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晴なつちくわ

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清水

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 どれだけそうしていただろう。
 ハンカチーフから顔を上げたシスイの目は真っ赤だった。すみません、と涙混じりの声で言って、眼鏡を直しながら鼻を啜る。

「突然取り乱してしまって、すみませんでした」

 静かに頭を下げたシスイに、ユージローは慌てて声を掛けた。

「顔を上げてください、シスイさん。気にしなくて良いんです。無理にとは言いませんが、もしも何か辛いことがあるのなら、抱え込むよりも全部出してしまったほうが良いと僕は思います」
「そうだね、それにはボクも同意するよ」

 意外にもヤマセが助け船を出してくれた。
 まだ鼻を啜っていたシスイが小さく、ありがとうございます、と零す。また一つ彼女の瞳から雫が落ちていった。
 ユージローはヤマセを見上げる。目が合った彼は、首を横に振った。
 彼女が口を閉ざしたままなら無理に聞くな、ということだろう。
 もう一度視線をシスイに戻すと、彼女の唇が僅かに開かれたり閉じたりを繰り返しているのが見えた。
 辛抱強く彼女の言葉を待つ。
 やがてシスイは、小さく息を吸って言った。

「私、嬉しかったんです」

 ぽつりとカウンターに染みていった言葉。一瞬何を言われたのか分からなくて、ポカンと口を開けてしまった。全く予想外の言葉だった。口を開きっぱなしのユージローをそのままに、シスイは更にぽつぽつと語り出す。

「ユージローさんが、お疲れ様です、って言ってくれた時、本当に嬉しかった。一度も誰かに労われた言われたことがなかったんです」
「一度も、ですか?」

 思わず尋ねてしまったユージローに、シスイが静かに頷いた。

「社会人になってからは一度もありません。名前を呼ばれることも殆どありません。それどころか、まるでそこに居ないみたいな扱いをされることもあります」

 その様子を想像してゾッする。

 何人もの人間がいるのに、自分だけ居ないもの扱いされる。
 その居心地の悪さと恐怖は、計り知れない。想像しかできないけれど、絶対に経験したくないことだ。勿論、そうされても全く動じないヒトもいるだろう。
 例えば、コーリとかヤマセとか。
 彼等のように何者が来ても全く動じる様子を見せない凛とした姿勢と、強い意思の持ち主であれば、恐怖なんて感じないのかもしれない。
 でも全員がそう在れるかと言われれば、そうではない。
 ユージローだって想像しただけで恐怖を感じるのだから、当事者のシスイには余程耐え難いことなのだろう。
 そんな環境にずっといるのなら、彼女がヒトから声を掛けられることにやけに動揺したり、言葉を出せずにいたり、色んなことを言いづらそうにしていたのも頷ける。何かを誰かに言った時、その誰かに何か棘のある言葉を言われるのが怖いのだろう。起こるかもしれない恐怖を拭い去れないから、それが仕草に出る。
 数々のサインはそれが原因だったのか、と納得がいった。
 でも辛かったですね、と同意するのも違う気がする。
 何か言葉を掛けてあげたいのに、ピッタリの言葉を見つからなかった。
 自嘲するように笑ったシスイは、更に続ける。

「それを家族にも相談してみたんですけど、笑って流されちゃって。そういうことは誰にでも一回はあるもんだ、お前よりももっと辛い想いをしているヒトもいる、って。私もそうかも知れないって思うこともあるんですけど、中々上手く行かなくて。だからユージローさんのあたたかい言葉が、本当に嬉しかったんです」

 やっぱりユージローは、何も言えなかった。
 それは良かったです、も変だし、それは大変でしたね、も違う気がした。
 知りもしないのに大変だ、なんて。口だけで言うことは簡単だ、と自分が聞いたら思うし鼻で笑い飛ばしてやりたくなるかもしれない。
 本当に大変な想いをしている時、励ましも同情もいらない、と思う瞬間がある。
 ただ吐き出して、それで満足したい時がある。その思いが胸に満ちていれば、励ましや同情をされたら相手には悪いと思っても怒りが湧いてくる時がある。むなしくなる時がある。
 脳裏に弾けて消えていく想いがあったせいで、余計に何も言えなかった。
 口を噤んだままのユージローに、はたと顔を上げたシスイが、あはは、と乾いた笑いを零す。

「すみません、こんな話をされても困るだけですよね」
「ッ、いえ違うんです!」

 即座に否定する。驚いたシスイの瞳がぱちぱちと瞬かれた。

「僕自身が、シスイさんに掛ける言葉を見つけられないのがもどかしくて」

 何か彼女の心が軽くなるような言葉を、今すぐにでも掛けられたら良かった。それでも、こんな大事な時に何にも湧いてこない。あれでもないこれでもないと頭の中をかき混ぜても、一向に出てきそうになかった。

「でもっ、さっき言った通り、話すことでシスイさんが楽になるのならどれだけでも話してください!」

 そんな自分にも出来ることが、彼女の話を聞くことだ。
 ヤマセならもう既に何か思いついているのかもしれないけれど、自分にはなにもないから。だからせめて、シスイの胸の奥に溜まった膿のような言葉を、少しでも多く吐き出してもらえるように。
 しん、と店内が静まり返った。
 我に返ると、目の前にいるシスイは未だに目を丸くしたまま、ユージローを見ている。
 じわじわと頬に熱が集まってきたのと、ぽんとヤマセに肩を叩かれたのは、多分同時だった。

「いやァ、本当にこの子はお客さんのこととなると熱くなってしまうんですよ。とっても優しくていい子でしょう?」

 カラカラと笑いながらヤマセがシスイに言っているが、ユージローにしてみれば今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
 こんなこと、必死になって言うべきことじゃなかったんじゃないか? 馬鹿みたいに熱いヤツって思われてしまったんじゃないだろうか?
 そう思えば思うほど、頬に更に熱が集まってくる。穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。褒められているのが、余計に羞恥を加速させる。
 僕のことはどうだって良いから、ヤマセさんも何か彼女に言ってくださいよ!
 そう叫びたくて仕方なかった。

「でもね、お嬢さん」

 ふと、ヤマセの声が真剣味を帯びた。

「自分の痛みを相手に理解してもらおう、なんて思わないことです」

 一瞬、ヤマセの言葉を理解できなかった。
 一体彼は、今。なんと、言った?
 傷心の彼女に言うようなことではないことを、口に出したんじゃないだろうか?

 バッと彼を見上げる。
 ヤマセはただ、いつもどおりの柔らかな笑みを口元に乗せていた。


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