こいつ弟の彼女だから【R18】

まきします

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天童寺姉妹編

あの、なんでここに?

 
 がーーっと掃除機をかけていく。
 開け放たれた窓には涼しげに鳴る風鈴があり、またその先の空は綺麗に晴れている。連日のニュースで訴えているとおり、本日も熱中症対策必須の一日となるらしい。
 ちょっと塩とか入れただけの水がバカスカ売れるような景気のいい季節であり、しかし俺はというと夏を謳歌することなく黙々と掃除や後片づけをしていた。

 割れた窓、砕けたグラス、傾いたテーブル、などなどなど。リビングは荒れ果てており、床には血までこびりついているという……あれれ~おかしいぞ~? なんて口ぐせの小学生がひょっこり現れそうだ。
 別に真犯人が隠れているわけじゃない。これはみんな兄弟のしでかしたことであり、血を流した張本人である俺まで片付けをさせられている。

 ちなみに兄弟そろって不機嫌そうである。
 ごっしごっしと雑巾で血をぬぐっている克樹はというと拳を腫らしており物々しい。しかしそれ以上に俺はガーゼやら包帯やらで顔を覆われているのでさらにひどい。
 営業マンとしては失格だが、幸いなことにお盆休みの初日を迎えている。きっと休み明けには傷も目立たなくなっているだろう。

「兄貴、サボんな。そっちの床も拭けって、マジで。また茜にドヤされても知らないかんな」

 はいはい、分かりましたぁーと俺は肩をすくめた。
 昨夜、心情的には大好きな子を取り合って喧嘩した仲であり、しでかしたことの割に与えられた罰は部屋掃除という小学生レベルであることに驚く。
 もちろん恋心はまったく冷めていないので、克樹としても今すぐにでも俺をブン殴りたいと考えているだろう。

「お兄さん、資源ごみを出す曜日はいつですか?」

 しかし、ひょいと黒髪の子が顔を覗かせると俺たちの殺気は完全に消える。喧嘩は醜いというのは世間の常識だ。可愛い子がいたらそんな姿を見せたくないと思うのは男の性だろう。
 聞こえてます? と黒髪を揺らしながら小首を傾げられたので、少しだけ慌てながら口を開いた。

「うーん、もうお盆に入ったから当分回収に来ないよ。それよりこっちは危ないし俺たちでやるから、茜ちゃんは朝食を作ってくれないかな」
「俺、目玉焼きと納豆」
「綺麗に片づいてからでないと食事をするのは嫌です。さっさと掃除してください。さっさと」

 はぁーーい、と実にやる気のない声がリビングに響いた。
 一触即発の俺たちを踏みとどまらせているのは、エプロン姿の茜ちゃんだ。彼女もたくさん泣きはらしたので瞳はまだ赤く、また不機嫌そうに睨んでいるため、もしも喧嘩を再開したら本当に大変なことになる。

 しかし手持ちぶさたなこともあり、下準備だけは済ませておこうと考えたらしい。お掃除は任せましたからねと声をかけ、彼女はさっさと隣室に消えていった。
 まあしょうがない。散らかしたのは俺たちなのだし、黙って後片づけを済ませよう。そう考えながらガラス片をちり取りに集めていると、ふと弟から見られていることに気づく。そしてタオルで汗をぬぐいながらこう話しかけてきた。

「で、お互いにフラれるって、なんで?」
「知らねーよ……知らないが、それくらい分かれ。相手の気持ちをちゃんと考えたらお前も分かるようになる」

 んー、と生返事をしながら克樹は黙った。昨夜、彼女を意図せず泣かしてしまったことに反省しているのだろう。だから理由がまったく分からなくても、女性の気持ちを察しようと必死に考えているように見えた。
 こいつなりに成長しているんだな……という思いは5秒で引っくり返される。

「ヒントくれ、兄貴」
「……ひとつだけだぞ。彼女には大事な大事な妹さんがいるのを忘れるな」
「意味わかんね。ったく、うちの兄貴が暑さでおかしくなっちゃったぜー」
「は? なに言ってんのお前。昨日ので勝ったとか思ってんなら、その中途半端な金髪をブチ抜くぞ? 日本代表に選ばれたいなら、戦闘民族くらい真っ黄色に染めろ」

 は? あ? やんのかコラ、などと火花をバチバチ散らしていると、ふすまの隙間からじっと見つめている黒髪の女性がいて……ぱっと離れたね。ほら、喧嘩なんて野蛮だし健康に良くないから。
 茜ちゃんはむくれた顔で部屋に入ると、俺たち兄弟を睨みつけてからお盆をテーブルに乗せた。

「今度また喧嘩をしたら通報します。夏休みは留置所でお過ごください」
「「もうしませんっ!」」

 つんと顔を逸らして彼女は立ち去っていく。
 どうやら麦茶を置いていってくれたらしい。からんと氷を鳴らすそれに気づいて手に取ると、コップから垂れた水滴がテーブルにてんてんと広がる。
 よく冷えており、飲みこむと冷たい液体が喉を流れ落ちてゆく。ほてった身体に心地よく、ふうと思わず息を吐く。
 飛行機雲を生んでゆく青空を見あげ、風鈴が涼しげな音を立てる。世界はいつの間にか真夏になっていたらしい。
昨夜のできごとを思い出しながら、とても濃い青色をした空に俺は見とれた。

「兄貴ー、手を休めるなよー。俺はもう腹が減って死にそうだー。こら兄貴、聞いてんのか? さっさと返事を……ん?」

 しつこく投げかけられてくる声は、怪訝なものに変わる。弟は庭先を見つめており、遅れて俺も目線を追う。
 するとそこにはぱちくりと瞳を丸くする子がいて、チャイムを鳴らそうと指を伸ばしかけた姿勢で固まっていた。俺たちの顔を交互に眺め、そしておっかなびっくりという顔つきで庭先に歩いてくる。
 確かにびっくりしただろうな、俺がこんな顔だしさ。

 千夏ちゃんは最近お気に入りのワンピースを着ていた。
 目を真ん丸にして俺と克樹の顔を眺め、そして昨夜なにが起きたのかを察した風だった。
 掃除道具を手にしたまま見つめ合うことしばし。千夏ちゃんはこっそりと顔を近づけてきた。

「……で、どっちが勝ったの?」
「俺でぇーーっす!」

 克樹はすかさず親指を己に向け、勝ち誇った表情を浮かべた。その憎たらしい顔には思わず額からブチンという音がしそうだったが必死にこらえる。
 負けてねーよ! いや負けたけど……喧嘩で負けはしたが肝心の勝負はというと……茜ちゃんからお互いフラれたからトータルでは負けなのか……そうか。

「わーーっ、徹っ! 徹ーーっ!」

 膝を抱えてしょげていく俺に、わっと千夏ちゃんは抱きついてきた。そして背中をなでなでしながら、よく頑張ったよ、立派だったよと慰めてくれる。
 もうほんと千夏ちゃん可愛い。涙目になって頭を撫でてくれるし、すごく心配されていたのが伝わってくるんだ。
 そして耳元に手を置いて、こしょりと囁いてくる。

(元気だして。べつに悪いことばかりじゃないんだから。その、しょうがないからボクが元気づけてあげよっか?)

 ん、どういう意味?
 そう思って真顔で見つめると、彼女は瞳をまばたかせる。
 どうして分からないんだという表情であり「だから」と言いかけてから唇を開けたり閉じたりと忙しくさせ、そしてみるみる頬を赤く染めていった。

「だ、だから……もう知らないっ! 徹なんて熱中症で倒れちゃえばいいんだ! 搬送されちゃえ!」
「あー、兄貴、ちょっとトイレに行ってるから、ふたりでゆっくり話したら? ね、千夏ちゃんもそのほうがいいよね?」

 居心地悪そうな弟からの声に、ようやく今になって彼女の言葉の意味が分かった。振り向くと千夏ちゃんはワンピースの服をぎゅっと握っており、顔を逸らしたまま横目でちらりと見つめてくる。
 いやだって俺を元気づけるって、いったいどこまでのことを考えているの? この子はエロ小説を書いているから、想像力や知識、そして妄想の度合いが他の子と異なるんだよ?

 誰もなにも返事をしてくれなくて、すごすご克樹は立ち去っていく。それを眺めながらようやく彼女は口を開いた。

「と、徹。どんなことをするか想像した?」
「え? いや、まあ、男ですので妄想くらいは」

 ふうんと呟き、瞳だけ忙しく周囲を眺めながら近づいてくる。
 芝生を踏む靴はスニーカーではなく、女の子らしいものであり似合っている。以前は男みたいだなと思ったのに、確かにこの短期間でみるみる姿を変えている気がした。
 そして彼女は再び、俺の耳元に囁いてくる。

「じゃあ、その妄想したことぜんぶ、だよ」

 ぶるっと思わず震えた。
 こしょりと鼓膜に直接届くような声は、くすぐったくて子供みたいだなと思う。しかし甘い女の子の香りを漂わせており、また伝えられたメッセージは色気が強すぎた。
 やっぱり天童寺の娘だなと思う。油断していると強制的に勃起させられかねない色気を放つんだ。至近距離で確実に脳髄を貫いてくる。

 同時にゾクリと背筋が凍る。恐る恐る振り返ると、襖の隙間から包丁と豆腐パックを手にした黒髪の子がじっと覗いていて……掃除をサボってしまい本当にごめんなさいって思ったよ。



 焼き魚と白米、それにお漬物などなど朝らしい食事が並んでいて、不覚にも胸がジンとした。
 ああー、ちゃんとした朝食、それも茜ちゃんの手料理だなんて。はーー、心に沁みるーー。

「あ、もう少し冷ましたほうが……傷に沁みません?」
「大丈夫、それよりも美味しい。茜ちゃんってお料理が好きなの?」

 そう話しかけると、すぐ近くで彼女の頬が赤く染まっていく。そして黒髪を耳にかけると、反対側に視線を逸らされた。

「し、知りません。親がいないときに仕方なく作っていただけですから」

 褒めたのになぜむくれてしまうのだろう。
 ふと、昨日よりもずっと表情の変化が多いことに気づく。
 視線を感じているのか箸づかいをギクシャクさせながら、彼女はどうにか焼き魚を頬張る。そしてまだ見られていることに気づいて、大して噛んでいないのにごくんっと飲み込んだ。
 目線だけで「あまり見ないでください」とやんわりたしなめられるが、うなじまで赤くさせてゆく姿には不思議と色気を感じさせる。

 大きな瞳をしているので感情が伝わりやすく、なぜかそんな彼女から目を離せない。なんというか、こんなに可愛かったっけ、と間抜けなことを思うんだ。
 それと反比例するようにこちらを見る弟の目は、まるで……そうだな、ゴミを見るかのようだった。

「どうした、克樹。早く食え」
「克樹君、 残したら駄目よ」
「……こ、こいつらはなんで俺の苦悩が分かんねーのかな。ほ、本当に俺と同じ人間なのか!?」

 そう声をブルブル震わせていたが、何を言わんとしているのかまるで分からない。俺と茜ちゃんは揃って小首を傾げていたのだが、それを見る千夏ちゃんはというと大きなため息をしていた。

「克樹、近い将来きっとこうなるよ」
「やめろよ、絶対にやめてくれ! なんだよもー、俺たち二人ともフラれたはずだろー……」

 そう嘆きながら、克樹は背もたれに身体を預けた。
 昨夜、俺たちは彼女の口からきっぱりと別れを告げられている。
 茜ちゃんはどうしてそんな答えを出したのか。そう思いながらそっと彼女に視線を向ける。合わさった瞳はわずかに揺れ、そして俺から離れていった。
 落ち込むでもなく、うつむくでもなく、茜ちゃんは黙々と食事をする。その冷静な瞳は意思の強さを物語っており、誰が何を言っても変わらないと感じた。

 克樹とも俺とも決別した理由は言わずとも分かる。大事な妹を持つ彼女は、俺たち兄弟がまともに顔を合わせられなくなることを望まなかった。つい先ほど険悪な空気になったように、片方がくっつけば片方が苦しむ。だから今回の決定は、克樹、茜ちゃん、そして俺の三人で苦しみを共有するという結論にしたのだろう。
 誰とも目線を合わせないまま、彼女はぽつりと呟く。

「ペンションの件、お断りをしましょう」

 反論はひとつもない。
 夢見るほど楽しみにしていた海の見えるペンションは、本当の夢になって消えていく。それはもう誰にも止められない。否定の言葉をひとつ挟むだけで済むというのに、誰一人としてそれを口にできなかった。
 そして賛成も反対もない無言のなかで彼女の提案は決定された。

 食卓にいるみんなを千夏ちゃんは眺め、それから小さな溜息をする。大人って面倒くさいなと言いたげであり、特に茜ちゃんに対して文句を言いたそうに見えた。

「分かった。じゃあボクから叔母さんに連絡しておくよ。今日はいったん帰るから、みんなはお掃除がんばって」

 そう言いながら千夏ちゃんは椅子から立ち上がる。
 せっかく来てくれたのだが、確かにこの状況では執筆もできないだろう。姉が頷くのを見て、ばいばいと手を振りながら少女は去っていった。

 まあしょうがない。
 こんなものだ。絵に描いた餅ではないが、残された俺たち三人はそれぞれで幻となって消えた海の光景を思う。
 きっとこうして過ごしたろうなとか、花火をする予定だったのになとか、そういうすぐに想像できる光景を。
 ジージーとセミが鳴き始めて、夏休みの新たな一日は始まった。



 がたたん、がたたん。

 頬杖をついて、俺は車窓から青空を見あげている。
 小さな窓には遠くまで田んぼが広がっているのだが、別に見とれていたわけじゃない。呆然としていたんだ。

「千夏ちゃん、なんで俺は新幹線に乗ってるの?」

 そう隣のシートでノートパソコンを打ち続けている彼女に問いかける。相変わらず表情はむっすりしており不機嫌なままだ。
 おかしいな。資料が欲しいと言われて、駅前で待ち合わせをしたのは覚えている。しかし当たり前のように新幹線の切符を手渡されて、ホームに鳴り響くベル音に「はやく」と手を引かれていまに至る。うん、やっぱりぜんぜん分からないね。
 と、そのときパタンとノートパソコンは閉じられる。しかし顔をあげた千夏ちゃんは、俺の質問にまったく答えてくれなかった。

「あ、忘れてた。徹、出発の記念撮影をしよう」

 えー、唐突ですね。
 自撮りモードにすると頬をくっつけてきて、力無いピースを向けるとシャッター音が車内に響く。
 周囲は観光客でごった返しており、お盆時期を満喫しようとする家族で溢れている。だれもが休暇に浮かれていて、俺たちの記念撮影など見向きもされない。

 千夏ちゃんはというと写真の撮れ映えを確かめており、ぴこんとSNSにアップしていた。振り返ってくる表情は笑顔であり「楽しみ」と言われても……なんのこっちゃである。
 唐突で気まぐれというのは女性の特権だ。いそいそと身体を寄せてきて、先ほどまで操作していたノートパソコン画面を見せてくれる。

「徹、徹、ついに小説をアップするよ」

 そこには小説投稿サイトが表示されていて「おー」と俺は声をあげた。エロ小説ということで若干のいかがわしさがあるデザインであり、広告バナーもターゲットに合わされているため肌色成分が濃い。
 普通なら顔をしかめるところだが、しかし小説家を目指す彼女にとっては通らなければならない道でもある。

「おー、ついに千夏先生がエロデビューするのか」
「ば、ばかっ、大きな声で言わないの。ほら、もうちょっと寄って」

 そう言いながら腕を引かれて背後を抱く姿勢になる。いったいなにをするのかと思ったら脇の下に腕を挟まれた。ぬくもりと柔肌に包まれて、わずかに横乳の圧を感じると……なんでかな、いかがわしさが増していくんだけど。

「せーので投稿ボタンを押そ? いままでの成績は感想ゼロ、総合ポイントも35が限界。超人気作とまではいかなくても、手ごたえだけは欲しいんだ」

「俺が力になれるかは分からないけど、ファンとして応援する。がんばれ、千夏ちゃん。負けるなよ」

 どきどきしながら投稿画面を見つめることしばし。
 やがて深呼吸を終えた彼女と共に、ぽちっとマウスを押した。すぐに「投稿されました」という赤い文字が表示されて、ようやく俺の腕は解放された。

 今日の千夏ちゃんは身体の線が見えるぴったりしたシャツを着ており、下は丈の短いパンツを選んでいる。その太もものまぶしさには眩暈を起こしそうだった。
 また大きな鞄を手にしており、夏旅行を楽しむ気満々に見える。思えばこの大荷物を見た時点で、おかしいと気づけば良かった。

「それで、今はどこに向かってるの?」
「ペンションだよ。叔母さんに連絡するとは言ったけど、キャンセルするとは言ってないし」

 軽快にタイピング音を鳴らしながら、あっけらかんと彼女はそう言う。悪びれもしない態度に、思わず毒気が抜かれてしまった。

「ま、そんなことだろうと思ったよ。それよりも俺にまで内緒にしていた理由は?」
「ふふ、ちょっと面白いことを思いついたの。どうなるのか試しに実験してみたくなって」

 やっぱり女の子ってよく分からない。
 答えを教えてくれないし、チョコのお菓子を鞄から取り出して「はい、あーん」と指を近づけてくる。
 甘い香りに負けたわけではないが、本日は待ちに待ったお盆休みでもある。ぱくんと躊躇せず食べると、女の子はおかしそうに笑ってくれた。

 ◆

 天童寺 茜は、音楽をかけながら夏休みの宿題をしていた。
 肌を露わにした過ごしやすい室内着で、水滴の浮いた麦茶のコップを手に取る。そして窓の外の青空を眺めながら冷たい液体を飲みこんだ。
 ぷあ、と息をする。さっぱりしていて生き返るし、夏の味だなとも思う。甘いジュースも好きだけど、落ち着きのある日本茶のほうが子供のころから好きだった。

「あの子、本当に大丈夫かしら……」

 ふとつぶやいたのは千夏のことだ。
 初日から宣言していた通り、夏休みの宿題にまったく手をつけていない。あの膨大な量を手伝ってもらうと言っていたけれど、彼は最近の学校事情を知っているのだろうか。
 最近では連休時の宿題の量が増しており、それは学生全員の学力をあげるためだと聞く。昔はゆったりと夏休みを楽しめたらしく、最終日になって慌てて手をつけても間に合っていたというのだから羨ましいのひとことだ。

 うーんと伸びをすると、固まっていた関節がパキッと鳴る。すこし目が覚めたので、もう少し頑張ろうとページをめくったときにSNSの着信音が響いた。
 机の端にあったスマホを眺めると、見慣れたふたりの姿があって……んっ、と二度見をした。いや、三度見までしてから、ようやく慌てた手つきで画面を表示する。
 そこには写真と共に、こう書かれていた。

『徹と初体験してくるね!』

 がたっと思わず立ち上がる。
 ゾウムシがアップにされたアイコンは、ずっと前から千夏が愛用していたものだ。恐らくなりすましの類ではない。
 意味もなく右に左に部屋を眺め、それから勢いよくスマホを操作する。位置情報を探るアプリを登録しており、千夏がどこにいるのか調べられるはずだ。
 やはり表示されたのは東京から遠く離れた地だと分かり、顔面を蒼白にさせながら部屋を飛び出した。

「茜、走ったら危ないでしょう」

 階段を降りていくと、ちょうど母が姿を現すところだった。
 子供をふたり生んでおきながら肌は瑞々しく、黒髪を肩のあたりで刈り揃えていて清潔感のある人だ。
 母が若く見えて小さなころは自慢だった。しかし中学、高校と変わっても見た目がまるで変わっていないのは……うすら寒い気持ちになる。
 もしかしたら遺伝子が違うのかもしれない。などという突拍子のないことを真面目に考えたこともある。
 呆れたような目で見られていると気づき、慌てて息を整えようとしたがうまくいかなかった。それは母のひとことが原因だ。

「あら、そういえばあなた旅行は? 千夏と一緒じゃなかったの?」

 母の言葉に、ぎょっと顔がこわばった。
 瞳を真ん丸にする様子に小首を傾げられ、それから「もしかして寝坊?」と意味のわからないことを言ってくる。

 言葉の意味をようやく理解して、さーっと青ざめていくのを感じた。
 いま千夏は彼と共にペンションに向かっている。メッセージの通り、初体験を済ませるために。
 海を眺められるペンションは、静かで落ち着いた場所だ。ふたりきりで会話をし、ゆったりと落ち着いた空気のなか、後ろから発育途中の乳房を触れられる光景を思い……。

「あ、ちょっと茜、どこに行くの!」

 母の声を背に受けながら、茜は再び駆けだした。

 ◆

 一転して、辺りはベンチだ。
 駅の待合室で両脚を伸ばして、ぼーっとしながら千夏ちゃんのタイピング音を聞き続ける。
 たまに音が途絶えるときは、展開に行き詰っているときだ。本当に困ったときは彼女から呼ばれて内容を読む。そして気になるところや、こういう展開はどうだというアイデアをぽんぽんぶつけると、千夏ちゃんの頭のなかで新たに組み立てられてからタイピングが再開される。

 はー、しかし文章を打つのが早いな。これだけ文字を打てるのはある意味で才能な気がするけれど、実際はどうなのだろう。
 いやいや、それよりも気になるのは今の状況だ。いったいどうしてこんな場所で、ぼけっとしなければならないのか。
 そう思いながら隣を見ると、ちょうど千夏ちゃんの目と合った。

「結局、なにも変わっていないのに腹が立つんだ」
「変わっていないって、俺たちの関係のことか?」

 こくりと少女は頷いてくる。
 どうやら会話に集中したいらしくノートパソコンを閉じ、じっと俺を見つめてきた。

「浮気なんて世の中にゴロゴロ転がってるし、アンケートでも『絶対に浮気しない』と答えた男はたったの25%だよ? なのにみんなで仲良く別れるとかさ!」

 うーん、世の中のアンケートをあんまり信用したら駄目だよ?
 でも昨夜、きっぱりと茜ちゃんが「ごめんなさい」と頭を下げてくれて、俺はやっと落ち着いたんだ。想いを伝えることができて、彼女にも分かってもらえて、そしてちゃんと断られた。未練なんてあるに決まっているけど、これで恋心に区切りをつけられたんだ。

「変な話だけど、ほっとした。あんなにひどいことをしたのに普通の告白ができて」
「怒ってるのは、そういう状況でいいと思ってるお姉ちゃんのこと。それと人でなしのくせに人がいい徹も。お互い他人になろうとする状況もそう。だからもうボクが取っちゃおうかなって」

 その言葉は、身体を近づけながら千夏ちゃんは囁いてくる。膝の上に横座りになり、こつんと額をあごに当ててくる。
 ちょっとずつ顔を近づけあうだけで唇が触れあう距離だ。呼吸も聞こえてくるし、預けられる乳房の重みには真夏日の体温を感じられる。

「ね、ボクで妄想したことある?」
「妄想、とは……?」
「だからいろんな妄想。日やけあとのこととか、あとは最近よく見ているボクのお胸とかぁ、そういうの」

 うっと呻く。この子は囁き声になると、ちょっと小悪魔風になるんだ。まだ経験もしていないのに、男のことを知り始めている。人の欲望を形にして、文字に起こしている彼女ならきっと俺のことを理解できるだろう。
 ぺろ、と舐めてきた。囁き声はいつのまにか舌先に変わり、耳穴をじっくり舐めてくる。は、は、と吐息を混ぜながら、キスの音を繰り返されると……ずりっとお尻で硬いところをこすられて、思わず呻く。

「ほら、そういう妄想。聞かせて。そうしたら形にしてあげる」

 ぼそぼそと直接鼓膜を震わせるような声は止まらない。
 はためからは少女がふざけているだけの光景だろうけど、内情はまったく別だ。とろっと身体の奥が溶けてくるのを感じるし、彼女もきっとそうだと思う。
 とろっと溶けて、お尻を中心に熱を高めて、また欲情を誘う声で囁く。

「ね、ボクにだって奪える余地があるってこと。だからお姉ちゃんは本気になるし、怖くて踏み出せなかった一歩を進められるかも」

 正面に顔を戻すと、にこっと彼女は笑う。

「前に言ったこと覚えてる? ボクのものに絶対お姉ちゃんは手を出さないっていうアレ」
「そ、そういえば言っていたかな」

 耳を触れてみるとまだ湿っており、彼女の唾液にすこしだけ動揺した返事をする。
 たぶんその言葉の意味は、大事な妹さんに嫌われたくないからだ。とても大切な妹でおり、そんな妹思いの彼女だからこそ本当に怒られることには手を出さない。

「分かんないよ。もしかしたら邪魔をしに追いかけてくるかも。ボクに嫌われても構わないと思ったら、だけど」

 そんな馬鹿なと思う。嬉しそうに妹自慢をしてくるくらいだし、そもそもあの茜ちゃんが俺のことをそこまで執着するとは思えない。
 だけど千夏ちゃんから指さされた方向を見て、俺は目を疑った。そこには大きな旅行鞄を引きずって、ゼーゼーと荒い息をして歩く彼女がいたんだ。
 髪の毛はほつれており、かなり急いだらしく汗がたくさん浮いている。肩を出すノースリーブと長めのスカートは普段通りの服装だが、その表情は俺も初めて見るくらい焦っていた。

「おーーい、お姉ちゃーーん!」

 ぴたっと彼女は立ち止まり、駅をきょろきょろ見回す。そしてようやく俺たちに気がつくと、呆然としているのかその場を一歩も動かない。
 千夏ちゃんと手をつないでこちらから近づいていくと、やっぱり彼女はゼーゼーという荒い息を整えている最中だった。

「……え、あの、なんでここに……ペンション?」

 取り乱した女性を笑うのは失礼だ。しかしこのときはなぜか愛くるしく感じて、暑苦しくて嫌だろうけど抱きしめたかった。たぶん彼女の汗はいい匂いがするだろうし。
 汗で張りついていた髪を指ですくい、そして疲れた顔で彼女が見あげてくる。そして観念したような表情をし、化粧もしていない唇を開かせた。

「あの、薄々気づかれているかもしれませんが、私、徹さんのことを好きみたいです……知ってました?」

 なんともまあ、映画や漫画と違ったユーモアにあふれる告白だ。大きな瞳で周囲を眺めながら、疲れ果てた口調で告げられるとは思わなかった。でもそんなまったく余裕のない告白でも、彼女らしいと感じて胸の奥がジンとした。
 好きだと思ってくれているのが伝わって、なんでかな、こんなに人通りが多いのに泣きそうになるんだ。

「茜さん、俺も好きなんです。出会ったときから」

 雑踏に消えてしまいそうな声は、しかし彼女の瞳を見開かせる。もしかしたらずっとずっと胸に溜め続けていた言葉だったからかもしれない。これまでに唇や肌を通じてたくさん伝えたけれど、いまお互いの言葉で交わせられた。
 そして汗をたくさん浮かせて疲れきった顔で、にっこりと彼女は笑ってくれる。

 海の見えるペンションはもう目の前だ。
 ほんのすこし歩くだけで、夢に思い浮かべていた光景をこの目で見れる。やっぱり現実になっても信じられないし、すごく勝手な言葉かもしれないけれど、夏ってすごくいい季節だなと俺は思った。



 ―― 天童寺姉妹の章 END ――
感想 23

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