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前編

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「俺と結婚しろ」
「…………へ?」

 世界中に多大な被害をもたらした、最凶の魔物である竜。
 その竜を退治した騎士。
 国どころか世界中から称賛され、誰もが憧れる存在、英雄ラルフ。その彼に、パン屋で働くごくごく平凡な庶民である自分が、何故求婚されているのか。エマはわからなかった。
 エマとは初対面のはずだ。少なくとも彼にとっては、初対面のはずなのだ。
 だって、彼の記憶からエマという存在は消したのだから。





 エマとラルフが出会ったのは、もう十年以上前の事だ。
 エマは魔力持ちだった。魔力を持っていて、魔法が使えた。
 魔力持ちは忌み嫌われる存在だった。畏怖と嫌悪の対象で、魔力持ちである事が知られれば殺される。
 だからエマは人の寄り付かない森の奥でひっそりと暮らしていた。使われなくなり放置された小屋に住み着き、一人で生活していた。
 魔法で火も水も生み出せる。魔物も魔法で倒せる。倒した魔物の素材を売って食料や日用品を購入した。人の暮らす町は遠いが、魔法を使えば一瞬だ。
 魔法で大抵の事はできた。だからエマは一人でも生きてこれた。
 ある日、エマは森の中で魔物に襲われる十歳くらいの少年を発見する。魔物はすぐに倒せたが、少年は怪我を負い意識を失っていた。
 魔法で大抵の事はできる。だが、できない事もある。
 怪我や病気は治せない。
 エマは魔法で少年を宙に上げ、自分の暮らす小屋へと運んだ。
 ベッドに寝かせ、手当てをする。美しく整った少年の頬に、ざっくりと爪で傷がつけられていた。体のあちこちにも切り傷があったが、顔の傷が一番酷い。
 痛みに苦しむ少年を宥め、励まし、手当てを続けた。魔法でほんの少し回復力を上げる事はできる。痛みもほんの少しであれば和らげる事ができる。エマは継続して少年に魔法をかけ続けた。
 やがて意識を取り戻した少年は「ラルフ」と名乗った。
 二日が過ぎ、痛々しい傷が頬に刻まれベッドで眠るラルフを見守りながら、エマは自分は間違えてしまったのではないかと思った。
 彼を見つけた時、とにかく助けなくてはと焦って連れ帰ってしまったけれど、魔法で町まで移動して病院に運んだ方がよかったのではないか。
 今からでも、病院に預けた方がいいのかもしれない。
 そんな事を考えていると、不意に指を握られた。目を向ければ、ラルフの指が弱々しく絡み付いている。

「ラルフ……?」

 彼は不安そうにエマを見つめていた。

「エマ……どこにも行かないでね……そばにいてね……」

 こんな状況で、心細いのだろう。今、彼には頼れる人間がエマしかいないのだ。エマがいなくなり取り残される事に不安を感じているようだ。
 彼を安心させたくて、エマは優しく語りかける。

「もちろん、傍にいるわ」
「ホント……? ボクを一人にしない……?」
「ええ、大丈夫よ。一人になんてしないから。……体を起こせる? 薬を飲みましょう」
「……お薬って、苦いんでしょ……?」

 きゅっと眉を顰めるラルフに、エマは微笑んだ。

「大丈夫よ。この薬は甘いから」
「ウソだぁ……」
「本当よ。甘くて美味しいから、飲んでみて」

 疑わしそうな顔をしつつ、ラルフは素直に口を開けた。苦い薬に怯えてぎゅっと目を瞑る彼の口に薬を入れる。
 薬を口に含んで、何かに気づいたようにラルフはぱっと目を開けた。

「ホントだ、甘い……!」
「ね? 言ったでしょ」
「すごいっ……エマのお薬は甘いんだね……!」

 キラキラと瞳を輝かせるラルフは可愛かった。
 本当は普通に苦い薬だが、魔法で甘くしたのだ。苦いものを甘く、そんな事ができるのに、傷を綺麗に消す事はできない。こんなに凄い力なのに、彼にしてあげられる事は少なく、エマはもどかしいような気持ちを味わっていた。
 病院へ連れていった方がいいのかもしれないと考えつつ、結局エマは病院へは行けなかった。ラルフを病院へ預けてしまえば、エマはもう傍にはいられない。傍にいてほしいと縋る彼を、中途半端に突き放すような真似はできなかった。





 ラルフを保護して更に数日。彼は魔物に襲われた時の夢を見るようで、うなされている事がたびたびあった。
 今日もまた、苦しげに顔を歪め呻き声を上げるラルフに声をかける。

「大丈夫、もう大丈夫よ、ラルフ」

 傷にさわらないようそっと抱き締めた。彼は震える手でぎゅっとしがみついてくる。

「私が守ってあげる。だから、怖くないわ」
「うぅ……っ」
「怖くない、大丈夫よ、ラルフ」

 彼が再び眠りに就くまで、エマは優しく声をかけ続けた。





 怪我の事もあり、エマはとにかくラルフの世話を焼いた。ご飯も着替えも全て。そのせいか、ラルフはすっかりエマに甘えるようになっていた。懐かれれば可愛くて、更に甘やかしてしまう。エマにとってラルフは可愛い大切な存在になっていた。
 そんなある日。ベッドで上体を起こし手鏡の中の自分を見つめるラルフに声をかける。

「大分よくなってきたでしょう? もうすぐお家に帰れるわよ」

 喜ぶと思ったのに、ラルフの表情は暗い。

「………………帰りたくない」

 ポツリと呟かれた彼の言葉に、「どうして?」と問いかけた。

「だって……ボクの顔、前と違うもん……」

 ラルフは掠れる声で言った。彼の瞳には涙が滲み、今にも零れ落ちそうだ。

「お父さんも、お母さんも、友達も……ボクのこと、気持ち悪いって思うかも……」
「ラルフ……」

 ラルフの顔にはしっかりと傷跡が残っている。頬に刻まれた傷は大きく、目立つ。ラルフが不安に思うのも仕方がない。

「大丈夫。気持ち悪いなんて思わないわ」
「そ、そんなの……わかんないよ……嫌われちゃうかも……っ」

 ぎゅっとシーツを握り締め、肩を震わせるラルフ。
 エマは彼の前でブラウスのボタンを外し、胸元を露にする。

「見て、ラルフ」
「え……?」

 促され顔を上げたラルフは、目を見開く。
 エマの胸元には大きな火傷の痕がはっきりと残っている。

「エマ……。エマも、ケガしたの……?」
「うん、もうずっと前だけどね」

 これは母親に熱湯をかけられ負った火傷だ。
 エマは生まれた時から一人でここにいるわけではない。幼い頃は普通に両親と一緒に暮らしていた。
 けれどいつしか自分が魔法を使える事に気づいた。魔力持ちは迫害される存在だと子供ながらに理解していたエマは、両親に打ち明ける事ができなかった。魔力を持っている事を隠して両親との生活を続けていたエマだが、うっかり二人の前で魔法を使ってしまったのだ。
 母親は絶叫し、エマに化け物を見るような目を向け手当たり次第に物を投げつけてきた。パニックになっていたのだろう。熱湯の入ったヤカンまで投げてきて、動揺していたエマは魔法で防ぐ事もできず中身を浴びてしまった。
 父も母も、もうエマを自分達の子供としては見ていなかった。彼らにとってエマは得体の知れない存在になってしまった。
 だからエマは両親から自分の記憶を全て消し、家を出た。
 それから数年間、ずっと森の中で暮らしている。

「痛そう……。痛い? 大丈夫?」

 ラルフはおろおろと泣きそうな顔でエマの火傷を見ている。

「大丈夫。もう痛くないわ」
「ホント……?」
「ええ」

 笑顔で頷けば、ラルフは安心したようだ。
 彼を見つめながらエマは問う。

「ラルフは私の事、気持ち悪いって思う?」
「思わないよ……!」
「ほんと? この火傷の痕を見ても、気持ち悪いって思わない?」
「思わない! ボク、エマのこと大好きだもんっ」

 力一杯そう言ってくるラルフに、エマは笑みを深くする。

「ラルフのお父さんとお母さんも、ラルフの事が大好きだもの。だから、気持ち悪いなんて思わないわ」
「そう、かなぁ……。そうだといいな……」
「きっと大丈夫よ」

 ラルフの頭を撫でる。
 エマは彼から彼の両親の話を聞いていた。その話を聞く限り、ラルフは確かに両親に愛されている。そう確信し、「大丈夫」だと彼を励ました。
 大人しく頭を撫でられていたラルフは、不意に顔を上げる。

「…………エマは?」
「え……?」
「エマも、ボクのこと、好き……?」

 眉を下げ、不安そうに問いかけてくる。
 エマはすぐに頷いた。

「もちろん、大好きよ」
「じゃあ……じゃあね……あのね……ボクとケッコンしてくれる……?」

 頬を赤く染め、もじもじしながらそんな事を言ってきたラルフに、エマは一瞬言葉を詰まらせてしまう。
 すぐに答えを返さなかった事に、ラルフは悲しみ眉を下げた。

「エマ、いや……?」
「ううん、そんな事ないわ」
「じゃあ、ケッコンしてくれるの……?」
「そうね……ラルフがもっともっと大きくなったら、もう一度言って」
「そしたら、ケッコンしてくれるの?」
「ええ」

 はっきりと頷けば、ラルフは嬉しそうに瞳を輝かせた。

「ホント? 約束だよっ?」
「うん、約束ね」

 約束が果たされる事がないとわかっていながら、エマは差し出されたラルフの小指に小指を絡めた。
 罪悪感にチクチクと胸を刺されながら、笑顔のラルフに微笑み返す。

「嬉しい! エマ、大好きっ」
「私も大好きよ、ラルフ」

 胸の内は隠したまま、エマは笑顔で彼の頭を撫で続けた。





 ラルフの体調は大分回復した。これで彼を家族のもとへと帰す事ができる。
 ラルフはエマがいつも買い出しに行っている町ではなく、もっと遠くの町から来たらしい。森に面してはいるが、かなり遠い。
 ラルフは遠足で森に来たのだという。珍しい動物を見つけ、それを追いかけて魔物の現れない安全地帯を抜けてしまったのだ。迷子になったと気づいた時にはもう遅く、人を捜して泣きながら森をさ迷った。相当歩き回ったのだろう。だからこそ、エマが発見する事ができたのだ。
 ラルフと手を繋ぎ、森の中を歩く。魔物が近づかないよう広範囲に結界を張り、彼の暮らす町がある方へと足を進めた。
 かなり距離があったので、途中でラルフには背中に乗ってもらう。魔法を使えば、子供を背負って森を歩く事も苦ではない。
 かなりの時間を歩き、離れた場所に人の気配を感じた。魔法を使って遠くへ視線を送れば、複数の人間が森の中にいた。彼らの動向から、恐らくラルフの捜索をしているのだろうとわかった。
 ここからラルフが歩いていける距離に人がいる。エマは彼を背中からおろした。

「ラルフ、ここからまっすぐ行ったところに人がいるわ。多分、ラルフを捜してる人よ」

 エマはしゃがみ、ラルフと視線を合わせて説明する。

「ここをまっすぐ歩けば会えるから。そうしたら、その人に名前を言って保護してもらうの」
「エマは? エマも来てくれるよね……?」
「ごめんね、私は行けないの」
「っ……どうして……?」

 ラルフの瞳が泣きそうに揺れる。
 エマは彼を安心させるように微笑んだ。

「一人じゃやだ……。エマも一緒に来てよ……」
「ラルフは一人でも大丈夫よ。男の子だもの」
「…………」
「勇気の出るおまじないをかけてあげる」

 エマは自分の額をラルフの額に触れ合わせた。そして魔法をかける。
 そっと額を離し、にっこりと笑顔を見せた。

「これで大丈夫。私が一緒じゃなくても、ラルフはお家に帰れるわ」
「…………エマ、お別れじゃないよね……? また会えるよね……?」
「もちろん。ラルフが私の所へ来るのは難しいから、私がラルフに会いに行くわ」

 エマの言葉にラルフは顔を綻ばせた。

「ホントっ?」
「ええ」
「約束だからね、絶対だよ」
「うん、必ず行くわ」

 笑顔で約束を交わせば、ラルフはエマの示す方へと歩きはじめた。
 エマは立ち上がり、その場から動かず彼を見守る。チラチラとこちらを振り返るラルフに手を振った。ラルフも手を振り返し、更に先へと進んでいく。
 彼が人のいる方へとまっすぐ進めるように魔法でサポートし、木々に阻まれ姿が見えなくなれば魔法でその姿を追った。
 やがて、ラルフは捜索隊の一人と無事に合流する。捜索隊の男性と言葉を交わした瞬間、ラルフの一部の記憶は消えたはずだ。エマはそういう魔法をかけた。魔法をかけた後にエマ以外の人と話をしたら、エマと過ごした時の記憶が全て消えるように。
 ラルフは森で遭難し魔物に襲われショックで記憶をなくしてしまった、と思われるだろう。
 エマは魔力持ちだ。本当は関わってはいけなかったのだ。ラルフの記憶にエマという魔力持ちの存在を残してはいけない。
 純粋に約束を信じていたラルフには申し訳ないけれど、互いにとってこれが一番いいのだ。
 ラルフが無事に保護されていくのを見届け、エマは一人で自分の暮らす小屋へと帰った。





 それからまた、一人の生活がはじまった。ラルフと過ごした時間は短いけれど濃密で、四六時中傍にいた存在がいなくなってしまった事に寂しさを感じずにはいられなかった。
 暫くしてから、ラルフの暮らす町まで足を運んだ。彼がきちんと元の生活に戻れているのか心配だった。
 ラルフの住んでいる家がどこにあるのかはわからないので、とりあえず町の中を歩き続ける。それほど時間もかからず彼を見つける事ができた。
 ラルフは両親と一緒にいた。左右それぞれ手を繋ぎ、仲睦まじい様子だった。ラルフの屈託のない笑顔を見て、エマは心から安堵した。
 それからラルフの視界に入るように横切ったが、エマの姿を目にしても彼は何の反応も示さなかった。記憶もきちんと消えている。
 確認を済ませエマは森へ帰った。
 その後は何事もなく、同じ事を繰り返す日々を送っていた。だが、いつしか魔法の力が弱まっている事に気づいた。
 魔力持ちの情報はとても少ない。そもそもの数が少なく、見つかれば殺されるので魔力を持っている事を隠す者が殆どだ。
 だから、魔力とはなくなるものなのか、一時的に弱まっているだけなのか、魔力がなくなる者もいればなくならない者もいるのか、さっぱりわからない。
 徐々に弱まっている感じから、このままいけばエマの魔力はなくなるものだと判断した。
 魔法が使えなくなるのなら、ここで暮らすのは不可能だ。普通に生活が送れなくなるし、魔物と遭遇しても戦えない。
 エマは長年暮らした小屋を出て、町へ移動する事を決心した。
 老後に備えて蓄えておいたお金を持って、王都へ向かった。小さな町よりも王都の方が暮らす場所も仕事も見つかりやすいだろうと考えたからだ。
 町から町へ、国の中心へと向かい王都に辿り着いた。
 最初は人の多さに圧倒された。人と関わらない生活をしていたので、とても落ち着かなかった。
こんなに人の多い場所でもし魔力持ちだとバレれば、あっという間に処刑されるだろう。
 だが幸いな事に、この頃にはエマはもう殆ど魔法を使えなくなっていた。
 部屋を借りて住む場所を確保し、それから仕事を探す。歩き回って見つけたのが、パン屋の仕事だ。夫婦で営んでいる小さなパン屋の売り子をする事になった。
 生活は慣れるまで大変だった。けれど、パン屋の夫婦が何かと気にかけてくれて、何か困った事があれば助けてくれた。
 暮らしはじめた頃は人との接し方もよくわからず戸惑う事も多かった。挨拶するだけでも緊張していたけれど、徐々に自然に言葉を交わせるようになっていった。
 いつしか魔法も完全に使えなくなり、エマは魔力持ちではなく普通の人間として、周りに支えられながら生活していた。





 王都で暮らしはじめて数年が経ち、ここでの生活にもすっかり慣れた頃だった。
「ラルフ」という名の騎士があちこちで話題になっていた。
 ラルフという名前には覚えがあるが、同じ名前はどこにでもいる。だから、最初は特に気にも留めていなかった。
 けれどある日、買い物をしている時に偶然店先に並べられた新聞の写真が目に入った。エマは思わず二度見した。
 一面にでかでかと騎士ラルフの写真がカラーで印刷されていた。
 髪の色、目の色、そして頬の傷。それらがエマの記憶にあるラルフと一致した。けれど、エマの知る彼とはあまりにも印象が違う。
 エマの知っているラルフは美少年だった。甘い雰囲気の漂う、華奢で線の細い、笑顔の可愛い少年。
 だがしかし、新聞に載っているラルフは無表情で目付きが鋭く厳つい。鍛えられた肉体は逞しくゴツゴツしている。
 雰囲気がまるで違い、面影もない。けれど、この騎士のラルフはエマの知っているあのラルフなのだ。名前と髪色と目の色が同じだけならば別人だと思っただろう。しかし頬の傷が同一人物だと示している。
 十年以上も経っているのだ。見違えるように成長していたって不思議ではない。不思議ではないのだけれど、エマの記憶に残るラルフとはあまりにもかけ離れていて驚いてしまう。
 可愛く甘えてきたあの少年が、竜殺しの英雄になっていたなんて。
 新聞には騎士ラルフの活躍ぶりが事細かにびっしりと書かれていた。どうやら彼の栄光を称えるパレードがあるらしい。
 エマは新聞を買い、家に帰って読んだ。





 そしてパレード当日。
 騎士ラルフを褒め称えるべく沢山の人が集まっていた。
 エマも彼の姿を一目見ようとやって来た。少し離れた場所から人混み越しにパレードを見る。
 ラルフの姿を見つけた。彼は人一倍体格が大きいのですぐにわかった。
 あんなに小さかった少年が、こんなに立派になって……。と、感慨深い気持ちになる。
 ラルフは笑顔を浮かべる事なく、無表情だ。目付きが鋭いので怒っているようにも見える。子供の頃は愛想がよかったのでやはり違和感を感じてしまうが、成長の過程で変わってしまう事もあるだろう。
 ふと、ラルフがこちらに顔を向けた。彼と目が合った気がしたが、気のせいだろう。
 一目見たかっただけなので、エマはすぐにパレードに背を向けその場から離れた。
 仕事に向かうにはまだ時間がある。ゆっくり遠回りして行こうと、エマは人のいない道を歩く。パレードが終わればきっと行き交う人でいっぱいになってしまうだろう。
 竜を倒すほどに強くなるなんて、きっとエマには想像もできないくらい努力を重ねてきたに違いない。
 ラルフと過ごした日々が蘇り、懐かしく思いながら普段は通らない路地裏へと足を進めてみる。

「おい」

 背後から低い男の声が聞こえ、エマは一瞬足を止めた。
 しかし、金銭を巻き上げるようなよくない輩なのではないかと不安になり、エマは振り返らずそのまま走って逃げようとする。

「待てっ」

 背後から腕を掴まれてしまった。
 恐怖に固まるエマを、相手は強引に振り返らせる。
 そこにいたのはラルフだった。
 長身で、大きく、鍛え上げられた体が目の前にある。
 エマがラルフを見上げれば、じっとこちらを見下ろす彼と目が合う。まるで睨むようにエマを凝視している。

「ラルフ、様……。あの、なんでしょうか……?」

 問い掛ければ、ギロリと、今度は確実に睨まれた。
 自分は、彼に責められるような無礼を働いただろうか。全く身に覚えがなくて焦る。だって、エマはパレードをチラッと見ただけで他に何も接点はない。はずだ。

「お前、名前は?」
「……エマ、です」
「そうか。なら、エマ──」

 彼は、まっすぐエマの瞳を見つめて言った。

「俺と結婚しろ」
「…………へ?」

 何を言われたのかすぐには理解できなかった。
 何の冗談かとまじまじと見つめ返せば、彼はとても冗談を言っているとは思えない無表情だった。冗談を言っているようには見えないが、かといってセリフに合った表情もしていない。
 何故? という疑問しか浮かばない。
 もちろん断る以外の選択はなかった。
 エマは丁重にお断りし、逃げるようにその場から走り去った。
 走りながらぐるぐると疑問が頭の中を駆け巡る。
 何で。どうして。考えるがわからない。
 ラルフの記憶は確かに消した。それは間違いない。
 エマと過ごした時間を忘れた彼が、エマに結婚を迫る理由がわからない。
 パレードの時に目が合ったのが気のせいではなかったとして、エマに一目惚れしたとでもいうのだろうか。
 エマは一目惚れされるような絶世の美女ではない。はっきり言って容姿は普通だ。だから一目惚れというのはいまいちピンとこない。
 ならば、やはり彼はエマを覚えている? 何らかの理由で、エマがかけた魔法が解けたのだろうか。だがもしそうだとしても、あれからもう十年以上も経っている。
 出会った時はエマも十代だったが、今はもう三十歳だ。パン屋で働く平民で、平凡な女だ。
 竜を倒した英雄が結婚相手に選ぶような存在ではない。
 何だかよくわからないが、気にしなくてもいいだろう。もう会う事もない。





 もう会う事もない。そう思っていたのに、ラルフは毎日エマの前に現れた。
 監視でもしているのかと疑うほど的確に、エマの通る道に、エマの通る時間に彼は現れる。そして「結婚しろ」と言ってくるのだ。
 一体何が彼をそうさせるのか。何度断ってもやって来る。
 ラルフは目立つので、エマが彼に求婚されていると少しずつ周囲にバレはじめてしまった。気づけばエマの雇い主であるパン屋の夫婦にも知られていた。

「エマちゃん、英雄の騎士様に毎日プロポーズされてるんだって? そしてそれを断ってるって?」
「あはは……」

 パン屋の奥さんの言葉に、エマは曖昧に笑う事しかできない。

「断られてるのに諦めずに毎日求婚してくるなんて、エマちゃんにぞっこんって事じゃない。受け入れちゃったら?」
「いやいやいや……。私なんかが結婚していい相手じゃありませんよ……」

 とんでもない、と首を振る。

「まあ、確かに気後れしちゃうわよね。でもあんな立派な騎士様のお嫁さんなんて、憧れない? 町中の女の子が夢見てるんじゃないかしら」
「いやぁ……私には分不相応過ぎて……」

 正直、身に余る。誰もが憧れるような存在に求婚されても喜びなど感じない。何故自分がここまで執着されているのか疑問しかない。
 エマは今の生活に満足している。身分の高い人と結婚したいとか、そういう願望は一切なかった。今の生活を続けていければそれで幸せだ。
 だから、ラルフにはいい加減諦めてほしいのだが。





 しかし、エマの望みは叶わずラルフは飽きもせずにやって来る。
 今日は休日でエマは日用品を買いに家を出た。エマが休みだという事も、買い物に行く事もラルフは知らないはずなのに、やはりエマの行動を全て把握しているかのように彼はエマの前に姿を現すのだ。
 彼はいつもと同じ言葉を口にする。そしてエマはいつもと同じように丁重に断った。

「…………そんなに嫌なのか?」

 呟くようにラルフが言う。
 無表情の彼の瞳に悲しみが滲んだように見えた。
 今の姿とは似ても似つかない、美少年の頃のラルフの姿が重なる。泣きそうなラルフの顔が思い出され、罪悪感に胸が痛んだ。

「嫌、というわけでは……」

 気づけば言い訳を口にしていた。

「そういう事ではなく、私ではあまりにもあなたに相応しくないので……。あなたはこの国の騎士で、世界を救った英雄で……私なんかじゃ、とても釣り合わない……。あなたは、もっと自分の立場に合った人と結婚すべきだわ」

 黙って聞いていたラルフは、「だったら……」と当然の事のように口を開く。

「俺は騎士を辞める」
「…………え?」
「それなら問題ないだろう。この国を出て、他の場所で静かに暮らそう」
「いやいや……できないでしょう、そんな事」
「何故だ?」

 本当にわからない、という顔で尋ねてくる。
 彼は本気で、騎士を辞めるだなんて突拍子もない事を言っているのだろうか。いや、本気なわけがない。

「無理に決まってるでしょう、英雄であるあなたが騎士を辞めるなんて……」

 嘆息と共に言葉を吐き出した時、遠くから悲鳴が上がった。辺りは騒然となる。
 あちこちから上がる叫び声を聞くに、どうやら魔物が現れたらしい。悲鳴の数から、一体ではなく複数。
 人々が逃げ惑う姿を横目に、エマはその場から動かないラルフに向かって大声を上げる。

「早く行って!!」
「何故?」
「なっ、ぜ……って……」

 真顔で訊いてくるラルフに、エマは一瞬言葉を失くす。

「あ……あなたは騎士なんだから、国を守るのが仕事でしょう!?」
「もう騎士は辞めると決めた。だから俺が国を守る義務はない」
「は…………」

 当たり前だろうと言わんばかりの顔でのたまうラルフに、困惑を隠せない。

「なに、なに言ってるのよ……」
「お前が言ったんだろう? 俺が騎士だから結婚できないと」
「そん、そんな……そんなの、ダメよ。や、辞めるって決めただけで、まだあなたは騎士だもの……だから、早く助けに……」
「そうだな。俺が辞めると決めてもすぐには無理だろうな。色々と手続きが面倒だ。この騒動に紛れて国を出た方が早い」

 英雄と持て囃される騎士とは思えないとんでもない発言にエマは目を剥く。

「何言ってるの!? 魔物が出たのよ!? それなのにあなたがいなくなったら……っ」
「もう俺には関係ない。俺はお前さえ守れればそれでいい」

 ラルフはきっぱりと言い切る。
 彼の瞳は本気だった。本当に住人を見捨てこの国を出ようとしている。
 あちこちから助けを求める悲鳴が響いている。彼の耳にだって届いているはずなのに。
 それをどうでもいいと突き放すつもりなのだ。
 頭がくらくらした。どうすれば彼は騎士として市民を守ってくれるのだろう。

「ダメ、そんなのダメよ……。お願い……皆を、助けて……」
「嫌だ」
「な、なんで……っ」
「ここでまた俺が功績を残せば、お前が俺と結婚しない理由を増やすだけだ」
「そ……っ」
「なら俺はもう国の為に何もしない。このままお前とここを離れる」

 そう言って、ラルフはエマの腕を掴んだ。

「や、やめっ……」

 抵抗もむなしく簡単に彼の肩に担がれてしまう。
 魔法の使えないエマは、騎士であるラルフにとってはただのか弱い女だ。どれだけ暴れようと容易く捩じ伏せられてしまうだろう。無闇に抵抗すれば気絶させられてしまうかもしれない。
 だがこのままでは、本当にどこか遠くへと連れ去られてしまう。大勢の人を見捨てて。

「待って……!!」

 エマは叫ぶように声を上げていた。

「待って、お願い、ラルフ!!」

 名前を呼べば、ラルフは足を止めた。続きを促すように彼は沈黙している。

「っ……する、から……」
「何だ? はっきり言え」
「け、結婚する! あなたと結婚するから……だから、皆を助けて……!!」

 ラルフはエマを下ろした。そして正面からエマを見据える。

「約束するか?」
「っ……約束、するわ……」
「守れよ、必ず」

 彼の言葉はエマを責めているようでもあり、脅しているようでもあった。彼の鋭い双眸が、逃げる事は決して許さないと言っていた。
 エマはしっかりと頷く。
 それを見届け、ラルフは身を翻した。




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