PRISONER 3

桜坂詠恋

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 桜井鈴音は自室を出ると、息を殺して玄関へ向かった。
 たたきに腰を下ろしてバックスキンのブーツにタイツの足をそっと入れ、時間を確認すると、音を立てないよう携帯をバッグに突っ込む。
 後はドアを開けて外に出てしまえばいい。
 しかし、気を抜く訳には行かない。最要注意人物がリビングにいるのだ。
 一つ深呼吸をしてから背後を振り返り、耳を澄ます。
 リビングからゲーム音楽が聞こえた。
 どうやら気付かれていないらしい。
 取り越し苦労だったかと苦笑いしながら、慎重にバッグを肩に掛け、ゆっくりとした動作でミニスカートの膝を伸ばした、その時だった。
「ちょおっと待ったあ!」
 廊下の突き当たりに位置するリビングのドアが、吹き飛ぶような勢いで開かれると、ドカドカと床板を踏み鳴らして、猛然と男が駆け寄って来た。
 四角い輪郭に、太い眉。
 ギョロリとした目と、引き結んだ口が無ければ、海苔弁、もしくは下駄と表現するに相応しい。
 しかし、この下駄顔の男こそが、桜井鈴音の十歳違いの実兄であり、彼女の頭痛のタネ、桜井圭一だった。
「な、なによ」
「何処へ行く、何処へ!」
 うろたえる鈴音に、圭一は広い肩を怒らせ、唾を飛ばしながら詰め寄った。
「何処って……もう、きたな……」
「男じゃないだろうな!」
「……」
 大当たりだった。
 これから、担任であり、密やかな恋人でもある都筑と会う約束をしているのだ。
 しかし、こんな事で引き下がる訳には行かない。今日は、年に一度っきりのクリスマスイヴなのだ。
「どうなんだ」
 繰り返す圭一に、鈴音はぷいっとそっぽを向いた。
「圭ちゃんには関係ないでしょ」
「な……なんだと?!」
 溺愛する妹の素っ気無い態度に激しい衝撃を受けた圭一は、顔色を変え、ますます目を剥くと身体を捻った。
「おい! おかーさんッ! おかーさーんッ! 鈴音が! 鈴音が不良になったぞォォォォォッ!」
 両手でメガホンを作り張り上げるそれは、まるで数キロ先に危険を知らせるかのような大声である。
 鈴音はがっくりと肩を落とした。
「お母さんなら、お父さんと温泉行ったよ」
「なにっ? 娘の一大事に温泉だと? なんと暢気な!」
「一大事じゃありません。大体、なんで不良なのよ……」
「当然だ! お兄ちゃんが何処へ行くのか聞いてるのに、行き先を言えないなんて不良だ! びっくりだ! ドンキーだ!」
「ヤンキーでしょ」
「そう、それだ! つまり極道の始まりだッ! 岩下志麻だッ! 覚悟しぃやぁぁぁぁッ!」
「も……声大きい……」
 高校生の妹に振り翳すとはとても思えない論法と大声に、とうとう鈴音は耳を押さえた。だが、限度を超えたシスコンである圭一の興奮は収まらない。
 それどころか、わなわなと震える指先を突きつけて語気を荒めて来た。
「それにだな! くっ、クリスマスに出かけるなんて、おおおお……男に決まってる! ふしだらなッ!」
「何決め付けてんのよ」
「決め付けも何も、上下揃いの下着がなによりの証拠だっ! そそそ……それは所謂勝負下着と言うやつだろうがっ!」
 と、突然桜井家が水を打ったように静かになり、ただでさえ寒い玄関がアラスカばりに凍りついた。
 大寒気団は、鈴音の真上に停滞中だ。
「着替え……覗いたわね……」
「あ、いや……」
「覗いたのねっ!」
「ち、違うッ! それは違うぞっ! スケベ心などは、欠片も……」
「そんな事わかってるわよ! でも、覗いたんでしょ!」
「断固として覗きではないッ!」
 妹の剣幕に、ここは開き直るしかないと踏んだのか、圭一はぶるぶると頭を振ると厚い胸を反らせた。
「いいか! あれは監視だっ! 兄として、妹の素行を監視したに過ぎん!」
「変態」
「ふがっ」
 たったの四文字であったが、それは猛烈なカウンターとなって圭一を襲った。
 ふらふらと大げさによろめき、壁にすがりつく。
 そんな兄に冷たい視線を投げかけると、鈴音は「じゃあね」と背中を向けた。
が。
「むわてぇい!」
 すばやくバッグを掴んだ圭一に、あっさりと引き戻された。
「おおおおお兄ちゃんは許さんぞッ! よく聞け! 大体、クリスマスと言うものはだな! 家族でチキンを食ったり、ケーキを食ったり、クラッカーをすぱこーんと鳴らして、ちょっぴり照れつつもジングルベルを歌ったり、『お兄ちゃん、これ、鈴音が一生懸命編んだセーターよ』、『おおう、嬉しいぞ鈴音! お兄ちゃん、棺桶に入るまで脱がないぜ!』なんて言う嬉し恥ずかしのプレゼント交換をだな!」
 クリスマスの定義と言うよりも、歪んだ自身の希望を語る兄に、鈴音は目を眇めたまま、溜息をついた。
「……て言うか、自分だって今日は合コンなんでしょ?」
「あっ……頭数が足りないから出てくれと言われてるだけだ! 誰が好き好んで合コンなど! お前がちゃんといい子にしてれば、ソッコー帰ってくるわ!」
「じゃあいいよ」
「なぬ?」
「いい子にしてないから、ゆっくりして彼女作って来て」
「なななななななな」
「いってきまーす」
「鈴音ぇぇぇッ!」
 兄の絶叫を背中に聞きつつ、鈴音は家を出た。
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