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第3章
§26‐2 濡れる蕾の香り*
しおりを挟む「グレン……」
名を口にしたら、もうダメだった。
シャワーの水流にも負けず劣らず、どんどん涙が溢れてくる。
頬を伝う温度が、湯と涙で区別できない。嗚咽に合わせて肩が震え、指が床の目地を探る。
グレンは俺が近くにいても全然平気なのに、俺は平気じゃない。
俺はこんなにグレンに触れて欲しいのに、言えない。
はしたない思われたらと、怖くて涙が止まらない。
嫌われることを想像するだけで、胸の真ん中に大きな穴があく。情けなさと欲の狭間で、みっともなく溺れる。
「うぅ……どうしよう……グレンっ」
助けて、という唇の形になる前に、扉の向こうの気配が動いた。
浴室のドアが勢いよく開いたせいで金具が衝撃音を出す。湯気が外気を抱き込んで一瞬ふくらむ。
「ライゼル!! 大丈夫か!?」
入り口近くに置いてあった洗面用具が転がる。
グレンは俺に駆け寄って背に手を回し、シャワーの水を止める。
「ライゼル、どうした」
「……うっ、……グスッ」
「どうして泣いている」
グレンは俺の嗚咽に慌てながら、優しく抱きしめてくれる。低い声が、叱るでも責めるでもなく、ただ理由を探している。胸の奥がゆるりとほどける。
グレンは上半身の服だけ脱いできてくれたようで、ズボンは履いたまま。俺のせいですっかり濡れてしまっている。
どんな時でも守ろうとしてくれることに、心がきゅうっと痛むほど嬉しい。
「ごめ……なさい」
「何も悪いことなんかしていないだろう。ほら、おいで」
俺はまたひょいっとグレンに横抱きにされて運ばれる。大きなバスタブの横に置かれた椅子に腰掛け、膝の上に俺の身体を乗せる。
俺は自分の痴態を見られるのに耐えられず、グレンの視界を狭めようと首に腕を巻き付け思い切り抱きついた。
首元の毛並みに顔を埋めると、安心と羞恥が同時に押し寄せて涙がまた滲む。
「何かあるなら遠慮せずに言う、そう約束しただろう?」
「……でも」
喉の奥で丸まった感情が、言葉の形にほどけてくれない。耳に響く優しい声に涙が込み上げて、喉を塞いでしまう。
彼の手のひらが背をゆっくり上下して、呼吸の速さを整えてくれる。
誰かに自分の心の内を曝すことがこんなに怖いことだったなんて、知らなかった。
「……熱が、おさまらない」
「やり方が分からないのか」
グレンはどこまで俺を子供だと思っているのだろう。それくらい知ってる、と睨み返す。
すると、「すまない、揶揄うつもりはなかった」と額にキスされる。
「自分の手じゃ、……無理で」
「あぁ」
「……俺、すごく、はしたないことを」
「そんなことはない。何でも言ってくれ」
グレンならきっと受け止めてくれる。けれど、怖い。
思考と感情が鬩ぎ合って悶える俺の言葉を、グレンは静かに待ってくれる。
大きくてふわふわの身体。大の男の俺が思い切り抱きついてもびくともしない逞しい身体。俺をどうにかしようと思えば一捻りで捩じ伏せられる強い身体。
そんな身体の持ち主は、身体よりも何倍も大きな優しさと広い心を持っている。
俺は、それを十分知っているはずだ。
「……グレンに……してほしい」
口にして初めて、胸の重さが少し軽くなる。
言葉と一緒に溢れる涙にグレンが驚いた顔をして、そして申し訳なさそうに呟く。
彼の耳がわずかに伏せる。
「……悪かった。気づいてやれなくて」
「な、んで……グレンは悪くないでしょう」
「いいや、お前を不安にさせた。悪かった」
謝罪は短くて真っ直ぐで、言い訳が一つもない。そんなところがずるい。
俺の頭の後ろを撫でながら見つめられる。
目の前にグレンの顔があって、俺は悲しいんだか嬉しいんだか心臓が二つになったみたいにあべこべの感情に振り回される。
「俺はお前よりも少しだけ、隠すのが上手いだけだ。正式に婚礼の儀式を済ませてからお前に触れるのが誠意だと思ったんだ」
うん、分かってたよ。グレンのことだから、俺を大事にしたいと思ってくれているんだって。
それでも、今夜の俺は待てない。欲は理屈の外側で燃えている。
「だが、それでお前を泣かせることになるなら本末転倒だろう。だから今から、お前に触れる。……許しを」
息が喉で止まる。グレンの空色がぐっと深くなったのがはっきり見える。
真剣な眼差しは、獲物を狙う野生の狼のそれに似て。
怖くない。むしろ、その眼差しの先に選ばれていることが、嬉しくてたまらない。
「……おねがい、触って」
言葉が落ちた瞬間、胸の鎖が外れる音がした。差し出したのは、身体だけじゃない。――――俺の全部だ。
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