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第八話 漂動
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いつ寝てしまったのか覚えていない。確か、電気をつけっぱなしで眠ってしまったはずだった。でも瞼は閉じていても辺りが暗いことがわかる。一瞬どうして目が覚めたのか分らなかった。明け方にしては暗すぎる。でもその疑問はすぐに慧牙は分かった。
呼吸が苦しいのだ。気道が狭くなっていて息が上手く吸えない。意識して頑張って吸わないと呼吸ができなくなっていた。
くそっ。
子供の頃に比べて格段に喘息の発作が出る回数は激減した。けれども、季節の変わり目や環境が変わったり、風邪を引いた時には決まって発作が出ていた。
慧牙は心の中で舌打を打ちながら、寝ていると余計に呼吸が苦しくなるため、ゆっくりと上体を起こした。
胸に強く手を当てて呼吸を助けるような体勢をとる。何度か苦しそうに息を繰り返す。その時、慧牙は突然灯りをつけると、ダウンジャケットを慌てたように手に取ると、内ポケットを漁った。
ここは実家だった。発作起こしたらまたあいつがここに来る! それだけは嫌だ!
ポケットの中から吸入器を取り出すと、急いで口に当てて立て続けに二回押し込んだ。霧状の薬が喉の奥へと入ってくる。入ってくると同時に薬の味が広がった。吸入を終えて、俯いたまま意識を胸に集中させて息をする。
大丈夫かな……。
それほど大きな発作ではなかった為、すぐに呼吸が楽になっていくのを感じた。ホッとした慧牙は息が落ち着き始めると咄嗟にドアの方を見やった。
もしかしたら琉牙が感づいて入ってくるかもしれない。その嫌な考えが頭を過ぎったからであった。しかし、琉牙がここへ来る気配はなく、今の発作は気づかれなかったと再び安心した慧牙は壁に背中を預けた。
寝ている間、思うように呼吸ができなかったせいで頭の中がぼんやりとしている。久々に実家で寝たのがいけなかった。
やっぱ環境変わると駄目だな……。
しばらくの間ベッドの上で呼吸が正常に戻るのを待つ。そして意識しなくても呼吸ができるようになった頃、慧牙はジーンズのポケットに入れてある携帯を取り出して時間を確認した。まだみんなが起き出すには早く、電車も動いていない時間帯であった。
多分この家の中で、今起きているのは慧牙だけだろう。みんなはまだ夢の中だ。慧牙はあまり音を立てないようにベッドから出ると、椅子にかけてあった服を取ると着替えはじめた。
朝まで待って家族の顔を見てから帰ってもよかったが、実はさきほどの発作が琉牙にばれていたら。ということを警戒したからであった。軽い発作だった為に慧牙のところへ来る程度ではなかったが、感づいているかもしれない。そうなると、朝になってあいつと顔を会わせた時、また癇に障ることを言われるかもしれない。慧牙は琉牙に対して余程敏感になっているようだった。
あまり物音を立てないように着替えを終えると、慧牙は慎重にドアを開けた。いつ建てられた家なのか慧牙は正確には知らなかったが、家はかなり年季が入っており音を立てないように静かにドアを開けても軋む音が出てしまう。
僅かに出る音に慧牙は顔をしかめながらも部屋から廊下へと身を移すと、足を置いた箇所からもミシッっと音が出た。誰にも気づかれていないか急いで慧牙は辺りに目を配る。自室のすぐ隣にある将の部屋、そこから少し離れた所に琉牙の部屋がある。長兄である和哉の部屋は慧牙達の部屋とは反対方向、階段側の方にある一番大きな部屋だ。慧牙は階段目指して、廊下を忍び足で進み始めた。
『…………』
階段まで辿り着き、階下へ降りようとしたその時。昨日、実家に戻ってきたときに聞こえてきた奇妙な声が慧牙の耳元に入り込んできた。
「また……かよっ」
まさに片足を階段にだしていた足がそのままの姿勢で止まる。小さく呟いた慧牙は昨日聞こえてきた全く同じ声のような音に怒りを感じた。その怒りは恐怖を追いやるための防衛反応かのようだった。鋭い目つきをしたままその場で固まった慧牙は静寂を破る音に注意を向けた。怒りを覚えながらも、自らの意思とは正反対に全身に寒気が走る。背筋に何かを感じたような気がして、慧牙は反射的に振り返った。
『…………!』
昨日聞こえた時よりも、その声は長く聞こえる。そして、慧牙に対して、何かを訴えているような気がしてならなかった。けれどもその声ははっきりとは聞こえない。日本語ではないような、どこか外国の言語のようにも感じられるが、なにぶんその音は小さく、聞き取りづらかった。
そして慧牙はふと思い出した。この言葉をどこかで聞いたことがある、と。けれどもその声は遠く、聞き取りづらい為にどこかで聞いたことがある、としか分らなかった。
『……』
——んだよ、言いたいことあるならはっきり言いやがれ。心の中で慧牙は悪態をつくと、それまで止めていた足を階段に落として、声を無視するかのように階下へと降りた。絶えず聞こえてくる声をよそに、慧牙は玄関で靴を履こうとしたときだった。
『…………ケイ、ガ』
それまで、何を言おうとしているのか分らなかった声の中に自身の名前を聞き取った瞬間、頭の中が真っ白になり、心拍数が跳ね上がった。開いた口をそのままに慧牙は改めて周囲を見渡す。けれどもそこには誰もいない。それでも慧牙は暗い玄関からリビングへと続く廊下や、階段に注意を向けた。玄関から入って左に折れている廊下、その廊下の脇にある階段。そして玄関から見て真向かいには父親がいつも書道で使用している和室がある。慧牙はその和室の障子にも注意を向けた。
『……ケイガ』
また名前を呼ばれる。今度はさきほどよりももっとはっきりと聞こえた。慧牙は頭を押さえてどうして自分が呼ばれるのか考え始めた。気味が悪いということで、すぐに実家かえあ飛び出す気にはならなかった。最初にこの声が聞こえたのは夢の中だった。その後、目が覚めてまたすぐに聞こえてきた。夢の中でもその後も呼ばれているような気はしていた。今もそうだ。それに今ははっきりと俺の名前を呼んでいるのが分る。
幽霊か? 多分そうだろうな。それしか考えられない。でも今まで霊感なんて感じたことなかった。なんで突然、そういうのがわかるようになったんだ?
『ケイガ……』
再び名前を呼ばれる。
『ケイ、ガ……ケイガ、……ケイガ、ケイ……』
だんだんと声は慧牙の名だけを呼んでいるようで、何度も自分の名前が聞こえてきた。呼ばれるたびに慧牙は胃から感じる気持ち悪さとともに、その声の発している場所へと行かなければいけないような気がしてきた。どうしてそう思ったのかは分らなかった。名前を呼ばれ続けることで一種の洗脳のような感覚に陥り始めたのかもしれなかった。
『ケイガ!!!』
それまで微かに聞こえていたはずの声が、耳元に口を近づけて叫ばれた時ぐらいの大きさを持って呼ばれた。恐怖が全身を貫き、心臓が止まりそうになるほど驚いた慧牙はビクッと身体を震わせると、足から力が抜け落ちてその場にガクリと腰を降ろした。
半ば放心状態に陥った慧牙は、もう何も考えられずただ無意識に這うように和室へと向った。障子のすぐ傍まで辿り着くと、膝を床につけたままの状態で、震える手で障子をゆっくりと空ける。真っ暗は和室の中は、父親がいつも使う墨汁の匂いが微かに残っていた。和室に入ると、部屋の奥、地窓のある方へと歩いて行った。地窓から見える景色は実家の庭とその奥は雑木林だ。慧牙は地窓を開けると、玄関からではなくそこから庭のほうへと出てしまった。まだ雪深い季節である。それなのに慧牙は冷たさを感じないのか裸足で雪の中を歩き始めた。
庭を抜けてそのまま雑木林の生えている山の方へと行く。昔よく四人で遊びまわった雑木林だった。一見するとどこも同じ景色にしか見えないが、二つの木が捩じれるように生えている場所や、木登りをして落ちたことのある木など、勝手しっているところだ。数十メートルいくとひと際大きな白樺の木があり、そこはよくみなで秘密基地にして遊んでいた場所だった。白樺の木のすぐそばにはこの辺りではみかけない大きな白い色をした岩がある。雪のほとんど埋もれて見えないが、慧牙はその白い岩のところで膝まづくと、なぜか雪を掻きだした。
もちろん、今の父親である白野岳は雑木林で遊んでいることを知っていた。けれども岳はそこで遊ぶことを禁止するわけでもなく、一緒に遊ぶこともあった。
声はここから聞こえてると確信していた。
『……ケイ』
また声が聞こえた。慧牙は覚悟したように一度ギュッと目をつむると、さらに雪を取り除く。手が真っ赤になっていた。足の裏も赤くなっている。冷たい冷気が耳をちぎろうとしていた。鼻の奥が寒さで痛みをあげている。
『…………!』
再び声が聞こえてくる。何かを必死で訴えているような声にも聞こえた。日本語ではないでも聞き覚えのある言葉。
外人の幽霊かよ、慧牙はそう思いながら無我夢中で白い岩を掘っていた。手がもう限界だった。これ以上触りたくないと必死に訴えている。声もまた慧牙を必死に訴えてくる。
「さっきから一体誰なんだよっ!」
慧牙は自分で何をしているのか、どうしてこんなことをしなければならないのかと自問自答しながら叫んだ。
白い岩の上が三十cm程顔をだした。雪に埋もれた白い岩。よくこの白い岩からジャンプして遊んだりしていた。一度すぐ横の白樺の木から落ちてしまい、この岩に頭をぶつけて病院に運ばれたことを思い出す。
「懐かしいな……」
なだらかな曲線を描く白い岩をそっと撫でた。
『……タス……ケテ』
またあの声が聞こえてきた。そして今聞こえてきた声はこれまでと違い、はっきりと何を言っているのか分る声であった。そして日本語ではない言語なのにも関わらず、慧牙はその声が何を言ったのか理解した。
慧牙の頭上からはっきりと降ってきた声。慧牙は咄嗟に空を見上げる。辺り一面白い世界では、夜でも外は明るい。ちりひとつないピンと張りつめた冷たく清浄な空気。夜空が木々の合間から垣間見えた。
上から聞こえる、間違いない。でも、一体誰なんだ? ——もしかして。
声の主は確かに慧牙に救いを求めている。慧牙はどうしても声のするところへ行きたくなった。
助けて、と。その声のする方に行きたかった。でも声のする方へは行くことができない。そこには空と木々しかない。
慧牙はどうにかしてそこへ行く方法がないのか考えた。けれども何一つ思いつかない。これ以上どうすることもできなくなった慧牙は苛立ち始めた。そして白い岩のすぐ横に生えている大きな白樺の木を登り始めた。どうしてもそこへ行きたい! 慧牙はただ強く願った。
どうして声のする方へ行きたいのか理由は分らない。ただ、そうしなければならない。そう考えるだけだった。空を見つめながら木を登る。そして岩のある方角へと左手を伸ばした。その時、突如として風が発生した。風は慧牙の周りを取り巻くようにが踊る。雪が舞い上がり冷たい粒が顔にあたった。
風によって慧牙の銀色の髪がふわりと舞った。けれども慧牙はそのことに気づきもせず、ただひたすらに手を伸ばした。先ほどまでただの夜空でしかなかった場所に黒い染みのようなものが幾つも浮かんできた。その染みは次第に広がり、墨をこぼしたかのように真っ黒になって行く。
白い岩の上空一面が黒くなった頃、周囲の空気が波打つのを慧牙は見た。あまりの驚きに言葉を失った。ただ真っ黒に塗りつぶされた箇所を見つめる。それはまるで空にブラックホールでもできてしまったかのようであった。
天地が逆になったような感覚。慧牙は眩暈を覚えた。耳鳴りのように連続して聞こえてくる自分を呼ぶ声。慧牙は吐き気を覚えて木から手が離れる。
その瞬間、身体が宙に浮き上がっていた。
呼吸が苦しいのだ。気道が狭くなっていて息が上手く吸えない。意識して頑張って吸わないと呼吸ができなくなっていた。
くそっ。
子供の頃に比べて格段に喘息の発作が出る回数は激減した。けれども、季節の変わり目や環境が変わったり、風邪を引いた時には決まって発作が出ていた。
慧牙は心の中で舌打を打ちながら、寝ていると余計に呼吸が苦しくなるため、ゆっくりと上体を起こした。
胸に強く手を当てて呼吸を助けるような体勢をとる。何度か苦しそうに息を繰り返す。その時、慧牙は突然灯りをつけると、ダウンジャケットを慌てたように手に取ると、内ポケットを漁った。
ここは実家だった。発作起こしたらまたあいつがここに来る! それだけは嫌だ!
ポケットの中から吸入器を取り出すと、急いで口に当てて立て続けに二回押し込んだ。霧状の薬が喉の奥へと入ってくる。入ってくると同時に薬の味が広がった。吸入を終えて、俯いたまま意識を胸に集中させて息をする。
大丈夫かな……。
それほど大きな発作ではなかった為、すぐに呼吸が楽になっていくのを感じた。ホッとした慧牙は息が落ち着き始めると咄嗟にドアの方を見やった。
もしかしたら琉牙が感づいて入ってくるかもしれない。その嫌な考えが頭を過ぎったからであった。しかし、琉牙がここへ来る気配はなく、今の発作は気づかれなかったと再び安心した慧牙は壁に背中を預けた。
寝ている間、思うように呼吸ができなかったせいで頭の中がぼんやりとしている。久々に実家で寝たのがいけなかった。
やっぱ環境変わると駄目だな……。
しばらくの間ベッドの上で呼吸が正常に戻るのを待つ。そして意識しなくても呼吸ができるようになった頃、慧牙はジーンズのポケットに入れてある携帯を取り出して時間を確認した。まだみんなが起き出すには早く、電車も動いていない時間帯であった。
多分この家の中で、今起きているのは慧牙だけだろう。みんなはまだ夢の中だ。慧牙はあまり音を立てないようにベッドから出ると、椅子にかけてあった服を取ると着替えはじめた。
朝まで待って家族の顔を見てから帰ってもよかったが、実はさきほどの発作が琉牙にばれていたら。ということを警戒したからであった。軽い発作だった為に慧牙のところへ来る程度ではなかったが、感づいているかもしれない。そうなると、朝になってあいつと顔を会わせた時、また癇に障ることを言われるかもしれない。慧牙は琉牙に対して余程敏感になっているようだった。
あまり物音を立てないように着替えを終えると、慧牙は慎重にドアを開けた。いつ建てられた家なのか慧牙は正確には知らなかったが、家はかなり年季が入っており音を立てないように静かにドアを開けても軋む音が出てしまう。
僅かに出る音に慧牙は顔をしかめながらも部屋から廊下へと身を移すと、足を置いた箇所からもミシッっと音が出た。誰にも気づかれていないか急いで慧牙は辺りに目を配る。自室のすぐ隣にある将の部屋、そこから少し離れた所に琉牙の部屋がある。長兄である和哉の部屋は慧牙達の部屋とは反対方向、階段側の方にある一番大きな部屋だ。慧牙は階段目指して、廊下を忍び足で進み始めた。
『…………』
階段まで辿り着き、階下へ降りようとしたその時。昨日、実家に戻ってきたときに聞こえてきた奇妙な声が慧牙の耳元に入り込んできた。
「また……かよっ」
まさに片足を階段にだしていた足がそのままの姿勢で止まる。小さく呟いた慧牙は昨日聞こえてきた全く同じ声のような音に怒りを感じた。その怒りは恐怖を追いやるための防衛反応かのようだった。鋭い目つきをしたままその場で固まった慧牙は静寂を破る音に注意を向けた。怒りを覚えながらも、自らの意思とは正反対に全身に寒気が走る。背筋に何かを感じたような気がして、慧牙は反射的に振り返った。
『…………!』
昨日聞こえた時よりも、その声は長く聞こえる。そして、慧牙に対して、何かを訴えているような気がしてならなかった。けれどもその声ははっきりとは聞こえない。日本語ではないような、どこか外国の言語のようにも感じられるが、なにぶんその音は小さく、聞き取りづらかった。
そして慧牙はふと思い出した。この言葉をどこかで聞いたことがある、と。けれどもその声は遠く、聞き取りづらい為にどこかで聞いたことがある、としか分らなかった。
『……』
——んだよ、言いたいことあるならはっきり言いやがれ。心の中で慧牙は悪態をつくと、それまで止めていた足を階段に落として、声を無視するかのように階下へと降りた。絶えず聞こえてくる声をよそに、慧牙は玄関で靴を履こうとしたときだった。
『…………ケイ、ガ』
それまで、何を言おうとしているのか分らなかった声の中に自身の名前を聞き取った瞬間、頭の中が真っ白になり、心拍数が跳ね上がった。開いた口をそのままに慧牙は改めて周囲を見渡す。けれどもそこには誰もいない。それでも慧牙は暗い玄関からリビングへと続く廊下や、階段に注意を向けた。玄関から入って左に折れている廊下、その廊下の脇にある階段。そして玄関から見て真向かいには父親がいつも書道で使用している和室がある。慧牙はその和室の障子にも注意を向けた。
『……ケイガ』
また名前を呼ばれる。今度はさきほどよりももっとはっきりと聞こえた。慧牙は頭を押さえてどうして自分が呼ばれるのか考え始めた。気味が悪いということで、すぐに実家かえあ飛び出す気にはならなかった。最初にこの声が聞こえたのは夢の中だった。その後、目が覚めてまたすぐに聞こえてきた。夢の中でもその後も呼ばれているような気はしていた。今もそうだ。それに今ははっきりと俺の名前を呼んでいるのが分る。
幽霊か? 多分そうだろうな。それしか考えられない。でも今まで霊感なんて感じたことなかった。なんで突然、そういうのがわかるようになったんだ?
『ケイガ……』
再び名前を呼ばれる。
『ケイ、ガ……ケイガ、……ケイガ、ケイ……』
だんだんと声は慧牙の名だけを呼んでいるようで、何度も自分の名前が聞こえてきた。呼ばれるたびに慧牙は胃から感じる気持ち悪さとともに、その声の発している場所へと行かなければいけないような気がしてきた。どうしてそう思ったのかは分らなかった。名前を呼ばれ続けることで一種の洗脳のような感覚に陥り始めたのかもしれなかった。
『ケイガ!!!』
それまで微かに聞こえていたはずの声が、耳元に口を近づけて叫ばれた時ぐらいの大きさを持って呼ばれた。恐怖が全身を貫き、心臓が止まりそうになるほど驚いた慧牙はビクッと身体を震わせると、足から力が抜け落ちてその場にガクリと腰を降ろした。
半ば放心状態に陥った慧牙は、もう何も考えられずただ無意識に這うように和室へと向った。障子のすぐ傍まで辿り着くと、膝を床につけたままの状態で、震える手で障子をゆっくりと空ける。真っ暗は和室の中は、父親がいつも使う墨汁の匂いが微かに残っていた。和室に入ると、部屋の奥、地窓のある方へと歩いて行った。地窓から見える景色は実家の庭とその奥は雑木林だ。慧牙は地窓を開けると、玄関からではなくそこから庭のほうへと出てしまった。まだ雪深い季節である。それなのに慧牙は冷たさを感じないのか裸足で雪の中を歩き始めた。
庭を抜けてそのまま雑木林の生えている山の方へと行く。昔よく四人で遊びまわった雑木林だった。一見するとどこも同じ景色にしか見えないが、二つの木が捩じれるように生えている場所や、木登りをして落ちたことのある木など、勝手しっているところだ。数十メートルいくとひと際大きな白樺の木があり、そこはよくみなで秘密基地にして遊んでいた場所だった。白樺の木のすぐそばにはこの辺りではみかけない大きな白い色をした岩がある。雪のほとんど埋もれて見えないが、慧牙はその白い岩のところで膝まづくと、なぜか雪を掻きだした。
もちろん、今の父親である白野岳は雑木林で遊んでいることを知っていた。けれども岳はそこで遊ぶことを禁止するわけでもなく、一緒に遊ぶこともあった。
声はここから聞こえてると確信していた。
『……ケイ』
また声が聞こえた。慧牙は覚悟したように一度ギュッと目をつむると、さらに雪を取り除く。手が真っ赤になっていた。足の裏も赤くなっている。冷たい冷気が耳をちぎろうとしていた。鼻の奥が寒さで痛みをあげている。
『…………!』
再び声が聞こえてくる。何かを必死で訴えているような声にも聞こえた。日本語ではないでも聞き覚えのある言葉。
外人の幽霊かよ、慧牙はそう思いながら無我夢中で白い岩を掘っていた。手がもう限界だった。これ以上触りたくないと必死に訴えている。声もまた慧牙を必死に訴えてくる。
「さっきから一体誰なんだよっ!」
慧牙は自分で何をしているのか、どうしてこんなことをしなければならないのかと自問自答しながら叫んだ。
白い岩の上が三十cm程顔をだした。雪に埋もれた白い岩。よくこの白い岩からジャンプして遊んだりしていた。一度すぐ横の白樺の木から落ちてしまい、この岩に頭をぶつけて病院に運ばれたことを思い出す。
「懐かしいな……」
なだらかな曲線を描く白い岩をそっと撫でた。
『……タス……ケテ』
またあの声が聞こえてきた。そして今聞こえてきた声はこれまでと違い、はっきりと何を言っているのか分る声であった。そして日本語ではない言語なのにも関わらず、慧牙はその声が何を言ったのか理解した。
慧牙の頭上からはっきりと降ってきた声。慧牙は咄嗟に空を見上げる。辺り一面白い世界では、夜でも外は明るい。ちりひとつないピンと張りつめた冷たく清浄な空気。夜空が木々の合間から垣間見えた。
上から聞こえる、間違いない。でも、一体誰なんだ? ——もしかして。
声の主は確かに慧牙に救いを求めている。慧牙はどうしても声のするところへ行きたくなった。
助けて、と。その声のする方に行きたかった。でも声のする方へは行くことができない。そこには空と木々しかない。
慧牙はどうにかしてそこへ行く方法がないのか考えた。けれども何一つ思いつかない。これ以上どうすることもできなくなった慧牙は苛立ち始めた。そして白い岩のすぐ横に生えている大きな白樺の木を登り始めた。どうしてもそこへ行きたい! 慧牙はただ強く願った。
どうして声のする方へ行きたいのか理由は分らない。ただ、そうしなければならない。そう考えるだけだった。空を見つめながら木を登る。そして岩のある方角へと左手を伸ばした。その時、突如として風が発生した。風は慧牙の周りを取り巻くようにが踊る。雪が舞い上がり冷たい粒が顔にあたった。
風によって慧牙の銀色の髪がふわりと舞った。けれども慧牙はそのことに気づきもせず、ただひたすらに手を伸ばした。先ほどまでただの夜空でしかなかった場所に黒い染みのようなものが幾つも浮かんできた。その染みは次第に広がり、墨をこぼしたかのように真っ黒になって行く。
白い岩の上空一面が黒くなった頃、周囲の空気が波打つのを慧牙は見た。あまりの驚きに言葉を失った。ただ真っ黒に塗りつぶされた箇所を見つめる。それはまるで空にブラックホールでもできてしまったかのようであった。
天地が逆になったような感覚。慧牙は眩暈を覚えた。耳鳴りのように連続して聞こえてくる自分を呼ぶ声。慧牙は吐き気を覚えて木から手が離れる。
その瞬間、身体が宙に浮き上がっていた。
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