16 / 59
【第一部】第二章:花を謡う
第16話:春祭りの招かれざる客_1
しおりを挟む――魔族領に、ミトスが嫁いで初めての春が来た。
冬の間、山肌を覆っていた雪はほとんど溶け、城下町の石畳には、ひらひらと花びらが舞い落ちていた。
ひとえに花――と言っても、人間領のものとは随分様子が違う。昼間は白や桃色の花弁を広げているのに、夜になると花びらがゆるやかに動き、風の音に合わせて小さく歌い出す。高い塔や城壁の上にも花の鉢が吊るされ、今や魔王城全体が柔らかな香りに包まれていた。
緩やかにベッドから身体を起こしたミトスは窓を開け、深く息を吸い込んだ。甘くも爽やかな香りが胸いっぱいに広がる。
昨日――祭り前日の夜――から既に、街の空気は浮き立っていた。屋台の設営や飾り付け、試し焼きの香ばしい匂い。魔族も魔物も人間も関係なく、通りを行き交う人々の顔には期待が満ちている。
今日は――魔族領で最も大きな年中行事の一つ【春祭り】の日だ。
コンコン。
「……ミトス、起きているか?」
控えめなノックの音とともに、扉の向こうから低く優雅な声が響いた。
ウィルだ。その声だけで、胸の奥が不思議と落ち着く。
慌てて部屋着の裾を整え、扉を開けると、いつも通りの黒衣の魔王様が立っていた。その手には、淡い桃色と金色の花束。
「春祭りの朝は、この花を贈るのが習わしだ。……お前に似合うと思ってな」
差し出された花は、細い茎に柔らかな花弁を幾重にも重ね、陽光を受けてほのかに輝いていた。魔族領では『心を温める花』と呼ばれ、この花が贈られた者は一年を幸せに過ごせると伝えられている。
「……ありがとう。すごく、綺麗」
花を受け取ると、花弁が小さく震え、ミトスの胸元で淡い香りを放った。その様子を見て、ウィルの口元が安どと喜びで僅かに緩む。
「今日は城下で祭りだ。お前に見せたいものがたくさんある」
その言葉に頷き、ミトスは早速着替えに取りかかった。
城下町は、昨夜の空気をそのままに、朝から人で溢れかえっていた。今回、舞台となる地は魔王城の表側、人間と魔族がともに暮らす大地だ。人間とまだ相容れない魔族も、今日ばかりはこっそりと、たまにバレながら、人間たちとともに歩く。とても、人間領では見られない光景だった。
通りの中央では踊り子たちが輪を作り、笛や太鼓の音に合わせて軽やかに舞う。空には魔法で作られた光の蝶がひらひらと飛び交い、子どもたちの笑い声が響き、屋台からは香ばしい匂いや甘い香りが入り混じり、次々と客を引き寄せていた。
「ミトスちゃん! こっちよ!」
人混みの向こうから、ミトスを見つけたミリアが手を振る。今日は祭り仕様の赤いドレスに身を包み、片手には大きな串焼きを握っていた。
「朝からお肉ですか……?」
「祭りは食べてこそ正義なの。今日しか食べられないグルメだってあるんだから、目一杯楽しまなきゃ」
笑いながらミトスの腕を引き、屋台を次々と案内してくれる。揚げ菓子、果実酒、焼き魚、見たことのない色のスープ――。どれも魔族領独特の味付けで、不思議なのに美味しい。たまに人間の味付けが混ざり、ミトスの心をホッとさせる。どちらもなんとなく、愛しい味付けだと思った。
そうして気づけば、手には小さな紙袋や串がいくつも――
「ホラ、これも食べてみて? 絶対に美味しいから」
「わ、あつっ……でも、おいしい!」
そんな賑やかなやり取りを、少し離れたところからウィルが見ていた。人混みの中でも一際目立つその姿に、自然と周囲の視線が集まる。みな、彼が魔王であることは当然理解している。彼に集まるのは畏れではなく、羨望の眼差し。
――その中に、異質なものがあった。
通りの端、人混みの隙間から覗く数人の男たち。粗末だが軍服を思わせる衣装を着たその顔ぶれは、人間領の者だとすぐわかった。魔族領の祭りを冷ややかに眺め、その視線の先には――ミトス。
彼らの表情が、見知った顔を見つけた瞬間、歪んだ。軽蔑と嘲笑と、ほんの少しの驚きが混ざっている。
「……アイツ、本物か?」
「ありゃ間違いねぇよ。元勇者様だ」
声は人混みに紛れて届かない。だが、その口の動きだけで、何を言っているのか悟れた。ミトスの胸の奥に、冷たいものが落ちる。
ウィルがその気配を察したように、ゆっくりと男たちのほうへ視線を向けた。闇のように深い瞳が、凍りつくような光を帯びる。
ただ見るだけで、空気が一瞬で張り詰めた。
「……あの人たち、何者?」
小声で問うミトスに、ウィルは視線を逸らさず答える。
「人間領の商隊に紛れて来たらしい。だが……目当ては物じゃないだろう」
その言葉の裏にある意味を、ミトスは痛いほど理解していた。――けれど――祭りを台無しにしたくはなかった。ほんの少し唇を噛み、何も言わず歩みを進める。
ウィルはそっと彼女の腰に手を回し、その距離を縮める。そして、低い声で彼女の耳元で囁いた。
「心配するな。祭りはお前の……そして、この地に住む者たちの笑顔のためにある。邪魔をする者は、誰であれ……私は許さない」
その言葉に、胸の奥がジンと熱くなった。だが同時に――人間領から来た男たちの視線は、なおも彼女を追っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる
しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。
いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに……
しかしそこに現れたのは幼馴染で……?
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる