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硝煙の残り香と、一杯のコーヒー
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古戦場都市アルドレアの朝は、鐘の音で始まる。
百年前、この地を焼き尽くした戦争の残響は、いまや観光客の話題に過ぎない。
だが、街の空気のどこかに、まだ硝煙の臭いが残っていると、リアム・カシワギはいつも感じていた。
「……今日もいい天気だな」
店の窓を拭きながら、リアムは小さくつぶやいた。
木製の扉の上に掲げられた看板には、白いチョークで「Café Clover」の文字。
彼が拾われ、そして受け継いだ店。
――オーウェンじいさん。
今日も、客は来そうだよ。
心の中で、そう語りかける。
彼の亡き師であり、この店の初代店主。
いまも棚の奥の蓄音機には、オーウェンの声が封じ込められている。
ときどきスイッチを入れると、いつもの調子で聞こえてくる。
「リアム、コーヒーは心で淹れろ。戦場の手つきは、ここにはいらんぞ。」
その言葉に、彼はいつも苦笑した。
戦場の手つき――かつて、特殊舟艇部隊SBSの兵士だった頃の自分が、まだどこかに残っている。
あの頃の記憶は、たまにコーヒーの香りに溶けてよみがえる。
血と鉄の匂い、仲間の笑い、そして銃声。
だが、ここでは銃は必要ない。必要なのは、ただ一杯のコーヒーだけだ。
午前十時。
扉につけた小さなベルが鳴った。
「よう、マスター。今日もやってるな」
現れたのは、筋骨たくましい獣人の傭兵――ジークだった。
灰色の毛並みに古びたコート、腰には鈍く光る大剣。
彼の来店はほとんど毎朝。無口で、無愛想で、それでも欠かさず通ってくる常連だ。
「もちろん。ジークさんの顔を見ないと、朝が始まらないんでね」
「軽口を。……ブラックでいい」
「はいはい。焙煎は昨日のと同じで?」
「ああ。あの苦味が、戦場を思い出させる」
リアムはカウンターの奥で、焙煎した豆を丁寧に挽いた。
金属ではなく、木の音。静かな擦過音が、店内に広がる。
やがて立ちのぼる香りに、ジークの耳が少しだけ動いた。
「……いい香りだ。戦場じゃ、嗅げなかった香りだな」
「俺も同じですよ。あっちの世界じゃ、朝の代わりに銃声があった」
リアムがポットを傾け、ゆっくりと湯を落とす。
その仕草には、戦場での射撃と同じ精度と呼吸があった。
ただ、狙うのは敵ではなく、心の奥に眠る痛みだった。
「……ところで、マスター」
「なんです?」
「昨日、仲間をひとり埋めた。昔の戦友だ。あいつもこの街に来てたらしい」
リアムは手を止めずに聞いていた。
「そっか。……いいやつだった?」
「酒癖は悪かったがな。剣の腕は確かだった。……結局、最後まで剣を離せなかった」
「……」
「俺は、なんでまだ生きてるんだろうな」
静寂が、二人のあいだに落ちた。
外では子どもたちの笑い声、遠くで馬車の音。
しかし、この小さなカフェの中だけは、時が止まっていた。
リアムは、カップをそっと差しだした。
「答えなんて、俺もわかりません。でも、俺たちは……まだ淹れられる。まだ飲める。
それだけで、十分なんじゃないですか」
ジークは目を伏せ、湯気の立つコーヒーに手を伸ばした。
唇がわずかに震え、そして静かに微笑んだ。
「……苦いな」
「ええ。戦場の味です」
「だが、悪くない」
夕暮れが近づくころ、ジークは席を立った。
「また来る」
「ええ、次は新しい豆を試してみましょう」
背中を見送りながら、リアムは胸の奥で小さくつぶやく。
――あの戦場では、救えなかった命。
だが今、この街で、コーヒー一杯が誰かの明日を繋ぐなら。
それでいい。
カウンターの奥、古びた蓄音機が勝手に回り出す。
オーウェンの声が、穏やかに響いた。
『リアム、よくやったな。今日の一杯も、悪くないぞ』
リアムは笑い、カップを磨く。
静かな夜が、アルドレアの街に降りていた。
百年前、この地を焼き尽くした戦争の残響は、いまや観光客の話題に過ぎない。
だが、街の空気のどこかに、まだ硝煙の臭いが残っていると、リアム・カシワギはいつも感じていた。
「……今日もいい天気だな」
店の窓を拭きながら、リアムは小さくつぶやいた。
木製の扉の上に掲げられた看板には、白いチョークで「Café Clover」の文字。
彼が拾われ、そして受け継いだ店。
――オーウェンじいさん。
今日も、客は来そうだよ。
心の中で、そう語りかける。
彼の亡き師であり、この店の初代店主。
いまも棚の奥の蓄音機には、オーウェンの声が封じ込められている。
ときどきスイッチを入れると、いつもの調子で聞こえてくる。
「リアム、コーヒーは心で淹れろ。戦場の手つきは、ここにはいらんぞ。」
その言葉に、彼はいつも苦笑した。
戦場の手つき――かつて、特殊舟艇部隊SBSの兵士だった頃の自分が、まだどこかに残っている。
あの頃の記憶は、たまにコーヒーの香りに溶けてよみがえる。
血と鉄の匂い、仲間の笑い、そして銃声。
だが、ここでは銃は必要ない。必要なのは、ただ一杯のコーヒーだけだ。
午前十時。
扉につけた小さなベルが鳴った。
「よう、マスター。今日もやってるな」
現れたのは、筋骨たくましい獣人の傭兵――ジークだった。
灰色の毛並みに古びたコート、腰には鈍く光る大剣。
彼の来店はほとんど毎朝。無口で、無愛想で、それでも欠かさず通ってくる常連だ。
「もちろん。ジークさんの顔を見ないと、朝が始まらないんでね」
「軽口を。……ブラックでいい」
「はいはい。焙煎は昨日のと同じで?」
「ああ。あの苦味が、戦場を思い出させる」
リアムはカウンターの奥で、焙煎した豆を丁寧に挽いた。
金属ではなく、木の音。静かな擦過音が、店内に広がる。
やがて立ちのぼる香りに、ジークの耳が少しだけ動いた。
「……いい香りだ。戦場じゃ、嗅げなかった香りだな」
「俺も同じですよ。あっちの世界じゃ、朝の代わりに銃声があった」
リアムがポットを傾け、ゆっくりと湯を落とす。
その仕草には、戦場での射撃と同じ精度と呼吸があった。
ただ、狙うのは敵ではなく、心の奥に眠る痛みだった。
「……ところで、マスター」
「なんです?」
「昨日、仲間をひとり埋めた。昔の戦友だ。あいつもこの街に来てたらしい」
リアムは手を止めずに聞いていた。
「そっか。……いいやつだった?」
「酒癖は悪かったがな。剣の腕は確かだった。……結局、最後まで剣を離せなかった」
「……」
「俺は、なんでまだ生きてるんだろうな」
静寂が、二人のあいだに落ちた。
外では子どもたちの笑い声、遠くで馬車の音。
しかし、この小さなカフェの中だけは、時が止まっていた。
リアムは、カップをそっと差しだした。
「答えなんて、俺もわかりません。でも、俺たちは……まだ淹れられる。まだ飲める。
それだけで、十分なんじゃないですか」
ジークは目を伏せ、湯気の立つコーヒーに手を伸ばした。
唇がわずかに震え、そして静かに微笑んだ。
「……苦いな」
「ええ。戦場の味です」
「だが、悪くない」
夕暮れが近づくころ、ジークは席を立った。
「また来る」
「ええ、次は新しい豆を試してみましょう」
背中を見送りながら、リアムは胸の奥で小さくつぶやく。
――あの戦場では、救えなかった命。
だが今、この街で、コーヒー一杯が誰かの明日を繋ぐなら。
それでいい。
カウンターの奥、古びた蓄音機が勝手に回り出す。
オーウェンの声が、穏やかに響いた。
『リアム、よくやったな。今日の一杯も、悪くないぞ』
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静かな夜が、アルドレアの街に降りていた。
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