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佐々木

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「どうすればいいんだろう」

 心底困っている声が、すでに闇が降りたコンクリートに落ちる。
 ポケットの中にも、通勤バッグの中にも、探しているものは見当たらない。それを確認してから、佐々木は大きな溜め息とともにガックリと肩を落とした。
 全くツイてない。
 家の鍵を落として入れないなんて、なんという不運だ。
 くるりと手首を回して見た腕時計は、もうすでに両針が12時を差そうとしている。どこで家の鍵を落としたのか分からない今、下手に動けない。
 会社で落としたのかもしれないし、通勤電車、バスの中で落としたのかもしれない。
 とりあえず家からバス停までは歩いてみたけれど、やっぱりそれらしきものは見つからなかった。
 ああもうなんてことだ。
 佐々木はガシガシと自分の頭を掻いた。その衝撃で揺れた眼鏡のせいで、視界までぐらぐらと揺れる。まるで自分の状況を表しているようで、さらに気分は下降していった。
 目に入った革靴は、長い間手入れをしていないせいで大分くすんで見える。
 こんなに夜遅くまで働いて、明日も朝早くに出勤しなければ行けないのに。
 もういっそのこと会社に泊まったら良かったんじゃないのか。もう最悪だ。家に帰りたい。帰れないけど。
 ふてくされてその場に座り込んでやろうか、と思いながら、ふと顔を上げた時だ。

 数メートル先に、明かりが灯った一軒家があるのが見えた。
 大抵の場合、一軒家であってもカーテンが引かれ、そんなに光が漏れていることはない。しかしそこだけは、佐々木を手招くように煌々と明かりが漏れている。
 それが何故だったかは、分からない。
 佐々木の足は、考えないうちにその明かりへと向かっていった。

 明かりの前にたどり着くと、扉の前に木目の置き看板が一つあった。

「……『どんな鍵でも作り〼』?」

 たった一言、赤字でそう書かれている。
 何だそれ。どんな鍵でも、って一体どういう意味だ。じゃあ今すぐ落とした家の鍵も作れるっていうのか? どうせマスターキーが無いと無理って言うに決まってる。
 フン、とバカにしたように鼻から息を溢して顔を上げたのと、横開きの扉がガラガラと開いたのはほぼ同時だった。

「うわッ!?」
「ヒッ!?」

 突然声を上げられたせいで、つられて変な声が出る。
 よく見てみると、扉の向こうに立っていたのは、佐々木よりも若く同じくらいの背丈の青年だった。人畜無害そうな、黒のミドルエプロンをつけた真面目に見える青年は、佐々木を見つめて固まっている。同じく佐々木も、自分の通勤カバンを抱きかかえて固まっていた。

「ほーらね、言ったとおりだろ?」

 軽い調子の声が聞こえたと思ったら、青年の後ろから、声と同じくチャラついた高身長の男が顔を出した。今どき珍しい着流しを着て、明かりの色が透けるほどに色素が薄い髪色をした男だった。青年とのギャップに、ポカンと口が開く。
 こんばんは、と挨拶してくる彼に、はあ、と言いながら頭を下げておいた。

「お客さんが来たって解ってたのなら、僕にわざわざ行かせる必要ありました? ヤマセさんの方が扉に近いじゃないですか!」
「だってボクは別にこの店の店員じゃないしぃ」

 ケタケタと笑いながら店の中に引っ込んでいく、そのヤマセという男。
 どうやったらこの二人に接点があるんだ? と思ってしまうほど見た目が違いすぎる。
 だからって変なこと言って脅かすのはやめてください! と青年が男の背に投げかけている言葉はご尤も過ぎて、勝手に目の前の青年を哀れんでしまった。
 いるよな、そういうやつ。全然関係ない部署なのに、なんだかその場に溶け込んでる上に、波紋起こしてからどっか行くやつ。めちゃくちゃ迷惑なんだよな。
 通勤カバンを抱きしめながらそんなことを考えていた佐々木に、あっ、と声が掛かったところでようやく意識が目の前に帰ってくる。
 眉を下げて笑った青年が、ペコリと頭を下げてから言った。

「挨拶もせずにすみません。いらっしゃいませ。僕はユージローと言います。あなたも何かの『鍵』をお探しですか?」
「あ、えっと、家の鍵を失くしちゃったんですけど」
「えっ! それは大変ですね。どうぞお入りください」

 半身にして店の中へ促すユージローという青年。慌てて両手を顔の前で振る。明らかに怪しい店に入るわけにはいかないし、そもそも用意できるわけなんてない筈だ。

「あ、でも! マスターキーがないと普通鍵って作れないですよね? だから、」
「普通はそうですね」

 だからいいです、と断ろうとしたのに、言葉を遮って同意するようにユージローは頷いた。それから、でも、と口元に笑みを乗せて彼は言ったのだ。

「この店は、少し特殊というか、普通じゃないので。マスターキーがなくても作れますよ」
「えっ」

 その普通じゃないとはどういう意味だ。
 まさかヤバい組織とかそういう漫画でしか見たことないようなものと、繋がりがあるとか。いやいやそんなまさか。いやでも怪しすぎる。
 そんな疑問を頭の中でこねくり回していたら、ユージローは笑って佐々木の後ろまでやってくる。

「そんなに身構えなくても大丈夫です! 百聞は一見にしかず! 入ってみてください!」
「えっ、えぇ!? わっ!」

 あれよあれよという間にカバンを取られて、そのまま背中を押される。
 気弱そうにみえるのに、結構強引だなこの青年!
 そんな心の声がユージローにもちろん届くはずなどなく、佐々木はついにその店に足を踏み入れてしまうことになったのだった。

 
 
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