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その2

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俺はジャオフーの配達途中によそ見をして、前の小型船に追突事故を起こしてしまった。
パイロットに怪我はないようだった。機体の損傷もないように見えた。
おかまを掘られたカプスのパイロットは、俺の方を向いて困惑した表情を見せると、何も言わずに行ってしまった。
どんなに軽微な事故であっても、その場でのポリーツカへの申告は義務だ。不申告は刑が重くなる。
しかし、俺は呼び止めずに、彼が先に行ってしまったのを、これ幸いとばかりに、現場から立ち去ったのだった…。

俺は、追突したカプスが少し前の信号で停まったのを見つめながら、ステアリングを大きく切り、追突したカプスとは反対の方面を向き、慎重にアクセルを踏んだ。辺りに、こちらを注視している船はいない。
要塞に入港するための、細いアプローチラインに入ると、さっき俺が出てきたばかりのハルエー地区のドックが、フロントガラスの正面に据えられる。
こんなことをしていたら、今預かっている商品の配達は、大きくタイムロスとなる。

しかし、あのまま配達先の2201記念区の方面に進めば、俺にとっては火星、すなわち地獄行きを意味する。つまり、追突したカプスのあとに、ぴったりついていくことになれば、俺のカプスのナンバーや機体の特徴、はたまた俺の人相を記憶される可能性があるだろう。飛んでいる間にパイロットの気が変わって、ポリーツカに通報されることだって大いに有り得る。ソロ向け仮設フラットの家賃を2ヶ月も滞納している俺には、慰謝料も機体修理代なんてとてもじゃないが払えない。もちろん、船舶保険にも入っていない。ジャオフーに事故が報告されれば、配達員の登録は即、永久解除となる。他に仕事のあてはない。俺が今、収入源を失えば、たちまち要塞から追い出されるだろう。強制退去された失業者に待ち受けているのは、連邦が雇用創出と銘打ち、ハローワーキングと称した公共事業への従事あるのみ。その内実は、火星の砂竜巻の中で、遠隔操作のアンディのジェラルミンの腕に小突かれながら、ジアース期の錆び付いたシャベルで来る日も来る日も、塹壕掘りに励む、地獄の強制労働だ。
俺は、徐々に近づくドック入口の照明を眺めながら、妙に顔面が涼しくなっていくのを感じた。

ブースターの唸りにあわせて、コクピット内の至るところが軋んで、震えている。いくらジャンク寄せ集めのおんぼろカプスとはいえ、これほどまでガタがきていただろうか。心なしか、直進性も怪しくなった気がする。さっきの衝突で、どこかネジの数本が飛んだのだろうか。やはり軽微な事故では、済んでいなかったのでは……。今なら引き返せるが……。

「だいじょぶだぁ~」
俺は、もやを晴らすかのように、勢いよく言い放った。棺桶のような狭いコクピット内に、自分でも鼻につく声が虚しく反響した。コロニーのスクール時代に教科書で見た、ジアース期の古典芸能OWARAIの始祖であるケン・シミュラーのクラシックを真似してみせたのだ。口を窄ませて、頬を膨らませながら寄り目をする、という変顔まで作って。なかなか上出来だったと思う。そのあまりのバカ馬鹿しさに、幾分か気が紛れた。なるほど、古代の人間は、このようにして重力のきついだけの、太陽、酸素、海、風の世を凌いだのだろう。

「一体、どこで踏み間違えたんだろうな」
俺は、スクール時代に、ケンの形態模写でクラスの人気者だった。いつものあれやってよ、と隣の席のユイによくせがまれたっけな。それに引き換え……。今座っている、シガーの焦げ跡だらけのカプスのシートの石のような硬さを始めとする、目を覆いたくなるばかりのこの現実! ユイ……黒のニーソックスの似合う、とびきり可愛い女の子だった。今頃、プルースト宙域でビームライフルの猛烈な雨を掻い潜っている旦那が、ブルーハート勲章をぶら下げて戻ってくるのを待つ時間を持て余して、前髪ばかり触っている兵役逃れの大学生と、シーツの乱れたベッドの上で、昨日のリアリティーショー出演者への底の浅い批判でもしているだろうか。

「だっふんだ、アイーン!」
俺は半ばやけくそになって、下顎を突き出し、素早く水平にした腕を首の下に引き寄せた。フロントガラスに、痩けた頬に、白の混ざった無精髭をはやして、目の落ち窪んだ、全体的に埃っぽい印象の、他人にはとても見せられないような顔のおっさんが映る。ははは、こりゃあいい。

俺は尚も、だいじょうぶだぁ、だいじょうぶだぁ、だいじょうぶだぁ……と徐々にアナログレコードの再生スピードを落としていくようにして呟きながら、ハルエー地区の入港アーチがゆっくり頭上を通過していくのを、内心イラつきながら仰ぎ見ていた。

ガラ空きの停泊スペースにカプスを留め、俺は深いため息をついた。
「♪ハル、ハル、ハルエープラザ、私も一つ、プレゼント、ケーキにフルーツ、お野菜お肉、どれにしようか、迷っちゃう」
どこからともなく、英才教育を受けた富裕層の少女が歌う、浪費行動を煽るプロパガンダソングが、エンドレスに鳴り響いている。
俺は、咄嗟に操縦桿を動かして、天井付近に備え付けられたスピーカーに狙いを定め、赤いトグルスイッチを押した。4連装5.56mm対空速射砲が鋭い閃光を放ち、スピーカーが蜂の巣になった直後、火花を炸裂させる様を、頭の中に描いた。赤いトグルスイッチは、この機体が百年前、戦闘宙域を駆け巡っていた時の名残だ。操縦桿の根本からは、途中で引きちぎられた配線コードが、先端に束のほどけた細い銅線を剥き出しにして、むなしくぶら下がって揺れている。
「クソ!」

握り拳を作ってダッシュボードを叩くと、思いの外、チープな樹脂パネルが跳ね上がり、コーヒーボトルが倒れた。俺は、慌てて腰を浮かせてボトルを取り上げたが、中身は空だった。
俺は、脱力しながらシートにもたれかかった。壊れかけの古いコンピューターが殴打によって一瞬正常になるように、肝を冷やした衝撃によって、幾分か動揺が収まってきた。

「で、この後どうする」
追突の際、周囲にいた船の一群は、まだアプローチライン上に残っているはず。
「しばらく、交通の潮目が変わるのを待つか」
俺は、周囲のセキュリティカメラが捉える構図を意識した。何もせずに再び宇宙に出ていくのは、どう考えてもおかしい。
その時、モールへと至るオートウォークの横にある、赤と青に縁取られた、公衆便所の隣り合った入口が目についた。
俺は、痩せ細った前髪の毛根もよそに、頭をひとしきり掻き毟った後、カプスから降りた。

コンクリ敷きの地面の感触に、違和感があった。重力というものは、こんなに軽いものだっただろうか。今朝まで俺の老体を軋ませていた、あの重さは、一体なんだったのだろうか。不意に、ある常套句を思い出した。事故で体に大きなダメージを受けると、脳内麻薬が分泌され、一時的に痛みがなくなる、と。
さっきの事故は、おそらくそれほどの衝撃だったのだ。相手も、相当なダメージを受けただろう。ましてや、油断しているところを後ろから、となれば、より甚大だったのではないか。

罪の意識が、急速に膨らんでいった。人を傷つけた、という嫌な感触が残った。
もし被害者と加害者という両極の領土があったとして、俺が追突事故を起こしたことで、加害者の領土の側に立ったのならまだ良い。俺は、加害者でありながら、今この瞬間も、どこからともなく現れた、思った事を全て口に出す女子供に、嘲笑われ、罵られ、傷つけられる可能性を持ち続けているのだ。常に被害者でありながらにして加害者とは、もはや救いようがない。

いつだって俺がひらめきを得るのは、たいていネズミの死骸色のチンポを握って、毒々しい黄色い放物線で、セラミックのキャンバスに円を描いている時だ。
こうして、無人のハルエードック内のトイレで、きついアンモニア臭の立ち昇る小便器の前に立っている今も、それは例外ではなかった。

そうだ、今日は思いっきり、笑われよう。2201記念区の電脳姑娘のクソ客に、ギャハハ、と下品な声で嘲笑われよう。俺の顔を、髪型を、スタイルを、挙動を、年齢を、境遇を、職業を、立ち直ることができないくらいに徹底的に笑われるんだ。皆、どんどん俺を笑ってくれ。笑って下さい。
そうすれば、罪の重圧から解放される。

俺は、さっきの追突事故で背負ったカルマが、1回笑われ、傷つくごとに少しずつ返済される、という考えのトリコになった。むしろ、これまでもジャオフー中にさんざんぱら女子供に笑われてきた分、受けたダメージの貯金があるので、追突事故一回くらいじゃマイナスにならない、とも。
よし。2201記念区に行くのが楽しみになってきた。
他人の心の傷に無自覚な、人生において葛藤のない、魔界の鬼どもが跋扈する、2201記念区ほど、俺が笑われるために適した場所はない。
あれほど嫌だった場所が、まさかこうも役に立つ時が来ようとは。

俺は、まだ尿道に温かいものが流れているうちに、右手をチンポから離し、ポケットからエムフォンを取り出した。
“指定場所に向かって下さい:予想到着時間マイナス11分5秒 移動中の端末の閲覧は避け、安全飛行を心がけましょう。ジャオフーサポートセンター“
「マイナス11分!? 今頃、電脳姑娘のおネーちゃんが人工ホワイトスキンにヒビを入れてるぞ」
俺は嬉しくなった。相手をイラつかせればイラつくほど、残酷に笑わってもらえる。それに、もし神がいたとしたなら、罪から逃げた卑怯な男には、よほど手痛い目に合わせてくれるだろう。その一撃、この耐え難い重圧から解放される。精神的に傷ついて済むなら、火星行きになるよりよっぽどマシだ。

左手でチンポを大きく揺らして、尿道付近に残った滴を勢いよく飛ばし、その場を立ち去った。手なんて洗わない。不衛生? どうせ汗が商品に付着するんだ。汗も小便もたいして変わらないだろ。
鏡なんて見ない。家にだって鏡がない。俺が最後に鏡を覗き込んだのは、スクール時代だ。しかし、今まさに、罪から逃れようとしている男がどんな顔をしているか、については抗い難い興味があった。ダメだ、やめておこう。俺の顔は、スクール時代のまま、鏡の中で生き続けている。無垢な少年の顔と、罪から逃れようとしているおっさんの顔が、鏡の中で出会った瞬間、俺はたちまち雷に打たれて死ぬだろう。

2201記念区に近づくにつれ、ア・ニージ・マ要塞の大動脈とも言われる、6船線の大きなアプローチラインから、軍事色の強い群青色の物々しい船体が減っていく。
要塞内の空間では飽き足らず、放射線焼けのリスクを取ってまで高さを競いあうビルの群れが、夜の墓場にひしめき合う卒塔婆を彷彿とさせる。仮にも軍事要塞でこんなに目立っていては、敵機に、ここに撃ち込んで下さいと頼んでいるようなものだ。それは、2201記念区に住む住人の、今が楽しければ後のことはどうでも良い、という即物的な態度をもよく表している。

“2201記念区 この先20キロ“の標識をすぎた時、俺は、違和感を覚えた。
半年前、税金の減免申請をしに、ここをシャトルバスで通った時とは、明かに雰囲気が違う。そう、華やかさが失われた。
まず、上級国民のステータスシンボルである、極限まで肉抜きされた、紙で作ったみたいなデザイナーシップが皆無だ。さらに、高層ビルの半分くらいの部屋は、照明が落とされている。
半年前には、この辺りの路肩に乱立していた、猫人ヌードバーやら、電脳ソープ、アンディホストクラブなどの、猥雑なピンクや紫のネオンが、ほとんどなくなっている。その代わり、闇金業者の“あんしん“、“はじめて“、“わくわく“といった消費者を油断させる文句ばかりが踊っている。

イクス公国のカミル大将さえお忍びで通う、カイパーベルト一の宝石とまで呼ばれた2201記念区にも、いよいよ戦争の影が忍び寄っているというのか。
有事の際、真っ先に打撃を受けるが娯楽産業だ、とは聞いていたがさて……。
この衰退に、心の奥底に燻っていた、2201記念区に足を踏み入れることへの不安が俄かに柔らいだことは、決して否定できない。思いっきり笑われに来た、という動機は、自らの尻に火をつけるためのカンフル剤でもあった。結局、怖いものは怖い。

届け先のマンション“パークコート フィンレー“に一番近いドックの、弓形のアプローチラインに入る。もうすぐだ。
操縦桿を握る手に力が入り、ジワッと汗んだ。
パルテノン神殿を思わせる、一定間隔に屹立する巨大なゲートの柱。近づけば近づくほど、遠近感覚が麻痺した。カプスのフロントガラスからは、もはや柱の根本しか見えない。身を乗り出して見上げると、柱の先端が消失点に向かって吸い込まれていくのが見え、今にもこちらに倒れて来そうだった。壁という壁の隅々まで、大理石調のテクスチャーが貼ってあった。
「さすが、カイパーベルト一の歓楽街、ハッタリが効いてるな」
ドック内では、度々ゲートバーに足止めされ、その毎に住民コードとの送信とX線スキャンを求められた。しかし、他の船が少なかったため、そう時間が掛からずに入港することができた。

「一番近いドックで、あと1キロも歩くのか。花束を抱えて? しかも、ここ目抜き通りのど真ん中じゃねえか」
俺は、ジャオフーバッグの中のエアクッションを全て取り出し、見るからにそれとわかる赤ん坊大の花束を、中に入れようと試みた。とても入りきる代物ではなく、花弁がはみ出しているが、目隠し程度にはなる。このバッグを前に、両手で持っていこう。裸の花束を抱えながら、魔界の住人が蔓延る目抜き通りを歩くよりかは、多少ましだ。確か俺は笑われにきたはず、と思い出し、一瞬固まったが、いや、まだその時ではない。心の準備がまだだ。

「さすがは上級国民にお誂え向きの街、いい空調設備を使っていらっしゃる」要塞内は、暑くもなく、寒くもなく、過ごしやすい春の陽気に保たれていた。ただ、この快適さとは対照的に、人がほとんどいなかった。たまにすれ違うのは、錆びた自転車をギーギー鳴らして走る、奥エイジア系移民の埃っぽいおっさんくらい。さらに、この通りをド派手に彩っていたはずの無数のショーウィンドウの多くは、テナント募集の張り紙が張り出されていた。
ほんの少し前まで栄華を誇っていた大都会も、今は過剰な高層を持て余した無機質なコンクリートの墓場でしかなかった。

「次の角を曲がって、3軒目と。あれか」
いかにも、という感じの尊大なマンションが聳え立っていた。
エントランスの集合ポストを見て、おやと思った。
注文者の部屋は、3Aとなっているが、ポストの表記には、301と三桁の表記になっている、
「ここじゃないな」
一旦外に戻って、入り口横に掲げられた金のパネルを見ると、
読みづらい文字で、“グランドメゾン2201“とあった。
エムフォンのマップを確認する。
届け先の赤いピンは、もう1軒隣のようだった。

俺はその建物を見て、息をのんだ。
「国宝クラスだな」
かろうじてマンションの体裁は保っているものの、明らかに、歴史のドキュメンタリーで見たことのある、ア・ニージ・マ要塞の入植初期に建てられた、穀物倉庫かなんかを改築したであろう、かなり年季の入った建物だった。
入り口横には、ポップさがかえって古臭さを感じさせる丸みがかったゴシックフォントで“パークコート フィンレー“と確かに書かれている。
エントランスは、照明が切れて昼だというのに薄暗く、地面は埃だらけだった。集合ポストのほとんどにガムテープが貼られている。

「こんな廃墟に、花束を愛でる上等な住人が?」
ジャオフーに例外というのは、ほとんど存在しない。上級国民は、ジアースの環境に近い、土の匂いのするものを注文し、肉体労働者は、人工的なケミカル臭い代用品を注文する。その点においては、徹底している。
この注文には、さっきまでとは別の意味で、嫌な予感しかなかった。嫌がらせ注文であるとか、猫がエムフォンをおもちゃにして偶然注文になったとか。そう考えた方が、よほど自然だ。注文者の間違いでキャンセルになったとしても、大抵は配達員がペナルティを受ける理不尽な結末が待っている。
改めて、あの時、“注文を受ける“ボタンを押してしまったことを後悔した。

おそらく荷下ろし用に使っていたであろう、鉄骨剥き出しのエレベーターの重厚なボタンを押して、しばし待つ。
エントランスの入り口から、ガタガタッと何かが段差をつまづく音がした。次いで、キュルキュルと車輪が動く音、人の足音が近づいてくる。ここの住人だろう。
降りてくるエレベーターの表示は2を示していたが、俺は踵を返してマンションの外に向かおうとした。
どのエリアに住んでるマンション住人も、ジャオフー配達員とエレベーターに同乗するのを嫌がる。俺はそれをイヤと言うほどわかっているから、住人に少しでも嫌な顔をされる数ターン先に、俺の方から素早く離れるのだ。配達とは何の関わりもない彼女らにとって、ジャオフー配達員など、社会信用のないプロータルでしかない。
もっとも、俺が配達員かどうかは問わず、同乗を拒まれるかも知れないが。

入り口の方に振り向いた時に見えたのは、車椅子に座って顔中包帯ぐるぐる巻きの傷痍軍人だった。彼の首が、車輪がタイルの繋ぎ目を踏むたびに揺れていた。その後ろに、妻であろう三十前後の女性が、うつむきがちに車椅子のハンドルを押している。
俺は、狭い廊下の壁に体をそわせながら、彼らとすれ違った。その直後、背後からエレベーターの開く音がした。
そのまま、外に出ようとした時だ。

「あら、エレベーター来ましたよ」
さっきの奥さんの声だろう。
俺に言ったのか? 一瞬立ち止まって、その内容が信じられずにいた。
もう一度、奥さんの声がした。
「違いました?」
間違いない、俺に向けて言っている。こういう珍しいこともあるのだな。
振り向くと、奥さんは軽い会釈をしながら、ボタンを押して待っていてくれた。
「あ、乗ります。ありがとうございます」
俺は、少し照れながら、小走りでエレベーターに向かった。
奥さんは、車椅子を先にエレベーターに乗せると、
操作板の前のスペースに滑り込んだ。
続けて、俺は奥さんの隣に入り、配達バッグを車椅子にぶつけないよう、
慎重に担ぎ込んだ。奥さんの視線を感じる。
既に3階のボタンが光っていた。

「あ、僕も3階です。ありがとうございます」
ドアが閉まると、いかにも病院のにおいがした。
奥さんは、一見すると目の下に疲れが現れ、少し痛んで白の混じった黒髪を後ろに結んで、センスの良い控えめなものを着ていたが、いかにも器量の良さに溢れていた。

奥さんは突然、密室の沈黙を破るように言った。
「あれ、ジャオフーさん?」
「そうです。Mikaさんです?」
「あ、私です」
「遅くなって、本当にすみません」
扉の開いたエレベーターから降り、俺は配達バッグを地面に起くと、片膝を立てて、両手でうやうやしく奥さんに花束を渡した。

奥さんが、花束を上から覗き込んだ瞬間、その顔から全ての影が取り去られた。
「わーかわいい!すご~い」
気のせいか、一瞬、奥さんが少女に戻ったように見えた。
「持ってくるの大変だったでしょう。ありがとうございました」
「いえいえ、喜んでいただいて私も嬉しいです」
車椅子の旦那さんは、包帯の僅かな隙間から出た濁った目で、車椅子の向くまま、壁の一点を見つめていた。

「今日からこの人が自宅療養になったから、そのお祝いにって」
あまりジロジロみちゃいけないと思いながらも、奥さんの視線に釣られて、旦那さんを見ると、胸にはブルーハート勲章が燦然と輝いていた。
自分の瞳孔が、大きく拡がったのがわかった。
この人、とんでもない戦果をあげたエースパイロットだ……。きっと聞けば、連邦の誰もがその名を知っているはず。BHテクノロジー入魂の、プロタイプ・ヴェーダ乗りだったのだろうか。この勲章は、敵の戦艦級か基地丸ごと一個でも沈めていない限り、そうもらえるものではない。
なぜこんな立派な人が……。

「この人ね、もう何も聞こえないし、何も見えないのよ」
そう言った奥さんの顔には、もはや悲しみも絶望もなかった。そこはかとない、強さだけがあった。それは、長期の悲しみを乗り越えた後にやってくる、一種の悟りのようなものかも知れない。
この夫婦が背負っているものがあまりにも大きすぎて、それに引き換え俺の、何の緊張感もなく、フラフラ暮らしている身分では、何も言うことができなかった。それに、この状況でも、せめて美しい花でお祝いをしようとする奥さんの殊勝さに、胸が引き裂かれそうになった。俺がここにやって来るまでに抱いた、想像の数々の矮小さに、自分でも腹が立った。
それでも、なんとか言葉を見つけて、苦し紛れに聞いた。

「その、やっぱり戦況は、厳しいのでしょうか」
旦那さんの包帯の切れ目から、ミミズ腫れの跡が見えた。この階級のパイロットは、何回撃墜されても、そう簡単にはやられない。きっとイェドン・スーツの燃料パルスに直撃して、脱出ポッドの噴射も間に合わなかったのだろう。
奥さんは、伏し目がちに首を横に振った。
「今、あっちがどうなってるかはわからないわ。この人はね、事故だったの。新兵の訓練中にね」
俺は、奥さんの口から、一番言いたくなかったであろうことを言わせた、自分の無思慮を呪った。黙って頭を低く下げるしかなかった。

奥さんは、声のトーンを一段階低くして続けた。
「後ろから追突されて」
俺は、ハッと、奥さんにも聞こえる声をあげてしまった。右耳から左耳へ、細長い鉄の槍が貫通したような、鋭い痛みを感じた。
「でも、犯人は逃げたの」
奥さんを見ると、その美しい表情には、さっきとは打って変わって、はっきりとした恨みの冷たい炎が宿っていた。
「卑怯よ……」
ギッと奥歯を噛みしめる小さな音がした。俺はこれ以上、奥さんの顔を見ることはできなかった。その言葉と表情は、そのまま俺がさっきとった行動に向けられて、容赦なく突き刺さった。
車椅子の旦那さんが、まるで入室をせがむように、車椅子のステップを靴で鳴らした。奥さんは、慌てて車椅子のハンドルを握った。
「ごめんなさいね。困りますよね、急にこんな事ね」
「あ、いえ……」
「今日は遠いところ、ありがとうございました。丁寧に運んでくる方が来てくれて、本当に助かりました。また、よろしくお願いしますね。」
奥さんは丁寧におじぎをしながら、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。

俺は、足の力が抜けて、その場に座り込んだ。
後ろから追突されて、逃げたの、卑怯よ……
後ろから追突されて、逃げたの、卑怯よ……
後ろから追突されて、逃げたの、卑怯よ……
頭の中に何度も何度も繰り返されてされて、止まらなかった。

そうだ、俺は後ろから追突して、そして逃げたんだ。
卑怯だ! 卑怯だ! 卑怯だ!
いっそのこと、死んだ方がいい。
罪の意識の泥沼に、深く深く、沈み込んで行く。
そこには、終わりが無い様に思われた。

今すぐ酢をかけられたい。宇宙の海蘊となって。
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みんなの感想(2件)

GF
2020.08.21 GF

その2も読んでみたけど、やっぱりわからん。飛行機みたいなのを主人公等が乗る…という想像でいいんですか?人型なのか、飛行機(戦闘機)なのか曖昧でわからない~。ちなみに、僕も色々と書いているので良かったら読んでみてください!

解除
GF
2020.08.18 GF

結構ガンダム意識してる感じがしますね(笑)ちなみに劇中に出ている機体って戦闘機系ですか?そこらへん解りにくいです…

小林巡査
2020.08.18 小林巡査

コメントありがとうございます!いやあ正直そこまで設定していないというか。。。うろ覚えのガンダムを意識してこうなった感じです。やっぱそういう部分が大事ですね。読んで頂き感謝ありがとうございました。

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