GIVEN〜与えられた者〜

菅田佳理乃

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手筋編

親しい人間を騙しきる方法(後編)

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 無意識に体が動いていた。気づいたら、頭から倒れこむ畠山京子の腕を掴み自分の方に抱き寄せていた。

 マイクだけが壇上から落ちた。会場にハウリング音が響く。その音に富岳の声は掻き消された。

 笑いが起こっていた会場内は一瞬で悲鳴に変わった。

「おい畠山!しっかりしろ!」

 京子は富岳の呼び掛けに応えない。白目を剥いて気を失っている。やっと異常に気づいた武士沢が京子に駆け寄る。

「どうした!?」

「熱があるみたいです」

 富岳が京子の首筋に手を当てる。武士沢も京子の額に手を当てる。興奮してる武士沢でも、はっきりと分かる熱さだった。

「いつからこんなに熱が!?」

 武士沢は全く気づかなかった。羽田空港からずっと行動を共にしていたのに。食事も常に一緒だった。昨夜はホテル近くの焼肉屋に足を運び、京子は一人で10人前の肉をペロリと平らげていた。だから体調は全く問題無いと思っていた。

 注意深く京子を観察していたつもりだが、自分の事で精一杯で、京子を気遣う余裕がなかったようだ。

 人一倍責任感の強い武士沢は、京子が倒れるまで我慢させてしまった事を恥じた。

「それより早く医務室に運びましょう」

 出場者である自分はここを離れられない。武士沢もだ。誰か医務室に運んでくれる人物を探す。富岳は周囲を見渡す。視界の隅に何かを覗き込む仕草をする中年男の顔が映った。倒れた京子のスカートの中を覗き見しようとしている。

 (この変態が!)

 富岳は着ていたジャケットを脱ぐと、京子に掛けた。

「おい、どうした!?」

 三嶋だった。会場の一番後ろのほうで中国人女性のナンパに精を出していたが、さすがにこの騒ぎに駆けつけた。

「畠山のやつ、熱があるみたいなんです」

「京子がか!?」

 気持ちはわかる。こうして倒れなければ畠山京子は人外の生物だと言われても信じるくらい生命力が強いから。こんな状態でなければ三嶋に「今倒れているのは畠山京子ではない別人なのか?」と突っ込みたいくらいだが、それどころではなかった。韓国の職員も漸く状況を把握して、駆けつけた。

 富岳は韓国語で京子は熱があるようだと伝えると、どうやって京子を医務室まで運ぶか、という相談が始まった。女とはいえ、京子のこの身長だとそこそこ体重もあるからだ。

「三嶋さん。畠山をおんぶして運べますか?」

 三嶋は一瞬言葉に詰まる。自分のほうが京子より背が低いからだ。しかし三嶋大成という男はこういう場面において負けず嫌いを発揮する、見栄っ張りな人物だった。

「ああ、任せろ」

 武士沢と富岳、二人がかりで三嶋に京子をおんぶさせる。その際、富岳は京子の腹に自分のジャケットを巻き付けた。まだ例の男が京子のスカートの中を覗き見していたからだ。

 三嶋はよろけながらも京子をおぶさり、先導する韓国の職員の後に付いていった。


 富岳は一息つくと、ステージ下にいた韓国職員にマイクを拾うよう頼んだ。マイクを元の位置に戻す。

 会場内はまだ騒然としている。無理もない。優勝者が突然倒れて、おんぶされて会場を後にしたのだから。

 富岳はマイクに向かって、韓国語で話し始めた

《えー、驚かせてしまって、すみませんでした。恐らく畠山京子が倒れた原因は、食べ過ぎだと思われます。昨日、一人で焼き肉を10人前食べてましたから》

 全員きょとんとする。畠山京子という人間をよく知らない日本人以外が「10人前!?嘘だろう?」という表情をしている。

 富岳は京子達とは食事で同席していない。適当に言ってみただけだ。後になって三嶋から聞いたら、本当に焼き肉10人前を平らげていたそうだ。


《ですから、もしどこかで畠山が食事しているのを見かけたら、こう注意して下さい。「9人前までにしておけ」と》

 会場に笑いが起こった。「9人前じゃ、たいして変わらない」と富岳にツッコむ者もいた。

 司会者が安堵する。あの空気の中で式を続けるのは無理ではないかと思い、中断も視野に入れていたからだ。

 今度は武士沢がマイクの前に立つ。順番的には京子の次だったからだ。

《妹弟子がちょっと調子にのってばちが当たったみたいです》

 富岳に負けじと武士沢もこう言うと、さっきまでの重い空気はすっかり浄化されていた。



 ●○●○●○



 京子は真っ白い天井の部屋で目を覚ました。

 横になったまま辺りを見回す。と同時に、今まで自分は何をしていたのか、ここは何処なのか、何故ここにいるのか、どうやってこの場所に来たのかを思い出してみる。

「起きたか?」

 武士沢が京子の顔を覗きこんだ。武士沢のこの表情ひとつで全ての疑問の答えに辿りついた。

「武士沢さん……。今、何時ですか?」

 武士沢は腕時計を見る。

「12時を回った所だよ」
「へっ!?夜中の!?飛行機の時間!」

 京子は勢いよくベッドから起き上がる。夕方に日本に帰る予定だったのだ。

 起き上がってから京子は気づいた。着替えさせられている事に。薄手のパジャマのような物だった。そして右腕には点滴の管が付いていた。おそらくここは病院で、あの後自分は病院に搬送されたのだと推測した。

「皆はもうとっくに帰ったよ」

「……ですよね。すみませんでした。私に付き合わせて……。あの、私の服は?」

「ああ。そこのロッカーの中に入っているよ」

 京子が眠っていたベッドの脇にロッカーが置かれてあった。京子は体の向きを変え、ロッカーの扉を開けた。きちんとハンガーに掛けてあった。几帳面な武士沢がやったのだろう。

 京子のワンピースに隠れてもう一着、ジャケットが掛けられてあった。濃紺の男物だった。なぜか袖が縒れて皺だらけだ。

「武士沢さん、これは?」

「ああ、それか。京子、スカート丈の短いのを履いてただろ。だから立花くんが気を利かせてスカートの中が見えないように掛けてくれたんだよ」

「立花さんが!?」

 今日、富岳が何色のスーツを着ていたか、思い出す。そうだ。濃紺だった。ジャケットに顔を近づける。風呂上がりのような、石鹸のような爽やかな香りがする。間違いなく富岳の物だと京子には分かった。さらに顔を近づけようとして、我に返る。これ以上やったら変態だ。それに武士沢が見ている。


「京子。具合が悪いのに気づかなくて、すまなかった」

 武士沢が頭を下げる。京子は慌てた。

「やめて下さい!武士沢さんは悪くないです!私が黙ってたんだから!」

「いつから具合が悪かったんだ?」

「今朝からです……」

 焼き肉を10人前食べた所までは良かった。その後ホテルに戻り、風呂に入ろうとした時だった。

「ぬるいお湯しか出なかったんですよ。それでフロントに電話したんですけど、部屋を変えるとか、なんの対応もしてくれなくて。それでしょうがなく入ったんですけど、今度は部屋のエアコンが冷風しか出なくて、部屋が寒いってフロントに文句言ったらクレーマー扱いされて逆ギレされて」

 武士沢は大きな溜め息を吐いた。自分も過去に全く同じ経験があるからだ。今回は京子がターゲットになったらしい。

「毛布に包まって眠れば大丈夫かなと思ってたんですけど、朝御飯食べた後ぐらいから熱っぽくなって……。生まれてこのかた風邪をひいた事なかったんで、どれくらい熱があると倒れるかとか分かんなくて……。これくらいなら大丈夫かなって」

「俺に相談すれば良かったのに」

「武士沢さんも対局なのに、手を煩わせて対局に支障がでたらヤダなぁ、と……。でもこうして心配させてしまったんで……。武士沢さんの言う通り、相談すれば良かったですね。反省してます」

 普段なら気軽に俺達に相談する。三嶋なんて相談どころか命令するぐらいこき使っている。

 俺が世界戦での優勝経験が無いなんて話をしなければ、京子もここまで気を使わなかっただろう。明らかに自分の落ち度だ。

「いいや。俺もちゃんと海外のホテルでのトラブルの対処法を伝えておけばよかったんだ。すまなかった」

 京子は院生ではなかった。院生であれば、海外研修の時にトラブルの対処法も勉強しているのに。失念していた。


 それよりも今回、京子が倒れてしまった原因だ。本人はホテルの空調のせいだと言っている。確かに引き金になったのはそのせいだろう。だが、そもそも引き金を引いただけでは弾丸は出てこない。弾丸を込めないと。武士沢が思うに、その弾丸となったのが……。

「会社の仕事を少し減らしたらどうだ?春休み中、ずっと秋田と東京を行き来してたんだろう。疲れが貯まってたんじゃないか?」

「あ、はい。実は、今年度から仕事の殆どを信頼できる人達に任せようと動いてたんです。
 ずっとアルバイトに来てくれていた大学生の何人かが圃畦塾うちに就職してくれまして、塾の経営はその人達に任せて私は相談役に退こうかと。それで秋田での事業も、秋田市内に事務所を構えて本格的に始動することになったんで、秋田での事業は秋田の従業員の皆に任せようかと。なので私は名ばかり社長になります」

「……つまりこうなったのは、そのために頑張り過ぎた結果、と」

「ですね。武士沢さんにもKーHOうちの会社の事業計画を伝えておけば良かったです」

 色々やっているのは知っていたが、秋田でも事業がどうとか、自分の知ってる以上の話が出てきて驚いた。でも、こんな騒動を起こせば、もう京子も無理をしようとは思わないだろう。何より師匠の岡本を心配させる結果になったのだから。

 武士沢は既に岡本には連絡済みだと京子に伝えた。そして岡本から預かっていた伝言を京子に伝えた。

「日本に帰ってきたら、大きな病院で精密検査を受けろ、ってさ」

 京子がそれを聞いて、あからさまに嫌な顔をしているところに、看護師が様子を見に来た。起きている京子を見て医師を連れてきた。医師も看護師も片言ながら日本語を話せた。すっかり熱は下がっていて、他に異常も無かったので、二人はホテルに帰ることにした。


 横峯が京子と武士沢のためにもう一泊分予約してくれていた。京子の部屋は昨日泊まったのとは違う部屋で、安堵した。

 京子は部屋に入ろうとして、武士沢に呼び止められた。

「ああ、そうだ。さっき言い忘れたけど、日本に帰ったら立花くんにお礼を言っておけよ。京子がステージから落ちそうになったのを助けてくれたのも立花くんなんだ」

 鳩が豆鉄砲を食らってもこんな表情はしないだろうというほど京子は驚いていた。

「そうですか。わかりました」

 京子はおやすみを告げると部屋に入っていった。武士沢は京子がちゃんと部屋の鍵を掛けたのを見届けてから、自分も部屋に入った。


 京子は部屋の照明を点ける。ホテルに預けていた荷物のキャリーバッグをベッド脇に置き、バックパックは机の上に置いた。それから病院から持ってきた富岳のジャケットをベッドの上に置いた。その横に京子は腰かけた。左手でそっとジャケットに触れる。

 まさか自分を助けたのが富岳だとは思いもしなかった。むしろ後ろから蹴られてもおかしくない関係だ。

 倒れた時の事をなんとか思い出そうとする。マイクの前に立った所までは覚えているが、その先は何を喋ったのかすら思い出せない。

「ちゃんとクリーニングに出して返さないと……」

 袖がしわしわだ。

 (こんなに皺になるほどしっかり結んで……ん?待って。武士沢さん、なんて言ってたっけ!?)

 ついさっき病院での武士沢との会話を、できるだけ鮮明に思い出してみる。

 『スカート丈の短いのを履いてただろ。だから立花くんが気を利かせてスカートの中が見えないように掛けてくれたんだよ』

 と言っていた気がする。

 (つまり私、立花さんから腰に手を回された!?)

 その場面を想像して、急に顔が熱くなる。自分の至近距離に富岳の顔があるのを。

 (武士沢さん、いない時で良かった……)

 両手で顔を扇ぐ。この気持ちは誰にも悟られたくない。知られたくない。松山愛梨華には話したが、それは松山は棋士ではないし、恋愛経験豊富で相談相手にはもってこいだったから。ストレスを溜めないよう、捌け口として相談役になって欲しかったからだ。

 それにこの気持ちを成就させたいとも思わない。それ以上に、『どこでもドア』を完成させたいからだ。恋愛などしている暇など無い。

 それに成就出来るとも思っていない。自分は富岳に嫌われているのを知っている。初対面で病院送りにされた女など、恋愛対象にはならないだろう。それに富岳も京子を「狂暴女」だの「クマ」だの、京子をこれっぽっちも女性とは思っていない発言をしている。それに事あるごとに司を送りこんでくる。富岳は相当司と京子をくっつけたいと思っているようだ。

 だからこのままでいい。囲碁棋士として、お互いライバルとしての関係を続けられれば。おそらく男女の関係になるより、その方が気が楽だ。


 でも。

「今だけは、いっか」

 京子は富岳のジャケットをそっと持ち上げ、抱き締めた。風呂上がりのボディソープのような、ほっとする香りが鼻腔をくすぐる。

 京子はその日、富岳のジャケットを抱き締めて眠った。
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