GIVEN〜与えられた者〜

菅田佳理乃

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定石編

江田照臣と畠山京子(12歳11ヶ月)

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 対局に使われる旅館の客室の窓から見える広い庭園には池もあり、梅、桜、躑躅、藤、花水木、百日紅、金木犀、紅葉といった四季折々の花が楽しめるよう多種の木々が植えられている。

 今は百日紅が見頃で、濃い桃色の花をつけた木に野鳥が止まり囀っている。

 タイトル戦で何度も訪れている旅館だが、江田は検分もそっちのけで暫く庭を眺めていた。

「いつ来ても綺麗な庭だなぁ」

 独り言のようにボソリと言ったのに、隣で一緒に庭を眺めていた妹弟子、畠山京子に聞こえてしまったようだ。

「はい!素敵なお庭ですねぇ。とっても和みます。私も早くこういう所で対局したいです」

「うん。京子なら遠からずそうなるよ。しっかり勉強してってね」

 江田がニッコリ笑って京子を労う。京子も笑顔で返事をする。

「はい!江田さん!」

 二人の様子を見ていた者には七福神の布袋尊と弁財天が微笑む光景に見え、この一角だけなんとも和やかな雰囲気に包まれていた。


 弟弟子の三嶋大成はこの妹弟子を苦手にしているけど、僕はこの子をとてもいい子だと思ってるいる。

 挨拶も受け答えもハキハキしているし、師匠や兄弟子の顔を立てながらも主張するべき時はきちんと主張する。

 カラスを捕まえてきたのは、さすがに僕もビックリしたけど。

 でも元気が無いと、体調が悪いのか、機嫌が悪いのか、わからない。特に女性は。だから何事もハッキリと言ってくれる京子のような性格の子は、接し易くて気が楽だ。


「江田先生。そろそろ検分、よろしくお願いします」

 棋院職員、白川が江田に声をかけた。

「はい。わかりました」

 窓に張り付いて庭を眺めていた江田は踵を返して上座に座った。京子も記録係席に着席する。

 畳部屋だが、畳の上に絨毯が敷かれ、その上にテーブルと椅子が置かれてある。椅子を引きずって畳に傷をつけないようにするためだ。

 もう囲碁界ではタイトル戦でも畳の上に足付き碁盤という形態では対局を行わない。

 テーブル上には2.5寸盤の碁盤と碁笥に入った碁石が用意されている。

 対局者の右脇には飲み物などが置けるようサイドテーブルが設置されている。

 碁盤を映すためのカメラを固定する櫓が建ててある。窓際には対局者の表情を映すためのカメラも設置されている。ネットでライブ配信するためだ。


 紅玉ルビー王と翠玉エメラルド王の二人は慣れた手つきで碁笥から石を少し出し碁盤に叩きつけ、碁石の感触を確かめる。それから碁盤からの照明の照り返し、エアコンの設定温度など、長時間この部屋に留まるため細かく確認していく。

「トイレの場所は……」

 白川が説明しようとすると、豊本は言葉を遮った。

「その辺の説明は省略してもらっても構いません。前回来た時と変わった所がなければ」

「……そうですね。


 父も祖父も曾祖父も囲碁棋士の豊本武。囲碁界きってのサラブレッドだ。

 この旅館にも幼少期から出入りしている。おそらく目を瞑っても迷わず旅館内を歩けるだろう。

 豊本武の曾祖父、豊本清十郎は日本棋院設立に尽力した人物だ。棋士としても多くの功績を残している。

 そして曾孫の豊本武は七冠王ディアレストという囲碁界において最高勲章を手に入れた。その血と知は脈々と受け継がれている。


 旅館の女将から昼食とおやつのお品書きが対局者に手渡される。

 京子が首だけ伸ばして江田のお品書きを覗こうとする。それに気づいた江田がニコリと笑い、京子に『見てみる?』というように、お品書きを傾けた。

 食いしん坊の京子でも、さすがにこれはお行儀が悪いと気づいたらしく、少し頬を赤らめて視線を下に落とした。

 京子が視線を落とした先には棋譜ノートと黒と赤のボールペン、封じ手の棋譜を入れるための封筒が二枚ある。


 この記録係をするにあたり、岡本門下の研究会でちょっとした騒動(?)が起こった。

 理事長の横峯が京子に渡したスケジュール表に『紅玉ルビー戦棋譜記録係』の文字を見つけて一番焦ったのは、心配性の長兄弟子武士沢ぶしざわだった。

 京子は院生ではなかったので、記録係をしたことがないのだ。

 そこでタイトル戦での一連の流れを頭に入れ、棋譜の付け方を習得すべく、研究会で『岡本vs江田』の豪華練習対局が行われた。武士沢は立会人役だ。

 講師は三嶋。反りの合わないこの二人の漫才が当然のように始まった。

「ノート広げて勉強するの、無しだからな」

「どうしてですか?」

「ネットに中継されるぞ」

「別に構いません」

「いや、ダメだから」

「それじゃ私、記録係してる間、何すればいいんですか?」

「棋譜をつけるんだろ!専念しろ!」

「絶対飽きる……」

「江田さんの棋譜でもか?」

「江田さんなら一週間でも大丈夫です!絶対に私を退屈させない碁になるでしょうから!三嶋さんなら五分と持たないでしょうけど……」

「一言どころか二言も三言も余計なんだよ!お前は!」

「お前って言うの、やめて下さい!人権蹂躙です!」

「人権蹂躙て、大袈裟すぎだろ!ていうか、覚えた言葉を使いたいだけだろ!お前は!」

「また「お前」って言った!」


 元々物覚えのいい子だ。漫才しながらも一回の練習で棋譜の付け方は勿論、時計の記録の付け方や対局の進行の段取りまで覚えてしまい、武士沢から太鼓判を押された。



「では検分は以上で終わります。前夜祭までお部屋でお寛ぎ下さい」

 皆立ち上がって部屋から出る。京子は最後に部屋を出ようと座ったままでいると、意外な人物が京子に話しかけた。

「君が畠山亮司さんの娘さん?」

 部屋を出ようとした江田は、豊本が京子に声をかけたのに気付き、足を止めた。

(珍しいな。豊本さんが初対面の人に話しかけるなんて)

 江田は部屋に引き返し、京子の傍に立った。

 京子はプロになってから『魔術師の弟子』といつも呼ばれていた。棋士からそんな風に呼ばれたのは初めてだ。

「なんだか秋田の碁会所のおじいさん達に呼ばれたみたいで懐かしいですぅー」

 京子はとぼけたような返事をすると、豊本がニヤリと笑った。京子の予想以上にガイコツが笑ったみたいで不気味だ。思わず身震いしてしまった。

「お父さんはお元気?」

「さあ。去年東京に来てから一度も秋田に帰ってませんから。今年はお盆に帰るんで豊本先生の話、しておきます」

 京子はこれで会話を打ち切るつもりでこう言って立ち上がろうとした。だが豊本は話を続けた。

「そう。それは嬉しいね。僕はね、君のお父さんのファンなんだよ。プロになって欲しかった。いや、今でもそう思ってる」

「そうですか」

「てっきりプロになるものだと思っていたからね。『プロ試験を受ける気はない』と聞いた時、どれだけショックだったか」


 豊本と同年代の江田も覚えている。

 その頃の江田は金緑玉アレキサンドライト戦優勝後スランプに陥り、なかなか抜け出せずにいた。だからもしこの人がプロになったら自分はどうなるのかと、焦りと危機感を今でも覚えている。


 高校生になってからゲームで囲碁のルールを覚えたという畠山亮司はネット碁で腕を上げ、東京の大学に進学し囲碁サークルに入った。亮司は学生棋戦だけでなく一般のアマチュア大会をも席巻した。

 極め付けはアマチュアも参戦できる七大棋戦のひとつ、青玉サファイア戦に史上初アマチュアで本戦入りを果たしたことだ。

 惜しくも一回戦負けだったが、この青玉サファイア戦を期に囲碁界では畠山亮司の名を知らない者はいないほど有名になった。

 プロの間でも大学卒業後はプロ入りするものだと噂していた。

 しかし畠山亮司は「収入が安定しない職業は将来的に不安」という理由でプロ試験を受けなかった。風の便りに、畠山亮司は大学を卒業すると秋田に帰り、地元の地方銀行に就職したと聞いた。

 その十数年後、彼の愛娘がまさか自分の妹弟子になるとは当時は思いもしなかった。


「プロにならなくても、アマチュアの大会には出てくるだろうと思ってたんだけどね。待てど暮らせど出てこない。十年以上待たされて出てきたのは君だった」

 京子は憮然とした表情で前を見る。豊本とは目を合わさない。

「『こども囲碁大会』で君達親子を見つけた時、そして女流棋士試験で君の名を見つけた時、どれほどの喜びだったか」

 くうを見つめ、ニヤリと笑う豊本は本当に不気味だ。

 京子は相槌すら打たず、豊本に喋るがままにさせておいた。いつもなら誰にでも愛想よく受け答えする京子が珍しく無愛想だ。

 それにしてもこんなにお喋りな豊本さんは珍しい。他人に興味無さそうな豊本さんがこんなに饒舌になるなんて。

「君に謝らなきゃいけないことがあるんだ。君の新入段記念対局が行われなかった原因は僕なんだ。運悪く地方対局の日程と重なってしまってね。
 それでもどうしても君と打ちたくて駄々をこねたんだよ。そしたら対局自体無くなってしまった」

「そうでしたか」

 新入段記念対局は新入段が対局したいトップ棋士をリクエストできる。もちろんリクエストに答えられない場合もある。

 京子は誰でも構わないとリクエストを出していなかった。なので記念対局を楽しみにしていた訳ではないので、京子にとってはもう、どうでもいいことだ。

「君の成長、楽しみにしているよ。僕とで対局しようね」

 この場で言う「ここ」とは今いる山口県のことでは無い。

『七大棋戦の挑戦者になって対局しよう』という意味だ。

「豊本先生。先に言っておきますが、私の碁の中には父はいませんよ。父は私とは一度も打ってくれませんでしたから」

 ニヤニヤと京子を見つめていた豊本の表情が曇った。

「親子仲が悪いのかい?」

「どうなんでしょう。近所に私と同い年の子供のいる家庭が無かったので、余所の家と比べた事が無いので、わかりません」



 ●○●○●○



紅玉ルビー戦 挑戦手合 七番勝負 第七局 二日目

江田照臣紅玉ルビー王 対 挑戦者 豊本武翠玉エメラルド


 前日とは打って変わって台風並みの大雨となった。時折雷鳴も轟いている。


 一日目は穏やかな展開で、戦いらしい戦いは起こらず、勝負の行方は今日に持ち越された。

「もしかしたらこのまま囲って終わるんじゃないか?」

 などと誰かが揶揄した。


 やっと動いたのは白番の江田。昼食休憩直後だった。

 碁盤が割れるのではないかと思うほど大きな「ゴン!」という音を立て、江田は白石を打ち付けた。

 その一手は記録係や立会人でさえ思わず声を出しそうになったほどだ。

 棋士や記者のいる控え室は大パニックになった。

「タケフ切り⁉︎」

 誰かが叫んだ。

「え⁉︎このタケフ、切れるのか⁉︎」

 タイトル八期の中舘なかだて英雄えいお九段は碁盤をジッと睨んでから手を進めた。

 他の棋士達は中舘の盤に集まり、このタケフ切りの検討が始まった。

「あっ、そうか!タケフを黒ツグとこれ、ダンコにされるのか!」

「それでタケフ切りを放置しても、下辺を荒らされるのは避けられない!」

「うわっ!すげー強手!」

 控え室はお祭り騒ぎだ。


 一方、事件の起きた現場では、事件が起きた瞬間を目の当たりにした者達が声を出せずに悶絶していた。

 特に畠山京子は鼻息荒く顔を真っ赤にし、左手で右手首を掴み、叫びたいのを必死に堪えていた。

 そんな京子の様子に、こんな手を打たれ余裕が無いはずの豊本が声をかけた。

「楽しい?」

 どう答えようか、京子は一瞬迷ったようだった。いつもなら滝のように言葉が流れ出てくるのに。それだけ京子もこの手に興奮しているようだ。

 京子は返事をする代わりに首を縦に二度振った。さすがの京子も言葉が思いつかなかったらしい。

「そう。じゃあもっと楽しませてあげないとね」

 そう言うと豊本はガリガリに痩せ細った手で黒石を持ち上げ、碁盤にそっと置いた。



 ●○●○●○



 二百三十八手目を江田が打った所で豊本が投了した。

 夕方六時前。記者が対局室に雪崩れ込む。
 カメラのフラッシュがたかれる。

「このタケフ切りは痛かった」

 豊本が検討に入る。

「自分でもこれはよく思いついたと思います」

 江田が謙遜する。チラッと京子に目をやると、未だ顔を真っ赤にして「その検討に私もまぜろ」と無言で訴えていた。


「先生方、そろそろ大盤解説に」

 旅館内にある結婚式なども行える大広間で客を入れて大盤解説を行っている。それに顔を出すのだ。

 江田が席を立つと、京子も席を立ち駆け寄ってきた。

「江田さん。おめでとうございます!タケフ切り、めっちゃカッコ良かったです!私も早くあんな碁を打てるようになりたいです!」

 ぴょこぴょこ飛び跳ね腕を上下させ、興奮を抑えきれないようだ。

「ありがとう、京子」

「大盤解説見にいきたいけど、ここの片付けがあるんで、後で話聞かせて下さい!」


 そう言って京子は自分のやるべき仕事に戻った。


 江田には京子の興奮は、『タケフ切りの強手』ではなく、『切れないはずのタケフを切った』からくるものではないかと思えた。
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