誰がお前を笑えるか。武器をとって誰かを守ろうとする者なら、明日は我が身だ。どんなに優れた戦士であっても、力が及ばない時は必ず来る。
ローだってきっと頭では理解してるはずだ。ただ、今は感情の整理が追いつかないんだろう。……だからそんな顔するな」
そう言い聞かす兄の横顔に、シャルカはハッとなる。
まだ若い彼へ向ける兄の眼差しは、原野で指導していた少年達に注いでいたものと同じだった。少年達が憧憬を寄せてやまなかった、力強くも穏やかな目。
「あに様……」
彼が立ち去ると、シャルカは兄の外套をぎゅっと握りしめ、原野の少年達と同じ熱をもった視線でその顔を仰いだ。
が、それ故見てしまった。
気付いてしまった。
兄の後頭部の髪が一束、妙な具合に跳ね上がっていることに。
兄の性質からして、気付いていないのではなく気にしていないのだろう。
「…………」
シャルカの目つきがまた遠いものになる。
「あに様……それでもぼくは、あに様を心から尊敬してますよ」
「何だいきなり。いや、『それでも』って何だ」
「えぇ、大好きですとも」
「凄く引っかかるんだが」
言い合っていると、馬車の周りにかたまっていた人々が少しずつばらけ始めた。泣き疲れた顔のノンナが、友人達に手を振っている。そろそろ家に戻ると、そんなことを言っているのだろう。
ローは数人を引きとめ何か告げたあと、兄弟の許へ戻ってきた。
「シャルカ、まだ寝足りねぇか? 良けりゃこのままざっと郷ン中を案内してぇんだけど」
「ぼくは大丈夫ですけど……ローさんはノンナさんについてなくて良いんですか?」
「アイツはとりあえず眠りたいってさ。それによ、」
そこで一旦言葉を切り、ローは脅かすように声を低くする。
「郷にしばらく滞在してもらうことになるオマエらには、郷の掟に従って、まず行ってもらいてぇトコがあんだよ」
「郷の掟?」
何やら仰々しい物言いに、兄弟は思わず顔を見合わす。そんなふたりの様子ににんまり歯を見せて笑うと、ローは馬車を指した。
「まぁそう心配すんなぃ。そこはちょっと奥まった場所にあるからよ、そこに行きがてら郷ン中を案内してく。行こうぜ」
オークルの肌の友人はひどく愉しげだ。
どこへ連れて行かれるかは分からないが、悪いようにはされまい。そう言いたげな兄に目で頷いて、シャルカは促されるまま御者台へ足をかけた。
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