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姉妹誘惑のお宿編
克樹君には連絡しました?
バスはもう幾度目か分からないカーブをゆったりと曲がっていく。
海と山のあいだにどうにかこうにか道を作ったという風であり、絶えずぐねぐねと曲がり続ける。
山のあいだときどき青い海が見えて、そのたびに千夏ちゃんは歓声をあげる。一番眺めの良い窓際を占領し、そして山に阻まれて海が見えなくなると、お姉さんとお菓子を交換し合う。それを微笑ましく見ていたが、どうやら俺にも幸せをおすそわけしてくれるようだ。
「お兄さんもどうぞ」
そう言ってチョコレートのお菓子を向けてくれたので、手を差し出す。するとゴロロッとたくさん出てきてしまい、こぼさないよう慌てて一緒に押さえる。
手の温もりが伝わって、すぐ目の前には彼女がいる。
ふっとお互いに頬が緩んで、はははと声を出して笑った。どうやら俺も茜ちゃんも旅行気分で浮かれているらしい。ひとしきり笑い終えると、お互いにひとつずつお菓子を頬張った。うん、甘くて美味しい。
窓から流れてくる風も普段と違って潮の香りがする。水着姿のまま通りを歩く人を眺めながら口を開いた。
「茜ちゃんの叔母さんが経営しているペンションは、こっちの東伊豆だったんだね。行き先も聞かされず新幹線に乗ったから、どこに辿り着くのかと思ったよ」
「あら千夏、お兄さんに言っていなかったの?」
「えー、場所くらいスマホを見ればわかるでしょ。ぼーっとしているほうが悪いんじゃな……」
言いかけた文句は右手の景色に吸い込まれるよう消えてしまう。そこには青い海、そして一面の白浜が広がっていたんだ。わあっと少女は歓声をあげた。
伊豆下田の白浜海岸といえば東海地方有数のビーチだ。夏休みのさらにはお盆休みとあって、人がたくさんいて賑わっている。
そしてまったく旅行慣れしていない俺は、がたっと腰をあげた。
「おおーー、海だ! すごい綺麗なところだね!」
「ボクよりも楽しんでるじゃん。徹ってあんまり旅行しないの?」
「ああ、そんな余裕は無いからな。この時期はどこも高いし……」
と言いかけたところで、前のめりになりすぎて茜ちゃんの顔と距離が近いことに気がついた。ふと横を見ると瞳を大きくする子がいて、しかし出会ったときから彼女は距離感を間違えている。距離を空けたりせず、にっこりと笑いかけてきた。
「ふふっ、なんだか私まで楽しくなってきました。二人の浮かれている気分が伝わってくるせいでしょうね」
「え、お姉ちゃんこそずっと浮かれてたよ。ウキウキして歩いていたのとか本当に自分で気づいてないの? ずっと笑ってるし」
まさか、と言いたそうな表情で彼女は己の頬を指先で触る。
いつの間にか浮かべている笑みと、そわそわしながら海を覗き込んでいた様子、そして買い過ぎたお菓子の山を見て……さっと瞳を逸らす。
俺と千夏ちゃんからの視線をじーっと受け続けて、ようやく観念したのだろう。ちらっと大きな瞳をこちらに向けると、膝元に置いていた麦わら帽子で赤い顔を隠してゆく。
「わ、私だって学生です。旅行先で浮かれるのだって当然なんです」
きりっとした眉の形をして文句を言ってくるが、やはり浮かれている気分では反抗的な表情なんて長続きしない。くつくつとこらえきれずに笑みがこぼれて、おかしそうにまた声を出して笑う。
真珠のように綺麗な歯が並んでいて、くったくなく笑う姿。そして背後には青い海が広がっていて、本当にまぶしいですねと俺は月並みなことを思ったよ。
白浜神社というバス停で降りると、先ほどのビーチは目と鼻の先だ。
辺りには食堂や宿の看板がたくさんあって、そこの売店では観光客向けのものを店先に並べている。ぺかぺかの明るい浮輪とかお酒とかタオルとか、そういうやつね。
うーん、ローカルだ。錆びた郵便ポストといい、どこか昭和の匂いが残っていて昔ながらの観光地という感じがする。
天童寺姉妹のペンションということで、もっとファンタジーでウサギが駆けまわっているような光景を想像していたけれど、同じ日本なんだからこれくらいで当然だ。
そう思いながら景色を眺めていると、ふっと笑いながら見あげてくる子がいた。
「徹さん、荷物を持ちましょうか?」
「いや、ぜんぜん平気。だれかさんが俺の荷造りもさせてくれなかったし手持ちぶさたなんだ」
そう言いながら先導する子を見ると、千夏ちゃんは「ボク知らないー」と言いながら坂道を駆けあがっていく。こらっとお姉さんは怒り、それから溜息をひとつしてから並んで歩き出した。
ノートパソコン入りのカバンはずしりと重く、おまけに今日の日射は強い。潮の香りが肌にまとわりついており、坂道を見ただけでげんなりしちゃう。
あちこちお店は並んでいるけれど、海岸沿いから一歩奥に入ると樹木がたくさん並んでいて日陰も多く、また風もある。気温の割にそう暑さを感じずに済みそうだ。
「徹さん、克樹君には連絡しました?」
「あ、まずい。すっかり忘れてた。ペンションについたら俺たちが到着しているって連絡しよう。あいつきっと怒るだろうなー」
ここまでずっとバタバタしていたし、茜ちゃんとはついさっき合流したばかりだ。出発が遅かったので日が暮れる前にと移動を急いでいるうち、肝心の弟に連絡を怠ってしまっていた。
ふふ、と笑われた。焦っている様子を見てのものだろうけど、このあいだ克樹と喧嘩をした夜のときよりも表情が柔らかい。肩がくっついてしまいそうな距離で、化粧をしていない唇が開かれる。
「二人きりで外を歩くなんて久しぶりですね」
ん、そういえばそうか。長く接していたけれど、こうして二人で並んで歩いた記憶があまり無い。珈琲メーカーの買い物をしたときくらいか?
大きめの麦わら帽子をかぶり、日射を防いでいる茜ちゃんは透き通るような肌をしていて見とれてしまう。
しばらく俺を見ていた彼女は、ふっとまた笑った。
「少し明るめの服を選ぶようになったんですね。似合っていますし大学生に見えますよ」
「う、前に茜ちゃんから言われたのが気になってさ。男の若づくりなんて変だけど、隣に立ってもおかしくないようになりたくて」
意外だったのか、じっと見つめられてしまった。
考えてみたらおかしな話だ。二人で並んで歩くことなんて早々ないのに、そのときのための準備をしていたなんて。変な目で見られるに決まっているし、こんなこと言わなければ良かったなと軽く後悔してしまう。
しばらく茜ちゃんは悩み、そしてこう声をかけてきた。
「かっこいいですよ、徹さん」
は? と間抜けな声をあげかけた。
すると彼女はまだ俺を見つめており、もう一度「本当です」と言ってくれるから……あっ、まずい。顔が熱い。おまけに荷物があって顔を隠せないものだから、口がパクパクしてしまう。
そんな表情さえ楽しまれているらしく、大きな瞳に笑みを浮かべながら彼女も頬をほんのりと赤くしていく。
茜ちゃんも体温の変化を感じたのだろうか。ぱっと瞳を逸らされて、だんだん顔を赤くしていくのは……なんだか知らないけど悶え死にそう! 静まれ、俺の心臓よ! ちょと服を褒められただけで、甘酸っぱい気持ちになったりしちゃダメ!
「……世の男たちが勘違いして暴走する気持ちが分かったよ」
「え、なんですかそれ? 徹さんってたまに変なことを言いますよね」
いーや、他のやつも同じことを言われたらきっとこうなるぞ。褒め言葉は話半分の平常心で受け止められるようにならないとな。でないといつか俺も「この子、俺のこと好きだわ」とか言い出しかねない。
いや、違うのか。
ついさっき、彼女は本心を言ってくれた。
それは俺のことを少なからず想ってくれているという、夢と疑うほど嬉しい言葉を伝えてくれたんだ。ただの冗談だったり、俺を気づかって嘘をついたんじゃないかと考えてしまうけど。
街路樹の影に包まれて、体感気温は少しだけ下がる。そんなときに俺は足を止めた。
「茜ちゃん」
「はい?」
互いに見つめあったまま彼女も歩みを止める。
辺りにはたくさんのセミがジージー鳴いていて、日本独特のもあっとした湿度に包まれている。おまけにたくさんの荷物を持っているから、こんなことを聞くのは少しばかり気が引ける。
「俺のことを好きって、本当なの?」
彼女は目を見開いて、そのまましばらく動かなかった。
右を見て、左を見て、なにをしているんだろうと思っていたときに、帽子を脱ぎながら美しい顔が近づいてくる。
はあっ、という吐息を感じた直後、ふかりと柔らかな唇に触れられて……暑さもセミの声もなにもかもが吹き飛んだ。膝から崩れ落ちそうだったし、両手の鞄をドサッと手放しそうだ。
離れた彼女は親指でおれの口をぬぐい、そして赤くなっていく顔を一瞬だけ見せてから背を向ける。そしてなにも言わずに坂道を歩きだしてしまった。
「え、あ、茜ちゃん?」
「そんないじわるなことを言う人には、もう返事をしません」
さっさと歩いていく彼女に慌てて、荷物を持ち直すと俺も後を追っていく。でも彼女は何度名前を呼んでも振り返ってくれなくて、追いつきかけるとまた足を速めてしまう。
それでもまだ俺は信じられない。こんなに美しい人が、人目のある場所で堂々と口づけをしてくれたことに。それは夢じゃないかと思うくらい現実感が足りなくて、たまに彼女が思わせぶりな表情で振り返ってくれるだけで舞い上がりそうになる。
つい先日、まだ告白さえしていない俺は彼女に別れを告げた。横恋慕から身を引かなければならないと思うほど茜ちゃんの変化を感じ、またそれが彼女自身を傷つけると思ったから。
身体だけの付き合いを終え、二度と触れないことを固く誓い、それを彼女は了承した。弟との交際を優先したんだ、お互いに。
しかし昨夜、嵐のような変化があった。
それは彼女が弟を拒絶するというものであり、また俺のこれまでのひどい行為を暴露するものだ。
克樹はひどいショックを受けて、俺をなじり、また殴りつけた。もう二度と兄弟の仲など修復できないと思うほどに激しく。その傷跡はまだ包帯やガーゼに包まれている。
だけどその悪い予想は裏切られた。
振り返ってくる彼女は、いつの間にか怒りを鎮めてくれていた。いつもの表情であり、肩を出したノースリーブのシャツが日を浴びていてとても眩しい。
辿り着くまで待ってくれている彼女に一歩ずつ足を進め、そして辿り着いても距離をもう少しだけ埋める。彼女の顔に影が落ち、そして唇同士が重なるほどの近距離まで。
「あ……」
ジーワージーワとたくさんのセミの鳴き声に包まれながら、そっと彼女は瞳を閉じる。再び触れた唇は、しっとりと濡れていて柔らかい。甘い香りを漂わせ、そして迎えるように彼女の手が肩に乗ってきた。
もう二度とまともに話をできないと思ったんだ、昨日の夜は。でも大好きな茜ちゃんの香りに包まれて、生きていて本当に良かったと思う。そっと離れた唇に、そんな馬鹿なことを俺は思う。
俺と克樹はお互いにフラれ、しかし今はなぜか彼女といる。
不思議なことばっかりだ。それでも視界いっぱいに美しい顔があることを感謝をしている。あの日、勇気を出して告白できたのは俺の力じゃないからだ。
彼女のこと、克樹のこと、そして世間体などを気にして俺は一歩も動けなかった。八方ふさがりのひどい状況だと嘆くばかりで、なにも行動できなかった。
それを変えたのは「好きなら好きと言え」というとても単純で、また分かりやすい弟の言葉があったからだ。
もしも俺が同じ立場だったら同じことを言えるか分からない。殴りつけて追い返すかもしれない。それくらい愛している人が遠ざかっていく苦しみをよく知っているから。
美しい彼女は瞳をまたたかせる。
日射をはね返す肌はまぶしいくらいで、長い黒髪を横に束ねており避暑地に訪れたお嬢様然としている。つい先ほどその唇に触れたことさえ信じられない。
しかし彼女は瞬時に不機嫌そうな顔をして、俺を驚かせる。そして頬をむくれさせながらこう告げてくる。
「徹さん、いいかげん認めてくれませんか?」
「はい?」
彼女の言わんとすることがまるで分からない。がしっと荷物を持ったままの腕にしがみついてくると、引きずられるように歩き始める。
尚も不機嫌そうな顔で見あげながら、彼女は言葉の続きを教えてくれた。
「徹さんはかっこいいんです」
そうはっきりと宣言されてしまい勢いに思わず頷く。
しかしそんなことを言われたら、俺はこう返事をするしかない。
「茜ちゃんって本当に可愛いよね」
「ばっ、なにを言ってるんです! いまはお兄さんの話で……それはまあ、多少は自分でも分かっていますケド」
「あ、やっぱり自覚はあるんだ。なら気持ちは分かってもらえると思うけど、可愛い人から褒められたら男なんて単純だから舞い上がっちゃうよ?」
「ふーん、舞い上がりました? かっこいい徹さん?」
「それはもう、可愛い茜ちゃん」
じっと見つめ合うことしばし。くつくつと苦しそうに彼女はお腹をかかえて、それから口を開けて笑ってくれる。眩しいくらいの笑顔であり、やっぱり可愛いなと単純な男としては思わざるをえない。
そんなときに坂の上から大きな声が聞こえてきた。見あげると千夏ちゃんは道の柵を掴んで、こう言っていたんだ。
「お姉ちゃん、大変っ! ペンションが無くなってる!」
はいー?
たっぷり数秒間ほど俺たちは停止して、それから茜ちゃんは駆けだした。荷物を持った俺も、えっさほっさと上り始める。
なんだか知らんが東伊豆のペンションは早くも危機を迎えたらしい。
海と山のあいだにどうにかこうにか道を作ったという風であり、絶えずぐねぐねと曲がり続ける。
山のあいだときどき青い海が見えて、そのたびに千夏ちゃんは歓声をあげる。一番眺めの良い窓際を占領し、そして山に阻まれて海が見えなくなると、お姉さんとお菓子を交換し合う。それを微笑ましく見ていたが、どうやら俺にも幸せをおすそわけしてくれるようだ。
「お兄さんもどうぞ」
そう言ってチョコレートのお菓子を向けてくれたので、手を差し出す。するとゴロロッとたくさん出てきてしまい、こぼさないよう慌てて一緒に押さえる。
手の温もりが伝わって、すぐ目の前には彼女がいる。
ふっとお互いに頬が緩んで、はははと声を出して笑った。どうやら俺も茜ちゃんも旅行気分で浮かれているらしい。ひとしきり笑い終えると、お互いにひとつずつお菓子を頬張った。うん、甘くて美味しい。
窓から流れてくる風も普段と違って潮の香りがする。水着姿のまま通りを歩く人を眺めながら口を開いた。
「茜ちゃんの叔母さんが経営しているペンションは、こっちの東伊豆だったんだね。行き先も聞かされず新幹線に乗ったから、どこに辿り着くのかと思ったよ」
「あら千夏、お兄さんに言っていなかったの?」
「えー、場所くらいスマホを見ればわかるでしょ。ぼーっとしているほうが悪いんじゃな……」
言いかけた文句は右手の景色に吸い込まれるよう消えてしまう。そこには青い海、そして一面の白浜が広がっていたんだ。わあっと少女は歓声をあげた。
伊豆下田の白浜海岸といえば東海地方有数のビーチだ。夏休みのさらにはお盆休みとあって、人がたくさんいて賑わっている。
そしてまったく旅行慣れしていない俺は、がたっと腰をあげた。
「おおーー、海だ! すごい綺麗なところだね!」
「ボクよりも楽しんでるじゃん。徹ってあんまり旅行しないの?」
「ああ、そんな余裕は無いからな。この時期はどこも高いし……」
と言いかけたところで、前のめりになりすぎて茜ちゃんの顔と距離が近いことに気がついた。ふと横を見ると瞳を大きくする子がいて、しかし出会ったときから彼女は距離感を間違えている。距離を空けたりせず、にっこりと笑いかけてきた。
「ふふっ、なんだか私まで楽しくなってきました。二人の浮かれている気分が伝わってくるせいでしょうね」
「え、お姉ちゃんこそずっと浮かれてたよ。ウキウキして歩いていたのとか本当に自分で気づいてないの? ずっと笑ってるし」
まさか、と言いたそうな表情で彼女は己の頬を指先で触る。
いつの間にか浮かべている笑みと、そわそわしながら海を覗き込んでいた様子、そして買い過ぎたお菓子の山を見て……さっと瞳を逸らす。
俺と千夏ちゃんからの視線をじーっと受け続けて、ようやく観念したのだろう。ちらっと大きな瞳をこちらに向けると、膝元に置いていた麦わら帽子で赤い顔を隠してゆく。
「わ、私だって学生です。旅行先で浮かれるのだって当然なんです」
きりっとした眉の形をして文句を言ってくるが、やはり浮かれている気分では反抗的な表情なんて長続きしない。くつくつとこらえきれずに笑みがこぼれて、おかしそうにまた声を出して笑う。
真珠のように綺麗な歯が並んでいて、くったくなく笑う姿。そして背後には青い海が広がっていて、本当にまぶしいですねと俺は月並みなことを思ったよ。
白浜神社というバス停で降りると、先ほどのビーチは目と鼻の先だ。
辺りには食堂や宿の看板がたくさんあって、そこの売店では観光客向けのものを店先に並べている。ぺかぺかの明るい浮輪とかお酒とかタオルとか、そういうやつね。
うーん、ローカルだ。錆びた郵便ポストといい、どこか昭和の匂いが残っていて昔ながらの観光地という感じがする。
天童寺姉妹のペンションということで、もっとファンタジーでウサギが駆けまわっているような光景を想像していたけれど、同じ日本なんだからこれくらいで当然だ。
そう思いながら景色を眺めていると、ふっと笑いながら見あげてくる子がいた。
「徹さん、荷物を持ちましょうか?」
「いや、ぜんぜん平気。だれかさんが俺の荷造りもさせてくれなかったし手持ちぶさたなんだ」
そう言いながら先導する子を見ると、千夏ちゃんは「ボク知らないー」と言いながら坂道を駆けあがっていく。こらっとお姉さんは怒り、それから溜息をひとつしてから並んで歩き出した。
ノートパソコン入りのカバンはずしりと重く、おまけに今日の日射は強い。潮の香りが肌にまとわりついており、坂道を見ただけでげんなりしちゃう。
あちこちお店は並んでいるけれど、海岸沿いから一歩奥に入ると樹木がたくさん並んでいて日陰も多く、また風もある。気温の割にそう暑さを感じずに済みそうだ。
「徹さん、克樹君には連絡しました?」
「あ、まずい。すっかり忘れてた。ペンションについたら俺たちが到着しているって連絡しよう。あいつきっと怒るだろうなー」
ここまでずっとバタバタしていたし、茜ちゃんとはついさっき合流したばかりだ。出発が遅かったので日が暮れる前にと移動を急いでいるうち、肝心の弟に連絡を怠ってしまっていた。
ふふ、と笑われた。焦っている様子を見てのものだろうけど、このあいだ克樹と喧嘩をした夜のときよりも表情が柔らかい。肩がくっついてしまいそうな距離で、化粧をしていない唇が開かれる。
「二人きりで外を歩くなんて久しぶりですね」
ん、そういえばそうか。長く接していたけれど、こうして二人で並んで歩いた記憶があまり無い。珈琲メーカーの買い物をしたときくらいか?
大きめの麦わら帽子をかぶり、日射を防いでいる茜ちゃんは透き通るような肌をしていて見とれてしまう。
しばらく俺を見ていた彼女は、ふっとまた笑った。
「少し明るめの服を選ぶようになったんですね。似合っていますし大学生に見えますよ」
「う、前に茜ちゃんから言われたのが気になってさ。男の若づくりなんて変だけど、隣に立ってもおかしくないようになりたくて」
意外だったのか、じっと見つめられてしまった。
考えてみたらおかしな話だ。二人で並んで歩くことなんて早々ないのに、そのときのための準備をしていたなんて。変な目で見られるに決まっているし、こんなこと言わなければ良かったなと軽く後悔してしまう。
しばらく茜ちゃんは悩み、そしてこう声をかけてきた。
「かっこいいですよ、徹さん」
は? と間抜けな声をあげかけた。
すると彼女はまだ俺を見つめており、もう一度「本当です」と言ってくれるから……あっ、まずい。顔が熱い。おまけに荷物があって顔を隠せないものだから、口がパクパクしてしまう。
そんな表情さえ楽しまれているらしく、大きな瞳に笑みを浮かべながら彼女も頬をほんのりと赤くしていく。
茜ちゃんも体温の変化を感じたのだろうか。ぱっと瞳を逸らされて、だんだん顔を赤くしていくのは……なんだか知らないけど悶え死にそう! 静まれ、俺の心臓よ! ちょと服を褒められただけで、甘酸っぱい気持ちになったりしちゃダメ!
「……世の男たちが勘違いして暴走する気持ちが分かったよ」
「え、なんですかそれ? 徹さんってたまに変なことを言いますよね」
いーや、他のやつも同じことを言われたらきっとこうなるぞ。褒め言葉は話半分の平常心で受け止められるようにならないとな。でないといつか俺も「この子、俺のこと好きだわ」とか言い出しかねない。
いや、違うのか。
ついさっき、彼女は本心を言ってくれた。
それは俺のことを少なからず想ってくれているという、夢と疑うほど嬉しい言葉を伝えてくれたんだ。ただの冗談だったり、俺を気づかって嘘をついたんじゃないかと考えてしまうけど。
街路樹の影に包まれて、体感気温は少しだけ下がる。そんなときに俺は足を止めた。
「茜ちゃん」
「はい?」
互いに見つめあったまま彼女も歩みを止める。
辺りにはたくさんのセミがジージー鳴いていて、日本独特のもあっとした湿度に包まれている。おまけにたくさんの荷物を持っているから、こんなことを聞くのは少しばかり気が引ける。
「俺のことを好きって、本当なの?」
彼女は目を見開いて、そのまましばらく動かなかった。
右を見て、左を見て、なにをしているんだろうと思っていたときに、帽子を脱ぎながら美しい顔が近づいてくる。
はあっ、という吐息を感じた直後、ふかりと柔らかな唇に触れられて……暑さもセミの声もなにもかもが吹き飛んだ。膝から崩れ落ちそうだったし、両手の鞄をドサッと手放しそうだ。
離れた彼女は親指でおれの口をぬぐい、そして赤くなっていく顔を一瞬だけ見せてから背を向ける。そしてなにも言わずに坂道を歩きだしてしまった。
「え、あ、茜ちゃん?」
「そんないじわるなことを言う人には、もう返事をしません」
さっさと歩いていく彼女に慌てて、荷物を持ち直すと俺も後を追っていく。でも彼女は何度名前を呼んでも振り返ってくれなくて、追いつきかけるとまた足を速めてしまう。
それでもまだ俺は信じられない。こんなに美しい人が、人目のある場所で堂々と口づけをしてくれたことに。それは夢じゃないかと思うくらい現実感が足りなくて、たまに彼女が思わせぶりな表情で振り返ってくれるだけで舞い上がりそうになる。
つい先日、まだ告白さえしていない俺は彼女に別れを告げた。横恋慕から身を引かなければならないと思うほど茜ちゃんの変化を感じ、またそれが彼女自身を傷つけると思ったから。
身体だけの付き合いを終え、二度と触れないことを固く誓い、それを彼女は了承した。弟との交際を優先したんだ、お互いに。
しかし昨夜、嵐のような変化があった。
それは彼女が弟を拒絶するというものであり、また俺のこれまでのひどい行為を暴露するものだ。
克樹はひどいショックを受けて、俺をなじり、また殴りつけた。もう二度と兄弟の仲など修復できないと思うほどに激しく。その傷跡はまだ包帯やガーゼに包まれている。
だけどその悪い予想は裏切られた。
振り返ってくる彼女は、いつの間にか怒りを鎮めてくれていた。いつもの表情であり、肩を出したノースリーブのシャツが日を浴びていてとても眩しい。
辿り着くまで待ってくれている彼女に一歩ずつ足を進め、そして辿り着いても距離をもう少しだけ埋める。彼女の顔に影が落ち、そして唇同士が重なるほどの近距離まで。
「あ……」
ジーワージーワとたくさんのセミの鳴き声に包まれながら、そっと彼女は瞳を閉じる。再び触れた唇は、しっとりと濡れていて柔らかい。甘い香りを漂わせ、そして迎えるように彼女の手が肩に乗ってきた。
もう二度とまともに話をできないと思ったんだ、昨日の夜は。でも大好きな茜ちゃんの香りに包まれて、生きていて本当に良かったと思う。そっと離れた唇に、そんな馬鹿なことを俺は思う。
俺と克樹はお互いにフラれ、しかし今はなぜか彼女といる。
不思議なことばっかりだ。それでも視界いっぱいに美しい顔があることを感謝をしている。あの日、勇気を出して告白できたのは俺の力じゃないからだ。
彼女のこと、克樹のこと、そして世間体などを気にして俺は一歩も動けなかった。八方ふさがりのひどい状況だと嘆くばかりで、なにも行動できなかった。
それを変えたのは「好きなら好きと言え」というとても単純で、また分かりやすい弟の言葉があったからだ。
もしも俺が同じ立場だったら同じことを言えるか分からない。殴りつけて追い返すかもしれない。それくらい愛している人が遠ざかっていく苦しみをよく知っているから。
美しい彼女は瞳をまたたかせる。
日射をはね返す肌はまぶしいくらいで、長い黒髪を横に束ねており避暑地に訪れたお嬢様然としている。つい先ほどその唇に触れたことさえ信じられない。
しかし彼女は瞬時に不機嫌そうな顔をして、俺を驚かせる。そして頬をむくれさせながらこう告げてくる。
「徹さん、いいかげん認めてくれませんか?」
「はい?」
彼女の言わんとすることがまるで分からない。がしっと荷物を持ったままの腕にしがみついてくると、引きずられるように歩き始める。
尚も不機嫌そうな顔で見あげながら、彼女は言葉の続きを教えてくれた。
「徹さんはかっこいいんです」
そうはっきりと宣言されてしまい勢いに思わず頷く。
しかしそんなことを言われたら、俺はこう返事をするしかない。
「茜ちゃんって本当に可愛いよね」
「ばっ、なにを言ってるんです! いまはお兄さんの話で……それはまあ、多少は自分でも分かっていますケド」
「あ、やっぱり自覚はあるんだ。なら気持ちは分かってもらえると思うけど、可愛い人から褒められたら男なんて単純だから舞い上がっちゃうよ?」
「ふーん、舞い上がりました? かっこいい徹さん?」
「それはもう、可愛い茜ちゃん」
じっと見つめ合うことしばし。くつくつと苦しそうに彼女はお腹をかかえて、それから口を開けて笑ってくれる。眩しいくらいの笑顔であり、やっぱり可愛いなと単純な男としては思わざるをえない。
そんなときに坂の上から大きな声が聞こえてきた。見あげると千夏ちゃんは道の柵を掴んで、こう言っていたんだ。
「お姉ちゃん、大変っ! ペンションが無くなってる!」
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