月に一度

チタン

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月に一度

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 オフィスの窓から見える空は赤焼けていたが、フロア内の照明が明るくて、私はそのことにしばらく気付かなかった。月末の経費精算などの事務作業に追われ、定時を過ぎていると気付いた頃には、既にオフィス内の人は疎らになり始めていた。
 前方では同僚たちがこれから飲みにいこうと言い合っていた。それを見て、今日が金曜日だったことを思い出す。それも今日は月末、今月の最終金曜日だ。
 私は急いで帰り支度を始めた。今日予定があったことを思い出したのだ。

「おい、ナルセ。お前もこれから一杯どうだ?」

 鞄に荷物を詰め終えたところで、後ろから声を掛けてきたのは、同じ部署に所属している同期のホリカワだった。

「いや、悪い。今日は予定があるんだ」

「ああ、今日は最終金曜日か。なんだっけ、絵画教室だっけか?」

「いいや、『陶芸教室』だよ」

「そっか、そりゃ残念だ。まあ無趣味なお前のほぼ唯一の趣味だもんな。呼び止めて悪かった」

「また今度埋め合わせるよ」

 足早にオフィスを出てエレベーターに乗った。
 急ぎ足で駅へ向かいながら、さっきのホリカワの言葉が何故か頭に残っていた。

「無趣味、か……」

 確かにそうだ。
 私にはこれといった趣味はない。陶芸教室はかろうじて休まず三年通っているが、そこまで熱心に取り組んでいるわけではない。かといって仕事が生き甲斐というわけでもないし、ましてや恋人もいない生活。少し味気ないが、今の生活は程々に忙しくて、気楽で、それなりに気に入っている。
 そして、そんな生活は今に始まったことではない。平凡な両親のもとに生まれ、平凡な学生時代を過ごした自分の半生の断片的な情景が、人の行き交う雑踏の中で、脳裏に浮かんでは消えた。
 思い返してみても、特に打ち込むものも熱中するものも無い人生だったと再認識するだけだったけれど、そんな人生を私自身は愛していた。
 駅に着き改札をくぐると、ちょうど目的の電車が発車する間際だった。これを逃していたら、降車後にスーツを着たままジョギングをする羽目になっていたから、少しホッとした。六月の末に、屋外をスーツで小走りするなんて考えたくもない。
 揺れる電車の車窓からは沈みかけた夕日が見えた。その情景が再び私をノスタルジックな気分に浸らせた。
 

 陶芸教室が開かれるのはオフィスから二駅のところにある雑居ビルの一角だった。「教室」と言っても、先生が一人、生徒一人でパーソナル・コーチングに近かった。
 先生はナカオさんという若い女性で、芸術大学を出た後、いくつかのコンテストで賞を取ったそうだ。そんな人でも作品を作るだけでは食べていけないのだから、世知辛いものだ。
 私は陶芸教室のある2階へと階段を上った。ビルにはエレベーターもあるが、この時期はエレベーターの中に籠もった蒸し暑い空気の不快感に耐えられず、いつも階段を使っている。
 階段を上がって右側に、マイクスピーカー付きのインターホンと小さな看板が掛けてあるだけの「受付」がある。インターホンのボタンを押すとすぐに先生が出た。

「ナルセです」

「ああ、ナルセさん。お待ちしてました。どうぞ、入ってきてください」

 インターホン越しに先生の澄んだ声が、古びた雑居ビルの廊下に響いた。毎度のことだが、この新しめのインターホンと先生だけが、この築十五年は経っているだろう雑居ビルに似つかわしくないように思えた。
 先生は垢抜けた見た目をしていて、言われなければとても陶芸家には見えない。むしろどこぞの企業で社長秘書をやっていると言われた方がしっくりくるくらいだ。しかし、その見た目とは裏腹などこか儚げな雰囲気が唯一芸術家らしさを感じさせた。
 扉の前に経つと私は少し緊張した。陶芸を教わりにきているとはいえ、若い女性と二人きり、密室で一時間過ごすのだ。三年通っているとはいえ、多少なり緊張する。
 扉を開く。鍵は開いていた。
 部屋へ一歩足を踏み入れる。
 その瞬間、私は
 「ここ」がどこで、「私」が誰で、「この世界」が何なのかを。

「今月もお待ちしていました。ああ、ふふ、今回もいつも通りですね、ナルセさん」

 扉を開けたまま立ち尽くしている私を見て、奥にいた女性が微笑んだ。彼女は私がさっきまで。この部屋は陶芸教室などではないし、当然、の一つもありはしない。

「……ああ、ええ、すみません。いつになっても慣れないものですね」

「そうでしょうね。ご自分の世界に対する認識が一瞬でひっくり返されるわけですから」

 そう、まさしく、その通りなのだ。
 さっきまで私は自分のことを2020年の日本に生きる平凡な会社員で、平凡な家庭に生まれて三十年近くの人生を生きてきたのだと信じて疑わなかった。当たり前のことだ。特に理由もなく、自分の記憶を根本から疑う者などいない。いるとしても、それは病的な懐疑主義者か、妄想に取り憑かれた精神病患者くらいのものだ。
 しかし、私の信じていた認識は全て偽物なのだとは知っている。私が過ごしている、この「2020年世界」は精巧にシュミレートされた仮想世界なのだ。つまり、この部屋も、さっきまで働いていたオフィスも、街を行き交う人々も、私自身すらも、巨大なCPUに記録された電子情報に過ぎない。
 そして、この世界では二十九歳として生きているが、私の実年齢は百四歳だ。現在、人類は脳を電子的にコンピュータ上に転写することで、寿命を三倍近く伸ばすことに成功していた。タンパク質から電子情報へと体を変え、大地の上から巨大なコンピュータ・マシンの上へ住処を変えた私たちは、各々が好む仮想世界を選び取り、そこで生活を送るようになっていた。
 この部屋は「2020年世界」における、私のために用意されたいわば『総合窓口』であり、目の前にいる彼女はさしづめこの窓口のオペレーターといったところだろう。

「それで今月はどうされます? 滞在を延長されますか?」

「ええ、このまま延長でお願いします」

 このオペレーターの質問に答えることが月に一度、ここを訪れる理由だった。この世界の滞在は一ヶ月ごとに更新する必要がある。普段はさっきまでのように、この世界が仮想現実であるということを忘れているから、ここから出たければ月に一度の延長申請をしないか、さもなくばこの世界において命を断つ以外に方法はない。

「今月でちょうどナルセさんがこの世界に住み始めてから三年経ちですね。どうです、たまには気分を変えてファンタジックな世界とかに移られてみては?」

「ははっ、魔法でドラゴンと戦ったり、光線銃をエイリアンにぶっ放しなり、ですか? 遠慮しておきます。戦ったりは性に合わないので」

 争いが嫌いなのは嘘ではない。ただそれ以上に、決死の思いで世界のために戦ったのに、その戦いがコンピュータ上で計算された作り物で、自分の戦いが全くの無意味だったことを、月に一度思い知らされるなんて考えたくもなかった。

も昔から人気ですが、それ以外にも最近はファンタジックな世界で平和にスローライフっていうのが人気なんですよ。結構、移られる方も増えてますね」

「いえ、やはり遠慮しておきます。ここでの暮らしが結構気に入ってるので。少なくともあと二十年ほどはここにいようかなと思います」

「気に入っていただけてるなら何よりですわ。では、しばらく移住は無しですね」

「ええ、不人気な世界かもしれませんがもうしばらくは」

 程々な刺激、程々な忙しさ、程々な充実感。
 今までいくつかの世界を巡ってきたが、今の世界はかなり気に入っている。普段の生活の中では不満や悩みもあったりするし、仕事も普段はてんで楽しくないが、それらも程よく刺激になっている。
 以前、労働の必要がなく、生命の危険やその他あらゆる不快が極力排除された世界に住んでいたことがある。一見ユートピアに感じられるその退廃的な世界は、実際暮らしてみると刺激が無さ過ぎて数ヶ月で耐えられなくなり、堪らず「総合窓口」で退去を申請した。あそこでは自分の中から生気が失われていくような感覚があった。
 どんな形であれ、労働やそれに代わる何かで時間を潰さないと、人間の人生はあまりにも長過ぎるらしい。

「あら、失礼しました。ここが不人気なんてことは全然ないんですよ。ほら、ナルセさんの職場の方にも一名、ナルセさん以外の『滞在者』がいますもの。ホリカワさんってかたなんですけど」

「へぇ、そうなんですか。ホリカワはAIじゃなかったのか。初めて知りました」

 自分以外にも「滞在者」がいる事は勿論認識していたが、そんなに身近にいるとは知らなかった。「滞在者」がこの世界に何十万人いるのかは知らないが、さっき街ですれ違った人々のほとんどはコンピュータが作り出したAIだ。
 そういえばホリカワも月に一度、テニスのレッスンを受けていると言っていた。テニススクールが彼にとっての「総合窓口」なんだろうか? それとも偶に一人で行っているという行きつけのバー?
 まあそんなことを考えても、この部屋を出た後には覚えていないのだから意味はない。そもそも今聞いた話だって、陶芸を教わっていたという記憶に置き換えられて、綺麗さっぱり忘れてしまうのだから。

「引き止めてしまってすみませんでした。延長申請の他にご用件が無ければ、今月の手続きも以上となります」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございました」

 私は入ってきた扉から、再び部屋の外へと出た。
 扉が閉め切られた瞬間、その見かけ以上に部屋と廊下は完全に隔絶された。
 雑居ビルを出ると、外はもう暗くなっていた。
 駅に向かい始めながら、私は今日の陶芸教室で教わったことを反芻した。粘土を成型する際の手つきを、空中で小さく再現しながら、先生に教わった事を一つ一つ思い返してみる。手のひらにはさっきまで粘土を触っていた感覚が鮮明に残っていた。
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