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第3章:新しい日常(ルーティン)
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繰り返しの日常は、ある種の麻酔(ますい)だ。……少なくとも、自分の席へと向かう蓮(れん)はそう信じようとしていた。
リュックの中に、高級な保冷紙に包まれたサンドイッチや、自分では一生買えないようなブランドのアイスティーが紛(まぎ)れ込んでいても、もう驚きはしなかった。家に帰った時、あの湿気臭(しっけくさ)さが花の香りの洗剤にかき消されていても、それもまた、驚くことではなかった。
橘(たちばな)凛(りん)は、いつの間にか「日常」の一部になっていた。招かざる、だが追い出す気力すら失わせるほどに執拗(しつよう)な「異常」という名の日常。
蓮は机に座り、昨日の出来事を思い出していた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
星野(ほしの)家に、再び他人の足音が響き渡る。 それは、仕事帰りの蓮のような重々しい響きではない。 軽やかで、それでいて……どこか騒(ざわ)つかせるような音。
そして、その音は決まって同じ時間にやってくる。
――カチャリ。
蓮が台所で圭(けい)の朝食を作っていると、玄関のドアが開く音がした。
「……」
確認するまでもなかった。
「……また、あんたか」
蓮は独り言のように呟(つぶや)いた。
「べ、別に……。あんたがまだ生きてるかどうか、誰かが確認しに来なきゃいけないでしょ」
玄関先から、凛の声が返ってきた。 彼女の両手には、食材の入った袋が下げられている。
蓮は溜(た)め息をついた。
「……必要ないって言っただろ」
「あんたが何を言おうと、私には関係ないって言ったはずよ」
彼女は靴を脱ぎながら言い返した。
「それに……圭(けい)ちゃんが、私を待ってるんだから」
奥の部屋から、弱々しくも弾んだ声が聞こえてきた。
「凛(りん)お姉ちゃん!」
凛は瞬時に表情を緩(ゆる)ませ、微笑んだ。
「今行くわねー♪」
蓮(れん)は立ち尽くした。
(……いつの間に、あいつの部屋への行き方なんて覚えたんだ?)
凛は部屋に入ると、小さなテーブルの上に料理を並べた。
「ほら、今日のメニューよ」
「わあ、お魚のご飯だ!」
圭(けい)が目を輝かせて声を上げる。
「それから、温かいスープもね」
圭は弱々しくも、嬉しそうに手を叩(たた)いた。 蓮は、入り口からその光景をじっと見つめていた。
あの部屋が、以前ほど冷たくは感じられなかった。 何かが劇的に変わったわけではない。 ベッドは古いまま 壁にはひびが入ったまま。 棚(たな)には相変わらず薬が並んでいる。
けれど、今は……本物の料理の匂いが、そこを満たしていた。
凛(りん)は、許可も得ずに部屋の片付けを始めた。
「おい……それに触るな」
「これのこと?」 彼女は一つの箱を持ち上げた。
「こんなの、ただのゴミじゃない」
「ゴミじゃない」
「じゃあ、『大事なゴミ』ってことね」
蓮(れん)は眉をひそめた。
「……毎日来いなんて、言ってないだろ」
凛は一瞬、手を止めた。
「……あんたのために来てるわけじゃないわよ」
彼女は圭(けい)に視線を向けた。
「この子のために来てるの」
すると、圭がひょいと手を挙げた。
「……あと、私が凛お姉ちゃんのこと好きだからだよ!」
蓮は視線を逸(そ)らし、黙り込んだ。
「……」
そして、この変化は星野家の中だけにとどまらなかった。学校生活においても、何かが変わり始めていた。
「星野(ほしの)」
席に着いたばかりの蓮(れん)の思考を、凛(りん)の声が引き戻した。彼女は騒ぎ立てることもなく、ただ自然な優雅(ゆうが)さで彼の机に歩み寄る。その洗練された佇まいは、蓮の使い古されたノートとはあまりにも対照的だった。
「ほら、これ。うちのシェフがまた張り切りすぎて、鮭(さけ)のおにぎりを作りすぎちゃったの。無駄にするのは嫌だから、あんたが食べなさい」
蓮は溜め息をつき、差し出されたシルクの袋を見つめた。
「橘(たちばな)……。何度も言ってるだろ。俺はあんたの高級料理のゴミ箱じゃないって」
「私も何度も言ってるわ。食べ物を粗末(そまつ)にするのは罪だって」
彼女は腕を組み、わずかな緊張を隠すように不遜(ふそん)な態度で視線を逸らした。
「それに……昨日、圭(けい)ちゃんが梅(うめ)のおにぎりが好きだって言ってたから、今日は彼女のためにそれを持ってきたの。あんたが持っていかないなら、また私が直接届けに行くしかないわね……。昨日みたいに」
「……どうせ来るくせに、脅(おど)して何の意味があるんだよ」
蓮の声には苛立ち(いらだち)と……ほんの少しの「からかい」が混じっていた。
「あら、そうね。じゃあ今日は行くのをやめて、圭ちゃんを一人ぼっちで悲しませようかしら。……あんたがこのお弁当を完食(かんしょく)しない限りは、ね」
蓮は奥歯を噛み締めた。強請(ゆす)りだ。完璧なまでの、甘い強請り。学校でこの
「施(ほどこ)し」
を受け入れなければ、彼女はそれを口実に放課後、圭を一人にしてしまう。そうなれば、妹を悲しませることになる。
「……それ、よこせ」
蓮(れん)はひったくるように袋を奪い取ると、低く唸(うな)った。
「……いい子ね」
凛(りん)は勝利の余韻(よいん)に浸(ひた)るような笑みを浮かべ、小さく呟(つぶや)いた。だが、友人たちが近づいてくると、その笑みは瞬時に消え去った。
蓮は弁当をリュックに押し込んだ。指先が、今は常に満たされている薬の袋に触れる。 彼女に依存(いぞん)している自分が嫌だった。 自分のプライドが、鮭(さけ)のおにぎり一つで買えるほど安っぽいことも。 だが、昨夜の圭(けい)の笑い声を思い出す。凛と二人、部屋の床でトランプに興(きょう)じていたあの声を。そう思うと、煮えくり返っていた怒りは、穴の開いた風船のように萎(しぼ)んでいくのだった。
しかし、教室の隅では、囁(ささや)き声の質が変わり始めていた。 クラスメイトたちの目は、もはや彼をただの
「変わり者」
としては見ていない。 学園一(がくえんいち)の高嶺(たかね)の花……決して手の届かないはずの少女の関心を、どういうわけか惹(ひ)きつけている「不気味な特例」として、彼を注視し始めていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
その日の午前中は、横目(よこめ)で刺(さ)すような視線にさらされる、耐え難(がた)い苦痛(くつう)の時間だった。蓮(れん)はうなじが熱くなるのを感じていた。凛(りん)の友人たち……いわゆる「一軍(いちぐん)」
の女子グループが、顎(あご)で彼を指しながら、ひそひそと囁(ささや)き合っている。
「ねえ、凛(りん)ちゃん……」
制服を完璧に着こなした一人の女子が、低い声で尋ねた。
「なんであんな奴にお弁当なんてあげたの? お礼も言わないし、あいつ、ほんと失礼(しつれい)よね」
蓮は計算ドリルに顔を伏せ、聞こえないふりをした。
「……別に」
凛は、彼女特有の氷のような仮面(かめん)を被(かぶ)り、教室中に響くような声で答えた。
「あいつの妹が病気だって聞いてね。あんな『ろくでなし』の兄のせいで、あの子がお腹を空かせるのが可哀想(かわいそう)だと思っただけよ。ただの『慈善(じぜん)』。変な勘繰(かんぐ)りはやめてちょうだい」
凛の言葉は、蓮の頭に氷水を浴びせかけたような衝撃(しょうげき)だった。 彼女が自分を守るために、周囲の疑(うたが)いをそらすためにそう言ったことは分かっている。だが、クラス全員の前で彼女の口から出た「ろくでなし」という言葉は、抑(おさ)え込んでいた彼のプライドを再び激(はげ)しく燃え上がらせた。
彼は鉛筆(えんぴつ)を握りしめた。指の関節(かんせつ)が白く浮き出るほどに。
(……慈善、か。そうだよな。あいつにとって、俺はただの『可哀想な支援対象』でしかないんだ)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
噂(うわさ)は教室の中だけにとどまらず、廊下(ろうか)にまで燃え広がっていた。
「ねえ……不気味(ぶきみ)じゃない?」
「橘(たちばな)さん、最近ずっとあいつと一緒(いっしょ)にいるよな……」
「放課後、あいつの家に行ってるって噂(うわさ)だよ……」
「マジで? 気持ち悪い……」
「もしかして、新しい『おもちゃ』なんじゃない?」
蓮(れん)はうつむいたまま歩き続けた。 放たれる言葉の一つひとつが、石礫(いしつぶて)のように彼を打つ。 自分のことが言われるのは構(かま)わない。だが、何も知らない奴らに彼女まで自分の泥沼(どろぬま)に引きずり込まれ、汚されるのは耐え難(がた)かった。
(……いつから、あんな馬鹿(ばか)のことが気になり始めたんだよ……?)
蓮は逃げるように廊下を急いだが、出口に辿(たど)り着く前に、三人の男子生徒が立ちふさがった。 教室の最後列に陣取り、学園の支配者(しはいしゃ)気取りでいる、いつもの連中(れんちゅう)だった。
「へぇ……気味の悪い奴に、パトロンがついたってわけか」
リーダー格(かく)の男が、蓮(れん)の肩をロッカーに叩(たた)きつけながら嘲(あざけ)り笑った。
「なあ、星野(ほしの)。橘(たちばな)さんに何をして取り入ったんだ? 孤児(みなしご)の身の上話で同情でも買ったのか? それとも、弱みでも握って強請(ゆす)ってんのかよ?」
蓮は答えなかった。視線は床に向けられていたが、呼吸は次第に荒くなっていく。あの日、凛(りん)が初めて家に来た時に包丁(ほうちょう)を握らせたあの「本能」が、今、最も見せてはいけないこの場所で目覚めようとしていた。……もはや、妹のためだけではない。凛のために。
「……喋(しゃべ)れよ、クズが!」
男が蓮の制服の襟(えり)を掴(つか)み上げた。
「橘さんが後ろ盾(だて)にいるからって、自分が何者かになったつもりか? あんたは一生、腹を空かせた野良犬(のらいぬ)なんだよ」
そして、蓮が取り返しのつかない凶行(きょうこう)に及(およ)ぶ、その直前――。
「……その手を離しなさい。今すぐに」
そこに立っていたのは、凛(りん)だった。だが、圭(けい)とトランプをしていた時の彼女ではない。橘(たちばな)家の正当なる後継者としての姿であり、その声には三人の男子生徒を凍(い)てつかせるほどの鋭(するど)い刃(やいば)が宿っていた。
「た、橘さん……っ」
三人は怯(ひえ)え、慌(あわ)てて蓮(れん)から距離を置いた。
「一体全体、何をしているつもりかしら?」
凛は彼らを射抜(いぬ)くような視線で睨(にら)みつけた。蓮はただ黙ったまま、内から湧(わ)き上がる衝動(しょうどう)を必死に抑え込んでいた。
「い、いや、俺たちはただ……星野(ほしの)にちょっとした質問をしてただけだよな? なあ?」
見え透(す)いた嘘(うそ)を吐(つ)く三人に、凛の怒りはさらに燃え上がった。
「卑怯(ひきょう)な上に、嘘まで下手(へた)なのね。……自分の惨(みじ)めな人生が惜(お)しいなら、今すぐに消え失(う)せなさい」
三人は顔を真っ青にして頷(うなづ)くと、脱兎(だっと)のごとく反対方向へと逃げ出した。 彼らの背中を見送り、凛は小さく溜め息をついて蓮を振り返った。
「……ねえ。大丈夫? なんで言い返さなかったのよ」
蓮は目を閉じていたが、静寂(せいじゃく)が戻ったことを悟ると、ゆっくりと目を開けて彼女を見つめた。
「……ああ、大丈夫だ。やり返さなかったのは、俺が自制(じせい)したからだ。……そうしなきゃ、たぶんあいつらを殴り殺してた」
蓮は凛の横を通り過ぎようとした。だが、すれ違いざま、信じられないような言葉を微(かす)かに囁(ささや)いた。
「……止めてくれて、ありがとな」
それを聞いた凛は、驚きで目を見開いた。心臓が予期せず、ドクンと速く跳(は)ねる。 何かを言い返そうと振り返った時には、もう蓮の背中は遠ざかっていた……。
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その日の放課後、凛(りん)は再び星野(ほしの)家を訪(おとず)れた。 圭(けい)はベッドに座り、窓の外を眺(なが)めていたが、聞き慣れた足音が近づくと勢いよく顔を向けた。
「凛お姉ちゃん!」
凛は鞄(かばん)を置くと、微笑みながら歩み寄った。
「こんにちは、圭ちゃん。今日は気分はどう?」
「……うん、良くなってきたよ。今日は胸の痛みもあんまりなかったし」
凛は彼女の隣に腰を下ろすと、手早く小さな櫛(くし)を取り出し、丁寧にその髪を整え始めた。
「……本当に綺麗な髪ね」
圭はくすくすと笑った。
「お兄ちゃんはいつも、ボサボサでひどいって言うんだよ?」
それを聞いた凛は、鼻を鳴らした。
「……ひどいのは、あんたのお兄ちゃんの方よ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。 心地(ここち)よい静寂(せいじゃく)が、部屋を包み込む。
すると、圭が静かに口を開いた。
「ねえ、凛お姉ちゃん……」
「なあに?」
「……お姉ちゃんは、お兄ちゃんのこと……好きなの?」
凛の動きが、凍(い)てついたように止まった。
「は、はあああ!?」
持っていた櫛(くし)が、手から滑り落ちそうになった。
「ち、違うわ、違うの……。そんなんじゃないってば……」
しかし、圭(けい)は子供とは思えないほど真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「お兄ちゃん、いつも疲れてて……。いつも『大丈夫』って言うけど。でも、凛(りん)お姉ちゃんが来ると……静かになるんだよ」
凛は思わず唾(つば)を飲み込んだ。
「それは……あいつが、ただの意地っ張りな大馬鹿(おおばか)だからよ」
圭は、いたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ……馬鹿だけど、好きなの?」
凛は顔を真っ赤に染め、パッと横を向いた。
「す、好きじゃないわよ。……ただ。あいつに……ただの『孤独(こどく)な大馬鹿』でいてほしくないだけなんだから」
圭(けい)は嬉しそうに彼女を見つめた。
「それならよかった。私、お兄ちゃんが一人ぼっちになるのは嫌だもん。私が……」
そこで、言葉が途切れた。 凛(りん)の背中に、冷たい戦慄(せんりつ)が走る。
「……私が、眠っている時に」
凛は櫛(くし)を強く握りしめた。
「……そんなこと、言わないで」
圭は真っ直ぐに凛を見た。
「凛お姉ちゃんが、お兄ちゃんのそばにいてくれるなら……私は、それでいいんだよ」
「……」
静寂が部屋を満たす。 凛はそっと身をかがめ、壊れ物を扱うように、優しく少女を抱きしめた。
「……約束するわ。あの大馬鹿なあんたのお兄ちゃんを……絶対に、一人にはさせない」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
その夜、蓮(れん)はいつもより遅く帰宅した。
玄関の前で足をとめる。ドアノブは冷たかったが、それを回した瞬間、部屋の中の熱気が彼を包み込んだ。それは単なる古いストーブの熱ではない。そこにある「気配」そのものが、今や彼らにとって欠かせない酸素(さんそ)となっている……そんな温もりだった。
圭(けい)の部屋に入った蓮は、その敷居(しきい)で石のように立ち尽くした。
凛(りん)が妹を抱きしめている姿が目に飛び込んできたからだ。それは別れの抱擁(ほうよう)ではなく、決して離さないという強い意志がこもった守護(しゅご)の抱擁だった。床に落ちた櫛(くし)、凛の頬に残る赤らみ、そして圭の瞳に宿る、穏やかだがどこか重みのある光。
「……ただいま」
蓮は、いつもよりずっと穏やかな声で言った。
「っ! 星野(ほしの)! 幽霊みたいに音もなく入ってこないでよ!」
凛はびくりとして圭を離すと、必死に冷徹(れいてつ)な仮面を取り戻そうとした。だが、わずかに潤(うる)んだ瞳が、彼女の動揺を何よりも雄弁(ゆうべん)に物語っていた。彼女は大慌てで制服を整え、床の櫛を拾い上げた。
「も、もう帰るわよ! 圭ちゃんの髪を整えてあげてただけ。あんたのやり方じゃ、原始人(げんしじん)みたいなんですもの」
蓮(れん)は溜め息をつき、リュックを床に置くと、部屋中を見渡した。 部屋は整えられている。 窓は閉められ、温かさが逃げないようになっている。 残ったスープも丁寧に片付けられている。 すべてが……慈(いつく)しまれていた。
蓮は皮肉(ひにく)をぶつけることも、彼女を追い出すこともしなかった。彼は静かに歩み寄り、妹の隣に座ると、凛(りん)を真っ直ぐに見つめた。
「橘(たちばな)……」
「な、何よ? 明日は来るなって言うつもりなら、無駄だから。どうせ明日も来るし、それに――」
「……ありがとう」
その場を、完全な沈黙が支配した。凛は口を半開きにしたまま固まった。今日二度目の、彼からの感謝の言葉。だが、それは汚れた廊下での囁きではない。彼がこの世で最も愛するものの前で放たれた、偽(いつわ)りのない告白だった。
蓮は疲れ切った様子で椅子に身を預け、初めて自分の弱さを隠さなかった。
「……廊下でのことも。ここにいてくれることも……感謝してる」
彼は静かに目を閉じた。
「……あんたは家族じゃないって言ったけど。圭が、あんたを家族だと思ってるなら……。もう、抗(あらが)うのはやめる」
凛(りん)は、心臓が口から飛び出しそうなほどの鼓動(こどう)を感じていた。ふと圭(けい)に目をやると、彼女は寝たふりをしているだけで、その年齢には似つかわしくない悪戯(いたずら)っぽいウィンクを凛に送ってきた。
そして、再び蓮(れん)を見る。あの「変わり者」が、今は無防備(むぼうび)な姿で、彼女の差し伸べた手を受け入れようとしていた。
「……当然よ、この大馬鹿」
凛はそう呟(つぶや)き、足早にドアへと向かった。だが、部屋を出る直前で足を止め、もう一度だけ蓮を振り返る。
「……返品(へんぴん)は、一切(いっさい)受け付けないから」
そう言い捨てると、彼女は爆発(ばくはつ)しそうなほど高鳴(たかな)る鼓動を抱えて、逃げるように去っていった。
残された蓮は、ただ静かに溜め息をつき、心の底から溢(あふ)れ出たような、純粋(じゅんすい)な微笑を浮かべた。
(……こんな日常に、慣れるわけにはいかないのにな)
そして、生まれて初めて……。 蓮(れん)は、世界の重みが自分一人だけの肩にかかっているのではないのだと、そう感じていた。
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街の別の場所では、凛(りん)が覚束(おぼつか)ない足取りで靴を脱ぎ捨てていた。彼女の制服からは、埃(ほこり)と、どこか懐かしいスープの匂いがした。
彼女はベッドに倒れ込み、天井をじっと見つめた。
「……あの、馬鹿」
丸まった彼の背中。微(かす)かに震えていた、その手。 消え入りそうなほど小さな、あの「ありがとう」の声。
彼女は枕(まくら)に顔を埋(うず)めた。
(……家族なんかじゃないわよ)
それでも……こぼれ落ちる微笑(ほほえ)みを止めることはできなかった。 なぜなら、長い年月の間で初めて、圭(けい)以外の誰かが、自分の「明日」を必要としてくれたから。
第3章:完
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皆さん、こんにちは!またお会いしましたね。作者の 零時卿(れいじきょう) です。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!感謝の気持ちでいっぱいです。
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さて、今回の第3章はいかがでしたか? 「最高だった!」「もっと読みたい!」「いや、もうアカウントを消せ
(笑)」などなど……皆さんの率直な感想をコメント欄で待っています!すべて目を通させていただきます。
改めて、最後まで読んでいただきありがとうございました。 第4章も全力で準備中ですので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!
それでは、また次回の更新でお会いしましょう!
リュックの中に、高級な保冷紙に包まれたサンドイッチや、自分では一生買えないようなブランドのアイスティーが紛(まぎ)れ込んでいても、もう驚きはしなかった。家に帰った時、あの湿気臭(しっけくさ)さが花の香りの洗剤にかき消されていても、それもまた、驚くことではなかった。
橘(たちばな)凛(りん)は、いつの間にか「日常」の一部になっていた。招かざる、だが追い出す気力すら失わせるほどに執拗(しつよう)な「異常」という名の日常。
蓮は机に座り、昨日の出来事を思い出していた。
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星野(ほしの)家に、再び他人の足音が響き渡る。 それは、仕事帰りの蓮のような重々しい響きではない。 軽やかで、それでいて……どこか騒(ざわ)つかせるような音。
そして、その音は決まって同じ時間にやってくる。
――カチャリ。
蓮が台所で圭(けい)の朝食を作っていると、玄関のドアが開く音がした。
「……」
確認するまでもなかった。
「……また、あんたか」
蓮は独り言のように呟(つぶや)いた。
「べ、別に……。あんたがまだ生きてるかどうか、誰かが確認しに来なきゃいけないでしょ」
玄関先から、凛の声が返ってきた。 彼女の両手には、食材の入った袋が下げられている。
蓮は溜(た)め息をついた。
「……必要ないって言っただろ」
「あんたが何を言おうと、私には関係ないって言ったはずよ」
彼女は靴を脱ぎながら言い返した。
「それに……圭(けい)ちゃんが、私を待ってるんだから」
奥の部屋から、弱々しくも弾んだ声が聞こえてきた。
「凛(りん)お姉ちゃん!」
凛は瞬時に表情を緩(ゆる)ませ、微笑んだ。
「今行くわねー♪」
蓮(れん)は立ち尽くした。
(……いつの間に、あいつの部屋への行き方なんて覚えたんだ?)
凛は部屋に入ると、小さなテーブルの上に料理を並べた。
「ほら、今日のメニューよ」
「わあ、お魚のご飯だ!」
圭(けい)が目を輝かせて声を上げる。
「それから、温かいスープもね」
圭は弱々しくも、嬉しそうに手を叩(たた)いた。 蓮は、入り口からその光景をじっと見つめていた。
あの部屋が、以前ほど冷たくは感じられなかった。 何かが劇的に変わったわけではない。 ベッドは古いまま 壁にはひびが入ったまま。 棚(たな)には相変わらず薬が並んでいる。
けれど、今は……本物の料理の匂いが、そこを満たしていた。
凛(りん)は、許可も得ずに部屋の片付けを始めた。
「おい……それに触るな」
「これのこと?」 彼女は一つの箱を持ち上げた。
「こんなの、ただのゴミじゃない」
「ゴミじゃない」
「じゃあ、『大事なゴミ』ってことね」
蓮(れん)は眉をひそめた。
「……毎日来いなんて、言ってないだろ」
凛は一瞬、手を止めた。
「……あんたのために来てるわけじゃないわよ」
彼女は圭(けい)に視線を向けた。
「この子のために来てるの」
すると、圭がひょいと手を挙げた。
「……あと、私が凛お姉ちゃんのこと好きだからだよ!」
蓮は視線を逸(そ)らし、黙り込んだ。
「……」
そして、この変化は星野家の中だけにとどまらなかった。学校生活においても、何かが変わり始めていた。
「星野(ほしの)」
席に着いたばかりの蓮(れん)の思考を、凛(りん)の声が引き戻した。彼女は騒ぎ立てることもなく、ただ自然な優雅(ゆうが)さで彼の机に歩み寄る。その洗練された佇まいは、蓮の使い古されたノートとはあまりにも対照的だった。
「ほら、これ。うちのシェフがまた張り切りすぎて、鮭(さけ)のおにぎりを作りすぎちゃったの。無駄にするのは嫌だから、あんたが食べなさい」
蓮は溜め息をつき、差し出されたシルクの袋を見つめた。
「橘(たちばな)……。何度も言ってるだろ。俺はあんたの高級料理のゴミ箱じゃないって」
「私も何度も言ってるわ。食べ物を粗末(そまつ)にするのは罪だって」
彼女は腕を組み、わずかな緊張を隠すように不遜(ふそん)な態度で視線を逸らした。
「それに……昨日、圭(けい)ちゃんが梅(うめ)のおにぎりが好きだって言ってたから、今日は彼女のためにそれを持ってきたの。あんたが持っていかないなら、また私が直接届けに行くしかないわね……。昨日みたいに」
「……どうせ来るくせに、脅(おど)して何の意味があるんだよ」
蓮の声には苛立ち(いらだち)と……ほんの少しの「からかい」が混じっていた。
「あら、そうね。じゃあ今日は行くのをやめて、圭ちゃんを一人ぼっちで悲しませようかしら。……あんたがこのお弁当を完食(かんしょく)しない限りは、ね」
蓮は奥歯を噛み締めた。強請(ゆす)りだ。完璧なまでの、甘い強請り。学校でこの
「施(ほどこ)し」
を受け入れなければ、彼女はそれを口実に放課後、圭を一人にしてしまう。そうなれば、妹を悲しませることになる。
「……それ、よこせ」
蓮(れん)はひったくるように袋を奪い取ると、低く唸(うな)った。
「……いい子ね」
凛(りん)は勝利の余韻(よいん)に浸(ひた)るような笑みを浮かべ、小さく呟(つぶや)いた。だが、友人たちが近づいてくると、その笑みは瞬時に消え去った。
蓮は弁当をリュックに押し込んだ。指先が、今は常に満たされている薬の袋に触れる。 彼女に依存(いぞん)している自分が嫌だった。 自分のプライドが、鮭(さけ)のおにぎり一つで買えるほど安っぽいことも。 だが、昨夜の圭(けい)の笑い声を思い出す。凛と二人、部屋の床でトランプに興(きょう)じていたあの声を。そう思うと、煮えくり返っていた怒りは、穴の開いた風船のように萎(しぼ)んでいくのだった。
しかし、教室の隅では、囁(ささや)き声の質が変わり始めていた。 クラスメイトたちの目は、もはや彼をただの
「変わり者」
としては見ていない。 学園一(がくえんいち)の高嶺(たかね)の花……決して手の届かないはずの少女の関心を、どういうわけか惹(ひ)きつけている「不気味な特例」として、彼を注視し始めていた。
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その日の午前中は、横目(よこめ)で刺(さ)すような視線にさらされる、耐え難(がた)い苦痛(くつう)の時間だった。蓮(れん)はうなじが熱くなるのを感じていた。凛(りん)の友人たち……いわゆる「一軍(いちぐん)」
の女子グループが、顎(あご)で彼を指しながら、ひそひそと囁(ささや)き合っている。
「ねえ、凛(りん)ちゃん……」
制服を完璧に着こなした一人の女子が、低い声で尋ねた。
「なんであんな奴にお弁当なんてあげたの? お礼も言わないし、あいつ、ほんと失礼(しつれい)よね」
蓮は計算ドリルに顔を伏せ、聞こえないふりをした。
「……別に」
凛は、彼女特有の氷のような仮面(かめん)を被(かぶ)り、教室中に響くような声で答えた。
「あいつの妹が病気だって聞いてね。あんな『ろくでなし』の兄のせいで、あの子がお腹を空かせるのが可哀想(かわいそう)だと思っただけよ。ただの『慈善(じぜん)』。変な勘繰(かんぐ)りはやめてちょうだい」
凛の言葉は、蓮の頭に氷水を浴びせかけたような衝撃(しょうげき)だった。 彼女が自分を守るために、周囲の疑(うたが)いをそらすためにそう言ったことは分かっている。だが、クラス全員の前で彼女の口から出た「ろくでなし」という言葉は、抑(おさ)え込んでいた彼のプライドを再び激(はげ)しく燃え上がらせた。
彼は鉛筆(えんぴつ)を握りしめた。指の関節(かんせつ)が白く浮き出るほどに。
(……慈善、か。そうだよな。あいつにとって、俺はただの『可哀想な支援対象』でしかないんだ)
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噂(うわさ)は教室の中だけにとどまらず、廊下(ろうか)にまで燃え広がっていた。
「ねえ……不気味(ぶきみ)じゃない?」
「橘(たちばな)さん、最近ずっとあいつと一緒(いっしょ)にいるよな……」
「放課後、あいつの家に行ってるって噂(うわさ)だよ……」
「マジで? 気持ち悪い……」
「もしかして、新しい『おもちゃ』なんじゃない?」
蓮(れん)はうつむいたまま歩き続けた。 放たれる言葉の一つひとつが、石礫(いしつぶて)のように彼を打つ。 自分のことが言われるのは構(かま)わない。だが、何も知らない奴らに彼女まで自分の泥沼(どろぬま)に引きずり込まれ、汚されるのは耐え難(がた)かった。
(……いつから、あんな馬鹿(ばか)のことが気になり始めたんだよ……?)
蓮は逃げるように廊下を急いだが、出口に辿(たど)り着く前に、三人の男子生徒が立ちふさがった。 教室の最後列に陣取り、学園の支配者(しはいしゃ)気取りでいる、いつもの連中(れんちゅう)だった。
「へぇ……気味の悪い奴に、パトロンがついたってわけか」
リーダー格(かく)の男が、蓮(れん)の肩をロッカーに叩(たた)きつけながら嘲(あざけ)り笑った。
「なあ、星野(ほしの)。橘(たちばな)さんに何をして取り入ったんだ? 孤児(みなしご)の身の上話で同情でも買ったのか? それとも、弱みでも握って強請(ゆす)ってんのかよ?」
蓮は答えなかった。視線は床に向けられていたが、呼吸は次第に荒くなっていく。あの日、凛(りん)が初めて家に来た時に包丁(ほうちょう)を握らせたあの「本能」が、今、最も見せてはいけないこの場所で目覚めようとしていた。……もはや、妹のためだけではない。凛のために。
「……喋(しゃべ)れよ、クズが!」
男が蓮の制服の襟(えり)を掴(つか)み上げた。
「橘さんが後ろ盾(だて)にいるからって、自分が何者かになったつもりか? あんたは一生、腹を空かせた野良犬(のらいぬ)なんだよ」
そして、蓮が取り返しのつかない凶行(きょうこう)に及(およ)ぶ、その直前――。
「……その手を離しなさい。今すぐに」
そこに立っていたのは、凛(りん)だった。だが、圭(けい)とトランプをしていた時の彼女ではない。橘(たちばな)家の正当なる後継者としての姿であり、その声には三人の男子生徒を凍(い)てつかせるほどの鋭(するど)い刃(やいば)が宿っていた。
「た、橘さん……っ」
三人は怯(ひえ)え、慌(あわ)てて蓮(れん)から距離を置いた。
「一体全体、何をしているつもりかしら?」
凛は彼らを射抜(いぬ)くような視線で睨(にら)みつけた。蓮はただ黙ったまま、内から湧(わ)き上がる衝動(しょうどう)を必死に抑え込んでいた。
「い、いや、俺たちはただ……星野(ほしの)にちょっとした質問をしてただけだよな? なあ?」
見え透(す)いた嘘(うそ)を吐(つ)く三人に、凛の怒りはさらに燃え上がった。
「卑怯(ひきょう)な上に、嘘まで下手(へた)なのね。……自分の惨(みじ)めな人生が惜(お)しいなら、今すぐに消え失(う)せなさい」
三人は顔を真っ青にして頷(うなづ)くと、脱兎(だっと)のごとく反対方向へと逃げ出した。 彼らの背中を見送り、凛は小さく溜め息をついて蓮を振り返った。
「……ねえ。大丈夫? なんで言い返さなかったのよ」
蓮は目を閉じていたが、静寂(せいじゃく)が戻ったことを悟ると、ゆっくりと目を開けて彼女を見つめた。
「……ああ、大丈夫だ。やり返さなかったのは、俺が自制(じせい)したからだ。……そうしなきゃ、たぶんあいつらを殴り殺してた」
蓮は凛の横を通り過ぎようとした。だが、すれ違いざま、信じられないような言葉を微(かす)かに囁(ささや)いた。
「……止めてくれて、ありがとな」
それを聞いた凛は、驚きで目を見開いた。心臓が予期せず、ドクンと速く跳(は)ねる。 何かを言い返そうと振り返った時には、もう蓮の背中は遠ざかっていた……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
その日の放課後、凛(りん)は再び星野(ほしの)家を訪(おとず)れた。 圭(けい)はベッドに座り、窓の外を眺(なが)めていたが、聞き慣れた足音が近づくと勢いよく顔を向けた。
「凛お姉ちゃん!」
凛は鞄(かばん)を置くと、微笑みながら歩み寄った。
「こんにちは、圭ちゃん。今日は気分はどう?」
「……うん、良くなってきたよ。今日は胸の痛みもあんまりなかったし」
凛は彼女の隣に腰を下ろすと、手早く小さな櫛(くし)を取り出し、丁寧にその髪を整え始めた。
「……本当に綺麗な髪ね」
圭はくすくすと笑った。
「お兄ちゃんはいつも、ボサボサでひどいって言うんだよ?」
それを聞いた凛は、鼻を鳴らした。
「……ひどいのは、あんたのお兄ちゃんの方よ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。 心地(ここち)よい静寂(せいじゃく)が、部屋を包み込む。
すると、圭が静かに口を開いた。
「ねえ、凛お姉ちゃん……」
「なあに?」
「……お姉ちゃんは、お兄ちゃんのこと……好きなの?」
凛の動きが、凍(い)てついたように止まった。
「は、はあああ!?」
持っていた櫛(くし)が、手から滑り落ちそうになった。
「ち、違うわ、違うの……。そんなんじゃないってば……」
しかし、圭(けい)は子供とは思えないほど真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「お兄ちゃん、いつも疲れてて……。いつも『大丈夫』って言うけど。でも、凛(りん)お姉ちゃんが来ると……静かになるんだよ」
凛は思わず唾(つば)を飲み込んだ。
「それは……あいつが、ただの意地っ張りな大馬鹿(おおばか)だからよ」
圭は、いたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ……馬鹿だけど、好きなの?」
凛は顔を真っ赤に染め、パッと横を向いた。
「す、好きじゃないわよ。……ただ。あいつに……ただの『孤独(こどく)な大馬鹿』でいてほしくないだけなんだから」
圭(けい)は嬉しそうに彼女を見つめた。
「それならよかった。私、お兄ちゃんが一人ぼっちになるのは嫌だもん。私が……」
そこで、言葉が途切れた。 凛(りん)の背中に、冷たい戦慄(せんりつ)が走る。
「……私が、眠っている時に」
凛は櫛(くし)を強く握りしめた。
「……そんなこと、言わないで」
圭は真っ直ぐに凛を見た。
「凛お姉ちゃんが、お兄ちゃんのそばにいてくれるなら……私は、それでいいんだよ」
「……」
静寂が部屋を満たす。 凛はそっと身をかがめ、壊れ物を扱うように、優しく少女を抱きしめた。
「……約束するわ。あの大馬鹿なあんたのお兄ちゃんを……絶対に、一人にはさせない」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
その夜、蓮(れん)はいつもより遅く帰宅した。
玄関の前で足をとめる。ドアノブは冷たかったが、それを回した瞬間、部屋の中の熱気が彼を包み込んだ。それは単なる古いストーブの熱ではない。そこにある「気配」そのものが、今や彼らにとって欠かせない酸素(さんそ)となっている……そんな温もりだった。
圭(けい)の部屋に入った蓮は、その敷居(しきい)で石のように立ち尽くした。
凛(りん)が妹を抱きしめている姿が目に飛び込んできたからだ。それは別れの抱擁(ほうよう)ではなく、決して離さないという強い意志がこもった守護(しゅご)の抱擁だった。床に落ちた櫛(くし)、凛の頬に残る赤らみ、そして圭の瞳に宿る、穏やかだがどこか重みのある光。
「……ただいま」
蓮は、いつもよりずっと穏やかな声で言った。
「っ! 星野(ほしの)! 幽霊みたいに音もなく入ってこないでよ!」
凛はびくりとして圭を離すと、必死に冷徹(れいてつ)な仮面を取り戻そうとした。だが、わずかに潤(うる)んだ瞳が、彼女の動揺を何よりも雄弁(ゆうべん)に物語っていた。彼女は大慌てで制服を整え、床の櫛を拾い上げた。
「も、もう帰るわよ! 圭ちゃんの髪を整えてあげてただけ。あんたのやり方じゃ、原始人(げんしじん)みたいなんですもの」
蓮(れん)は溜め息をつき、リュックを床に置くと、部屋中を見渡した。 部屋は整えられている。 窓は閉められ、温かさが逃げないようになっている。 残ったスープも丁寧に片付けられている。 すべてが……慈(いつく)しまれていた。
蓮は皮肉(ひにく)をぶつけることも、彼女を追い出すこともしなかった。彼は静かに歩み寄り、妹の隣に座ると、凛(りん)を真っ直ぐに見つめた。
「橘(たちばな)……」
「な、何よ? 明日は来るなって言うつもりなら、無駄だから。どうせ明日も来るし、それに――」
「……ありがとう」
その場を、完全な沈黙が支配した。凛は口を半開きにしたまま固まった。今日二度目の、彼からの感謝の言葉。だが、それは汚れた廊下での囁きではない。彼がこの世で最も愛するものの前で放たれた、偽(いつわ)りのない告白だった。
蓮は疲れ切った様子で椅子に身を預け、初めて自分の弱さを隠さなかった。
「……廊下でのことも。ここにいてくれることも……感謝してる」
彼は静かに目を閉じた。
「……あんたは家族じゃないって言ったけど。圭が、あんたを家族だと思ってるなら……。もう、抗(あらが)うのはやめる」
凛(りん)は、心臓が口から飛び出しそうなほどの鼓動(こどう)を感じていた。ふと圭(けい)に目をやると、彼女は寝たふりをしているだけで、その年齢には似つかわしくない悪戯(いたずら)っぽいウィンクを凛に送ってきた。
そして、再び蓮(れん)を見る。あの「変わり者」が、今は無防備(むぼうび)な姿で、彼女の差し伸べた手を受け入れようとしていた。
「……当然よ、この大馬鹿」
凛はそう呟(つぶや)き、足早にドアへと向かった。だが、部屋を出る直前で足を止め、もう一度だけ蓮を振り返る。
「……返品(へんぴん)は、一切(いっさい)受け付けないから」
そう言い捨てると、彼女は爆発(ばくはつ)しそうなほど高鳴(たかな)る鼓動を抱えて、逃げるように去っていった。
残された蓮は、ただ静かに溜め息をつき、心の底から溢(あふ)れ出たような、純粋(じゅんすい)な微笑を浮かべた。
(……こんな日常に、慣れるわけにはいかないのにな)
そして、生まれて初めて……。 蓮(れん)は、世界の重みが自分一人だけの肩にかかっているのではないのだと、そう感じていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
街の別の場所では、凛(りん)が覚束(おぼつか)ない足取りで靴を脱ぎ捨てていた。彼女の制服からは、埃(ほこり)と、どこか懐かしいスープの匂いがした。
彼女はベッドに倒れ込み、天井をじっと見つめた。
「……あの、馬鹿」
丸まった彼の背中。微(かす)かに震えていた、その手。 消え入りそうなほど小さな、あの「ありがとう」の声。
彼女は枕(まくら)に顔を埋(うず)めた。
(……家族なんかじゃないわよ)
それでも……こぼれ落ちる微笑(ほほえ)みを止めることはできなかった。 なぜなら、長い年月の間で初めて、圭(けい)以外の誰かが、自分の「明日」を必要としてくれたから。
第3章:完
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆
皆さん、こんにちは!またお会いしましたね。作者の 零時卿(れいじきょう) です。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!感謝の気持ちでいっぱいです。
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さて、今回の第3章はいかがでしたか? 「最高だった!」「もっと読みたい!」「いや、もうアカウントを消せ
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改めて、最後まで読んでいただきありがとうございました。 第4章も全力で準備中ですので、ぜひ楽しみにしていてくださいね!
それでは、また次回の更新でお会いしましょう!
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