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豺狼(さいろう)はエルドラドの夢を見るのか? ~前編~

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    「豺狼はエルドラドの夢を見るのか?」

                      右京之介
                
「奈月先生、夫を殺してください」
目の前の女は確かにそう言った。
諸神保育園の応接室。職員がいる場所から少し離れた所に設置された小さなスペース。L字型の衝立の内側には、園児たちが描いた花や動物の絵がたくさん貼られていて、色あせた安物の応接セットを隠すかのように、華やかな印象で周りを取り囲んでいる。
ここからだと普通に話していても、他の職員にまで声は聞こえないだろう。もっとも、聞き耳を立てるような職員はいない。保護者との緊急面談はよくあることだからだ。
女は眼球だけを左右に動かして、人の気配を確かめると、もう一度声を潜めて言った。
「お願いします、先生」
そして、古いハンドバッグの口を開けると、中から袋を取り出して、テーブルの上に置いた。
「こちらは当面の必要経費です。成功報酬は別途用意しています」
女はこちらの表情を伺いながら、目を見つめてきっぱりと言ってきた。
「私が苦労して貯めたヘソクリですから、夫は知りません。どうか、心配なさらないでください」
保育士である風田奈月は女の強すぎる目力にたじろぎ、いったん視線をはずして、テーブルの上を見ながら言った。
「いえ、あの、私はお金の出所を心配してるんじゃないです」
パンパンに膨れ上がった袋はかなりの厚みがあった。数十万円か?
その袋はなぜかご祝儀袋だった。
ご祝儀袋にこれだけお金が入るものなのか。
女は言い訳をするように言った。
「適当な袋がこれしかなかったものですから。でも、水引は外してきましたので」
金色の水引はないとはいえ、人殺しの報酬をご祝儀袋に入れて持ってくる?
からかわれているのか?
そのうち冗談でしたと言って、同僚の保育士たちがやってくるんじゃないのか?
あーっ、先生、騙されたーっと言って園児たちに囲まれるんじゃないのか?
しかし、女の目は本気だった。追い詰められたような表情は変わらない。
どうやら冗談を言っているんじゃなさそうだ。
女は尚ちゃんのお母さん。
坂田……? フルネームは何と言ったか?
保護者の顔はみんな、誰々ちゃんのお母さんで覚えているため苗字しか思い出せない。
三十代半ば。地味な服装で小柄な体形。化粧は薄く、髪はひっつめにしているため、もしかして、もう少し若いのかもしれない。かなりの読書家だと聞いたことがある。家にはたくさんの本を所蔵しているという。そのせいか、度の強いめがねをかけている。普段はうつむきながらボソボソと話す。顔を見られたくないからだ。
目の周りにはいつも青黒いアザがある。前歯の右端は欠けたままだ。頬に傷がついていることもしばしばある。手の指や甲の絆創膏もいつものことで、鼓膜は今までに三回破れたというウワサだ。
そして、しばしば尚ちゃんにもアザや傷の跡が見受けられる。
原因は今、殺害を依頼された夫にある。
妻子はもとより飼っている犬にまで、夫は虐待を加えているという。
近所の人から通報を受けた児童相談所の職員が訪問をしてみると、たまたま在宅していた夫にひどく怒鳴られて、追い返されたらしい。二度訪問をしたが、二度とも同じ目に遭ったという。
それ以降、坂田家の虐待に関わるのはタブーとなっていた。
尚ちゃんのお母さんは、じっとこちらを見つめたまま返事を待っている。
奈月はまだこの奇妙なお願いが信じられずに戸惑っている。
きっと、この暑さでむしゃくしゃして衝動的に持ち出したものだろう。
本気だとしても、そのうちに気も変わるだろう。
そう思って気を取り直した奈月はお母さんに訊いた。
「このことは私以外、誰かに相談されたのでしょうか?」
「いえ、奈月先生にしか話してませんから――」
ご安心くださいという言葉を飲み込んで、テーブル上のご祝儀袋を少しこちらに押しやる。
奈月は必要経費とやらには触れず、とりあえず一番疑問に思うことを尋ねた。
「なぜ、私なのでしょうか?」
社会人になって二年。まだ新米の女性保育士になぜ殺人の依頼をするのか?
短大時代には鉄道同好会を作り、恋愛そっちのけで、仲間と一緒に大好きな電車を追いかけまわしていて、男子には変な目で見られていた。そんな私に。
格闘技の経験どころか、スポーツの経験もなく、このお母さんと同じくらい小柄な私に。
借金もなく、別段お金に困っているわけでもない私に。
もちろん、人なんか殺したことがないこの私に――。
なぜ殺せというのか? どうやって殺せというのか?
「奈月先生なら私の気持ちも分かってくださると思うからです」
お母さんは当たり前のようにさらりと言った。
確かに尚ちゃんは私の受け持ちの園児だから、今まで色々な相談に乗ってきた。だから、尚ちゃんのことは元より、坂田家の家庭内のことまでよく知っているし、他の先生よりもお母さんの気持ちは分かる。
そして、あの男がどんなに嫌な奴かも知っている。
だけど、なぜ、いきなり殺人の依頼にまで飛躍するのか?
季節は夏に差し掛かっている。エープリルフールはとっくに過ぎているというのに。
お母さんはこちらの気持ちを察してか、
「本当は私がやればいいのです。でも、尚ちゃんがいます。尚ちゃんの将来が……」
あまりにも身勝手な理屈に驚いた奈月はすぐさま言い返す。
「私にも母がいます。母にも将来があります。尚ちゃんよりも短い将来かもしれません。でも、母にとっても、私にとっても大切な将来なんです」
「それは分かってます」
そういって、尚ちゃんのお母さんは初めて目を伏せ、ポケットからハンカチを取り出して、額の汗をぬぐった。
奈月が母子家庭であることはみんなが知っている。しかし、それが園児の保育に影響することではないことも分かってくれている。だから、誰も家庭環境のことを非難したり疎んじたりはしない。懸命に働く奈月の姿を園児も保護者もよく見て、知っているからだ。
お母さんはふたたび顔を上げて奈月を見た。
「でも、もし私が殺してしまうと、真っ先に疑われるのは私なんです。私も尚ちゃんも夫に酷い目に遭わされていたことはみんなが知ってます。警察がちょっと聞き込みをすれば分かることです。でも、先生だったら動機が、いえ、動機は多少あると思いますが……」
「坂田さん、もしかして……」
「はい、知ってます。奈月先生が通園途中に、うちの夫に嫌がらせを受けていることはよく知ってます。夫がうれしそうに言うのです。今日もあの先生を車で轢くフリをしてやったとか、後ろからいきなりクラクションを鳴らして驚かせてやったとか、自慢げに言うのです。そんな男なのです、夫は」
「そうだったのですか……」

約二ヶ月前のことだ。
ある園児が投げたボールを避けようとした尚ちゃんは、鉄棒の支柱に頭の側面をぶつけてケガをした。といってもコメカミの辺りが少し血で滲んだ程度の軽いケガだ。
絆創膏を一枚貼って応急処置をした。
しかし翌朝、父親が保育園に怒鳴り込んで来た。
大柄で髪を金色に染めたその男は縦縞の紺色スーツを着て、金縁の派手な眼鏡をかけていた。そして、太い首には金のネックレス、太い手首には金の時計と金のブレスレッド。足の甲にも何やら金の飾りがついた靴を履いていて、手に持っているセカンドバッグも金のオブジェが施してあった。
坂田貴次郎――現金よりも株よりも不動産よりも金(きん)を信じる男として、地元では有名だった。建築会社を経営する傍ら、投資セミナーや勉強会にも講師として呼ばれ、金投資のテレビCMにも出演しているからだ。
「不動産や株と違って金相場は大きく変動することはありません。安定した財産運営には金が一番です。株券なんて倒産すればただの紙切れ。今や、実物資産の時代ですよ。どうですか、奥さん、だんなさん、学生さん、金は人生を豊かにしますよ!」
金塊を両手に抱えた男が、金尽くめの派手な衣装を着て、脂ぎった笑顔でお茶の間に訴えかけている。
しかし、やさしいピンクとブルーを基調としたこの保育園に下品な金色は似合わない。
髪型は金髪オールバックで、全身も金色尽くめにして、歩く広告塔と化している男が言った。
うちの息子が顔に大ケガをした。ちょうどこの辺りだ。
自分のこめかみを指差す。
「尚人の担当の先生はどいつだ?」
奈月はハイと返事をすると男の前に出た。
「ああ、お前か。どうしてくれる」
既に登園を終えていた園児たちが教室の窓から顔を出して、心配そうに運動場を見ている。その中には尚ちゃんもいるし、男を見て、あっ、尚ちゃんのお父さんだと言っている子もいる。
保育士たちは廊下を走りながら、何でもないから自分の席に戻りなさいと呼びかけている。
奈月は謝るしかなかった。同僚も一緒に頭を下げてくれたが、男はさんざん言いたいことを言うと最後に「こんなオンボロ保育園なんかつぶれてしまえ」と捨て台詞を残し、機嫌の悪いまま帰って行った。特に金品を脅し取ろうとするわけでもなく、そのとき不在だった園長先生の謝罪も要求してこなかった。
「奈月先生、気にすることないよ。あいつ、いつもこうなんだから。威張りたいだけ。見栄を張りたいだけ。ただそれだけ。そのために大した用もないのに、時々ここに来るんだよ。保育園をストレス発散の場に使ってるだけだよ。ホント、子供の前でみっともないよねえ」
三十八歳のベテラン独身女性保育士。自称崖っぷちのみどり先生が慰めてくれた。
みどり先生もあの男に会うたびに、男はいないのか、まだ結婚はしないのかとネチネチと嫌がらせを言われている。
「そうですよ。あんな金ピカ野郎、カミナリに打たれて黒焦げになればいいんですよ」
二十一歳の新米男性保育士。童顔の吉田くんも加勢してくれた。
しかし、吉田くんもそうだ。お前のような若造には子供の保育は無理だろうと、顔を見るたびに言われている。
「そうだ。来月、保護者謝恩会がありますよね!」
ひらめいた吉田くんがうれしそうな顔をして、あつこ先生を見る。
「あつこ先生! あいつの飲み物に毒を盛ってやってください!」
あつこ先生は、この保育園の給食やおやつを担当している栄養士の資格も持っている保育士のおばちゃんだ。
あつこ先生は吉田くんを止めるどころか、大いに賛成した。
「それはいい考えね。毒キノコの粉とかハブの毒とか、いっぱい盛ってやるわ。――ねえ、奈月先生」
「は、はい」
本当にやりそうな勢いだったので返事をためらったのだが、反対はしなかった。
みんな、あの男がいなくなることを本気で望んでいたからだ。
坂田貴次郎はただ文句を言うためだけに、保育園へ乗り付けるモンスターペアレンツだった。
不安そうに教室から顔を覗かせる園児たちをよそに、どうやって坂田を懲らしめてやるかというテーマの臨時職員会議が、運動場の真ん中で立ったまま続けられた。
みどり先生が言った。
「坂田さんには、ほどほど参ってますから、園長先生にはちゃんと報告しておくべきじゃないかなあ。みんな、もう限界だって」
「そうですよ。あの男、園長先生の権限で出入り禁止にできないですか?」
吉田くんも追い討ちをかける。
奈月は思い詰めたように黙ったままだったが、体格のいい女性が割り込んできた。
「はいはい、みんなの気持ちは分かるけど、子供たちが待ってるでしょ」
主任の遠利先生だった。
遠利主任も、めったに表に出てこない園長先生の代わりに、坂田からさんざん嫌味を言われていた。
「その件は後ほどゆっくり話し合うことにして、今は保育に戻りましょう」

その翌日からだ。朝の嫌がらせが始まったのは。
奈月が朝、自転車に乗って保育園に行く途中、待ち伏せをしていたかのように坂田が現れる。乗っている車は金色の塗料を塗りたくったベンツだ。金ピカのメルセデスベンツなんてマンガにしか出てこない存在だと思っていたのに、実際乗っている人がいるから呆れる。内装も金一色だ。ハンドルも金色に塗られていて、どこに売っているのか、シートも金色だ。
あまりにも下品な車に改装してあるため、ベンツ本社からクレームが入ったというウワサもあるくらいだ。
街中をこの車で乗り回しているため、坂田はすっかり有名人だ。そして、自分が主催する金の投資セミナーにもこの車で乗りつけて、見せびらかしている。
その自慢の車で自転車に幅寄せをしてきたり、急ブレーキをかけたり、窓から顔を出してニタニタ笑ったりしている。本当にぶつかったら警察に届けようと思っているのだが、その辺は考えているらしく、巧みにかわす。傷が付いたら修理が大変なのだろう。こちらにはお金がないこともよく知っているようだ。
家から保育園までの道がここしかなく、この男が付きまとう数百メートルは、まるでシャチに狙われている子供クジラの心境だった。しかし、嫌がらせを受けてるとはいえ、預かっている園児の親だ。あおり運転くらいで警察に訴えるわけにはいかなかった。

「でも、ごめんなさい。私にはあの人を止められないんです」
尚ちゃんのお母さんは申し訳なさそうに言った。
忠告などすれば、また殴る蹴るの虐待を受けるということなのだろう。
「車からの嫌がらせくらいでは殺人の動機には程遠いと思います。だから、警察も奈月先生のことを疑わないと思います」殺人の依頼は続く。「それになんといっても、先生のような若くてかわいい保育士さんが人を殺すとは誰も思わないでしょう。だから、先生にお願いするのです。先生なら絶対にバレません。私もできるだけ協力します。先生はそんなことをする人じゃないと証言してあげます。――お願いします。夫を殺してください。頼る人は奈月先生しかいないのです」
奈月は少し考えさせてくださいと、ご祝儀袋を向こうへ追いやりながら言った。
ますます頭の中が混乱し始めたからだ。
このお母さんは本気なのだ。
殺人依頼はとっさに思いついたことではなく、以前からずっと考えていて、今日、ついに実行されたものだ。前もって、お金は用意されていたし、奈月の保育が空くこの時間帯を見計らって、お母さんはやって来たのだ。
「では、いつまで待てばいいのでしょうか?」
お母さんは諦め切れずに訊いてきた。それも当たり前のように。
今すぐ引き受けてくれるとでも思っていたのだろうか。もちろん考えておくというのは方便で、折を見て断る予定だった。お母さんのあまりの真剣さに、この場で断る勇気が出なかったのだ。
なぜ私が人を殺さなければいけないのか?
確かにあの男は嫌な人物だ。他の先生方もそう思っているだろう。しかし、みんな、殺意を催すほどの恨みは抱いていないはずだ。尚ちゃんが卒園すると、もう会わなくても済む。  
あと一年の辛抱だ。
もし事件を起したなら、マスコミは面白おかしく書き立てるだろう。
“保育士がモンスターペアレンツを殺害“
お母さんの気持ちは分かる。
でも、私と母の将来はどうなるのか?
もうこの街では暮らせなくなるだろう。
大好きなこの保育園はどうなるのか?
園児が集まらなくなり、廃園となるだろう。
大好きな園児たちはどうなるのか?
嫌な記憶とともに、別の保育園に移って行くのだろう。 
人を殺すための必要経費が入ったご祝儀袋は無理矢理ハンドバッグに戻させた。
肩を落として門を出て行く尚ちゃんのお母さん。いつもより増して背中が小さく見える。
地味なエンジ色のTシャツは保育園のピンク色の塀にそぐわない。
奈月はこの突飛な申し出をどういう理由で断るか悩みはじめた。

 六月下旬。雨が続くこの時期は外で遊ぶ機会が少なくなり、夏が来るまでの間、子供たちの楽しみは教室内の行事へと移る。
今日は日曜参観の日。普段お目にかかれないお父さん方の前で、保育士たちは何をやろうかと、数日前から頭をひねっていた。
結局、奈月は絵本の読み聞かせ会を開催することにした。前回の参観日でも好評だったからだ。小さい頃から本に親しんで、想像力が豊かで感受性が優れた子に育ってほしいという願いは、奈月も親御さんも一緒だった。
奈月は朝早くからイスだけを前の方に並べて準備をした。自分が座るイスの周りに半円を描くように子供たちのイスを並べて、絵本がよく見えるように、できるだけ近づけた。
園児たちは静かに座って待っている。
後ろの方では、お父さんたちが集まっている。お母さんの姿も見える。
教室が一杯になり始めると、気になりだした園児たちがときどき後ろを向いて、自分の親を探している。
「はい、みんな。今日は絵本の会ですよ。でも、その前にお歌を歌いましょうか」
「わーい」
園児たちから歓声があがる。みんなはお歌が大好きだ。
「では、線路はつづくよどこまでもを歌いまーす」
「わーい!」
「エエーッ!?」
ふたたびの歓声とともに、一部からはブーイングが起きた。
「せんせーい、いつもその歌ばっかりー!」
一人の園児が叫ぶと、何人もの園児が後に続けとばかりに抗議の声をあげる。
「そうだ、そうだー!」
保護者に不審な目で見つめられて、思わず苦笑いをする奈月。
一番後ろに座っていた美咲ちゃんが振り返り、すぐ後ろに立っていたお父さんに言った。
「あのね、先生はね。電車が大好きだから、いつもこの歌を歌うんだよ」
保護者の間から苦笑が漏れる。
保護者の後ろのピンクの壁には、園児たちが書いた電車の絵が飾られていたからだ。
奈月が電車というテーマで描かせたものだった。
しかし、奈月はそんなブーイングの嵐にも負けず、気を取り直して大きな声で歌いだした。
♪線路はつづくよどこまでも~
文句を言っていた園児たちも後につづく。
♪野をこえ、山こえ、海こーえて~
奈月は満面の笑顔を浮かべる。
♪はるかな町まで~、ぼくたちの~、たのしい旅の夢~、つないでる~。
園児たちの大合唱が続く。
♪ランラランラ、ラーンラ、
♪ランラランラ、ラーンラ、
♪ランラランラ、ランラ、ランランラン。
最後はみんなで盛り上がって、保護者の間からも笑顔がこぼれていた。
つづいては絵本の読み聞かせ会。
奈月が選んだ絵本は“わらしべ長者”だった。
一本のわらしべをいろいろな物と交換していくうち、いつしかお金持ちになってしまうというお話だ。
「男の人は藁の先にアブを結び付けました。アブというのはハエよりもちょっと大きな昆虫ですね。アブは藁の周りをビュンビュンと周りを飛び回ってます。面白いですねえ。そこへ小さな男の子がやってきました。小さな男の子はそのアブが欲しくて、お母さんにお願いしました。お母さんは男の人に、そのアブとこれを交換してくださいと頼みました」
絵本を頭のあたりまで高く上げた奈月は、途中でいろいろな質問をはさみながら物語を進めていく。
「では、お母さんがアブと交換した物は何でしょう?」
「ハチ、トンボ、チョウチョ、カエル……」
子供たちがつぎつぎに答えていくが、なかなか当たらない。
「今度は昆虫ではありません。ヒントは果物でーす!」
「バナナ!」「メロン!」「ミカン!」
「はい、悠くん、正解! 今度はミカンと交換します。さて、その後はどうなるのでしょうか?」
奈月は絵本のつづきを読み始めた。
園児たちはワクワクしながら聞いている様子だ。
そして、最後は大きな家を手に入れて長者になったところでお話は終わる。
園児たちから拍手が起きた。みんな満足そうな顔をしている。
父兄の間からも拍手が起きた。こちらもうれしそうな顔をしている。
いったん、休憩になったところで、後ろで偉そうに立っていた尚ちゃんのお父さんが、おいおいと手招きをして、奈月を呼びつけた。
坂田は今日も高そうなスーツ姿で、参観日だというのに金のネックレスとブレスレッドをジャラジャラさせている。
「先生よ、あの歌は古すぎねえか。他にあるだろうよ、ポップスとかよ。あんた、さっき聞いたら鉄道マニアらしいな。だからって、自分の趣味を押し付けるなよ」
「押し付けているわけではありません。子供たち乗り物が好きですし、この絵を描いているときも、みんな楽しそうでしたし……」
坂田は奈月の話を遮ってつづける。
「それによ」坂田の顔が紅潮しはじめる。「古臭い童話はやめろよ。もっと新しいのがあるだろ。ディズニーとかジブリとかよ」
しかし、大きな声で怒鳴り出した坂田を止めようとする保護者はいない。
「でも、子供たちは喜んでましたよ」
「喜んでねえよ。あれはご祝儀の拍手だ。あんな貧乏臭い話を喜ぶわけないだろ。アンタは貧乏臭いマンションに母一人子一人で住んでるから共感を覚えるんだろうけどな」
「仕事の内容と私の家族は関係ありませんよ」
「関係あるって。知らず知らずのうちに、ミジメったらしい絵本を選んでるんだよ」
「私も母もミジメったらしい人生なんて送ってません」
二人のやり取りを周りから見ている父兄も、遠巻きに見ている園児たちも不安そうな表情だ。
教室内は静まり返り、せっかくの参観日が異様な雰囲気になっている。
坂田は自分の息子を含めたみんな前で、奈月をいたぶることを楽しんでいる。
歌にしろ、絵本にしろ、別段腹を立てることではない。
いたぶる材料を探したら、それがあったに過ぎない。
いたぶることによって、坂田は自分が勝った気になっている。
坂田にとって、相手は誰でもよかった。ただ弱い個体を探したらすぐそばに奈月がいたに過ぎない。
保護者の中では、だれも奈月を庇おうとはしない。庇ってしまうと、今度は自分が坂田に目を付けられるからだ。
「まあ、奈月先生、そんなむきになるな。このあと短冊を書くんだろ。せいぜい金持ちになれるよう書いとくんだな。あっ、そうだ。なんだったら、金投資をくわしく教えてやるぜ」
休憩後は七夕のための短冊を書くことにしていた。
これも園児たちが楽しみにしていたのだが、坂田のお陰でテンションが下がっている。
教室の前に戻った奈月は、わざと明るく大きな声で言った。
「さあ、みんな、今から短冊にお願い事を書こうねー!」
「ワーッ!」
子供たちが奈月の元気な声に答えてくれた。
一人一人に短冊を配りはじめた奈月は、また大きな声で言う。
「みんなー、何をお願いするのかなー?」
「サッカー選手になりたいっ!」
「パティシエになりたい!」 
「象をオンブしたい!」
「できないよ!」
書き終えた短冊は大切に保管することになっていた。
七夕の前日に園児たちと一緒に笹に飾り付けをする。毎年の行事だ。
絵本の読み聞かせと短冊のお願い、二つのことをやり終えて、日曜参観は終わった。
父兄の感触もよく、満足していた奈月だったが、最後にまた坂田が言いがかりをつけてきた。
「奈月先生! 先生は短冊に何を書いたんだ? やっぱり、あれか。お父さんがほしいって書いたのか?」
また私の家族のことを侮辱するつもりだ。
奈月は無視をしようと思ったが、まだ帰らずにいる父兄もいたため、しかたなく相手をする。
「いえ、そんなこと書いてません」
「でもよ、オヤジがいた方が経済的にも楽できるんだぞ。苦しいだろ母子家庭は」
「子供たちがすくすくと育ってくれるようにと書きました」
「母ちゃんが再婚できるように書いておけよ」
「余計なお世話です」
「あ、ダメか。アンタの母ちゃん、ブスか? そうか、ブスか。ははは」
奈月は怒りで全身が震え出したが、何とか静める。
「母のことは言わないでください」
 女手一つで私を育ててくれた母の顔が浮かぶ。
「へへ、そうかい、そうかい。人が親切でアドバイスしてやってんのによ」
坂田はニヤニヤ笑いながら、周囲にいる父兄を見渡す。
「ねえ、みなさん。そう思わないですか? いやね、この先生の家庭は複雑で不幸なんですよ。複雑で不幸な家庭で育った人間が、子供たちを幸せにしようとしてるんですよ。感心ですなあ」
周りにいる人たちは地元の名士に気を使ってか何も言わない。
奈月の顔は真っ赤になっていた。
「私の家のことは構わないでください」
奈月の脳裏にふとあのご祝儀袋が浮かんだ。

 夕方、スーパーに寄ってから帰路に着いた奈月は、まだどの部屋も電気が灯っていない一棟のマンションを見上げた。築二十年以上経つ古いマンションだ。
奈月はその二階の一室に母と二人で暮らしている。父が病死したとき、奈月は狭くてもいいから新しくてきれいなマンションへ引っ越そうと提案したのだが、母は父との思い出が詰まったこの場所から動こうとせず、結局、奈月も母の意見を尊重して、それ以来この部屋で暮らしている。もちろんここは奈月にとっても、父との短かったが楽しかった思い出の場所でもある。
坂田はどうやって調べたのか、奈月がこのマンションに住んでいることを知っている。後をつけたのかもしれない。あるいは幅広い人脈があるために、誰かから聞き出したのかもしれない。今のところ、やって来たりはしないが、いい気分はしない。
奈月は一階の集合ポストからたくさんのチラシをわしづかみにして取り出した。入り口にオートロック機能もなく、防犯カメラも設置されていないこのマンションには、チラシの宅配業者が投函しやすいのか、毎日たくさんのチラシが入っている。
チラシの束をより分けて自分たち宛ての郵便物を探すが、今日は何も来てないようだ。ポストのすぐ横に大家さんが置いてくれているゴミ箱へすべてのチラシを投げ捨てて、奈月は狭い階段を上がって行った。
誰もいない部屋に入ると、エコバッグとデイパックを下ろした。後ろでくくっていた髪をほどいて、室内用のスウェットに着替える。
窓を少し開けて、部屋の中の澱んだ空気を入れ替えた。風は初夏の香りを含んでいる。
洗面所はないため、台所の流し台で手を洗ってうがいをした。
お風呂場へ行き、昨日の残り湯に水を足す。レバーを捻ると、ボォとガスが点火する音がした。
保温状態にしてあった電子ジャーの中を開けて、残っていたご飯をしゃもじでかき混ぜた。お茶碗に二膳分くらいはある。
今日、母は会議で遅くなり、夕食を済ませてくるため、自分の分だけでよかった。
フライパンに油を敷いて買ってきたハムとキャベツを炒める。
換気扇をつけようと紐を引っぱったとたん、唐突に坂田の顔が浮かんできた。
父兄の前でも平気で人を罵倒する男。
私と母のささやかだけど平和な生活をあざ笑う男。
執拗な嫌がらせを、何のためらいもなく続ける男。
「夫を殺してください」
冗談なんかではなく、あの申し出は妻としての本当の気持ちなのだろうと思った。
尚ちゃんもお父さんがいなくなることを望んでいるのだろうか?
傷が絶えない妻と子と犬。
あんな豪邸に住んでいるのに不幸だなんて。
コンロの火を止める。部屋の中が暑くなってきたのでエアコンのスイッチを入れた。
涼しい風が奈月の顔を掠めて行く。
あんな男、この冷風と一緒に吹き飛んで行けばいいのに。
いったん思い浮かんだ坂田の顔は、いつまで経っても、奈月の頭の中から出て行かなかった。

 おやつの時間が終わってからのウキワク会は、半月に一度開催される園児たちが楽しみにしている会だ。
ウキウキワクワクを略してウキワク会。
保育士たちが持ち回りで、園児が喜んでもらうような催しを行う。普段はクラスごとに分かれての保育だが、この日は全員が集まる。歌であったり、お芝居であったり、ビデオ鑑賞であったり、ヒーローゴッコであったり。最近ではお笑いブームも手伝ってか、モノマネなどの一発芸大会が人気ナンバーワンの種目だ。
ホールに全員の園児が集まり、車座になって座っていた。窓は全開にしてあるので、ときおり涼しい風が入ってきて、子供たちの熱気と初夏の暑さを和らげてくれている。
前回はあつこ先生の指導の下、みんなでスイーツを作って食べた。
今日は何をやるのだろう?
そのときのテーマは当日まで内緒にされている。
園児たちは文字通りウキウキワクワクした表情を浮かべていた。
そこへ新米保育士の吉田くんがやってきた。
「はいはい、ちょっと通してよー」
園児を跨ぎながら輪の中心に向う吉田くんは、両手で大きなスポーツカーを抱えている。
自慢のラジコンカーだ。みんなの視線が集まる。
「今日のウキワク会は先生がラジコンショーを見せてあげまーす」
園児たちから歓声があがる。
吉田くんは重そうな車をそっと床に置いた。
「車を動かすのはこのコントローラーです。使い方は簡単です。このスイッチを入れて、ほらっ!」
――キュン!
たちまち真っ赤なスポーツカーが動き出した。
輪になって座っている園児たちの目の前をすれすれにラジコンカーが走って行く。
車に合わせて、吉田くんは自分の体もクルクルと回していく。
「ほら、ライトもつくよ。バックもできるよ。はい、急ブレーキ。そして、高速でUターン!」
ラジコンカーのタイヤがキュッと音を立てる。
先生たちは吉田くんの運転テクニックに感心している。ラジコンが趣味だと聞いていたが、こんなにうまいとは知らなかったからだ。
ギュンギュン走り回る車に驚いて、立ち上がろうとする子もいる。
逆に車を捕まえようとする子もいる。
「あっ、危ないから手を出しちゃダメだぞ。――じゃあ、自分で操縦してみたい人!」
「はい」「はい」「はい!」
男の子のほとんどは手を挙げた。女の子もチラホラ手を挙げている。何でも興味を示し、何でも自分でやってみたいお年頃だ。
 結局、吉田くんは園児全員にラジコンカーの手ほどきをして、一人一周ずつ操縦をさせてあげることになった。
ラジコンカーはこの一台だけではないらしい。他にも何台かを持っていることを話すと、次の吉田くん担当のウキワク会はここでレースがしたいということになった。大切なラジコンカーを壊されるんじゃないかと不安に思った吉田くんだったが、引き攣った顔で承諾をした。何よりも園児たちが喜ぶ顔が大好きな吉田保育士だった。
 園児たちが帰った後、奈月は吉田くんに呼び止められた。手にはラジコンカーを持っている。ウキワク会での評判が予想以上に良かったのでうれしそうだ。
「奈月先生もやってみませんか?」
そういってコントローラーを突き出す。
「ええっ、そんなの触ったこともないし」
「いえ、簡単ですよ。子供たちでも操縦できていたじゃないですか?」
吉田くんはスポーツカーを廊下の床に置いて、
「じゃあ、五メートルほど先でUターンして戻ってくるというのはどうですか?」
勝手に目標設定をしてしまった。
奈月の小さな手には大きすぎるコントローラーを起用に動かすと、見事にカーブをクリアした真っ赤な車は、忠実な犬のように戻ってきて、奈月の足元でピタリと止まった。
「え、えーっ!?」
吉田くんが驚きの声をあげた。
おそらく、もたつく奈月に代わっていいところを見せようとでも思っていたのだろう。
「奈月先生、ラジコン持ってるでしょ!」
自分でもうまく操縦できたことに驚いている奈月。
「持ってないって! 私、一人っ子だから、ラジコンやるような兄も弟もいなかったし。あっ、でもね、プラレールはうまいよ」
「ああ、そうか。奈月先生、鉄の女ですよねえ」
「てつじょ! 鉄道に恋をしている女の子。略して鉄女。鉄子とも呼ばれるけどね。分かった?」
「はい、十分に。でも、奈月先生は鉄道になると熱くなりますねえ」
「まあね。だから、ラジコンには縁がないの」
「へー。じゃあ、操作がうまいのは才能ですねえ。奈月先生、今度のボクのウキワク会のレースに出てくださいよ。ええ、もう決めました。エントリーしておきますよ。まず、ボクと奈月先生と、なかなかのテクニックだった健くんと陸くんと真奈美ちゃん。うーん、このあたりがシード選手だなあ」
吉田くんはラジコンカーを抱え上げると、奈月の存在も忘れたかのように、頭の中に対戦表を描きながら職員室へ歩き出した。
唖然と見送る奈月。
ラジコン操縦の才能があるといって褒められてもあまりうれしくない。
何かの役に立つとも思えないしなあ。

 夕方。帰り道も同じところを通って行くが、尚ちゃんの金ピカお父さんは現れない。
朝と違って、奈月の帰り時間はまちまちだし、向こうも仕事中だから待ち伏せなどしていられないのだろう。
奈月は一軒の大きな家の前で、ブレーキ音が響かないようにゆっくりと自転車を止めた。
閑静な住宅街。夕方五時半。左右を見渡すが通勤帰りには早い時間のためか歩いている人はいない。
自転車にまたがったまま、薄暮の空をバックにそびえ立つ三階建ての家を見上げる。
尚ちゃんが住む豪邸。
いったい部屋数はいくつあるのだろうか。私の部屋の大きさとこの家のお風呂場の大きさはきっと同じくらいなのだろう。そして、そのお風呂はきっと総天然ヒノキ造りだ。もしかしたら、家庭用サウナも併設されているかもしれない。
一階の部屋と二階の部屋の二ヶ所に電気がついている。今家に居るのは尚ちゃんとお母さんの二人だけのはずだから、キッチンと子供部屋なのだろう。五歳にしてすでに自分の部屋を与えられている尚ちゃん。尚ちゃんのお城はいったい何畳くらいあるのだろう。
豪邸の後ろには田んぼが広がっている。そこも尚ちゃんの家の持ち物だ。かつては米を作っていたらしいが、後継者がいなくなり、荒れ果てたままだ。田んぼの真ん中に農機具を入れておく野小屋が使われないままポツンと建っていた。
小さなため息を一つついた奈月は、大きな門の脇からおどおどとした表情で顔を覗かせた大型犬を見つめた。
「マルク、また、痩せちゃったね」
誇り高きジャーマン・シェパードのはずなのに、目は虚ろで、耳は寝て、体はやせ衰えている。
ユーロに移行する前のドイツの貨幣単位を名に持つこの犬。子犬の頃は丸々と太っていた。だが、見かけるたびに痩せていく。今や、番犬の役目も果たせず、訪問客を悲しい目でこっそり見上げるだけの犬になっていた。
原因はあの男にあった。
尚ちゃん、尚ちゃんのお母さん、そして、外飼いされているこの犬にまで、あの男は虐待を加えていたからだ。
ボロボロになった木製の犬小屋の横に薄汚れたアルミの器が転がっている。何も入ってないところを見ると、ご飯はちゃんと食べているのだろう。まさか、ご飯をもらってないことはないと思うけど、夕方になってもこの暑さだ、お水くらいは常にあげておかないと弱ってしまうのに。
奈月は家人が出てこないことを確認すると、自転車を降りて、すっかり顔見知りになっていたマルクに近づいた。門柱に警備会社のシールが貼ってあるが、犬小屋に向けて防犯カメラは設置されていない。見られていなければ大丈夫だ。
「ほら、怖がることはないって。私だよ」
マルクは鼻をクンクンさせながら奈月の足元に寄って来て、記憶にあるニオイだと分かると、安心して座り込んだ。
そして、奈月が頭をやさしく撫ぜてやると、マルクは目ヤニがこびり付いた目を向けてきた。
「かわいそうにね。ご飯、もらってるよね?」
奈月は両手でマルクの顔を挟み込んだ。
「いっぱいもらってる? お水もちゃんともらってるの?」
マルクの垂れ下がってた尻尾がゆっくりと左右に動き出す。
奈月はリュックからペットボトルを取り出すと、水を飲み切れる分だけアルミの器に注いであげた。残ってしまうと誰かにもらったことがバレてしまう。そうなると、また、とばっちりで虐待を受けるだろう。犬小屋の上には“エサをやらないでください”と書いた板切れが貼り付けてあるからだ。
マルクはおいしそうに水を全部飲んでくれた。
帰り道、奈月は人気がないときには必ず自転車を止めて、マルクとお話をする。何度も話しているはずなのに、マルクはしばらくの間、奈月を警戒する。何も悪いことをされないと分かると、安心してシッポを振り出す。
何度も虐待を受けているうち、人間不信になってしまったのかもしれない。
奈月は小さな声で囁いた。
「ねえ、マルク。毎日、つらくない? これ以上、我慢することはないって。このままじゃ、殺されちゃうよ。マルクなら飼ってくれるおうちがあるよ。――だからさ、マルク、逃げちゃえば? 逃げちゃおうよ、こんな家から」
水を飲み終えていたマルクは、奈月にすがりつくような目を向けた。
「そう。やっぱり、マルクもそう思ってるんだよね。でも、うちはマンションだから飼えないしね。誰か親切な人が拾ってくれないかなあ。――マルク、待ってて」
マルクの首から伸びている鎖はアルミ容器の脇にある頑丈そうな杭につながっていた。門から母屋までは石畳がつづいてかなりの距離がある。見つかることはないだろう。奈月はそっと敷地内に入り込むと、座り込んで杭を動かしてみた。
「やっぱり、ダメか。抜けないな」
金属製の杭は地面にしっかりと打ち込まれていた。マルクは横に並んで、何をしているのかと不思議そうにながめている。
奈月は立ち上がると、足を杭にかけてグイグイと体重をかけて押してみた。誰も通りかからないことをいいことに、しばらく続けていると、少しずつ大きな杭が動きだした。
――いける!
がんばれ、私の過度な体重!
先月、今年四回目のダイエットを諦めてよかった。こんなときに役に立つなんて。
杭がグラグラと揺れはじめたところで、奈月は足を離した。
「はい、今日はここまで。急に鎖が外れてもね。マルクにも心の準備というものがあるものね。これからどうするかをじっくり考えてから、一気に引っこ抜いてあげるね。でも、杭がここまで緩んだのだから、力を入れれば逃げられるよ。――どうする、マルク?」
奈月は運をマルクに任せて豪邸を後にした。
明日の朝、ここを通りかかったとき、果たしてマルクはいるのだろうか?
古びた犬小屋とアルミ容器だけがポツンと残されているのだろうか?

 早朝から降り続いていた雨も止んだ。しかし、涼しくならず、返って湿度が増し、シャツが背中にベタリと張り付くような不快感が保育園辺りには漂っていた。その多すぎる湿気が気分にも左右したのか、一つの事件が起きた。
金色にコーティングされたベンツから降りてきた尚ちゃんのお父さんの顔はすっかり怒気に満ち溢れていた。口に咥えたままのタバコはピクピクと上下に動いている。
(きっと昨日のことだ)
保育士たちはそう思い、みどり先生はさっそく運動場で遊んでいた園児たちを教室へと避難誘導を始めた。もちろん、その中に息子の尚ちゃんもいる。その尚ちゃんが昨日、教室内で転んだ。机の脚に自分の足を引っ掛けて転んだのだ。
幸いにしてケガはなかったのだが、ズボンのお尻の部分がベリっと縦に破れた。応急処置として、担任の奈月が裁縫セットを使って職員室で縫い合わせてあげた。その間、尚ちゃんをパンツ一枚の姿で応接室に待たせていたのが気に入らないのか、あるいはその縫い方が気に入らないのか、坂田は怒っているようだ。
「また、お前か……」
今日も高級スーツと金製品に身を包んだ坂田は、咥えていたタバコを手に持つと、奈月を見つけて、大きな目でギョロリと睨みつけた。オールバックにした金髪の頭から整髪料のニオイが漂ってくる。
「いえ、あれは尚ちゃんが自分で机にぶつかって」吉田くんが割り込んで入って弁明をしようとしたが、「新米は黙ってろ!」とさえぎられた。
園児の誘導から戻ってきたみどり先生も、
「今、吉田先生が言ったとおり……」説明しようとしたが、
「行き遅れも黙ってろ!」頭ごなしに怒鳴りつけられた。
「奈月先生は尚ちゃんのズボンをちゃんと縫ってあげて……」あつこ先生も加勢するが、
「黙れ、給食ババア! いつもマズいもんを喰わせやがってよ!」
坂田の怒りは増幅していく。自分の怒りに酔いしれているようだ。
坂田は机の配置が悪いから尚ちゃんがぶつかったのだと言ってきた。あまりにも理不尽な主張から、みどり先生が言うように、保育園をストレス発散の場として使っていることが分かる。
しばらく怒鳴らせているうちに、いつものように疲れて帰ってしまうだろう。
誰もがそう思って、ただ、怒りの時間が過ぎるのを待っていた。
しかし、今日の奈月は違った。不快な湿気がそうさせたのかもしれない。
いつもアザだらけの妻の顔が浮かんだ。
怯えて過ごしているマルクの顔が浮かんだ。
奈月は坂田に食って掛かった。
「お父さん! いつもいつも、なぜ文句ばかり言われるのですか! 先日の尚ちゃんのケガは偶然に過ぎません。そのときに説明したとおりです。今回も尚ちゃんが自分から机にぶつかって転んだだけです。ケガはありません。くわしくは昨日お渡しした連絡帳に書いておきました。机は余裕を持って並べてありますし、縦と横、均等に並べるというのは全国共通じゃないでしょうか? 私たち保育士は毎日園児たちのため一生懸命に働いてます!」
瞬間、坂田の顔が真っ赤になった。
「何だと、こらっ! 誰に物を言ってる。こっちは親だぞ! てめぇ、誰のお陰でメシが喰えると思ってんだ、ええ? 黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって。お前は親からどういう躾を受けたんだ、ええ? 聞いてみりゃ、お前は母子家庭で育ったらしいな。だからダメなんだ。お前の母親はバカだろっ!?」
「ちょっと!」
奈月の顔も豹変した。
「言って良いことと悪いことがあります!」
「ほう、今のはどっちなのかな?」ニヤニヤ笑いながら訊いてくる。
「悪いことに決まってるでしょ! 親をバカにされて気分がいい人なんていません!」
「バカにバカと言ってなぜ悪い? 親がバカだから、あんたのようなバカ娘が生まれたんだろうよ」
「私にとっては、たった一人の母です。私の命と同じくらい大切な母です。父が亡くなってからは、女手一つで私を育ててくれたんです。会ったこともないのに、バカにするのはやめてください!」
奈月の必死の抗議を楽しんでいるようにも見える男。
「いやあ、残念だったな。もう少し利口な母親の元に生まれてたら、アンタに人生も違ったのにな。どうせ、父親の愛も知らないでそこまで育ったんだろ。ほんと、不幸な星の下に生まれたな、アンタ」
奈月は顔を真っ赤にしながら坂田に近づこうとした。
あわてて吉田くんが肩に手をかける。みどり先生も奈月の腕をつかむ。
坂田は二人に羽交い絞めにされた奈月に向って、フンと鼻をひとつ鳴らすと背を向けて歩き出した。
途中で火がついたままのタバコを園庭の隅にある小さな畑に放り投げる。
そこには子供たちが丹精こめて育てている花と夏野菜が植わっていた。
(みんなのお花が……)
奈月は二人を振り切って駆け出した。
かわいい童顔が鬼のような形相に代わっている。
追いすがろうとする奈月の前に割り込んできたのは一人の小さな男だった。
「奈月先生、我慢だ!」
男は両手を広げて奈月を止めた。
奈月がぶつかって、小さな男がよろめく。
ふと、我に返ったような表情をした奈月。
「ああ、大道さん。すいません」
坂田はすでに金色のベンツに乗り込んでいた。
大道と呼ばれた男は奈月の両肩をつかんで言った。
「先生、ここは我慢だ。同じ土俵に上がっちゃいかん。あの男の思うツボだ」
わざと何度もエンジンを吹かして大きな音を立て、排気ガスを蹴散らしながら、保育所を出て行くベンツ。
「あんな安物の中古ベンツなんか、ワシの愛車で体当たりしてやるわ! こちとら、アフリカ象よりも頑丈なバスなんだからな!」
スクールバスの運転手の大道はもう姿の見えないベンツに向って吠えた。
「大丈夫?」みどり先生がまだ怒りで震えている奈月の肩に手を回した。
吉田くんも奈月の隣に来て心配そうに顔を覗き込んでいる。
坂田には過去に何度も罵られたことがあった奈月だったが、今日は酷かった。また母親のことまで持ち出されて、とても傷ついているにちがいない。みどり先生と吉田先生がことのほか心配するのも無理はなかった。
吐き散らされた排気ガスの臭いがまだ付近に漂っていた。

 職員室に隣接する園長室には、園児も保護者も入ることはできない。重要な書類や金庫があるし、数々の備品もある。しかし、園長先生が一番心配しているのは、壁に沿って並んでいるガラス戸つきの本棚の中に飾られている数々のフィギュアだった。
諸神保育園の創立者の諸神和仁は五年前に病死した。あとを継いだのが妻の美代、今の園長先生だった。
細身で小柄、髪をおかっぱにしていて、いまどき珍しい赤い縁の眼鏡をかけている。見るからに教育者という感じがするが、眼鏡をはずして、ひっつめにすると、どことなく尚ちゃんのお母さんに似ている。
その園長先生の唯一の趣味がフィギュアの収集だった。特に戦隊ヒーローものが好きで五体がセットになったフィギュアがいくつも並べてある。自分の息子がまだ小さかった頃、勉強をしないでヒーローもののテレビに齧りついていた。そんなに面白いものかと、園長先生も一緒に見てみたところ、ハマッたらしい。
体を動かすのが苦手で、自転車にも乗れない園長先生だったが、格闘技系のスポーツ観戦が大好きで、五人が力を合わせて敵をバッタバッタとやっつける姿に感動したらしい。
それ以来、息子と競い合うようにフィギュアを集めはじめた。息子はすでに社会人となり、ヒーローものは卒業したが、園長先生は卒業できず、まだ収集に余念がない。次々に新作が登場するため、どんどん増えていく。そして、ついに家には並べるスペースがなくなったからと、園長室に並べ始めたという。
保育園の私物化だが、園長先生が経営者であり、保育に悪影響を与えるわけではないので、他の先生も見て見ぬふりをしている。ただ、保護者には内緒にするという暗黙の了解がある。 
五十八歳の園長先生には絶対に似合わない変わった趣味を知られたくないのだろう。
園長先生は目の前でうつむいている奈月先生に声をかけた。
「大変だったね。私が行ってあげればよかったのだけど」
先代の園長先生はスパルタ教育で鳴らした。園児たちをビシビシと躾けた。先生たちにも厳しく当たった。それがいいと言って入園させる親もいたが、大半からは反感を買っていた。 
美代は当時主任として、そのことをずっと気にしていて、夫とは何度も対立していた。
先代が亡くなってからは、改革のいい機会だと教育方針を温厚路線へと方向転換した。そのために去って行った園児もいたが、おおむね、保護者には受け入れられて、園児たちの数も増えていった。
もともと大人しい性格であるが、保育園の方針とあいまって、園長は争いごとを極端に嫌う。もし、先ほどの場に園長が出て行ったとしても、見栄っ張りで威張りたいあの男はさらに激昂し、火に油を注ぐようなものだっただろう。しかし、そのことを園長は申し訳なく思っている。
職員室の応接セットと同じ安物のソファーに座りながら、奈月は小さな声で言った。
「騒ぎになってしまってすいません。母のことを言われてカッとなったものですから。お二人の先生と大道さんにもご迷惑をおかけしました。以後、気をつけます」
「尚ちゃんお父さんの素行は以前から聞いてます。私も何とかしてあげたいのだけどね。頼りない園長でごめんなさいね」
恐縮する園長の言葉に奈月は力なく頷いた。
「奈月先生、本当に大丈夫? いつも元気なあなたが落ち込んでいるからねえ」
普段から声を荒げるような奈月ではなかったため、園長はことのほか心配をしている。
「なんだったら、フィギュアを貸そうか? 癒されるわよ、この子たちには」
園長はそう言って並んでいるヒーローもののフィギュアをいとおしそうに眺める。
「いえ、あの、そっちにはあまり興味がありませんので」
「あら、そう。残念ねえ。だったらね、私じゃ、あまり頼りにならないから、みどり先生にでもあつこ先生にでも吉田先生にでも遠慮なく相談してみてね。――ああ、それと大道さんにはスクールバスでベンツに体当たりしないように言っておいたからね」
「はい、分かりました。でも、大丈夫です。また子供たちの顔を見ると元気が出ると思いますから」
「そうよね。あの子たちは幼くても、こちらの心の中を見抜いちゃうことがあるから、いつまでも落ち込んでいたらダメよね。――いえ、私はね、奈月先生が思い詰めて、悪いことでも考えているんじゃないかって、邪推しちゃったのね」
「悪いことですか?」
「そう、尚ちゃんのお父さんに復讐するとかね」
「えっ!?」
園長はさりげなく言ったセリフに、奈月が真剣な目をして返してきたのに驚き、あわてて言い訳をした。
「いえ、冗談よ、冗談。そんな保護者の方に危害を加えるなんてねえ。――さあ、子供たちが待ってるわよ」
心の中を見抜くのは子供たちばかりではない。
ドキッとした奈月は、園長に時間を取らせてしまったことにお礼を言って立ち上がると、ドアに向って歩き出した。
その背中に園長が声をかける。
「本当にいいのね、フィギュアを貸さなくても」

 今朝、尚ちゃんの家の前を通りかかったとき、奈月は自転車のスピードを落として、敷地内を覗き込んだ。シェパード犬のマルクがそこにいた。
昨日、せっかく鎖がつながった杭を緩めてあげたというのに、逃げなかったようだ。誰もいないことを見計らってから、自転車から下りた。
杭は手で引っぱると簡単に抜けた。
奈月はもう一度差し込むと、しゃがみ込んでマルクの目を見つめた。
マルク、逃げてもよかったのに。
きっと、あの男が怖いのだろう。逃げるともっと痛い目に遭うと分かっているのだろう。
だから、無理に鎖を引っぱることはしなかったのだろう。
今朝も少しのご飯をもらって、日当たりの悪い場所で一日を過ごす。
毎朝、あの男が出かけるときに蹴られるのかもしれない。
毎晩、あの男が帰ってきたときに、蹴られるのかもしれない。
近所の人たちは、マルクの悲痛な鳴き声を何度も聞いているという。
確か、マルクは三歳くらいだと聞いたことがある。それにしては体が小さいし、ところどころ毛が抜けていて老犬のように見える。三歳だと、まだまだ先がある。これからもずいぶんと生きられる。
ねえ、マルク、もっと楽しく生きたいでしょ? 仲間たちは可愛がられてるよ。警察犬になってがんばっている仲間もいるよ。マルクも私も不幸な星の下に生まれたんじゃないからね。そもそも不幸な星なんかないんだよ。夜になったら、空を見上げてごらんよ。星はみんなきれいだし、幸せを運んでくれるんだよ。
奈月はマルクのやせ細った首にしがみついた。
すべては坂田のせいだ。尚ちゃんのお父さんのせいなんだ。

「よお、先生!」
金色ベンツの左側の窓が下がって、尚ちゃんのお父さんが顔を出した。金色のつもりだろうか、黄色いサングラスをしている。
奈月がマルクと別れたあと、すぐに家を出て、追いついたようだ。もちろん、マルクと話していたことは知らないはずだ。
奈月は自転車に乗って、前を向いたまま、おはようございますと返事をする。
本当は挨拶もしたくないのだが仕方がない。適当にかまってあげないと、無視をしたと言って、また怒り出すだろう。先日、奈月にさんざん嫌味を言ったことなどすっかり忘れているようだ。
坂田は左手をだらりと外へ出して、片手運転で併走してくる。
「先生。その自転車、けっこう古いんじゃないか? キイキイ、音がしてるぜ」
「――はい」
簡単に答えてあげて、自転車のスピードを速める。まともな人間ならここで嫌がっていることに気づくのだが、この男は気が付かないのか、気づいていても知らないフリをするのか、さらに話しかけてくる。
「新しいのを買ったらどうだ? ――ああ、金がねえか。保育士なんか安月給だろ。あのオンボロ保育園だったら尚更だな。もっと大きくて立派な保育園に移ったらどうだ。その方が家計も助かるだろうよ。そうだ。自転車は母ちゃんに買ってもらったらどうだ。――あっ、母ちゃんはお前と一緒で安月給だっけ? 家賃払うだけで精一杯か。まあ、家賃といっても安いマンションだろ」
奈月は坂田をキッと睨みつけた。
安いマンションでも父との思い出がいっぱいのマンションだ。
「ですから、私の母も私たちの住まいも坂田さんとは関係ないじゃないですか」
男は奈月の勢いに一瞬ひるんだが、
「そんなことないだろ。母ちゃんが看護師とか薬剤師とかよ、いい給料が取れる資格を持ってりゃ、もっと楽な暮らしができただろうよ。あー、それなのに、それなのに、どうせたいした仕事しかできないんだろ?」
「坂田さんは私の母がどんな仕事をしているのか、知ってるのですか!?」
「そんなこと知らんよ。知らんがな、あんな古びたマンションに住んでると言うことは、薄給だろうよ。罪な母ちゃんだな、おい!」
奈月は自分の顔色が怒りで変わるのが分かった。
あまりの怒りに言葉が出てこない。
「せめて、父ちゃんが生きてりゃなあ。なあ、先生よお」
坂田はニヤニヤ笑いながら言う。
「父も関係ありません!」
父は奈月が小学生のときに病死している。一人娘だったため、たいへん可愛がられた。あちこちに連れて行ってもらった。おいしいものをたくさん食べた。たくさん遊んで、たくさん笑った。父との想い出は楽しいものばかりだ。白い布の下の安らかな死に顔だけが辛い想い出だった。
保育園まであと十分ほどだ。それまでの辛抱だ。
奈月は自転車のペダルに力を乗せ、懸命に怒りを胸の奥底へ沈めようとした。
しかし、その代わりに浮き上がってきた感情は――。
この男がいなければ、何人もの人が幸せになれる。マルクも元気になれる。
この男がいなくなれば……。
坂田は奈月を見ながら片手運転をしているが、対向車とぶつかることもなく、細い道をすり抜けて行く。
悪運が強そうなこの男が事故を起こすことはなさそうだ。
「おお、怖い、怖い。奈月先生は顔に似合わず怖いねえ。――じゃあ、また明日な!」
坂田は派手にクラクションを連打すると、ヘラヘラ笑いながら金色ベンツのスピードをあげた。
「また明日な!」
また明日だって?
明日もこんな嫌がらせが待っている。私の母を、父を、同僚を、園長先生を心無く侮辱される。私の大好きな諸神保育園を侮辱される。
私が卒園した諸神保育園。
将来は保育士になろうとずっと思っていた。楽しい思い出がたくさん溢れているこの保育園で働くことは子供の頃からの夢だった。確かに古くて小さな保育園かも知れない。でも、私にとっては夢が実現した場所。掛け替えのない場所。そんな神聖な場所をあの男は土足で踏みにじり、唾を吐き散らし、つぶれてしまえと叫ぶ。
奈月は小さくなっていくベンツのテールランプに向ってつぶやいた。
「あいつ、殺してやる」

 奈月が自転車で保育園にたどり着くと、ピンク色の門の前で、同じく自転車通園のみどり先生が坂田に捕まっていた。
「よお、独身のみどり先生。蓄えがあるんだったら、金の投資はどうだ。手取り足取り教えてやるぞ。必ず儲かる。俺が言うんだから間違いない。いい家に住めるし、いいものも喰えるし、いい嫁ぎ先も見つかるぞ。今は円高だから買いのチャンスだ。儲かってみな、みんながアンタにペコペコと頭を下げるぞ。まさに王様よ。アンタは女だから、女王様よ。自転車なんか、電動式のやつが数百台、数千台単位で買えるぞ。こんなベンツにも乗れるぞ。いつか俺の家に来てみな。山と積まれた金塊を見せてやるぜ」
みどりは自転車にまたがったまま坂田を見た。
財産は株券や現金ではなく、金に変えて保管しているのだろうか?
それも、家の中に?
あの豪邸には大きな金庫が設置されているのだろうか?
期待したのか、坂田の窓から体を乗り出すように話しかけてくる。
この女、金を持ってるのかもしれん。いや、貯め込んでいるに違いない。
男は金のニオイには敏感だった。嗅ぎ付けると、相手が動けなくなるまで追い回す。そして、すべてを吸い取ってしまう。
「金塊は家に置いてあるのですか?」
みどりは興味深そうなフリをして尋ねる。機嫌を損ねると、またややこしいことになる。
「そうだ。大金庫に入れてある」嬉しそうに答える。「銀行なんか信用できないからな。アンタが見たいんじゃ、金庫から出して、うちの長い長い廊下にずらっと並べてやるぜ」
「へえ、見たいですねえ。大金庫も本物の金塊もテレビでしか見たことないですから」
「そうだろ、そうだろ。金塊のじゅうたんの上を歩かせてやるぜ」
みどりは悪趣味に辟易するが顔には出さない。
「札束を踏み付けるよりも気分がいいでしょうね」
「ああ、金の冷たさが足の裏に心地いいぜ」
心地いいって、この男、本当に金を踏んづけたことがあるんだ。
金がお友達の男。金しか信じない男。金がすべての男。
もし、持っている金が全部なくなれば、この男の人生はどうなるのだろうか。
この傲慢な顔つきはどう変化するのだろうか。
強気な人間ほど窮地に陥ったときに弱くなり、うろたえる。
みどりは坂田の泣き出しそうな顔を想像して、思わずニヤけそうになる。
駐車スペースに入ろうとする奈月先生と目が合った。
奈月は気の毒そうな顔をみどりに向けてきた。坂田に嫌がらせを受けていると思ったのだろう。
一方、坂田は知っていた。光り輝く金塊を見せれば、ぜったいに欲しくなることを。
それが金の持つ魅力なんだ。
この行き遅れ女、こいつの小金を全部吐き出してやるか。そして、首が回らなくなったところで、うちの会社でタダ働きをさせるか、フーゾクにでも沈めてやる。歳は食ってるが、どこか地方の店だったらまだ使えるだろう。

 日曜日の午後。遠利主任は坂田が主催する金の投資セミナーに出席していた。坂田はここで会員を獲得して、投資会社に紹介をする。そこで実際に金を購入すれば、バックマージンが得られるという仕組みだ。会場には五十人ほどの客が詰めかけている。ほとんどは年配の男性だが、中には主婦らしき女性も混じっていた。
「みなさん、ようこそいらっしゃいました!」
いつも仏頂面の坂田がニコニコとした顔をして、穏やかな声で話し始めたので、遠利主任は驚いた。儲けるためだったら、顔の表情や声の質くらい何種類にでも変えられるのだろう。
マイクを握った坂田は最前列に座っている遠利主任に気づいた。
「おやおや、諸神保育園の遠利先生じゃないですか!」
いきなり名指しをされた遠利は引きつった笑顔を見せた。
(ちょっと、なんで私の名前を出すのよ)
「みなさん、ご覧ください。保育園の主任さんも金の投資をする時代ですよ。学校の先生と言えば、お堅いお仕事です。しかも主任さんなんて何年も働いてないとなれないのですよ。
遠利先生はうちの息子も通う保育園の園長に次ぐ、ナンバーツーの立場にいらっしゃるお方なんです。その先生が、数ある資産運用方法の中から、この金の投資を選んで下さっています。不安を感じてらした方は、先生がいらっしゃって、安心できたのではないでしょうか!」
遠利は自分がこのセミナーの広告塔のように扱われて戸惑う。
本当は金になんか興味ないんですからと、叫びたい気持ちでいっぱいになった。
背中に突き刺さるみんなの視線が痛く感じる。
ちらっと振り返ってみると、実際にみんながこちらを見ている。
(あら、どうしましょう、こんなことになってしまって。みんなを怪しい投資に誘ってしまったら大変だわ。でも、帰るわけにはいかないし)
坂田はイラストや数字を駆使して、金への投資を煽っていく。
「今や、通貨の信頼性は薄れてます。現物資産としての金を購入しておくには、今がチャンスなんです! しかもこれは日本に限ったことではないのです。世界中で、いよいよ歴史的な高値になると言われております。」
ホワイトボードは書かれた文字や矢印などの記号でいっぱいになっている。
聞いている人たちの表情も熱を帯びてきた。
食い入るように坂田を見つめる人。熱心にメモを取る人。鋭い質問を浴びせる人。
遠利は小さく手を合わせた。
(ダメダメ、みなさん、こんな男に乗せられたらダメですよ)
やがて坂田は自分が金でいかに儲けて、いかに資産を増やしているかの自慢話を始めた。
「私の豪邸は、みなさんご存知ですね。あれは金へ投資したおかげで、建てることができました。もちろん現金一括払いですよ。本当は金の延べ棒で払いたかったのですが、建築会社が受け取ってくれなくてね、やむを得ず換金しました」会場に笑い声が響く。「高級車のベンツも手に入れました。また、金の投資で儲けたお金はさらなる投資へ回してます」
遠利が身を乗り出した。
つづいて坂田は地元の不動産会社の名前をあげた。
「黒星不動産は私が筆頭株主ですから、私で持ってるようなものですよ。最初は二、三人のこぢんまりとした会社だったのですがねえ。今や、従業員は三十人。駅前に四階建てのビルを建てて、あんな大きな電飾看板をチカチカさせてるじゃないですか。――あれは私のお陰です」聞いている人々がホウと感心する。「ご存知のとおり、今、不動産業は活況を呈してます。おかげで投資した何倍ものお金になって返ってきています。では、直接、その不動産業に投資すれば儲かるのではないかと、みなさんはお考えでしょう。いやいや、みなさん、不動産ですよ。数百万、数千万のお金では足りません。まず、私がお勧めする金投資でお手元のお金を増やしてからの話です。それからさらに大きくしていくわけです。倍々ゲームというヤツですよ。数千万なんて、すぐにできてしまいますよ、ホント。ただし、みなさんが私に追いつくのには、あと数十年はかかりますかねえ。ははは」
遠利は坂田が言った黒星不動産の名前を忘れずにメモをする。
「それとね、私は金投資だけでなく、金の買い取りの仲介もやっております。といっても、これはオマケみたいなものですがね。みなさんの中に不要になった金はないですか? 金といっても金の塊のことじゃないですよ。金の指輪とかネックレスです。十八金の指輪でも「いいですよ。元彼にもらって、捨てられず、タンスの奥に仕舞ったままの指輪はないですか? ――どうですか、遠利主任!?」
坂田は遠利が独身だと知ってからかってくる。
遠利主任は坂田のニヤけた顔を睨み付けそうになったが、グッと我慢をする。
「はあ、ありませんか。そりゃ残念だ。みなさん、片方を無くしてしまったピアスでもいいですから、どしどし私の方へお寄せくださいませ。いいお小遣いになりますからね。連絡先はお渡ししたパンフレットに書いてありますよ」
最後に坂田は、セミナーの後でいつも言っているセリフを得意げに叫んだ。
「この会場の駐車場に私の金色に輝くメルセデスベンツが止めてあります。あれだけ輝いているのは私の車と金閣寺くらいです。しかし、金閣寺は動かすことはできません。足利義満も真っ青な私の車ですが、金投資に成功すれば皆さんも乗れるのですよ! 帰りがけに見に行ってください。一緒に写真を撮っても構いません。特別に無料にしてあげます。しかし、金を削り取るのはやめてくださいよ」
金色といっても、もちろん塗料の色であって、本物の金は含まれていない。
最後に会場の参加者がどっと沸いて、セミナーは終了した。
そうか。坂田さんはこうやって、みんなを勧誘しているのね。
遠利主任は疲れた表情でメモだらけの手帳を閉じた。
敵を知ることは大事なことだった。

「よう、黒星さん!」
自動ドアを抜けて入ってきた男が大きなシルエットになって立っている。黒い影にライトが当たると、首元の派手な金のネックレスが光った。従業員は姿を見なくても、品のない声で、訪問者が誰だか分かった。
「これはこれは、坂田さん」
一番奥にある一番大きな机から黒星不動産の社長が立ち上がって、歩み寄ってきた。坂田と対照的にスリムな体をしたロマンスグレーの初老の紳士だ。自然な笑顔も坂田と違い品がある。
「まあ、どうぞ、どうぞ」
突然の訪問にもかかわらず、社長はニコニコ顔で坂田を応接室へ案内する。女子社員がコーヒーの準備のために給湯室へ走った。坂田は好色な目で女性の後姿を追う。
「ほう、なかなか色っぽいネエちゃんじゃないか」
「はい、三日ほど前に採用したばかりの新人でして、お見知りおきのほどを」
「おお、しっかり脳裏に焼き付けたぜ」
坂田がニヤつく。
「ところで、今日は例のセミナーの帰りですか?」
「おお、そうだ。また黒星不動産のことを宣伝しておいたからな。屋上で輝いているあのピカピカの派手な看板な」
「いやあ、いつもいつもすいません。毎日高い電気代をかけているだけあって、大変目立っているようで。――ところで、今日はセミナーには何人ほどお見えだったのですか?」
「そうだな。今回もまた五百人くらいだな」
坂田は平然と十倍増しで言う。
「ほう、そうですか。いつもながら大盛況でよろしいですな」
黒星差社長はあの会場に五百人も収容できないことを知っているが、気にせずに感心した顔を向ける。それに、あまり評判がよくない坂田には宣伝してほしくないのだが仕方がない。
なんといっても金主だ。
確かに、法外な利息で資金を融資してくれているが、坂田がいなければ、この会社がここまで大きくなってなかったのは事実だ。もっとも、セミナーに来ている人たちには筆頭株主だなどと自慢しているようだが、株は保有してもらっていない。
坂田は調べればすぐにバレるようなウソも平気でつく男だ。黒星社長もそういった性格を承知の上で付き合いをつづけている。金投資で儲けた金の投資先を探していた坂田に、頭を下げて融資のお願いしたのはこちらからだった。 
「そっちはどうだ?」
坂田は女性社員が運んできたコーヒーをズルッと下品な音を立てて飲みながら訊いてくる。
「来月、マンションが三棟同時に完成します。おかげさまで入居者も順調に決まっております」
「そういえば新聞に派手なチラシが入っていたな。川のほとりと公園のほとりと城のほとりの、何とかマンションと言ったな」
「リバーサイドマンションとパークサイドマンションとキャッスルサイドマンションです」
「あんた、年なのによくスラスラと英語が出てくるな。進駐軍に教えてもらったのか?」
「いえ、私はそこまで年は取ってませんので」
「じゃあ、金髪のネエちゃんと付き合ってるのか?」
「いえ、私はそこまで若くありませんので」
「なんだ中途半端だな。それにしても、最近では何でもかんでもカタカナだな」
「結婚式場もカタカナにしたとたん、カップルが殺到したと聞きますし、私たち不動産屋もおしゃれな名前にした方が入居者もすぐに決まります。川向こうにある、築四十年でほとんど人が住んでいなかった、いろは荘も外壁を塗りなおして、アーバンマンショーネ・パートⅣという名前にしたとたん、満室になりました」
「そうやって騙してるって訳だな」
「いや、騙しているわけではありません。ただ、パートⅠからⅢが無いだけです。しかし、さすがの私も坂田さんには負けますから」
「そうだろうな。人を騙すには俺の方が何枚も上手よ」坂田がニヤつく。「まあ、品のない騙し方はしないがな。俺が面倒を見ている土建屋の森林組を知ってるだろ。先月、社名をモリリンに変えやがってよ。名前だけ聞くとファンシーグッズでも売ってんじゃねえかと思うんだが、まさか社長がヒゲ面のハゲオヤジで、本社がプレハブとは思わないだろうよ」
坂田はウェイトレス代わりに新人女性を呼びつけ、コーヒーを何杯もお代わりしながら、くだらない世間話を続けていく。
「黒星さんよ、景気がよくて安心したよ。――ところで、こっちは足りてるのか?」
坂田は右手の指で丸を作って見せた。
「そうですねえ」社長は虚空を見つめて考えをめぐらせる。
「三本ほど入れといてやろうか」坂田は返事を待たず、押し付けるように言う。
銀行にもまだ融資枠があるので、高金利な借金は避けたいし、このような借金が増えると銀行に対する信用も落ちてしまうのだが、世話になっているため断り切れずにいる。
目の前でニヤついている坂田は、こうやって資産を増やしてきた。
三本というのは、もちろん三千万円のことだ。
「では、お言葉に甘えまして」
またこれで坂田からの借り入れが増えた。
社長は渋々承諾したが表情には出さない。無理して有難そうな顔を向けている。
坂田はそうと知っていてか、満足そうな表情を返した。
「ところで、社長。この辺にフライドチキンを売っている店はないか?」
「それでしたら、歩いて五分ほどのところにありますが」
「悪いけどな、ファミリーパックを買ってきてくれるか」
女子社員が財布を持って出て行く。
「サラダとポテトはいらんぞ!」
坂田は黒星不動産の金で土産を買わせると、次の訪問先に向かった。

「おおきに、坂田はん」
男はフライドチキンが詰まった大きな箱をうれしそうに両手で受け取った。普通四、五人で食べるこのファミリーパックのチキンを、この男は一人で平らげる。それでは栄養のバランスが悪いのではと思い、以前、サラダを持って来たところ、ワシに葉っぱを食わせる気かと怒鳴られたことがある。
ポテトもいらない。芋なんかウサギに喰わせればいいと言っている。
この男が一番喜ぶ土産は肉で、二番目は甘いものだった。
天井から派手なシャンデリアがぶら下がる三十畳はあるリビングに、チキンのおいしそうな香りが漂いはじめる。
北欧から直輸入したという応接セットに、男は深々と腰を下ろしている。
坂田はフライドチキンをわざわざ大きなボストンバッグに入れてこの部屋まで持って来た。
信者に見られては大変だからだ。
いつもこの部屋にいる秘書信者は大事な客人が来るからと、隣の部屋へ追いやられている。
目の前で両手を使ってチキンにかぶりついている太った男は、仏教系の宗教団体、運幸教の教祖だった。
日頃から信者には肉類を口にしてはいけない。肉を食べると、死後、地獄に落ちると説いている。
男は口からヨダレと肉汁をポタポタと落としているが気にしない。ときどき、油まみれの手をズボンに擦り付けている。
信者には常に身をきれいにせよ。整理整頓を怠るな。怠惰は地獄への早道だと説いている。
公称十五万人の信者が見たら、腰を抜かす光景だろう。
「いやあ、フライドチキンは最高やな、坂田はん。ガハハハ」
ほんの数分ですべてを食べ尽くした男は、骨を放り投げて、箱に入っていたナプキンで簡単に手をぬぐい、油でテカテカしている分厚い唇に葉巻タバコをくわえた。坂田はあわててライターで火をつけてやる。
信者にはタバコも厳禁だと言ってあるが、もちろんこの男にはお構いなしだ。
でっぷりとした体型。ボサボサの髪。だらしない口元。着たきりの服。品のない口調。
しかし、この部屋に隣接されたシャワールームで体をきれいにし、髪を整え、メイクをし、作務衣を着て、口をキリッと結ぶと、オーラを発する教祖に見えるから不思議だ。その姿を見た運幸教の信者の中には涙を流して、拝みだす人もいるという。今のこのだらしない本当の姿は身の回りの世話をしている数人の秘書信者しか知らないし、彼らにも他言すると地獄に真っ逆さまに落ちると言い聞かせてあるらしい。
教祖のこの移住空間でひときわ目に付くのは、洋室に不似合いな巨大な仏壇だった。中には金色に輝く仏像が三体並んで立っているが、あくまでも客人に見せるためのもの。この教祖は神も仏も死後の世界も信じていない。もちろん他人も信じていない。
信じているのはお金だけであり、宗教法人は金儲けのために設立したものに過ぎない。
「どや、坂田はん、儲かってるか?」
日頃、態度の大きな坂田も教祖の前では謙虚に振舞っている。もちろん、目の前にいるときだけだが。
「まあ、ボチボチといったところです。尊師はいかがですか?」
坂田は教祖のことを尊師と尊敬語で呼ぶ。彼が一番喜ぶ呼び方だからだ。
「先月から売り出したストラップお守りが好調でな。もう二万個ほど売れとる」
教祖はそう言って葉巻の煙を吐き出した。見かけはどう見てもジャパニーズマフィアだ。しかし、日本人でこれほど葉巻が似合う男も珍しい。教祖には二人の弟がいて、それぞれ副教祖を務めており、三人とも同じような体型をしている。
ストラップは確か一つ五千円だったはずだ。
坂田は瞬時に計算をした。ざっと一億円か。
「そやけど、まだ買うてへん信者がおるからな。今、営業部隊にハッパをかけてるところや」
営業部隊といっても、夜中に四、五人で信者の家に押しかけて行って、無理やり買わせるに過ぎない。もちろん、ストラップにご利益なんかない。教祖本人がそう言っているのだから間違いない。
「紐の先っちょに、ただのガラス玉をぶら下げてるだけや。こんなもんで運が良うなるんやったら、誰も苦労せんわ。効果があるんやったら、真っ先にこのワシが買うてるわ。ガハハハ」
しかし、信者の前に出るときは、ケータイにちゃんとぶら下げて、PRにも余念がない。
「このストラップお守りには、金運、仕事運、恋愛運、健康運のすべてを、私が三日三晩お祈りをつづけて封じ込めました。世界に二つとない霊験あらたかなお守りです。効果が現れるまで早い人で一週間、遅くても三ヶ月かかりますが、必ず何らかのご利益がやってきます。みなさま、ぜひお試しくださいませ」
教祖然とした格好に、自信にみなぎる態度、丁寧な言葉遣いに加え、具体的に数字を盛り込むことで説得力は増す。
「効果がなければどうするのですか?」坂田が訊く。
「そんなもん、三ヶ月あったら、おいしいものに出会うとか、十円玉を拾うとか、友人にばったり会うとか、おもろい映画を見るとか、細かいことでも何かエエことがあるもんや。それをストラップお守りのお蔭にしたらよろし」
教祖は自信たっぷりに答える。
「ケガをしたら、いやあ、よかった。本当は死ぬところだったのですよと言えばエエし、風邪をひいたら、もう少しで肺炎になるところやったのに、ストラップお守りのせいで助かりましたなと言えば、バッチリ信じてくれるで。これで信者からどれだけ感謝されたことか」
教祖はガハハハと大きな口をあけて笑う。
「ワシが得意とする予言もそうやで。一ヶ月以内に大きい地震が来ると予言したとしよか。一ヶ月あったら、世界のどっかで大きい地震が起きるもんや。それをワシが予言で的中させたと言えばよろし」
「起きなかったら?」
「ワシが止めたことにする」
またガハハと笑う。
「秋の台風シーズンなんか忙しい、忙しい。台風の進路予想がはずれて、日本列島に上陸せえへんときがあるやろ。あれはみんなワシのお陰やいうて、全国の信者が蜂の巣をつついたように大騒ぎや。会う信者、会う信者、みんなワシを拝んでけつかる」
教祖のくせに信者を騙すことに何のためらいもない。
坂田はお茶も出されないまま、さんざん自慢話を聞かされて、金の一グラムにもならない時間を過ごした。帰りには、例のストラップお守りを三個も買わされていた。もちろん、三個買っても割引はしてくれない。二個はどこかのゴミ箱に捨てて、一個だけはここに来るときに付けてこようと思った。どうせ捨ててもバチなんか当たらない単なるストラップだ。
坂田はこうして教祖のご機嫌を伺う訪問を毎月定期的に行っている。お土産はいつも食べ物だ。特にファストフードが大好きな教祖にはチキンやドーナツが喜ばれる。安くついて助かるが、すべてはビジネス上、自分と教祖をつなぎ止めておくためのお仕事の一環だ。
いや、自分だけではない。
先ほど寄って来た黒星不動産の繁栄もここのお陰だ。
信者から巻き上げたお金は黒星の元へ流れていく。
自分は不動産会社と宗教団体という異種の業界の橋渡しをしているブローカーのようなものだ。もちろん、そこそこ儲けさせてもらってる。
儲けるためなら、いくらでも頭を下げてやる。
坂田は広大な寺院である教団施設から出ると、着ていたスーツを脱いで、バサバサと掃った。施設内に焚かれていた線香の異様なニオイが染み付いていたからだ。しかし、掃っても取れないことは分かっている。今、着ているものはすべてクリーニングに出すつもりだ。毎回、そうしている。
煩悩のかたまりのようなインチキ教祖め、あんなところによく住み着いていやがる。
ネクタイもはずしてワイシャツ姿になった坂田は、駐車場から金ピカのベンツに乗って去って行った。
すぐそばに、諸神保育園のスクールバスが止まっていたことには気づいてなかった。
バスが黒星不動産からずっと後をつけて来たことも。

午前中の保育時間、通称、朝の会。
尚ちゃんは今、目の前に座って、奈月の話を聞いている。先日、右の目じりに傷がついていた。それが治ったと思ったら、今度は左の目じりに新しい傷ができていた。
坂田の虐待は直らない。
毎朝の登園途中の奈月への嫌がらせもつづいている。
奈月先生は赤い文字が書かれた小型のホワイトボードを頭の上に掲げて、クラスの園児たちに見せていた。
「何て書いてあるか読める人ー!」
「ハイ」「ハイ」「ハイ」
クラスの全員が手をあげた。
奈月はみんなを見渡して言った。
「みんながハイハイと返事をしているのに、一人だけヘイヘイと言っていた陸くん、答えてちょうだい!」
「ヘイ!」クラスで一番ひょうきんな陸くんが立ち上がる。「ごじゆうにおのみください――です!」
「はい、正解です! 陸くん、よく読めましたね」
「ヘイ!」
陸くんは誇らしげに胸を張る。みんなは陸くんに拍手を送る。ちゃんと答えられた人には全員で拍手をするという取り決めがあるからだ。
「では、どういう意味か分かる人いるかなー?」
「ハイ」「ハイ」「ハイ」
手をあげている子が半分くらいに減った。
意味は分かるが、どう言って説明をしようか頭の中で迷っているようだ。
奈月は尚ちゃんが小さく手を上げているのを見つけた。
「はい、尚ちゃん!」
尚ちゃんは急に自分の名前を呼ばれて驚いた顔をした。まさか指されるとは思ってなかったようだ。
キョロキョロと左右を見てゆっくり立ち上がった尚ちゃんの方に、奈月は見えやすいように“ごじゆうにおのみください”と書かれたボードを向けた。
尚ちゃんは小さな声で答えた。
「えーと、あのう、勝手に飲んじゃっても誰も怒らないよという意味……」
自信なさげに語尾が小さくなる。
「はい、正解です! 尚ちゃん、よくできました!」
クラス中から拍手が起きる。尚ちゃんは照れくさそうな顔をしてイスに座った。
「みんな、デパ地下って分かるかな?」
「デパートの地下!」
すかさず数人から声が飛ぶ。
「はい、そうですね。デパートの地下にはたくさんの食料品売り場があります。ケーキとかクッキーとかお漬物とかコロッケとか」
「おいしそー!」「お腹が空いたよー!」
「おいしそうねえ。先生もデパ地下は大好きですよ。そこには試食コーナーがありますね。分かるかな?」
「食べていいの!」
「はい、そうですね。食べたり飲んだりしていいんですよ。そして、おいしかったら買ってくださいというサービスなんですよ。ですから、このように、ごじゆうにおのみくださいと書いてあったら飲んでもいいんですよ。誰も怒らないから、コーヒーとかジュースとかが小さなカップに入れて用意されてますから、飲んでみてくださいね」
「いっぱい飲むぞー!」
「お代わりもするぞー!」
「ウィ~。酔っ払っちまった」
「お酒を飲むなよー!」
子供たちから元気な声が飛んだ。
「じゃあ、もう一度、みんな、大きな声で読んでみてくださーい」
「ごじゆうにおのみください!」
奈月は大きな口を開けて読み上げている尚ちゃんの顔を見てニコリと笑った。
時計の針は十時を差している。
「じゃあ、ここでトイレタイムでーす。おトイレに行きたい人は行って来てくださーい」
数人の園児たちがドヤドヤと出て行く。
一番後に出て行ったのは尚ちゃんだった。
奈月はさりげなく尚ちゃんの後を追いかけてやさしく声をかけた。
「ねえ、尚ちゃんは何のジュースが好き?」
「えーとね、グループフルーツジュース」
「えっ、酸っぱいでしょ?」
「ううん、ぜんぜん平気」
「そうか。それとね、ちょっと前に日曜参観日があったでしょ」
おしっこに行きたいのに呼び止められたので、尚ちゃんは少しご機嫌が悪くなったようだ。
「うん」
「あのとき、尚ちゃんのお母さんが来てたんだっけ? お父さんだっけ? 先生、忘れちゃってね」
「うーんとね。お父さんだよ」
「えっ? もう一度、大きな声で教えて」
「お父さん!」
「あっ、そうだったね。ごめんね、おトイレの邪魔しちゃって」
奈月は走って行く尚ちゃんの背中を見ながら、胸ポケットに手を入れて、装置の電源をOFFにした。

 諸神保育園には四つの小さな倉庫がある。入り口には“春”“夏”“秋”“冬”と書かれた木製のボードが打ち付けられていて、それぞれの季節の行事に使う備品が収納されている。たとえば、春の倉庫にはお花見用のビニールシートや入園式に使う看板。夏の倉庫には水鉄砲や小型のプール。秋の倉庫にはイモ堀りのためのスコップや秋祭りのためのハッピ。冬の倉庫にはクリスマスツリーやサンタの衣装などである。
ある日の夕方、倉庫の前を通りかかった園長先生は、冬の倉庫から出てきた奈月とバッタリ会った。今は初夏だ。冬の倉庫には夏に使う物は何も入っていない。
不思議に思った園長は声をかけた。
「あらっ、奈月先生、どうしたの?」
奈月はギョッとした顔で振り向き、
「――ゴホッ!ゴホッ!」咳き込んだ。
「先生、大丈夫!?」
「――はい」
「風邪ひいたの?」
「――いいえ」
「大丈夫なのね?」
「はい」聞き取れないくらいの小さな声で答える。
園長先生は安心すると、もう一度、冬の倉庫に目をやった。
まさか、今からクリスマスの飾り付けの準備?
怪訝そうな表情を察したのか、奈月は口元を押えながら、冬の倉庫と夏の倉庫を交互に指差した。
「ああ。夏と冬を間違えたのね?」
奈月は声が出せないようでウンウンと頷いた。
「それで、お目当ての物は見つかったの?」
また奈月が無言で頷く。
後ろ手に持った布製のバッグに物が入っているらしい。
「もし具合が悪いのだったら、無理をしないでね」
笑顔に戻った園長はスタスタと行ってしまった。
奈月は小さくお辞儀をして園長を見送った。
――ああ、危ないところだった。
奈月は咳払いを一つして、自分の声を確かめてみた。
「よし、大丈夫だ。ちゃんといつもの声が出る」

夕方、園長先生は自宅のそばにあるドラッグストアで奈月を見かけた。
奈月の家とは逆方向にあるこの店に、なぜわざわざ買い物に来ているのだろうか。
デイパックを背負った奈月は化粧品のコーナーで香水を選んでいた。
諸神保育園には香水をして来てはいけないという決まりがある。園児たちが大人のニオイを不快に思うことがあるからだ。お化粧はナチュラルメイクで、保育の邪魔になるため、ピアスやネックレスは禁止されているし、爪も伸ばしてはいけない。子供を傷つけては大変だからだ。さらに、あまり派手な服では通園して来てはいけないことにもなっている。子供の相手をするのだから、あくまでも純粋で清潔で爽やかな保育士であらねばならないというポリシーだ。ゆえに、諸神保育園の保育士は、決まりはないのだが、全員が髪を染めることなく黒いままにしていた。
以前、隣町の保育園で保育士が茶髪でもいいのかという論争が起きたことがある。言い出した三人のお母さんはみんな茶髪だったのだが。
奈月が香水を見ているということはプライベートに使うのだろう。
もしかして、彼氏ができたのかもしれない。
そうか。この近所にその彼氏が住んでいるのかもしれない。
浮いた話がなかった奈月のことを思って、園長はクスッと笑った。
(このまま会わなかったことにして帰りましょうかね)
園長は引き返そうとしたとき、奈月が持っている買い物カゴの中がチラリと見えた。そこには大きな袋のドッグフードが入っていた。しかも、値段が高いことで有名なブランドもののドッグフードだ。
(確か、犬は飼ってなかったはずだけど)
飼いたいのだけど、うちはマンションだからダメなんですと奈月に言われたことがあった。
犬を飼っている彼氏か。
(相手は吉田くんじゃないことは確かだ。彼も動物は飼っていないと言っていたから。それに、彼の家はこのあたりではない)
一方、奈月は生まれて初めて買う香水に戸惑い、相当の時間を費やしていたが、やっとのことで選び終えた香水をカゴに入れた。どんな人が使うのだろうか、大瓶に入った、かなり香りがきつい安物の香水だった。次に向った棚では、テレビのCMでよく見かける睡眠導入剤を一つ買って、レジへ急いだ。
代金は合計で五千円ほどだった。財布の中にちょうど五千円札があったが、奈月はわざと一万円札を差し出した。
「一万円お預かりいたします」
――チーン。
年配の女性がレジスターに金額を打ち込んだ。
奈月はその一万円札を、なぜかご祝儀袋から出していた。
(何かのお祝いがあってもらったのかしらねえ。でも、そんな話聞いてないけどねえ)
園長は悪いかなと思いながらも興味本位で商品棚の陰から見つめていた。
レジを打っている間、奈月は女性の方に左手を差し出すようなしぐさをしていた。
手の中に何かを握っているようだ。
(あれは何のおまじないだろうか?)
園長は眼鏡の奥の細い目を凝らしたがよく分からない。
女性がお釣りを渡そうと奈月の方を向くと、差し出していた左手をあわてて引っ込めて、
「領収書をいただけますか」と言った。
「宛名はどなたにいたしますか?」
「あっ、上様でいいです」
(香水とドッグフードに領収書? なぜだろう?)
園長先生は不思議に思いながら、支払いを済ませた奈月を見送った。
二輪専用置き場に、奈月の自転車が止めてあるのが見えた。
誰かに送ってもらったのではなく、自分でここへ来たようだった。

 翌日の日曜日。偶然は重なるようで、園長先生は藤松百貨店の一階で奈月を見かけた。
今日もデイパックを背負っているということは、ここまで自転車で来たのだろう。奈月は自販機にコインを入れて、百貨店の紙袋を買っていた。買い物をした様子はない。
(何に使うのかしらね。小さいものならデイパックに入るはずだけど)
全国的にも有名なこの老舗百貨店のおしゃれなロゴマークが入った紙袋は、若い人から年配の人まで人気がある。OLが通勤バッグの代わりに使っているのをよく見かけるし、高級百貨店で買い物をしたことを自慢したいのだろうか、年配の女性がボロボロになるまで持ち歩いている姿もよく見かける。
(月曜からあれを持って通園するのかしら)
園長先生が声をかけずに見ていると、奈月は不思議な行動に出た。
その紙袋を持って、そばにある総合案内所に行くと、受付嬢に向って何かを尋ねはじめた。袋を広げて中身を見せたり、手で持つ部分を引っぱって見せたりしている。その袋はいくつかの種類がある中で、大きなクッションが入るほどの特大サイズの紙袋だった。
園長先生はその紙袋を一度だけ買ったことがある。大きな枕を買ったとき、わざわざ送ってもらうのも面倒だしと、自分で家に持って帰るのに使った。エコバッグに入る大きさではなかった。たかが紙袋の分際で七百円もした。確かに大きくて、丈夫に作られていたけど、こんなことでは風呂敷でも持ってくればよかったのにと後悔した想い出がある。
(奈月先生はいったい何を訊いているのかしらねえ)
受付嬢がその紙袋を受け取り、何かの説明をしようとしたときのことだった。
奈月は何かを握っている左手をそっと差し出した。
(あれはドラッグストアのレジでやったことと同じだわ)
園長先生はまたもおまじないかと思ったが、受付嬢は奈月の顔と紙袋を、交互に見ながら話しているので気づいていない。
やがて、奈月は一礼をすると、紙袋をたたんでデイパックに入れて、出口に向かって歩き出した。
(結局、あの紙袋だけを買ったのかしら?)
園長先生は声を掛けそびれて、しばらく大きな柱の陰にたたずんでいた。

 数日後、諸神保育園の掲示板に“犬を探しています”というポスターが貼られた。
尚ちゃんが飼っていたマルクだった。いつ撮ったのだろうか、子供の頃のコロコロしたマルクの写真が載っている。

犬種:シェパード
色:黒と茶
大きさ:一メートルくらい。やせています。
大人しくてあまり鳴きません。赤い首輪をしています。
六月二十日(日)に鎖をつけたまま、行方不明になりました。
お心当たりの方はお知らせください。
お礼を差し上げます。――さかた なおと

一番下には尚ちゃんの家の電話番号が載っていた。
尚ちゃんのお母さんがパソコンで作ったものだ。保育園の掲示板の他、町内にある掲示板と数本の電信柱にも貼って回ったらしい。
すべては夫の命令だ。マルクがいなくなって、尚ちゃんが寂しい想いをしているからではなく、自分が虐待する相手の数が減って、頭に来たに過ぎない。何としても探し出して連れ戻せと、夜中まで騒いでいたらしい。もちろん自分で車を出して、探し回ることなどしなかった。

「どう、おいしいでしょ」
奈月はしゃがみながら、ガシガシとドッグフードを食べているマルクの頭のてっぺんに向って話しかけている。
「あつこ先生がお勧めの大型犬用のドッグフードだよ。他のものより栄養のバランスがいいし、消化もいいんだって。でもこれ、三キロもしたから持って帰るの大変だったんだよ。ねえ、聞いてる、マルク?」
名前を呼ばれたマルクは一度奈月を見上げたが、また目の前の赤色のボールに入った晩ご飯に向き直った。
「一番高いドッグフードなんだからね。おいしさが分かる? 私はマルクの飼い主さんにいつも皮肉られている通りの安月給なんだからね。残さずにちゃんと食べるんだよ。はい、こっちはお水。水道水じゃなくてミネラルウォーターだからね」
水が入った青色のボールを顔の近くに移動してあげる。
マルクは暗闇の中、ちょっとニオイを嗅いでから舌をつけた。
すごい勢いで飲み始めるマルクを、奈月は天然水が入ったペットボトルのフタを閉めながらニコニコ見ている。
ご飯の入れ物用と水の入れ物用の赤と青のボールは家から持ってきたものだ。たくさん食べて飲むだろうと、大き目のものを持ってきていた。
ここは尚ちゃんの家の裏に広がる田んぼの真ん中に建つ野小屋だ。土のニオイが漂う空間はどこかしら懐かしさを覚える。泥がこびり付いた耕運機が真ん中に置いてある。その横に小さな藁の山があり、上には鎌や鍬が放ってあった。天井からは何に使うのか、数本のロープが垂れ下がっている。
電気は通っていないようだ。夜間に農作業はしないだろうし、あったとしても点けるわけにはいかない。通りがかった人に見られると面倒なことになる。
野小屋がもう何年も使われていないことは、尚ちゃんから聞いていた。
あの中に入って遊びたいんだけど、お父さんに叱られる。確かそう言っていた。
鎌など危険なものを隅に追いやり、マルクのためにスペースを作った。
藁を敷いて、その上に家から持ってきた古い毛布を敷いた。押入れの奥の方から引っぱっり出してきた、もう何年も使ってないものだ。マルクはさっそくフカフカの場所が気に入った様子で、毛羽立った古い毛布も噛み付いて離そうとしない。
自分が子供の頃使っていた毛布を気に入ってくれたのは、とてもうれしい。
「ねえ、マルク。この毛布は私のお気に入りなんだよ。小学生の頃、キャンプに持って行った、想い出がいっぱいの毛布なんだよ。大切に取ってたんだけど、マルクにプレゼントしちゃうね。実はね、マルクをここへ連れて来ちゃったから、ちょっと罪の意識を感じてるんだ。だから、その罪滅ぼしね」
今まで暮らしていた所は日当たりが悪くジメジメしていたから、勝手に連れて来られた野小屋とはいえ、おいしいご飯や水がもらえて、いじめる坂田がいないこの場所は、マルクにとって天国に思えるのかもしれない。
外に出たい素振りは見せないし、不安そうに吠えることもない。
ご飯を食べて、水を飲み終えたマルクは、おいしかったと言いたげに長い舌を出して口の周りをペロリと舐めた。食べ終えても、もっと欲しそうな顔はしない。そんな表情をするとまた坂田の標的になる。出された分の食事だけで満足そうにする。そんな日々を送ってきたシェパード犬のマルク。
「ねえ、マルク。悪いんだけど、ご飯はこれでおしまいなの。お水とご飯はしばらくの間、我慢してね」
やがて日が落ちてきて、初夏とはいえ、野小屋の中も暗くなってきた。
「マルク、真っ暗になるけど、大丈夫だよ。朝になればまた明るくなるからね。私の毛布でゆっくり休むんだよ」

ホールでのウキワク会。吉田くんのラジコンショーが大評判だったので、今回の担当のみどり先生は張り切っている。
「はーい、みなさーん。今日のウキワク会は何をやると思いますかー?」
みどり先生が大きな声で質問をするが、子供たちからは返事がない。
六月も終わりに近づいて暑くなってきたので、そろそろプールかなとみんなは思っていた。
去年、あつこ先生が大型冷蔵庫で大きな氷の板を作ってくれた。それをプールに浮かべて流氷ゴッコをして遊んだことを思い出していた。男の子は浮かべた氷をぶつけ合って遊んだ。女の子は氷の上にお花を乗せてきれいに飾っていた。
しかし、今年はまだ夏の倉庫からプールが持ち出された形跡はなく、顔を見合わせて、何だろうねえとつぶやき合った。
「季節は関係ありませんよー。分からない? じゃあ、ヒントをあげまーす。いい? ヒントはね、先生の顔でーす! 先生の顔をよく見てね」
「ブス」
「誰、今、ブスって言った子は!?」
「翔くん!」「翔くん!」「翔くんだよー!」
子供たちが合唱する。
「そうか、翔くんね」
みどり先生が坊主頭の翔くんを睨みつける。
「えっ、ウソ、ウソ。先生、すごくキレイ!」
翔くんの必死の弁解に、
「そう。最初から正直に言うようにね」みどり先生が笑う。「はい、他に分かる子、いないのかなー?」
「あっ、分かった。先生のお化粧がいつもと違う!」
「はい、あおいちゃん、正解! さすが女の子ね」
「やったー!」
前髪が一直線に揃ってるあおいちゃんが両手を上げて喜んだ。
「あっ、ホントだ」「いつもより厚化粧だ」「濃いよー」
「えっ、何だって!?」みどり先生がムッとする。
「口紅が違うみたい」
「はい、そうです。先生はいつもと違う口紅をしてきました。いつもは薄いピンクの口紅ですが、今日は濃い目の赤を使ってみました。どう? 似合うでしょ。これは外国製でガラスとかカガミとか色んな物にも書けます。そして、なかなか色が落ちない高級品なんだよー」
「えーっ、ホントー?」
「ホントだよ。でも、塗りすぎると……」
グワッ! と叫んで、みどり先生は大きな口を開けた。
「怖ーい顔になりまーす」
「ウヒャー!」

みどり先生は今朝も門のところで坂田に会った。待ち伏せしていたのかもしれない。金に興味があるような素振りを見せていたから、坂田はうれしそうな顔で話しかけてくるようになった。みどり先生もそれに合わせて、いろいろと聞き出している。
「よう、みどり先生。いつになったら、うちに来るんだ? いつでも金塊の絨毯の上を歩かせてやるぜ」
「そうですか。でも、現金も捨て難いかなと思って」
「何言ってるんだ! あんなもん、紙切れだろうが。紙を踏んづけても何の感動もないぜ。足の裏にへばりつくだけだ」
「いえ、坂田さんの家だったら現金も唸るほどあるんじゃないかと思って。私、あまり札束も見たことないから」
「札束? そんなもんねえよ。俺が信じてるのは金だけだからな。株券もそうだが、紙には用はない。火事で燃えたらどうするんだ。ネズミに齧られたらどうするんだ。俺の資産は全部、金塊に変えてあるんだ。だから安全なんだ。分かったか?」
「へえ、そうだったんですか」
「本当はあの家そのものも金に変えたいんだが、そればかりはできない」
「そうですよね。金の家なんてね」
「宮大工の棟梁に相談したんだけどな」
「したんですか?」
「おう! だけどよ、屋根から壁から家全体に金箔を貼り付けるとなると、結構な金が必要なんだ。貯めるまであと何年かかるかなあ」
そう言って坂田は遠くを見つめる。
「でもよ、俺は黄金の茶室を作った豊臣秀吉は越えたいと思ってるんだ」
みどりは、どこまでバカなんだこの男と思ったが、おくびにも出さない。
「ところで奈月先生はどうした? いつも会うんだが今日は見かけなかったぞ」
「何だか、自転車の調子が悪いみたいでバスで来るそうです」
「そうか、あそこからバスじゃ迂回しなきゃならないから大変だな。もっと中心地に住めばいいのにな。まあ、家賃が高いから奈月ちゃん一家には無理か。ははは」
みどり先生はキッと睨みつけたが、無神経な坂田は平然とした顔をしている。
「おっ、みどり先生よ、化粧を変えたのか? 口元がいつもと違うじゃねえか」
坂田が向き直って訊いてくる。
「ええ、まあ、ちょっと」
「やけに赤い口紅だな。やっと男でもできたか?」
「いえ、そうじゃないです。――では、そろそろ時間ですので」
ウキワク会のことまで話すつもりはなかった。

「――と言うわけで、今日のウキワク会はみどり先生のお化粧講座でーす! みんな、美人にしてあげるぞ!」
大きな拍手が巻き起こるが、当然喜んでいるのは女の子ばかりだ。
しかし、みどり先生もそれは予想済み。
「男の子のみんなにもイケメンになれるお化粧を教えてあげるよ! ちゃんと男の子用の化粧品も持ってきましたよー!」
今度は男の子からも拍手と歓喜の声が上がった。
みどり先生はバッグから大きなカガミと子供用化粧品を取り出して、机の上に並べはじめた。そして、その横には化粧をふき取るためのおしぼりとタオルを積み上げた。
「はい、モデルになってみたい人ー?」
「ハイ!」「ハイ!」「ハイ!」
美人とイケメンという言葉が利いたのか、園児たち全員が手をあげた。
「えーっ、こんなにいるの。二、三人だと思ってたのになあ。じゃあ、ジャンケンね」
「ブー」「ブー」「ブー」
ブーイングの嵐が巻き起こる。
「ブーイングなんて、いつ覚えたのよ! うーん、まいったな。ウキワク会のあとは、お外でシャボン玉ごっこの予定なんだけどなあ」
「いらなーい」
「いらない? シャボン玉は今度でいい?――うーん」
みどり先生はしばらく時計とにらめっこをしていた。
「一人五分として、降園時間までには間に合いそうだね。――じゃあ、みんなにお化粧してあげましょう!」
「ヤッホー!」
おませな園児たちだった。

「坂田はんか? ワシや」
「これはどうも。どうされました。尊師から電話とは珍しい」
「黒星はんが飛んだらしいで」
「えっ……!?」
坂田はあの人懐こそうな初老の紳士を思い浮かべた。数十年来の付き合いだ。
先日訪問したときも事業は順調だと言っていた。従業員も熱心に仕事をしているように見えた。売り出し中のマンションも三棟あったはずだ。訪問の翌日の月曜日に三千万円を振り込んでやったばかりだ。それに、大手銀行と長年にわたり取引をしていて、信用も厚いはずだ。
それが、飛んだだと? 
なぜ、そんな簡単に言えるんだ!
「尊師、何かの間違いでは?」坂田の声が震えている。
「ワシを信用せんのか? いや、信用できんのも無理はないやろ。あんだけ繁盛しとったんやからな。そやけど、ワシの間者ならぬ信者からの情報や。間違いはない」
公称十五万人の信者は全国にいて、教団への寄付により、災いや業を滅することができるという教義に基づき、金に絡んだ様々な情報を教祖へ持ち込んでいる。もちろん、信者たちは人を助けたいという純粋な気持ちで、勧誘をして、寄付をさせるのだが、教祖は集まったすべてのお金を気の赴くままに使っている。そもそも運や因業などは一切信じていない。
「では、あの駅前のビルは?」
「従業員もどっかへ行ってしもて、もぬけの殻らしいで。看板も電気が消えたままやて。いや、ビル全体が真っ暗で幽霊が出そうな雰囲気らしいわ。行ってみたら分かるやろ。まあ、ワシは幽霊が怖いから行かへんけどな」
教祖が俺をからかったりはしないだろうし、信者がでたらめな情報を上げて来ないだろう。つまり、これは本当の話だ。
坂田は心臓が激しく波打ち、顔がしだいに青ざめていくのが自分でも分かった。
しかし、自分の目で確かめてみないと気が済まない。ケータイで教祖と話しながらも事務所を出て、車へと向かう。
「坂田はん、あんたのことやから大丈夫やと思うけど」
「は、はい。それはご安心ください」
教祖が言っているのは金のことだ。
坂田は自分の資金に加え、教祖が率いる宗教団体運幸教から融資を受けて、黒星不動産に出資をしている。担保は大金庫に眠る金塊だ。毎月、定期的に黒星からは入金がある。今まで返済が遅れたことはない。今月の支払期限はまだ先だが、教祖の話ぶりからして絶望的だ。
「うちは宗教やから、間違うても連鎖倒産になんかはならへんけど、約束は約束やからな。なあ、坂田はん、親しき仲にも礼儀ありて言うやろ。はっきり言うて、黒星がどうなろうと、ワシには関係あらへんことや。返済期限は、あんじょう守ってもらいますで。ほな」
言いたいことを言って電話は切れた。
ガメツイから金持ちになれたのか。金持ちだからガメツクなったのか。
でっぷりとした尊師の姿が目の前でちらつく。
幽霊を怖がる仏教系の宗教団体の教祖がどこにいるんだ。日頃から俺には霊界なんか存在しないと言ってやがったくせに。
坂田は毒づきながら車庫へ走る。
黒星不動産との付き合いが長かっただけに油断をしていた。定期的に登記簿を上げることくらいはやっておくべきだった。黒星社長が行方不明となると、あのビルもすでに押さえられているかもしれない。どれだけ取引期間が長くても、少しでも危なくなると、銀行は容赦しないからな。あいつら借りるときだけはニコニコしやがって。タチの悪さじゃ教祖と変わらん。
坂田の怒りは銀行に向く。
今更悔やんでも仕方がないが、今は本当に社長が飛んだのかを確かめるのが先決だ。
まだ握り締めていたケータイをポケットに突っ込むと、金ピカベンツのドアを開けた。

今日の朝の会は課外保育だった。午前中のまだ涼しい時間帯を利用して、全員の園児を近くの公園まで連れて行くことにした。先頭は吉田くん。最後尾は遠利主任。途中をみどり先生と奈月先生。そして、栄養士のあつこ先生とスクールバスの運転手の大道さんも動員されて園児たちを囲むように歩いている。
「タコ公園~」「タコ公園~」
今から行く公園の真ん中には大きなタコがペタンと居座っている。それぞれの足が滑り台になっている巨大なコンクリートのタコだ。大畑自然公園という正式な名前があるが、地元の人たちからはタコ公園と呼ばれている。
「タコ公園~」「タコ公園~」
園児たちは自分たちが今、即席で作った公園の歌を合唱している。
「ピンクの大きなタコがいる~」
元は赤い色をしていたのだが、お日様と雨風にさらされているうちに変色し、いまやピンク色のタコと化していた。
もちろん、諸神保育園にも滑り台があり大人気だが、大きな滑り台となると、園児たちも大喜びだ。いくら注意をしたところで、はしゃぎながら歩くのをやめない。
「はーい、横断歩道を渡るよー」
吉田くんが大声で叫ぶ。何人かの園児は気づいたが、ほとんどの園児には聞こえていない。
「信号は青だよー」
他の先生たちも大声で叫んで注意を促す。
「さあさ、急いで、急いで」
園児たちが二人ずつ手をつないだまま道路を渡っていく。
「はい、ここでストップ!」奈月先生が止めた。「信号は赤になりました。青になるまでここで待っててね」
先を行っていた吉田くんとみどり先生が率いる園児たちも、横断歩道の向こう側で止まって、みんなが揃うのを待つように言っている。
奈月はもう一度、園児たちに言った。
「すぐ青になるから、みんなお行儀良く待ってるんだよ」
みんなは、はーいと返事をしたが、目はあたりをキョロキョロと見渡している。ちょうどここは商店街の入り口で、タイ焼き屋さんやドーナツ屋さんやパン屋さんなどが並んでいるからだ。奈月が大人しく待つように言ったのも、勝手にお店へ入って行ったりしないようにだ。子供は大人が予想もしないような行動を取ることがよくある。
しかし、奈月の声も、漂ってくる色々なおいしそうな香りに遮られて、園児たちの耳を素通りして行く
「あのね、ここのケーキ屋さんのチョコレートロールはおいしいよ」
「わたしはね、ストロベリーロールの方が好きっ!」
「わたしは抹茶ロール!」
「えっ、抹茶? さくらちゃんは大人だね」
「ボクはケーキなんか嫌いだ!」陸くんが叫ぶ。「だって、こんなのは女の人の食べ物だもん。ボクが好きなのはこのジャンボソフトクリームだー!」
陸くんはケーキ屋さんの入り口に置いてあった自分と同じくらいの高さのソフトクリームの置物をボコッと蹴飛ばした。
ソフトクリームがグアングアンと揺れる。
ちょうどショーウィンドウを拭いていた店主が、血相を変えて外へ飛び出して来た。
奈月もそれを見て、同じく血相を変え、店の前に駆け寄る。
「ごめんなさい! イタズラしてしまいまして」奈月は店主に頭を下げると、すぐに陸くんを睨みつけた。「陸くんも謝りなさい」
陸くんは飛び出してきたおじさんの姿と奈月の怖い顔を見て、たちまちシュンとなり、小さな声で、ごめんなさいと謝った。
「大丈夫かな?」白い制服を着た店主が陸くんを見て言う。
奈月はソフトクリームの置物を見て、
「壊れてはいないようです。傷も見当たらないようです。本当にすいません」と申し訳なさそうな顔を向けて言った。
ところが店主は、「いや、私が心配しているのはお子さんの足でね。ほら、この置物、よく見てください。よくあるプラスチック製じゃなくて、特注で作った鉄製なんですよ」と言って、手でコンコンと叩いた。確かにそれは金属の音がする。
「このとおり、ソフトクリームじゃなくて、ハードクリームなんですよ」と言って人懐こい笑顔を浮かべる。「他の店のことですがね、酔っ払いに蹴飛ばされて穴を開けられたと聞きましてね。それじゃ、うちは壊されないように鉄で作ってみようと、鉄巧工房に頼んで作ってもらったのが、これ。あまり期待してなかったのですが、よくできているでしょう」
店主は自慢げに鉄製のソフトクリームを触り、両手で揺らせて見せる。ソフトクリームが前後左右に揺れ出す。底はバネ仕掛けになっているからだ。
陸くんは話がよく分からないようだが、どうやらお店の人が怒ってないようなので、とりあえず安心した顔をしている。蹴飛ばした足は何ともないようだ。
奈月は初めて見る鉄のソフトクリームに少し触れてから、もう一度、店主に頭を下げて、青になった横断歩道に園児たちを誘導しはじめた。
すぐそこには、タコ滑り台のピンクの頭が見えていた。

 午後、園児たちがお昼寝を終えてから始まる通称、帰りの会。担当はみどり先生。
午前中の滑り台がよほど楽しかったのか、園児たちはまだピンクのタコの話をしている。
「はい、帰りの会はお絵かきだよー!」
「わーい!」
まだ眠そうにしている子も、お絵かきと聞いて、パッチリと目を覚ました。
みんなお絵かきが大好きだからだ。
「今日は、うーん、何を書いてもらおうかなあ」
「タコ!」
「ええっ、みんなでタコをかくの? 教室の中がタコだらけになっちゃうよ。先生はね、タコ焼きとかお寿司のタコは好きだけど、タコを見るのはあんまり好きじゃないの。なんかニュルニュルしているでしょ」
夏の強い日差しを避けるために窓には大きなカーテンが下がっている。
外からはセミの鳴き声が聞こえてくる。
「あっ、そうだ。昆虫にしようよ。セミとかトンボとかアリさんとか。どうかな?」
「いいよー!」
「じゃあ、今日はみんなで昆虫の絵を描きましょう! 先生はクワガタを描こうかな」
「ボクもクワガタ!」「ボクも!」
「クワガタさん、大人気だね。じゃあ、先生とどっちが上手か勝負ね」
「勝負、勝負!」
やがて、みどり先生が園児たちの描いた昆虫の絵の束を持って職員室に戻ってきた。
そして、明日の保育内容の再確認をしていた奈月先生の机の上に、どさっと置いた。
「奈月先生、見て。虫の絵だよ」
「うげっ!」
虫が大嫌いな奈月が変な声で悲鳴を上げた。みどりは笑い転げる。
「ほら、一番上の絵は尚ちゃんが描いたんだよ」
「何これ。ハエ?」
「正解!」
「よりによって、なんでハエを描くかなあ。でも、細かいところまでうまく描けてるなあ。色も不気味な感じが出ているし。でも、なんでこんなにリアルに描けるの?」
「ハエを飼ってるのかもね」
「あの豪邸の中でハエですか? 飼わないでしょう」
「でも、ハエを描いたのは尚ちゃんだけ。ハエが好きなのかなあ」
「兎の眼の鉄三ちゃんじゃあるまいし。まさか、お父さんのことを……」
「お母さんと二人でハエ呼ばわりしているって? 奈月先生、そりゃ、キツイよ」
「そ、そうですよね。今のは撤回します」
「――でも、考えられるね」
「みどり先生の方がキツイでしょう。追い討ちをかけるんですから」
「でもね、この絵、連絡帳と一緒に保護者に渡すんだよね」
「子供たちは知ってるんですか?」
「知ってるよ。お父さん、お母さんに見てもらいますと言ってから、描いてもらったんだもん」
「じゃあ、尚ちゃんは確信犯というわけか」
「よく描けてるんだけど、さすがにハエはまずいんで、もう一枚描いてもらったんだ。――ほら、これ、カマキリ」
「もしかして、尚ちゃんのお母さん?」
「やるでしょ、尚ちゃん。でも、お母さんは気づかないでしょ。自分のことが描かれているなんて。だからカマキリの絵を渡すことにして、素敵なハエの絵は奈月先生にあげるね」
「いりませんって!」

 運転手の大道が大通りの路肩にバスを止めた。
車体に“もろがみほいくえん”と大きく書かれていて、文字の回りには、ライオンやキリンなどたくさんの動物が、楽器を手に踊っている絵が描かれた黄色いバスだ。諸神保育園が持っている唯一のスクールバスである。
大道が坂田のベンツにぶつけようと言い出して、園長先生に止められたのも無理はない。このかわいいバスは一台で一千五百万円もするからだ。
「はい、尚ちゃん、お待ちどうさま」
ドアを開けるスイッチを押すと、大道は運転席から出てきて先に外に出た。そして、降りてきた尚ちゃんの頭を撫でて笑顔で見送った。バスには大道が一人しか乗っていないため、園児がちゃんとバスから降りて、歩き出すまで確認しなければならない。
嘱託で運転手をしている大道だったが、以前は保育の仕事をしていた。定年後、運転手に転向したが、保育については、ちゃんと免許も持っている超ベテランだった。今でも、忙しいときは保育を手伝っている。
運転席に戻ると、大道はケータイを取り出した。
「たった今、尚ちゃんを降ろしました」
尚ちゃんの家はここから近いのだが、お母さんとしては毎日お迎えに行きたかった。しかし、坂田が子供を甘やかしてはいけないと言って、行かせてくれないという。
そんな細かいところまで、坂田は妻に文句をつけていた。
尚ちゃんは大道さんにバイバイと手を振ると、家に向って歩きはじめた。バスを降りたときからすでに緑色をした家の屋根は遠くに見えている。家までは一直線だ。
近くていいのだが、道草ができないので、尚ちゃんはちょっぴり残念に思っている。
たまには冒険もしてみたいなあ。
そう思いながらトボトボと歩いていた尚ちゃんの目の前に、突然犬が現れた。
脇道から出てきた犬は、誰かを探しているように辺りをキョロキョロと見渡している。
犬がこちらを向いた。
お互いに目が合った。
「あっ、マルクだ!」
行方不明になっているマルクだった。
尚ちゃんはマルクを見つけて驚いたが、向こうも驚いた様子だった。
マルクは尚ちゃんに気づくと急いで走って来た。
「今までどこにいたんだよ!」
尚ちゃんはしゃがんで頭を撫でようとしたが、マルクは急に振り返って駆け出した。
「えっ、どこに行くの?」
マルクは尚ちゃんを誘うように、ときどきこちらを振り向きながら、さっき出てきた脇道に入っていく。
「ねえ、待ってよ、マルク!」
尚ちゃんも駆け出した。風で黄色い帽子が飛びそうになったので、あわてて手で押える。
ずっと心配をしていたマルクだったが、前よりも元気になっている。
こんなに早く走るマルクなんて見たことがない。
尚ちゃんは逞しいマルクを見てうれしくなった。
どこに行くのかという不安を感じながらも、全力で追いかけた。
着いた場所は尚ちゃんの家の裏の田んぼの真ん中にある野小屋だった。
「えっ、ここにいたの!? 家のすぐ近くじゃん」
マルクは少し開いていた戸の隙間に体を滑り込ませて、中に入って行った。
尚ちゃんも戸を開けて入って行く。
一度ここで遊んでみたかったのだが、お父さんに近寄るなと言われていた。
マルクが家出をして住んでいた野小屋。中には何があるのだろう?
期待した尚ちゃんだったが、泥だらけの耕運機が一台と、農作業に使う鎌などが放置してあるだけで、物珍しいものは何もない。
なぜか、藁の上には毛布が敷いてあった。
「なーんだ。何もなくてつまんない」
尚ちゃんは藁の山に座り込んだ。
ふと、マルクを見ると青いボールに顔を突っ込んでいる。
「えっ、なんでこんなところにお水が用意してあるの?」
マルクはボールに入った水をすごい勢いで飲んでいた。
まるで、しばらく水を飲んでなかったかのように。

実際、マルクは一昨日から水やご飯をもらってなかった。お水とご飯はしばらくの間、我慢してねと言われた通り、いくら待っても奈月が来なかったからだ。中身がなく、乾いてしまった赤と青のボールが二個、寂しそうに転がっていた。最初は鎖でつながれていなかったのだが、最後にご飯をもらったとき、なぜか、奈月はマルクを耕運機にくくりつけた。
朝になって、喉が渇いたので外に出ようとしても、重くて動かせなかった。
ふたたび奈月が現れたのは、つい先程だ。
「ごめんね、マルク」
そういってマルクの頭を撫でて、鎖をはずしてくれた。
そして、マルクをいったん外に連れ出すと、奈月はしばらく野小屋の中で青いボールに水を注いでいた。
「お待たせ、マルク。行きましょ!」
戸が開いて、奈月が駆け出した。
あの水は飲ませてくれないの?
マルクは惜しそうに水の入った青いボールを眺めた。
でも、これからどこへ行くのだろう?
まさか、あの家に戻されるのだろうか?
マルクは不安に感じながらも奈月の後をついて行った。
違う場所にお引越しかな。そこに水があるのかなあ。
昨日から気温も上がり、マルクは喉が渇いて仕方がなかったけど、今までかわいがってくれて、おいしいご飯もたくさんくれた奈月が裏切るわけないと思ったため、懸命に後を追いかけた。
しかし、奈月は通りに出ると、止めてあった自転車にまたがり、一目散に走り出した。
えっ、どこへ行っちゃうの?
マルクは必死に後を追ったが見失った。
お腹が空いていて体に力が入らない。
ヘトヘトになりながらも、辺りをキョロキョロと探しているうちに出会ったのが、飼い主の尚ちゃんだった。
尚ちゃんはやさしい子だったが、自分と一緒でいつもお父さんにいじめられてかわいそうだった。久しぶりに会ったのでゆっくり遊びたいと思ったのだが、走り回っていたので喉がカラカラだった。
一度、小屋に戻って水を飲もう。
マルクはふたたび野小屋に向かって駆け出した。
尚ちゃんに心配をかけてはいけないと思って、走りながら、ときどき後ろを振り返った。
尚ちゃんは黄色い帽子を押さえながら追いかけてきた。

 野小屋の中には今まで使っていた二個のボールが残っていた。赤い方には水が、青い方にはドッグフードが入っていた。さっき、奈月が入れてくれたようだ。
とりあえず、水を飲まなくちゃ!
マルクは久しぶりに口にする水を満足そうに飲んでいた。
そして、ふと横を見ると、水が入った見慣れない透明のボールが置いてある。中にはペットボトルが浮かべてあった。
なぜ、もう一つ水があるのだろうとマルクは思ったが、水を飲むのに夢中になってすぐに忘れてしまった。
尚ちゃんはマルクがおいしそうに水を飲んでいるのを見て、自分も走ってきたので、喉が渇いていることに気づいた。
「いいなあ、マルク、お水が飲めて。でも、もらう訳にはいかないしなあ」
藁の山から立ち上がって、ふと見てみると、透明のボールの中にグレープフルーツジュースのペットボトルが入っている。
そして、そのボールの中には奇妙な物が立てかけてあった。
大きな氷の板だった。
板には赤い字でこう書いてあった。
“ごじゆうにおのみください”
尚ちゃんは氷の板を指で突っついて、何も危険がないことを確認して、その文章を大きな声で読み上げた。
「ごじゆうにおのみください!」
読んだ後に気づいた。
「あっ、これ、この前、奈月先生が教えてくれた。自由に飲んでいいって言ってた」
尚ちゃんはもう一度、野小屋の中を見渡して、戸の隙間から外を見渡した。
誰も見ていない。見ていないけど、
「このジュース、本当に飲んでもいいのかなあ。でも、何でこんなところにジュースがあるのかなあ」
ちょっぴり不安になって独り言をつぶやく。
「でもなあ。奈月先生はいいって言ってたしなあ。誰も怒らないって言ってたしなあ」
確かに飲んでもいいと書いてあるが、尚ちゃんは迷っていた。
「うーん、どうしよう、どうしよう」
マルクが尚ちゃんの声に反応し、水を飲むのを中断して見上げてきた。
「ねえ、マルク、いいのかなあ、このジュース飲んでも」
そのとき、不思議なことにマルクがこくりと頭を下げたように見えた。
マルクに同意を得た尚ちゃんは急に元気になった。
「いい? うん、分かった。――じゃあ、いただきまーす!」
尚ちゃんはペットボトルを取り出すと、キャップを開けた。
いつもより簡単に開いたような気がしたが、構わずに一口飲んでみた。
グレープフルーツの味が口の中にひろがった。
「冷たくておいしい!」
尚ちゃんはボトルの半分を一気に飲み干した。
ふと横を見ると、マルクが藁の山に登って、毛布の上で丸くなって寝ていた。
マルクが丸くなってる。
「マルク、気持ち良さそうだね」
尚ちゃんはマルクに寄り添うように体を横たえた。
しだいに眠気が襲ってきた。
やがて、立ててあった氷の板が溶け出して水の上に浮いた。
書いてあった赤い文字も溶け出して読めなくなった。
水の表面が薄っすらと赤くなった。
危害を与えられず、恐怖心も与えられず、連れ去られたという自覚も与えられず、尚ちゃんとマルクは誘拐された。

 事務所にいた坂田のケータイに電話が入ったのは、すっかり日が落ちてからのことだった。
公衆電話からかかってきたため不審を抱いた坂田だったが、仕事のことかも知れず、無愛想な声で電話に出た。
「はい、坂田建築事務所」
電話の相手は機械的な声で一方的にしゃべりだした。
「息子さんと犬を誘拐しました。一時間後にもう一度連絡をします」
「――おい!」
坂田が大きな声をあげたが、一方的に電話は切れた。
建築事務所といっても雑居ビルの一室にあり、金投資会社への顧客の紹介の方がよほど儲かることがわかったため、ここ数年、建築会社としての機能はほとんど果たしていない。
地味なデスクと簡単な応接セットがおいてあるだけで、金ピカのグッズは何もない。ここに顧客は訪ねて来ないからだ。見せびらかす人がいないなら、何も飾る必要はない。無駄なことに金はかけない。坂田は見栄っ張りだが合理主義者だった。
事務所には普段、顧客対応と投資会社への連絡のために、坂田が一人で詰めていることが多い。
今の電話は誰からなのか?
なぜこのケータイの番号を知っているのか?
時計を見ると六時二十分になろうとしている。
一時間後と言ったが、すぐにまたかかってくるかもしれない。
坂田はケータイをそのままにして、事務所の固定電話を使って自宅に電話を入れた。
「尚人はどうしてる?」
「いえ、まだ帰ってきてませんが」妻がか細い声で答える。
「遅いじゃないか。すぐに保育園に電話しろ!」
坂田はまだ半信半疑だったため、事情は話さずに尚人の無事を確認させた。
もし、イタズラ電話だったら恥をかく。たとえ相手が妻であっても弱みは握られたくない。
すぐに折り返しかかってきた妻からの電話は最悪の内容だった。
尚ちゃんはスクールバスに乗ってとっくに家へ帰ったという。
尚人が誘拐された!?
よりによってこんなときに。
失踪しやがった黒星を追いかけているときに。
坂田は迷わず警察へ連絡をした。

 黒星社長の行方は依然として分からなかった。駅前の四階建てのビルは尊師が言う通り、電気が消えて幽霊が出そうな雰囲気で、玄関は施錠されたままだった。自宅にも行ってみたが、誰もいない様子で、近所の人に訊いてみると、ここ数日、見かけていないという。それに、四人家族のはずだったが、最近では黒星しか見ていなかったらしい。
家族に累が及ぶ前に実家にでも帰しやがったのか。
それとも離婚しやがったのか。
――くそっ!
坂田は門柱の大きな表札を蹴飛ばそうとしたが、足が短くて届かなかった。
こんなデカい表札を彫る金があったら、少しでも支払ったらどうなんだ。あのタヌキオヤジめ。いや、体型からするとキツネオヤジか。いかにも悪者の尊師と違って、見かけが善人だけに余計腹が立つ。
周りに誰もいないことを確認して、郵便受けの中を覗いてみた。
ダイレクトメールが何通か入っているだけで、新聞や郵便物などはない。販売所に頼んで新聞を止め、郵便局に転居届を出して、郵便は届かないようにしたのだろう。
すると、住民票は動かしているかもしれないな。
役所の窓口を脅して転居先を聞き出してやるか。
坂田はしばらく主がいなくなった家の前でたたずんでいたが、埒が明かないと分かると、無駄だと思いながらも、郵便受けの一番下に名刺を差し込んで、表札に唾を吐きかけ、去って行った。

 坂田は尊師から連絡があって以降、あちこちを走り回り、黒星の失踪の情報収集に努めていた。駅前の自社ビルには銀行や信金などの抵当が目一杯設定されているが、まだ押さえられていないこと。自宅も銀行の他、数社の怪しい金融会社が担保設定していること。三棟のマンションの売れ行きが不振で、入居者数が予想を大きく下回っていること。従業員の給与も遅滞気味だったことを突き止めた。
また、偶然にも街中で、以前お茶を入れてくれた新人の女性社員とばったり会い、話を聞くことができた。
一週間ほど働いたが、まったく給与はもらえなかったという。しかし、会社が資金に困っていることは気づかなかったらしい。今、従業員全員で連絡を取り合って、社長を探しているという。何か分かったら連絡をくださいと逆に頼まれて、メルアドを教えられた。しかし、坂田はそのメルアドをすぐに消去した。
こっちの資金回収の方が先に決まっている。あんな新入りの小娘や、会社が危機に陥っていることを知らなかったボンクラ従業員になんか、ビタ一文やらん。それでなくとも、尊師からの催促の電話がひっきりなしにやって来ているというのに。

坂田は警察の指示により、会社の電話を留守番電話に切り替えて家に戻ると、すでに宅配便業者の格好をして駆けつけていた警察官たちと合流した。捜査一課に所属する三人の刑事はそれぞれ、小野寺、高安、宮辺と名乗り、一番年配と思われる細身の男が名刺を寄越してきた。
「私が今回の指揮を執る小野寺です。突然のことで、心中お察しいたします。もちろん、担当はわれわれ三人だけではなく、息子さんの捜査のために市内を捜査員が走り回ってますし、家の周辺にも私服の警察官を配置しております。また、七直署にも数人が待機しておりますのでご安心ください」
坂田は話を聞いているのか、リビングのソファーに深く座ったまま、黙って天井を見上げている。二階には大金庫が置いてあるが、刑事たちはまだそんなことは知らない。
あれから四十分が経過した。あと二十分で再び電話がかかってくる。
「かかってきた電話は変な声だったと?」小野寺警部が訊く。
「えっ、ああ、そうだな。なんだか不自然に甲高い声だった」
坂田は数分前にかかってきた声を思い出して、テーブルの上に置いてあるケータイを見た。
尊師に無理矢理買わされたストラップお守りは外してある。何の飾りも付いていないシンプルな坂田のケータイは、相手の声を録音するためのレコーダーとつながれ、逆探知用の配線も施してある。また、かかってきた電話は周りの人間が同時に聞くことができるようになっているため、三人の警察官は坂田の周りを取り囲んでいる。
「警部、ボイスチェンジャーを使っているようですね」と高安刑事が言った。
小野田警部の部下だが年齢は上のようだ。短髪で体格がよく日に焼けていて、見るからに刑事という風貌だ。
「声を変える機械か?」坂田が高安を見上げて訊く。
「そうです」
「だったら、声を聞いても誰が犯人か分からんのか」
「いえ。聞こえ方は変えられますが、声紋までは変えられませんので、十分手がかりになります。そのために録音機を取り付けてますので」
高安はゆっくりと落ち着いて答えた。
時間は夜の七時。犯人の指定時間まであと二十分。
妻は坂田の隣で小さく座ったままだ。
小野田が妻の表情を読み取ろうとしたが、俯いたままずっと黙っている。もっぱら話をするのは夫で、妻は最初に挨拶をしてくれた程度だ。よほどショックが大きいのだろう。
「奥さん、この時間に尚ちゃんが帰って来ないということが、過去にありましたか?」
小野田は些細な情報でも欲しいために話しかける。
妻は時計に目をやってから小さな声で答えた。
「いえ、ありません」
そこへ坂田が大声で割り込んできた。
「お前は尚人が遅くまで帰って来なくて、不思議に思わなかったのか!」
「いえ、わたしは夕飯の支度をしてまして」
「支度をしていても、尚人は帰ってきたときに、ただいまくらい言うだろッ!」
「それが聞いたような気がしましたので、電話が来るまで、てっきり自分の部屋にいるものだと思って」
「お前は母親失格だ! いや、妻も失格、人間も失格だ!」
坂田が怒鳴り散らす。
「まあまあ、坂田さん」
小野田がすかさず宥めるが、坂田は肩で息をしながらも、大きな目でにらみつけた。
妻はうつむいてしまったまま、何もしゃべらない。
高安は妻の傍らに移動して状況をながめている。もし、興奮した坂田が妻に飛び掛りでもしたら、守らなければならない。二人のやり取りからして、普段からも夫婦仲は悪いのだろうと、三人の刑事は察している。
「そうですか。やはり、何かが起きていることですね」
小野田は独り言のようにつぶやいた。
頭の中にはまだ疑惑が渦巻いている。本当に誘拐されたのか? イタズラじゃないのか?
坂田のよくない評判は警察関係者の間まで届いている。この男は法律スレスレの仕事をしている。そのうち捕まるだろう。そういう同僚もいる。
偽装誘拐ではないのか? 連絡を受けたときに感じたことだ。
犯人はこう言ったという。“息子さんと犬を誘拐しました” 
疑うのも無理はないだろう。相手は何の要求もして来ないのだから。
人質の扱いについて何も言及してこないのをいいことに、坂田はためらいもなく警察に通報した。
しかも……。
“一時間後にもう一度連絡をします”
犯人はこちらに時間の猶予さえ与えているのはなぜか?
一時の興奮が収まった坂田がうつろな目をして、立ったままの小野田を見上げて言った。
「尚人が何者かに連れ去られたことは間違いない」
小野田は心の中を見抜かれたような気がしてドキッとした。
「えっ、何か心当たりでもありますか?」
「いや、そうじゃない。奴は俺のプライベート用のケータイに電話をかけてきた。このケータイ番号はほんの数人にしか知らせていない。今、考えていたのだが、そいつらは誘拐なんかやりそうにない。じゃあ、犯人はどこで番号を知ったかというと、尚人が持っていたケータイからしかない」
「では、そのケータイには……」
「GP……なんとかという機能はついていない。しかし、かけてきたのは公衆電話からだ。だから、ついていたとしても、犯人の居場所は突き止められん。電源も切ってあるだろうしな」
小野田の淡い期待も即座に否定された。
しかし、犯人はこれを狙っていたのかもしれない。
本当に誘拐されたのかどうか、尚ちゃんのケータイを持っていることを気づかせるために、一時間という時間を与えた。電話で被害者の声を聞かせるという手はよく使われるが、子供のことだ、とっさに何を話すか分からないため、それは避けた。
そう考えるのが妥当ではないか?
小野田は腕時計を見た。他の刑事たちも時間を確認する。三人の時計の時刻はさっき合わせたばかりだ。
「やはり、次の電話を待つしかないですね。そろそろ約束の時間ですし」
「まあ、奴が約束を守ればの話だがな」坂田が投げやりに言う。
「ただの愉快犯ではないでしょう」
「どうかな。俺はあちこちから恨まれてるからな」
 三人の刑事は誰もそれを否定しない。
「宮辺、準備は大丈夫だな?」小野田が宮辺刑事に訊く。
長髪でとても刑事に見えない若者が、坂田のケータイにつながったコードと機械類をチェックする。
「はい、大丈夫です」
高安がケータイを手に持った坂田に言った。
「できるだけ長く犯人と話してください。先ほど申し上げた声紋の分析ですが、同一人物かどうかを確かめるには、同じ単語を比較する必要があります。たとえば、坂田さんの周りの人物から“こんにちは”という言葉を録音したとしますと、電話でも“こんにちは”という言葉を録音する必要があるのです。ですから、できるだけたくさんしゃべらせて、たくさんの言葉を引き出してください。お願いします」
律儀に頭を下げた高安を坂田はちらっと見ただけで何も言わない。
隣にいる妻が心配そうな顔を坂田に向けた。
――七時二十分。
ちょうど一時間後、坂田のケータイは鳴った。
リビングに緊張が走る。
宮辺がレコーダーのスイッチを入れた。

“お子様と わんちゃんを お預かりいたします 金塊を 藤松百貨店の 一番大きな紙袋 入るだけ 入れて ご用意ください 細工をするんじゃねえぞ 明日、 午後二時ちょうど 堀下第三パーキング ケータイを持って 車に乗ったまま お待ちくださいませ。お父さん!”

電話は切れた。
「尚人! ――何だよ、これは!」坂田の怒号が響く。
二人の刑事も驚いた顔をして小野田警部を見る。
警部も困惑した表情を隠しきれない。
いろいろな声がツギハギにされて流れてきたからだ。
新聞や雑誌から切り抜いた活字を切り貼りした脅迫文はあるが、音声のツギハギは初めてだった。
宮辺刑事はあわててレコーダーのスイッチを切った。
「金塊を用意しろだと、ふざけんじゃねえ!」坂田がテーブルを足蹴りにした。
しかし、上に乗っている機材が微かに揺れただけで、どっしりした大きなテーブルはそのままだ。
小野田が困惑した顔で坂田に訊く。
「最後のお父さんと言う声ですが、お子さんの声に間違いないですか?」
「ああ、間違いない。尚人の声だ」
「その声もあらかじめ録音しておいたのでしょうね」
「じゃあ、本当に誘拐されたのか分からんじゃないか! 事前に録っておいたものかもしれん」
「いえ、お子さんの身に何かがあったことは間違いないでしょう」
「尚人は犯人の元にいるということか」
「その可能性が高いですね。それを言いたいがためにお子さんの声を聞かせたのでしょうから」
顔を真っ赤にして興奮している坂田をよそに、小野田は宮辺にレコーダーの再生を促した。
ふたたび、犯人からの電話の声が流れ出す。
坂田も呼吸を整えて犯人の声に聞き入る。
“お子様と わんちゃんを……”
高安が小野田に言った。
「切り貼りの脅迫文を音声に応用したようですな」
小野田は腕を組んだままレコーダーを睨みつけている。
「その声だが、あちこちから採取されたようだな。ゆっくりとした声に早口の声。丁寧な口調に、ぶっきらぼうな口調が混じってる。すべての声が甲高いということは、さらにそれをボイスチェンジャーにかけたのだろうな」
小野田は坂田の目を見ながら訊く。
「事務所にかかってきた声と同じ高さの声じゃないでしょうか?」
坂田は何も言わずに頷く。
犯人が要求してきた内容に、まだ戸惑いを隠しきれない様子だ。
レコーダーの再生が続けられる。小野田の分析も続く。
“お預かりいたします 金塊を……”
「今の“お預かりいたします”だが、本来なら、お預かりいたしましたと過去形になるはずだ。きっとスーパーやコンビニのレジ係がお金を受け取った際の声を録音したのだろうな」
“細工をするんじゃねえぞ 明日、午後二時ちょうど 堀下第三パーキング”
「細工をするんじゃねえぞというのは、ドラマか映画の中に出てくるチンピラのセリフだろう。それと“午後二時ちょうど”。この機械的な声はあきらかに117番から録音した声だろうな。――宮辺、もういい、切ってくれ。あとは署に持って帰ってからゆっくり分析する。いや、ゆっくりとはいかないか。約束は明日の午後二時だ。それまでに何らかの対策を立てたいからな」
坂田はケータイを放り出して天井を見上げている。
尚人とマルクが誘拐されたのは間違いがない。
いったい誰が……?
自分の交友関係を思い浮かべるが、類は友を呼ぶと言うように、どいつもこいつもガサツな人間ばかりだ。こんな用意周到に犯罪を行えるような緻密な性格をした友人は一人もいない。だとすると、俺に恨みを持っている顧客か?
今まで、何人もの人間を幸福にしてやった。しかし、それ以上に不幸にした人間も多い。
くそっ、どいつだ、俺から金塊を奪い取ろうとしている奴は!
坂田は自分を落ち着かせるため、タバコに火をつけた。頭が混乱していることくらい自覚できている。
金塊を奪ってどうする。その紙袋とやらに、いったい何本の金塊が入る。
億は越えるはずだ。だが、どこでどうやって換金するんだ。
奴は本当に金がほしいのか。俺をからかっているだけじゃないのか?
坂田は二階に設置してある大金庫を思い浮かべる。
隙間なくぎっしりと詰め込まれた金塊。観音開きのドアを開いた瞬間に放たれる輝き。
間接照明によってライトアップされた金塊を見るのが一番の楽しみだというのに。
あれを見ると嫌なことは何もかも忘れられる。
黄金の光に包まれる至福の時。自分が神にでもなったかのような恍惚感。
あの夢のような時間を俺から奪い去ろうというのか。
そして、夢想を打ち消すように二人の男の顔が浮かんできた。
やせ細った顔と肥大した顔――黒星社長と教祖。
俺が追いかける黒星と俺を追い立てる教祖。
あの金塊はすべて教祖率いる宗教団体の担保に入っている。
それを奪い取ろうというのか!
俺は今まで幸運とともに生きてきたはずだ。何もかもが俺に味方していた。やっかむ奴らからは、お前にもいずれツケが回ってくるとも言われていた。俺もそれを否定していなかった。いつかそんな日が来るとも思っていた。
しかしなぜ、それが今なのか? なぜ、こんな時に誘拐事件が起きるのか?
自分の不運をなじるしかないが、大金庫の中の金塊の山は俺が苦労して手に入れたものだ。誰にも渡すわけにはいかない。
「坂田さん」
小野田が見下ろしていた。
気がつくと刑事たちは立ち上がって帰り支度を始めている。
妻も疲れた顔をして小野田の横に立っている。
「たぶん犯人から今日はもう連絡はないでしょう。しかし、夜通しで息子さんと犬の捜索は続けますのでご安心ください。私たちは、ひとまず、署に戻ります。もしもの場合に備えて、高安刑事をここに残しておきますので、犯人の心当たりや何か気づいたことがありましたら、彼に伝えてください。このテープの分析などは科捜研で行います。私もずっと署に詰めてますので、何かあったら飛んできます」
坂田はゆっくりと立ち上がった。
顔には疲労に色が滲んでいる。
「分かった。頼んだ」
小野田は殊勝に頭を下げる坂田の態度に少し驚く。
「これはあくまでも私の勘ですが、息子さんは無事で、きっと危害も加えられてないでしょう。と言いますのは、電話の声から正体がばれないように手の込んだ細工をしてますし、二度目の電話も時間通りにかかってきてます。つまり、これはしっかりと計画を立てて練られた犯罪というわけです。犯人は無闇に人質を傷つけたりはしないと思います」
「――だろうな」坂田は力なく頷く。
「しかし、問題は犯人の要求です。金塊を持参するように要求してます。従わなければ何をやらかすか分かりません。いえ、もちろん、最悪の事態にならないように、われわれ警察は万全を期します。そこで確認しておきたいことが一つあります。少し聞きづらいことなんですが、坂田さんの資産といいますか、犯人は紙袋に入るだけと言ってますが、金塊は仮にどのくらいまでならご用意できますか?」
小野田を始め、ここにいる刑事、いや、この街の人間はすべて、坂田が金塊を所持していることを知っている。
坂田はタバコを灰皿に押し付けて消すと、ソファーに深く座りなおした。
腕を組んで目をつぶって、金塊と息子を天秤にかける。
どちらに傾くのか?
天秤を支えているのは世間だ。世間はどう思うだろうか?
見栄っ張りの坂田の決断は世間の目に左右される。
しかし……。
待てよ、犯人は息子の身の安全のことには何も触れていない。
約束を守らないときは人質の命の保証はないといった誘拐犯にありがちな常套句は言っていない。だとしたら、尚人はどんな状況下であろうと無事なのではないか。目的が達せなくても、ちゃんと解放してくれるのではないか。ただ俺を困らせるだけの手の込んだパフォーマンスなのではないか。
このことに警察のバカどもは気づいていないのか?
坂田は自分の都合のいいようにシナリオを仕上げていく。
小野田警部は黙ったまま根気よく坂田の返事を待っている。
「もちろん奪われないように警察は最善を尽くしますし、万が一奪われたとしても、必ず奪い返します」焦れた高安が助け舟を出したが、坂田は目を閉じたままだ。
奪い返すだって? 警察なんか信用できんだろ。戻ってこなかったらどうする? 警察は俺の金塊を保証してくれるのか? 自分で警察を呼んでおきながら心の中で毒づく。
「出せん」坂田はぶっきら棒に答えた。
「えっ、今なんと?」小野田が驚く。
「だから、金は一グラムもやらんと言ってるんだ!」
天秤は金塊に傾いた。

“尚人ちゃん誘拐事件捜査本部”と書かれた紙が七直署内の大部屋の入口に張り出された。
署長がトップとなり、捜査一課課長をはじめとして、総勢七十人体制で事件に臨むことになった。
深夜の午前一時過ぎにもかかわらず、第一回の捜査会議が始まった。
ホワイトボードに尚人ちゃんの写真が貼られ、名前、年齢、事件が起きた日時が記されている。本来なら事件現場の見取り図や状況なども書かれるのだが、今の時点ではどこでどう誘拐されたのか判明していないため、情報量は少ない。
電話機と無線機が乗った長机には署長と捜査一課課長と管理官が陣取っていた。
署長がゆっくりとした口調で問いかける。
「マルクという番犬も一緒にさらわれたらしいなあ」
一番前に座ってた小野田警部が答えた。
「はい。しかし時期は一緒ではなく、犬は尚ちゃんが誘拐される三日前にいなくなってます」
「ほう、そうかい」署長は赤ら顔で返事をする。
署員によると、家で晩酌を楽しんでいたところを呼び出されたのでほろ酔い気分らしい。酒が弱いくせに酒好きな署長として有名だ。毎晩、風呂は入らずとも、晩酌だけは欠かさないらしい。ふたたび署に戻ってきて数時間たっているが、まだ酒は抜け切れていない様子だ。
「犬の種類はなんだい?」
「はい、シェパードです」
「なんだ、警察犬と一緒じゃないか。シェパードがシェパードを探すとは洒落にならんなあ。見つけたシェパードも見つけられたシェパードも気まずいだろうなあ。お互い、いやいやどうもどうもなんてなあ。――で、犬もさらうとは嫌がらせかね?」
「いえ、嫌がらせではないと思われます。嫌がらせなら、犯人は何らかのアクションを起こすと思うのですが、犬がいなくなった時点では連絡も入っておらず、家族のみなさんも犬が勝手に逃げたと思っていたようで、昨日の電話で初めて、犬も一緒に誘拐されたと分かったからです」
「では、なぜ犬もさらったのかね?」
「たぶん、その犬を誘拐の材料にしたと思われます」
「ふーん、犬を餌にして連れ出したというわけか。いつも餌をもらっていた犬が餌になるなんて、これも洒落にならんなあ」
署長が独り言のようにつぶやきながらメモを取るが、酒のためか手は震えている。いつもこのようなのんびりムードのため、今の署長がシラフなのか酔っているのか、ベテラン捜査員も見抜けないでいる。
「あとは小野田警部が進行してくれ」
署長を見限った捜査一課課長が小野田を指名した。
小野田警部が立ち上がって全員を見渡す。
「みんな、遅くまでご苦労さん。今から捜査会議を始めます」
最初の署長とのやり取りは会議の中に含まれていないようだ。
「まず、地取りはどうだ?」
「はい」聞き込み担当の捜査員が手を上げた。「スクールバスの運転手の大道さんはいつもの時間に尚ちゃんを降ろして、そのときには何ら異常は感じなかったと言ってます。また、降りた場所から家まではすぐの距離ですが、尚ちゃんはいつも寄り道などしないで帰るそうなので、犯行はその間で短時間に行われたと思われます。しかし、昼夜ともあまり人通りはないようです。今のところ、目撃者や有力な情報は入っておりません。早朝からもう一度、一軒ずつ聞き込みに当たります。以上です」
「次、鑑取りはどうだ?」
「はい」坂田の周辺を洗っている捜査員が手を上げた。「なかなか評判の悪い男でして」捜査員の間から失笑が漏れる。「感謝している人間もいることはいるんですが、恨んでいる人間は両手両足の指でも足らないくらいです。言葉巧みに騙され、金投資に財産を預けて損をしたお年寄りや専業主婦、学生まで、誘拐の動機がある人間は老若男女、多数存在します」
「金相場というのはそんなに乱高下しないんじゃないのか?」小野田が問う。
「いえ、それがうまく丸め込まれて、借金してまで投資している人が多数いるようなんです」
「金の値段が下がったまま、なかなか上がってくれず、借金の返済の期限が来て払えなくなっているというわけか」
「会員名簿は坂田氏から借り受けましたので、早朝より一人ずつ地道に当たっていく予定です」
捜査一課課長が口を挟んだ。
「ほう、よく名簿を渡してくれたな」
「そうですねえ。評判の悪い男とはいえ、一人息子の命がかかっているからでしょう」
「いや、しかし……」
小野田は課長に坂田が息子より金塊を選んだことを話そうとして止めた。捜査員たちの士気にかかわるからだ。
そんな血も涙もないような男のために寝食を惜しんで捜査しなければならないのか。もちろん、彼らは正義感溢れる優秀な警察官たちだが、こういった感情になりかねない。
それに、坂田も気が動転していて、あらぬことを口走った可能性もある。なんとか気を取り成して捜査に協力してもらうために、ベテランの高安をあの豪邸に残してきた。きっと、約束の時間までには心変わりをしてくれるだろう。
「では、次。ブツはどうだ?」
「はい」宮辺刑事が立ち上がった。「誘拐された場所や時間が特定されてませんので難航してます。スクールバスと家の間からは何も見つかってません。しかし、家にかかってきた電話の逆探知には成功しました」
捜査員たちがどよめく。
「西桑町の公衆電話からです。鑑識が出動しましたが遺留品や指紋などは見つかってません。捜査員も周辺の聞き込みを行いましたが、目撃者はいないようです」
「敵さんは隣町か。わざわざ遠出をして公衆電話からかけるとは、相変わらず用意周到な奴だな」
「明日、もう一度、聞き込んでみます。それと犯人が使ったと思われるICレコーダーとボイスチェンジャーですが、販売数が多くて、絞り込むのは難しいです」
「今はネットでも買えるからな」小野田はそうつぶやいてから腕時計を見た。「犯人が指定してきた時間まであと十二時間か」
犯行時間が短いためか、目撃者もなく、遺留品もない。犯人の目安もつかず、これ以上は進展しそうにない会議に捜査員たちは苛立ちはじめていた。明日のために少しでも仮眠を取っておきたい時間帯だ。
そのとき、高安刑事から小野田に連絡が入った。
「どうした?」
「坂田邸が取り囲まれてます」

坂田は、ソファーに座ったまま鳴りそうにないケータイをじっと睨みつけている高安を、まったく昔ながらの泥臭い刑事だと半ば感心しながら見ていた。
今日はもう犯人から連絡はないだろうと、アンタの上司の小野田さんも言ってたじゃないか。坂田がそう言ってもソファーから動こうとしない。
部屋の隅に小さなソファーを持ち込んで、いつでも仮眠できるようにしていた。しかし、高安が休む気配はない。きっと朝まで起きているのだろう。
その音が聞こえてきたのは、小野田たちが坂田邸を去ってから三十分ほど経った頃のことだった。
「夏祭りでもあるのですか?」
高安は立ち上がると、窓際へ行き、カーテンの隙間から外を覗いた。犯人やその仲間が見張っている可能性もあるため、外から姿が見えないように窓枠の陰に立っている。坂田は高安の後につづいて窓際へ歩み寄ると、乱暴にカーテンを開け放った。外からは大柄な坂田が仁王立ちするシルエットが浮かんで見えるだろう。
「祭りがあるなんて聞いてないがな」
「では、いったいこの音は?」
遠くから太鼓や鐘を鳴らす音が聞こえてくる。それも一つや二つではない。かなりの数だ。数十人もの人々が鳴らしているに違いない。そして、その音はしだいに坂田邸に近づきつつある。深夜だというのに、家々の電気が灯りはじめる。この騒がしい音を聞いて、近所の人たちも目を覚ましたのだろう。
やがて、集団の先頭を歩く人々の姿が街灯の光に浮かび上がった。頭から白い頭巾をかぶり、体を白装束に身を包んでいる。背中には赤い色で卍の文字があり、男女の区別はつかず、表情も見えない。手に団扇型の太鼓を持って叩いている者と、銅鑼を下げて打ち鳴らしている者がいる。
「あれは何ですか?」高安が訊くが、坂田の顔は強張ったままだ。「夏祭りじゃなさそうですな。なんだか宗教の……」
「運幸教の奴らだ。あの教祖の野郎――」
「いったいどういうご関係ですか?」
「債務者と債権者の関係よ」
坂田は吐き捨てるように言った。
やがて、手に手に鳴り物を持った白装束集団が家の周りをぐるりと囲んだとき、坂田が事情を話し出した。
運幸教の教祖から金塊を担保にして融資を受け、それを駅前の黒星不動産へ投資して稼いでいたこと。しかし、突然、黒星不動産の社長が雲隠れして行方が分からず、血眼になって探していたこと。社長が失踪したという情報をつかんだ教祖から、ここ数日、執拗な督促を受けていたこと。
「つまり、大変な時期にこの誘拐事件が発生したというわけですな」
高安は顔を曇らせて同情してくれる。
「ああ、そういうわけよ。支払いの期限はまだ来てないが、リスクを考えて先に引き上げておこうという心算なのだろ。何年も付き合っているのに、やることはエゲツない。あれは宗教団体じゃない、まるで銀行よ」
無神経な鳴り物の音が閑静な住宅街に響く。豪邸の周りをグルグル回っているようだ。
「あの集団の中に犯人か共犯者がいるかもしれませんので、刑事面した私が今から出て行くわけにはいきません。署に応援を頼みましょう」
高安は小野田警部へ電話を入れてくれた。
やがて到着した警官により、信者たちは鳴り物を叩くのをやめたが、遠巻きに坂田邸を囲んだまま帰ろうとしなかった。しかし、警官たちは、何も危害を加えたり、騒いだりするわけではない、ただ道路に立っているだけの人々を追い払うことはできなかった。
やがて夜が明けたとき、坂田邸を囲む塀に無数の気味の悪い御札がベタベタと貼り付けてあった。中には梯子をかけて登ったとしか思えないような高い場所や、道路にせり出している木の枝にも結びつけてあった。
それを見た坂田が怒り狂ったのは言うまでもない。きれいに剥がすだけでも数日間を要するだろう。
しかし、それが返って幸いした。
身代金代わりの金塊を用意してくれるように説得を続けていた高安刑事だったが、果たして坂田はウンとは言わず、金は一グラムもやらんと繰り返すだけだったのだが、突然、協力すると言い出したのだ。
「あんな教祖に取られるくらいなら、誘拐犯に渡した方がマシだ」

 朝九時。尚人ちゃん誘拐事件捜査本部。第二回捜査会議。
「なに、坂田氏がいなくなった!?」
小野田警部が珍しく大きな声を出したので、会議のために集まりかけていた捜査員も驚いて振り返った。
坂田邸に詰めている高安刑事からかかってきた電話だ。警部は受話器を持ったまま全員に向かって言った。
「坂田氏だが、例の宗教団体が貼り付けた御札を剥がすからと、バケツとブラシを持って外へ出て行ったまま、戻って来ないらしい。車が動き出す気配がなかったので、高安刑事も油断したようだ。奥さんは在宅だが、何も聞いてないようだ。事務所を始め、坂田氏が立ち寄りそうな場所に何人か向かわせてくれ」
一瞬、騒がしくなった本部だったが、すぐに元の静けさが戻った。坂田の居場所は他の捜査員に任せ、朝の捜査会議が始まった。科捜研の係員が犯人の声を録音したテープをふたたび流し、分析結果を報告する。

“お子様と わんちゃんを お預かりいたします 金塊を 藤松百貨店の 一番大きな紙袋 入るだけ 入れて ご用意ください 細工をするんじゃねえぞ 明日、 午後二時ちょうど 堀下第三パーキング ケータイを持って 車に乗ったまま お待ちくださいませ。お父さん!”

「お聞きのとおり、これはICレコーダーを使って、あちこちから採取してきた音をつなぎ合わせたもの思われます。解析の結果、判明した部分だけ申し上げます。まず、“お預かりいたします”ですが、この声のあと、微かにチンという音が入ってます。スーパーやコンビニなどのレジスターから発する音と思われます。
次に“藤松百貨店の”“一番大きな紙袋”という箇所ですが、この声は非常に明瞭で滑舌がしっかりしてます。普段から接客に従事している藤松百貨店の従業員、さらに絞り込むと、受付の案内嬢ではないかと思われます。
つづいて“午後二時ちょうど”ですが、小野田警部から言われたとおり、117番から録音したと思われます。
最後に“堀下第三パーキング”ですが、機械的な声からして、この前を通る定期バスの中で流れている案内テープの声から採取したものだと思われます。朝までに分かったことはこれだけです。他の文言につきましても、引き続き解析をつづけていく予定です。私からは以上です」
その後を小野田警部が引き継いだ。
「最後に入っているお父さんという声だが、これは坂田氏に聞いてもらった。お子さんの声に間違いないらしい。犯人が音を録ったと思われるスーパー、コンビニ、近くの商店街、藤松百貨店、バス会社にはすでに捜査員を派遣した。何かわかり次第、報告をする。――では、全員こちらに集まってくれ」
部屋の真ん中に寄せられた長机の上には地図が広げられていて、周りを捜査員たちが取り囲んだ。身代金の受け渡し場所である堀下第三パーキングを中心とした地図である。
パーキングの南には地下鉄森脇線が東西に走り、南涼駅がある。パーキングの北には東西に私鉄の高瀬急行が走り、さらに北には同じく東西に走るJR大門線の北涼駅がある。その向こうには坂北港が広がっている。
小野田警部が地図を指揮棒で指しながら言う。
「犯人はケータイを持って、堀下第三パーキングで待てと言ってきた。奴が次にどんな指示を出すかだ。まさか、ここで身代金の受け渡しは行わないだろう。我々が張っていることくらい予想しているだろうからな。坂田さんを向かわせる先としては、パーキングの南にある地下鉄の南涼駅。北にあるJR北涼駅。さらに船で逃げることができる坂北港。この三ヶ所に捜査員を集中させる。しかし車に乗ったまま、あちこち連れ回される可能性もあるため、追尾用に四輪と二輪の捜査車両も準備しておく。張り込む場所はパーキングの南にある喫茶ミトコンドリアをはじめ、数ヶ所の店舗に協力を依頼してある。さらにこれら一連の動きは二人のビデオ班によって撮影してもらう」
捜査員が神妙な顔つきで頷く。
「周辺は隠れることができる場所など細かいところまで調べておきたいのだが、犯人がどこかで見張っているかもしれん。それに一人とは限らん。共犯者がいる可能性もある。もしかしたら、すでに犯人側は動き出して、現場で何らかの細工を行っているかもしれん。我々が大っぴらに動けないのも事実だ。大変な事件だが、覚悟して事に当たってほしい。改めて言う必要もないのだが、尚ちゃんの身の安全が第一だ。そのために報道機関への発表は控えてある。そのことを忘れないように」
指定の時間まであと四時間。
会議が終わり、捜査員たちが立ち上がったとき、捜査第二係の男が部屋に飛び込んできた。
「小野田警部! 坂田さんがテレビで記者会見をやってます」

諸神保育園の園長室。
園長の諸神美代が柔らかい布を使って、一体ずつ丁寧に戦隊ヒーローもののフィギュアを磨いている。
毎朝、保護者からのメールをチェックし、必要ならば返事を送り、一段落ついたあとの息抜きとして、ガラス戸つきの本棚からフィギュアを取り出し、話しかけながら、きれいにしてあげている。
園長としては他人にはあまり見られたくない行為だが、これをやらないと一日が始まらない。
「やっぱり、赤レンジャーは最高よね」
独り言を言ったとき、隣接する職員室から主任の遠利先生が飛び込んできた。
「園長先生、坂田さんがテレビに出てます」
「えっ、坂田さんというとご主人の方よねえ。金の宣伝か何かなの?」
「いえ、そうではなくて……」
園長はのんびり言いながら、隅に置いてある小さなテレビのスイッチを入れた。
尚ちゃんがしばらく休むと連絡が入ったのは、つい先ほどのことだ。かけてきたのは、もちろん妻の方だ。風邪をこじらせたというので、お大事にと言って切ったばかりだ。
なぜ、担任の奈月先生ではなくて、園長宛に直接かかってきたのか、少し疑問に思ったが、深く考えないでいた。朝から食べ放題のグルメ番組をやっていた局からチャンネルを変えると、ちょうど、尚ちゃんのお父さんの顔がアップになった。人気キャスターが司会をつとめるワイドショーだ。
坂田の目の前には数本のマイクが立ち、フラッシュが引っ切りなしに瞬いている。どうやら、地元の局から中継をしているようだ。画面の右上には、“資産家のご子息誘拐か!?”と赤い毒々しい文字が躍っている。
「どうしたの、これは?」園長先生が遠利主任に訊く。「尚ちゃんが誘拐されたというの?」
「そうみたいです。すぐにテレビを見てくださいと、何人かの保護者の方から同時に連絡が
入りまして、私も驚いて、お知らせに来たわけです」
「お母さんからは風邪だと連絡があったのに、どういうことなのこれは?」
遠利主任に言っているのか、独り言なのか、園長先生は片手に赤レンジャーを握ったまま、テレビから目を離さないでつぶやいている。
キャスターが今までの事件の経緯の説明を始めた。
「坂田さんのご長男であります尚人ちゃんの行方が分からなくなったのは、昨日の夕方のことであります。家族が心配をしておりましたところ、ご主人の会社に電話がありまして、誘拐されたことが判明いたしました。そして、今の記者会見でもおっしゃっていた通り、犯人は身代金として、多額の金塊を要求してまいりました。引渡しの時間と場所の指定があったようですが、なにぶん人命にかかわることですので、それだけは伏せさせていただきたいと、坂田さんはおっしゃっております。われわれマスコミに対しても、けっして追尾したりせず、報道を規制していだだきたいと申しておられます。では、もう一度、そちらのスタジオに戻しましょう」
フラッシュが止まないスタジオでは、坂田と記者との質疑応答が続いている。
「坂田さんがこうしてテレビの前に出てきて、誘拐事件を打ち明けられた理由は何なのでしょうか? ひとつ間違えれば、お子様の大切な命にも関ってくるとも思うのですが」
 坂田は深刻そうな顔で答える。
「まず、犯人は周到に計画を練った上で犯行を起こしてます。感情的になって、息子に手をかけることはしないと確信しております」
テレビの前に立っている園長先生は、事態が把握できたことで、新たに驚き、さらに普段と違う坂田の丁寧な言葉遣いに驚いている。隣に立っている遠利主任も、青ざめた顔で画面に見入っている。
一度、ハンカチで額の汗をぬぐった坂田は話を続ける。
「犯人は私が所有する金塊を要求してまいりました」
ここで坂田はアップで狙っているカメラを凝視した。
「私は息子を取り返すために、大切な財産である金塊をすべて差し出すつもりです!」

尚人ちゃん誘拐事件捜査本部に設置されたテレビを見ていた捜査員たちは、一様に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
一人の捜査員がつぶやいた。「こんなの茶番じゃねえかよ」
坂田は世間の同情を買いたいがために、テレビの前に出て、悲劇の主人公を演じて見せたというのが、捜査員たちの見解だった。小野田警部もそう思っている。坂田の見栄っ張りの性格はこの街で知らない人はいない。あの金ピカのベンツをとってみてもよく分かることだ。 
事件解決後、この悲劇の父親の元にはたくさんの人々が集まり、今までにも増して、金投資の商売がうまく行くに違いない。坂田はそこまで計算をしているのだろう。そして、息子が無事に帰ってくることも想定内なのだろう。
そのため、いまだに捜査員の中には、誘拐事件そのものが坂田の描いた絵ではないかと疑っている者が少なからずいる。
しかし、この記者会見により警察には新たな問題が起きた。
坂田の護衛だ。
人命尊重のために、坂田の後をつけたり、報道したりしないようにマスコミとは示し合わせたが、抜け駆けを狙うフリー記者やフリーカメラマンなどが存在する。そういった連中の目をどうやって欺くのか。
「まったく、余計なことをしてくれたものだな」
小野田警部が珍しく愚痴る。 
大きな声を出したり、愚痴ったりする警部を見て、この事件が一筋縄ではいかないと捜査員たちは感じていた。

その頃、坂田邸の玄関前では、さっそく駆けつけてきたマスコミ陣が張り込んでいた。すでに脚立や三脚が乱立していて、昨日、運幸教が貼り付けた御札を物珍しげに写真に撮ったり、剥がしたりしている連中がいる。
家の中では、マスコミよりも早く到着していた数人の捜査員と高安刑事が合流して、坂田夫人に対し、いかなる訪問者に対しても居留守を使うようにと指示を出していた。カーテンは締め切り、電気は消し、犯人からかかってこないと思われる固定電話の線は抜いていた。 
やがて、ヘリコプターが坂田邸の上空を旋回しはじめた。
 一方、諸神保育園にもマスコミ攻勢は起きていた。
坂田のテレビ会見が始まるとすぐに、電話や訪問が殺到し、保育士たちは対応に忙殺されていた。
ちょうど給油から戻ってきたスクールバスがマスコミに囲まれた。クラクションを鳴らしながら、強引に園内に入ろうとしたが、ここで人を轢いたとなると、またワイドショーに新たな話題を提供するだけで、運転手の大道は窓から顔を出して、道を空けるように怒鳴っていた。そんな大道の顔を撮ろうとカメラマンがいくつものフラッシュを焚いている。
「おいおい、こんな老いぼれの写真を撮ってどうするね!」
その様子を園長先生はカーテンを下ろした窓の隙間から覗いている。マスコミの対応は遠利主任に任せることにした。これから警察と坂田氏がどう動くのか分からないが、今は尚ちゃんの無事を祈るだけだ。
「こんなときに赤レンジャーがいてくれたらねえ」
園長は手に持ったままの赤いフィギュアに話しかけた。

 やがて記者会見を終えた坂田は、駆けつけた警察官にガードされ、警察車両でどこかへ連れ去られた。報道規制がかけられたにもかかわらず、数台の車が追いかけたが、派手にサイレンを鳴らした車には追いつけず、やがて見失った。
正午過ぎ、坂田邸から金ピカのベンツが飛び出して、猛スピードで走り出した。すでに坂田が家に戻っているのではないかと読んでいたマスコミはあらかじめ準備していた車やバイクで追いはじめた。乗り物がない人たちは、あわてて街道に出てタクシーを拾った。上空で旋回していたヘリコプターも向きを変えて追いかける。
屋根の上まで金ピカに塗られた車だ。見失うことはない。ベンツを運転している男は体格こそ坂田に似ているが、帽子を目深にかぶり、サングラスをしているため、本人かどうかは確認ができない。しかし、このまま家の前で張り込みを続けていても進展しそうにないため、追いかけざるを得ない。坂田本人だったら、他社に後れを取ってしまう。

   後編につづく。
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