GIVEN〜与えられた者〜

菅田佳理乃

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手筋編

どう白黒つけるか?

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 江田兄弟が並んで座っている。

 (本当に仲の良い兄弟だなぁ)

 と思いながら二人の背中を、振り袖に襷掛けした姿の京子が眺める。

 ふと、京子はある事を思い付く。帯に挟んだスマホを取り出し、仲良く並ぶ江田兄弟の後ろ姿を撮影した。

 シャッター音に気づいた二人は同時に振り返る。振り返ったタイミング・スピード・首の角度、どれも綺麗に揃っていた。その姿も逃さず京子は撮影した。

 京子は撮影の意図を二人に話し、岡本門下のiTwitterイツイッターにこの写真を投稿する許可を得た。


 1月3日。毎年この日に行われる岡本門下の新年会だ。

 京子がこの新年会に参加するのは3回目。岡本の弟子になって4回目の新年だが、弟子になった年は中国に武者修行に行っていたため不参加だった。

 今年もいつものメンバーが揃った。

 岡本とその妻、岡本の弟子4人、そして新年会初開催時からのメンバー・岡本のライバル柴崎真人と、近所に住む幼馴染みの杉山夫妻。それから江田照臣の実兄で京子の後援会会長・江田正臣だ。

 一階の二間続きの和室の襖を全て取っ払ってダイニングから縁側まで仕切りを無くし、特注の座卓を繋げ、即席の大広間と化した岡本家を見られるのは、この日だけだ。

 この日のために用意された御節料理が並び、酒も並ぶ。しかし料理もそこそこに皆、黙々と碁を打っている。京子はおそらく「世界一静かな新年会」ではないかと思っている。


「あ!早速コメントしてくれた人がいますよ!」

 京子のスマホが鳴った。先程投稿したiTwitterだ。こう投稿したのだ。

『問題です。どちらが江田黄玉トパーズ王で、どちらが江田さんのお兄さんでしょうか?正解は3時間後に発表!』

 というクイズを出したのだ。その回答を早速投稿してくれたフォロワーがいる。

『後ろ姿だけじゃ違いがわかんないよ!』
『どっちも江田さんじゃないの?加工した?』
『背中の広さも髪の感じも一緒じゃん!』

 と、かなりの難易度であることが窺えた。

 岡本門下の身内のみが集まる会だが、新年会ということで、全員正装している。江田兄弟は色違いのスーツだ。はっきり言って、京子もスーツの色が違わなければ、後ろ姿だけでは見分けがつかない。

「両親も、僕達の子供の頃の写真を見て「どっちだったかな?」って言ってるよ」

 京子の兄弟子の江田照臣が言った。夏に『大三冠レッド』の称号を落としたものの、すぐに立て直し、11月に黄玉トパーズ王の称号を奪取した。

「それにしても畠山さんはいつも面白い事を考えるね」

 正臣が言った。京子がいつものようにニヤニヤヘラヘラと笑う。

「いえいえ、江田会長ほどではありませんよ」

 いつものように手を左右にブンブンと大袈裟に振って否定する。それを見た正臣がまた笑う。


「京子、すまん。ビール頼む」

 岡本が空になったビール瓶をテーブルの脇に退けた。

「はーい!」

 いつものように元気良く返事すると、着物姿の京子は岡本のいる和室に向かい、ビール瓶だけでなく、空になったおせちの入っていた重箱やお銚子も手際よく下げる。

 キッチンには、岡本の妻・純子すみこと杉山の妻・順子よりこがいる。

「重箱、下げました。まだ黒豆が何粒か残ってます」

 京子は重箱と空になったビール瓶をテーブルの上に置く。順子が重箱を覗き込んだ。

「あら、嬉しい。黒豆、大好き」

 順子がひょいとつまみ食いする。

「あら、伊達巻もひとつ残ってるじゃない」

 純子がバランを捲ると、隠れていた伊達巻が現れた。純子もつまみ食いする。

「それより純子さんも順子さんも、キッチンここ、寒くないですか?せめてダイニングへ行けば……」

 足元に電気ストーブがあるが、和室に比べれば少し寒い。

「あー、いいのいいの」
「そうそう。碁の打てない主婦には、ここが一番落ち着くのよ」

 そう言うと二人は椅子から立ち上がり、空になった重箱を洗い始めた。重箱は食洗機使用不可だったからだ。

「京子が来てくれてから、楽させて貰ってるわ」

 純子が皿を洗いながら言った。

「そうねぇ。助かるわー。働き者で」

 順子はその皿を拭く。

「正月太り解消には、これくらいの運動が丁度良いですよ!」

 京子はお銚子に酒を入れ、燗につける。そして冷蔵庫からビールを取り出す。

「あらズルい!自分ばっかり痩せようとして!」

 娘三人寄れば姦しい。たとえ祖母と孫娘ぐらい歳が離れていても気が合えばこんな風に笑い合える。

「京子ちゃん。着物、苦しくない?」

 今、京子が着ている振り袖は、純子から譲り受けたものだ。

 岡本夫妻には娘がいない。子も孫も男ばかりだ。純子がもう着なくなった着物の処分に困っていた時、京子が岡本家にやって来た。京子は純子からの申し出を躊躇することなく、純子の着物全てを有り難く頂戴した。箪笥の肥やしにするのは勿体ないと、毎年新年会にこの振り袖を着ているのだ。

「苦しくは無いんですけど、背が伸びて御端折りを作れなくなってきたんですよ」

 純子の着物だったので、純子の身長に合わせてある。純子の身長は166㌢。この年代の女性にしては長身のほうだが、京子はそれを越えてしまった。

「そうねぇ……。新調しましょうか」

 純子が言った。

「ええっ!?勿体ないですよ!まだ身長伸びそうだし、それに成人式だってまだ先だし……」

「うーん。この位の歳の子は、悩むわねぇ……」

 順子も頬に手をやり、悩む。正直、順子も京子に振り袖を着てもらいたいと思っている。正月らしいし、華やかさが増す。京子のような見目の麗しい子なら尚更だ。

 和室から岡本の呼ぶ声がする。早くビールを持ってこいと催促だ。

 三人で「はーい!」と返事をする。息ぴったりで三人で笑う。

「あらやだ。他人の家なのに返事しちゃった」

 順子がペロッと舌を出す。

「条件反射って怖いですね~。じゃあ私、これ持って行きますねー」

 そう言って京子は鍋からお銚子を取り出し、ビール瓶2本と一緒にお盆に乗せ、和室に運んでいった。


「お待たせしましたー!」

 畳の上にお盆を下ろし、ビール瓶の栓を抜く。岡本がコップに手を添えると、京子はそのコップにビールを注いだ。

 岡本と打っていた柴崎にもお酌をする。ただし、酒ではなくて温かい烏龍茶だ。

「柴崎先生、今年も宜しくお願いします!」

「こちらこそ宜しく」

 そう言うと柴崎は烏龍茶の注がれた湯呑みに口をつける。

「前回お会いした時よりも随分顔色がいいですね!」

 前回会ったのは夏前だった。その時はかなり辛そうに歩いていて、本人も「そろそろかな?」などと真顔で言っていたのだ。

「ああ。ここ暫く体調が良くてね。一時期とても悪かったのが嘘のようだよ」

「病気が良くなる時は、一時的に悪くなるっていいますから、良くなったんですよ!」

「そうだと嬉しいね」

「ええ!私の元気パワーをお裾分けしますから、病気なんて吹っ飛ばしちゃいましょう!」

 そう言うと京子は両掌を柴崎に向けて、念を送り込む。

「羨ましいなぁ。僕にもやってくれないか?」

 隣で聞いていた正臣が便乗する。

「そうですね!会長にもいつまでも元気で永く後援会会長をやって貰わないと!それじゃいきますよー!元気になれパワー!」

 二人はお寺の線香の煙を浴びるかのような仕草で京子からの念を受ける。

「兄さんまで真に受けて」

 江田が呆れたように言うと、皆が苦笑する。

「会長も、今年も宜しくお願いします」

 京子がお銚子を取り、正臣のお猪口に酒を注ぐ。

「おや?私にもお酌してくれるのかい?」

「当然じゃないですか!お世話になってるんですから!銀座の高級クラブにも、女子中学生からお酌してもらえるサービスなんて無いでしょ?」

 それを聞いていた皆が豪快に笑う。

「あっはっは!確かにそうだ!」

 京子が弟子になる前までは、この新年会にこんなに笑い声は響かなかった。京子が、若い女の子一人が増えただけで、世界一静かな新年会は静かながらも華やかになった。


 京子は武士沢、江田とお酌して回る。しかし三嶋の前に来ると酌をせずに、そのまま重箱を片付け、キッチンに運ぼうとする。

「おい、ちょっと待て。俺は?」

 京子は気づかないフリをして、そのまま三嶋の前を素通りした。

「おい!京子!」

「はい、なんでしょう?」

「さっき、呼んだよな?なんで返事しないんだよ!?」

「私の名前は「おい」ではないので」

「なぜ俺にお酌しない?」

「私はお世話になった人達にお酌して回ったんですよ。去年、三嶋さんは私に何をしてくれたんですか?」

「はぁ!?あれだけ扱き使っておいて、世話になってないとは、どんな了見だ!?」

「散々「おい」だの「お前」だのと呼んでおいて、それでも酌をしろと?今だってそう呼びましたよね?」

 閥が悪そうに三嶋がサッと視線を逸らす。でも、それでも三嶋は諦めない。

「新年会ぐらい大目にみてくれよぉ~!俺、去年頑張ったと思うぞ?金緑石戦で北海道に行くつもりだったのに、真珠戦と被ったからって留守番押し付けられたけど、ちゃんと仕事をこなしたじゃないか!」

「ああ……。そんなこともありましたね……」

 京子は顎に手をやり、何やら考え込む。

「……そうですね。私も鬼ではないので、お正月でもありますし、お正月らしく解決してもいいですよ」

 そう言うと京子は、懐から師匠や兄弟子達から貰ったお年玉袋をチラリと見せた。

 理不尽だと三嶋は思う。去年、岡本門下で江田の次に賞金を稼いだのは京子なのに、兄弟子というだけで妹弟子にお年玉をやらなければならないなんて。

「江田さんのは毎年、分厚いんですよ~」

 江田の物と思われるポチ袋はパンパンだ。恐らく正臣のもそれ位の厚みがあるだろう。

 対して三嶋が京子に渡したポチ袋は、この国で発行されている紙幣で一番大きな額の物が一枚入っているだけだ。

「どうします?三嶋さん」

 京子が三嶋をチラリと見る。

 三嶋はジャケットの左内ポケットから財布を取り出し、広げる。千円札が2枚入っている。

「京子。スマホ出せ」

 三嶋は右の内ポケットからスマホを取り出した。京子もスマホを取り出す。暫くして京子の口座に江田兄弟と同額の「お年玉」が振り込まれた。

 京子がにっこりと笑う。三嶋のコップにビールが注がれた。

「三嶋さん、どうぞ。今年も私が面倒みますからね」

「なんで俺だけ面倒みて貰わなきゃならないんだよ!」

 三嶋がとうとう堪忍袋の緒を切らし、立ち上がろうとした時だ。

 玄関チャイムが鳴った。

 ダイニングにインターホンがあるので、純子が出ようとしたのだが、それでも京子の方が早かった。

「あ、いいですよ、純子さん。私、出ます。……はい、どちら様でしょう?」

 インターホンから聞き覚えのある声が聞こえてくる。京子の眉間に皺が寄る。

「少々お待ち下さい。今、出ますので。……すみません、純子さん。ちょっと玄関まで出て来ます」

「誰が来たの?」

 純子がこう尋ねたが、京子はそれに答えず、さっさと外に出てしまった。

 良く晴れた日だった。それでも風は寒く、襷掛けした京子の両腕に冷たい風が当たる。しかし今、玄関先に待たせている客人の事で頭に血が上っている京子は、寒風など感じなかった。サンダルをパタパタと音を鳴らしながら門に向かい、門扉を開けた。

「お待たせしました」

 扉の向こう側にいたのは、岩井司だった。

「明けましておめでとう、畠山さん」

「どうやってこの家を突き止めたんですか?」

 司の新年の挨拶を無視して、京子の尋問が始まった。京子は後ろ手で門扉を閉め、腕組みをして威圧する。

 司には、この家の住所を教えてない。それどころか、この新年会に招いてすらいない。

「今日は先日のクリスマスの謝罪に……」

「答えて下さい。どうやって突き止めたんですか?」

 司が喋るのを無視して、京子は尋問を続ける。しかし司も負けじと京子の尋問を無視して話を続ける。

「振り袖、似合ってるね」

「聞き飽きたお世辞なんかで誤魔化されないですよ、畠山京子は。そろそろ学習して下さい」

 司が苦笑いした。

「詳しく話すから、中に入れて入れて貰えないかな?」

「今、新年会の最中でして、この新年会の主催者は岡本先生です。ですから先生の客ではないあなたを家に上げる訳にはいきません。まずはこちらの質問に答えて下さい。どうやってこの家を割り出したんですか!答えないのであれば、答えられないような手段でこの家を突き止めたと捉えますけど」

 司が答えずとも、どうやってこの家を突き止めたのか、京子は大体想像がついた。岡本を尾行したのだろう。岡本門下のiTwitterアカウントに京子は内弟子だと書き込んでいた。

 京子は司に目をつけられてから、すぐさまその記事を削除しようとしたのだが、岡本の家に住んでいると分かる記事があまりにも多くて削除するのを諦めた。

 閉めたはずの門扉が内側から開いた。中から三嶋が顔を出した。

「ああ。やっぱり君か」

 交流会で一度会ったきりなのに、三嶋は司の顔を覚えていた。他人の顔を覚える記憶力の良さは、京子に引けを取らない。

「三嶋さんがこのストーカーを呼んだんですか!?」

 文化祭後、司について、京子と三嶋の間で一悶着あったのは言わずもがなだ。

「違う違う!京子が血相変えて出て行ったって純子さんが言ったら、杉山先生が「が来たんじゃないのか」てさ」

「杉山先生が?」

 精神科医・杉山にもこの傍迷惑なストーカーについて相談はしていたのだ。しかし男性のせいか視点が京子とはズレがあり、京子は松山に相談したのだった。しかし今、こんな状況になっているということは、残念ながら松山のアドバイスは司には効果が無かったと言っていいだろう。

「ああ。それで岡本先生が「だったら中に入って貰え」ってさ」

「岡本先生が!?」

「君と話をしたいんじゃないか?」

 三嶋が司の方を見ながら言った。

 京子は頭を抱えて溜め息を吐く。

「先生が招き入れるのであれば、私には拒否権はありません。どうぞ、お入り下さい」

 門前に立ち塞がるようにして立っていた京子は脇に退いて、司を通した。

 司は「失礼します」と一言断ってから、岡本の屋敷に足を踏み入れた。こういう所は育ちの良さが出ているなぁと、京子は思う。

「あ、そうそう。岩井

 司を案内するように先を歩いている三嶋が振り返った。

「江田会長も来ているから」

 三嶋がニヤっと笑う。まるで司を牽制するような表情だった。

 (三嶋さんが珍しい)

 来るもの拒まず去るもの追わず、の三嶋は、人間の好き嫌いは無いのではないかと京子は思っていた。

 (三嶋さんにも、人間の好き嫌いがあるんだ)

 京子もいつものニヤニヤヘラヘラ笑いをして、門扉を閉めた。



 ●○●○●○



 司はまず岡本に挨拶と招き入れてくれた礼を伝えると、丁寧に一人ずつ挨拶して回った。純子や順子にも挨拶し、「お二人ともお若いですね」とありきたりなお世辞を言って微笑むと、二人は京子に「なんであの子じゃ駄目なの!?良い子じゃない!」とすっかり絆されていた。

 京子は司のための座布団を押し入れから出し、わざと正臣の隣に置いた。箸と取り皿を座卓の上に出したが、重箱の中身はほとんど空で、栗金団がひと欠片ポツンと残っているだけだった。

 司は一瞬「義実家に来た嫁か?」と心の中で突っ込んだが、それは司の早合点だった。

「これからお雑煮を作るので。碁でも打って待ってて下さい」

 そう言って京子は瓶の烏龍茶とコップを司の目の前に置いた。しかし、京子はそのコップに烏龍茶を注ぐ事はしなかった。全ての重箱をキッチンに運んで行ってしまった。

 司は瓶の烏龍茶を前に固まる。瓶の栓を開けた事が無いのだ。

「岩井くん。僕と打たないか?」

 三嶋は足付きの碁盤を司との間に置くと、烏龍茶の瓶の栓を抜いて、コップに注いでやった。

「あ……。ありがとうございます」

 司はビール瓶に手を伸ばして、三嶋にお酌しようとしたが、止められた。

「あー、いい、いい。未成年者に無理矢理お酌をさせるなって、また京子に怒鳴られるから」

  そう言うと三嶋は手酌で自分のコップにビールを注いだ。それから三嶋は碁笥の蓋を開けた。黒石だった。

「どうする?白で打つかい?」

「いいえ。黒でお願いします」

 司は白石の入った碁笥を三嶋に渡す。三嶋も碁笥の蓋を閉め、司に渡した。

「お願いします」

 三嶋が頭を下げる。慌てて司も「お願いします」と頭を下げた。棋士プロもお遊びでの碁では、礼などしないと思っていたのだ。

 司の初手は右上隅小目。二手目、三嶋も左下隅の小目に打ってきた。

 お互い定石通りに打ち進める。定石を終えても穏やかな展開なままで、戦いにはならない。

 暫く打っていると、キッチンからいい匂いがしてきた。醤油の香りと餅が焼ける芳ばしい香りだ。

「美味しそうな匂いですね。毎年新年会はこんな感じなんですか?」

「ああ、まぁね。京子も純子さ……岡本先生の奥様も秋田出身だから、お雑煮と一緒にきりたんぽも出てくる」

 司は京子が消えたキッチンの方に視線を投げる。

「へぇ。それは楽しみだな。きりたんぽは食べた事が無いんですよ」

「そうか」

 と短く三嶋は答えた。三嶋が白石を打つ。黒を切断する手だ。戦いが始まった。

 だが、司はお喋りをやめない。

「皆さんは毎年……」

「囲碁ってさ、『手談』とも呼ばれるんだよ」

 珍しく三嶋が京子のように他人がまだ喋っているのに妨害してきた。

「囲碁ってさ、会話せずとも打ってるだけでその人の性格やら為人なりが分かるんだ」

 三嶋は司の方ではなく碁盤を見つめながら喋る。

「だからさ、今は俺と二人だけの会話を楽しまないか?君と京子の門前での会話、聞こえてきたから聞いてたけどさ」

 碁盤を見つめていた三嶋が司を睨む。

「君、この家を突き止めるのに、岡本先生をダシに使っただろ?」

 司は答えない。しかし沈黙こそが答えだ。

「京子は、岡本先生に恩義を感じていているから、先生を軽んじる人間は許せないんだよ。まぁ、俺もそうだけどね」

 三嶋がビールを勢いよく煽った。

「君は最大悪手を打ったんだよ。俺達、兄弟子全員も敵に回すくらいのね」



 ●○●○●○



 見覚えの無い天井だった。三嶋は飛び起きて、辺りを見渡す。見覚えの無いのは天井だけで、この部屋は見覚えのある部屋だった。新年会の行われた、岡本家の六畳の方の和室だった。取っ払った障子戸や襖が元通りになり、布団が引かれ、三嶋はその上に寝ていた。そしてなぜかパジャマを着ていた。障子戸から薄明かりが漏れる。朝だろうか、夕方だろうか。時間の感覚が鈍っている。

 (あれ?俺、なんでここで寝てたんだ?)

 昨日のいつ頃から記憶が無いのか、思い出してみる。

 (えーと、岩井司と碁を打ってて、それから、説教たれて、それから……)

 急に部屋と廊下との境の障子戸が開いた。三嶋はビクッと飛び上がる。

「あ!三嶋さん、起きてましたか!おはようございます!」

 自分は今、二日酔いなんだとハッキリわかる京子の声量だった。頭の中に京子の声が谺しながらも、三嶋は条件反射で「おはよう」と言っていた。

「朝ごはん出来てますよ!この部屋に運びましょうか?」

 なにやら京子の機嫌がいい。追加のお年玉を渡した時ぐらいの笑顔を三嶋に向けている。

 (俺、昨日は帰らずこの家に泊まったんだよな?コイツの事だから「年若い娘のいる家に泊まるなんて!」とか「大人なのに酔いつぶれて師匠の家に泊まるなんてカッコ悪」とか言いそうなのに……)

「どうしますか?」

 朝食をどうするか三嶋が返事をしないでいると、京子がまた聞いてきた。

 (いつもなら問答無用で命令するのに……。昨日、あれから何があったんだ?)

 素直に京子に聞けばいいのに、変なところで負けず嫌いな三嶋は、とりあえずこの疑問は一旦置いておくことにした。

「まずは顔を洗うよ」

 と三嶋は言うと、京子は「じゃあタオル用意しておきますね!」と女房のように三嶋に笑顔で世話を焼いていた。


 京子が姿を消すと三嶋は「……気持ち悪」と、いつもと正反対の京子の態度に、ついついこう言ってしまった。



 ●○●○●○



 後日、武士沢と同じ日に対局になった三嶋は、兄弟子を食事に誘ってあの日の出来事を詳しく聞いた。

「は!?全く覚えて無いのか!?京子が抱きついて大成に礼を言ったのも!?」

 という衝撃の前置きから武士沢の回顧が始まった。


 司と打った後(三嶋の辛勝だったらしい)、正臣から日本酒を勧められたらしい。

「待って下さい。俺が日本酒を??」

 三嶋はビール党だ。酒の飲める歳になった時、ビール、ワイン、焼酎、ウイスキーとちゃんぽんし、最後に日本酒を飲んだ所で記憶がなくなった。そんな苦い思い出があるので、日本酒は敬遠していたのだが、なぜ正臣に勧められたくらいで日本酒に口をつけたのか、全く心当たりが無い。

「うん。まぁ、兄弟子の俺から見て、明らかに岩井くんにいいとこ見せようみたいな所があったように思う」

 心当たりがある三嶋は俯く。

「あの……、それで、その後は?」

 武士沢が言うには、まず女性の髪型別の性格分析から始まり服装・メイク別の性格分析を経て、最後に畠山京子という人間はどう口説けば落とせるのかを説いて聞かせたそうだ。

「……俺、京子の口説き方まで説明したんですか……?」

 これは全く記憶がない。そもそもまだ子供で中学生の京子を口説き落としたいなどと微塵も思った事がない。

 ていうか、たしか岩井司に偉そうに説教してたと思うんだけど、どうして女性を口説く手解きに話が流れたんだ!?

 (おかしい……。日本酒を飲んだり京子を落とす方法を説いたり。まるであの日の俺は俺では無かったかのようだ……)

「あの、ブシさん……。それで、なんで京子が俺に抱きついてまで礼を言う展開になったんですか?」

「ここまで聞いても何も思い出せないのか……。あのな、「京子のようなタイプは『才能に惚れるタイプ』だから、コイツを落としたかったら囲碁棋士になれ」って言ったんだよ」

 これを聞いてひとつ思い当たる節がある。そしてなぜ司に女性の口説き方を説いて聞かせたのかも。

 しかしまだ納得できない箇所がある。

「それがなぜ京子が俺に抱きつくんですか?あれほど俺を嫌ってるのに」

「それは俺にも分からん」

 武士沢はそうキッパリと一言で締めてしまった。



 その翌週の岡本門下の研究会。三嶋は何となく京子と顔を合わせ辛かった。

 だが、いつものように学校から帰ってきて研究会に混ざると、いつものように三嶋に悪態をつき、「ブシさんは幻でも見ていたのでは?」と思わずにはいられなかった。
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