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第6章
§52‐4 変怪の暴威
しおりを挟む「よかった……」
「怪我はないか」
「うん。魔力はほとんど使い切ったけど……」
「頑張ったな」
頭の後ろに回った手が優しく撫でてくれる。硬い手袋越しでも伝わる、不器用な優しさ。大きくて、無骨で、けれど世界で一番優しい手。
俺はグレンの首元に鼻を埋めて彼の匂いを肺一杯に吸い込む。グレンの太陽の匂いと一緒に、土埃と汗の匂いも混ざっている。
硬い胸当て越しにも彼の力強い鼓動が伝わってくる。ドクン、ドクンと響くその音だけが、この地獄のような戦場で唯一確かなもののように思えた。
魔力はほとんど空だ。指先一本動かすのも億劫なほどの疲労感が全身を包んでいる。
それでも、この確かな温もりに包まれる限り、俺はまだ立てる。
「……無事で、よかった」
「うん、グレンも」
掠れた声でそれだけを告げると、グレンは俺の身体をさらに強く抱きしめた。
――――だが、この束の間の温もりに浸る時間を妨げる不穏な気配。
「……なんだ?」
抱擁の温もりとは真逆の、肌を粟立たせるような悪寒が背筋を走った。妙な気配に気づいて周りを見る。瞬きすること3回。切り離されたはずのドルゥーガの屍が、蠢くだけではなく、くっつきだしたのだ。
しかも、元々くっついていなかったもの同士が、一緒くたになって集合し始めている。まるで磁石に引かれる砂鉄のように。
「様子がおかしいな」
グレンも察知したのか、バノーテとフーベルへ警戒を呼び掛ける。
俺はすぐに気配を探る。すると、全てのドルゥーガの屍がひとどころに集まろうとしているのを感じる。
「……まずいぞ……ッ」
「アリュール! これは?」
カウカ、サノメ、アリュールが息を呑んで瞳を開く。
よくないことが起きていることだけは分かる。
固まったアリュールの首に手を添えると、ようやく口を動かしてくれる。
「……ドルゥーガが、冥界に棲む類のものへ変化している」
アリュールの声は、絶望を押し殺したように低く響いた。
「冥界……?」
「あぁ……改造された魔獣たち、獣、そして人族と獣人族、同時期に奪われた命の悲痛が魂を濁らせて混ざり合ってしまっている。本来、魂は混ざり合うことなく冥界に行くはずだが、悲痛や憎しみは強く影響し合う。想定しうる最悪の事態だ」
正直、アリュールの説明を聞いても意味が分からなかった。分かったのは今の状況が非常に危機的であるということ。それならば考えることは一つだ。
「どうすればあれを倒せる?」
「俺とサノメで焼き払う」
「待って……あれはもう通常の魔法が効く類のものじゃなくなってるよ」
「……グレン、ごめん……カウカの言う通りだ」
「くそ……ッ」
話しているうちにドルゥーガの屍は黒とも紫とも言えぬおどろおどろしい色になり固まっていく。
草木は枯れ、腐った匂いが漂う。すべての屍がひとつになり、縦に伸びていく。
あっという間に巨人のような……天を衝く絶望の象徴が出来上がった。
騎士と冒険者の精鋭たちですら、目の前の変怪に恐れをなし、その存在の前に膝が震えている。絶望を口にしないだけで精一杯の様子だ。
「アリュール! 対処法を教えてくれ」
俺は震える喉を無理やり開いた。俺の問いかけにアリュールが眉を寄せる。
「じょう……大精霊の手が空くのを待つか、ユーディア王国を鎮めた神たちを待つしかないだろう」
アリュールの言葉に嘘はないのだろう。だが、俺が長年の相棒であることを失念しているらしい。何かを隠していることくらい分かるよ。俺たちは、それほどの時を共に過ごしてきたのだから。
「アリュール、本当のことを言ってくれ。策がないわけじゃないんだろう」
「……」
俺の言葉を聞いて、アリュールが俯きながらギリリと歯を合わせる。
「……俺とカウカの魔力をすべてライゼルへ渡しながら、ライゼルの光属性魔法で浄化をすれば、恐らく消滅させられる」
アリュールが、苦渋に満ちた顔で告げる。
「だめだよ……ッ! そんなことをしたら、ライゼルの器が壊れて二度と魔法が使えなくなるかもしれないッ! 最悪の可能性だって……」
だめだめ、とカウカが悲鳴と共に首を振る。その勢いに合わせて涙が飛び散る。
大きい身体でも穏やかで優しいのは何も変わらない。その言葉の意味を、俺は痛いほど理解していた。
「カウカの言う通りだ。頼む、頼むから、」
「アリュール、カウカ。ダメだ。俺はやるよ。来ないかもしれない助けを待っている時間はない」
「ライゼル……」
瞳を潤ませるふたりを叱咤する。彼らにこんな役目をさせてしまうことが、何より辛い。
「ふたりが手伝ってくれないなら、俺ひとりでもやるから」
「魔力が底を尽きているくせに何を言う……ッ!」
そう。ドルゥーガが草木、土を瘴気でダメにしてしまうせいで、俺はいつもと違い、自然から魔力をもらうことができない。この汚された大地は、もう俺に力を貸す余力を持たない。
その状態でもし魔力が切れたら、生命力を削って発動させるしか方法がなくなる。想定しうる事態としてはあまり変わらないのである。
「ライゼル、頼むから考え直してくれ……!」
アリュールが悲痛な声を上げる。親友の悲痛な叫びが、胸を抉る。その横で、カウカはただ大粒の涙をこぼし、首を振り続けている。
彼らの友情が、針のように俺の胸を刺す。けれど、俺の決意は揺るがない。
ちらり、とグレンに視線を送る。
彼は、唇を固く引き結び、その空色の瞳で俺をただじっと見つめていた。
一国の王である彼が、この状況で俺を止めるという選択をしないことを、俺は知っていた。それがどれほど彼自身の心を裂くことになったとしても。だから、俺は彼に向かって微笑んだ。
大丈夫だ、と。グレンが守ろうとするこの国を、俺も守りたいのだと。
彼は止めない。それが、俺たちの間の絶対的な信頼の証であり、愛の形だった。
グレンがゆっくりと隣にやってくる。
やれやれ、とにわかに眉を垂らしている顔を見上げる。
頑固者でごめん、という笑みを添えて。
「今世でできなかったことは、来世に持ち越しだな」
努めて明るい声でグレンが言う。
「うん。このまま俺が先だったら、ゆっくりやりたいことを考えてきて」
「あぁ。またこの国に生まれる可能性もあるだろう、できるだけのことはやっておく」
「それでこそ俺の伴侶だ」
「全く……来世は絶対に玉座になど座らず、お前のためだけに生きるからな」
「ははっ、そうだね。そういう生き方も味わってみたいな」
「……ここまで言っておいて何だが。死ぬなよ」
「もちろん! そんなつもりはないよ。俺はグレンより長生きして盛大な葬送を企画したいんだから!」
「ハハッ! それはいいな!」
そんな会話を交わした二人は、ゆっくりとキスをする。戦場の喧騒が、遠くなる。鎧も何もかもが邪魔だったが、唇に触れた熱だけは確かだった。
――――これが今世最後にならないようにと、祈りを込めて。
そしてライゼルは一人、愛する王に背を向け、悲嘆し暴虐の限りを尽くさんとする魂たちのもとへ進む。その絶望を、今度こそ終わらせるために。
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