スリップタウン 19:10

右京之介

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スリップタウン 19:10

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      「スリップタウン 19:10」
 
                        右京之介

 今から十年前の夏。私、渡月良(とげつ りょう)と妻の渡月涼(とげつ りょう)の二人はとても不思議な体験をした。
いや、正確に言うと二人ではなく、もう一人いた。
最後まで正体がよく分からなかった嵯峨さんという男性だ。その名前さえ本当かどうか分からなかったが、ともかくこの三人が一時期、不思議な運命を共にした。
しかし、あまりにも荒唐無稽なその体験は、平穏な日常が戻ってきてからも、ときどき夫婦の間で密かに話題になるだけで、誰にも語ることはなかった。
話したところで、誰も信用しないだろうし、何も証拠が残ってないからだ。

ピー、ピー、ピー。
電子レンジの音に反応したのは、二歳になる一人息子の夏王(なつお)だった。
イスから下りて、電子レンジの下にドタドタ駆け寄ると、背伸びをして、何が出来上がったのか覗き込もうとしている。
たしなめたのは妻の涼だった。
「はいはい、夏くん。今、出してあげるからね。ちゃんとお座りをしてなさい」
夏王は言われたとおり、素直に子供用のイスの上へ戻ると、妻がレンジから出してきたシューマイが乗ったお皿を両手で受け取ろうとした。
「あっ、ダメダメ熱いから。冷めるまでしばらく待ってなさい。熱くなくなったら、ラップを剥がしてね」
ラップがかかったお皿には大きなシューマイが六個乗っていた。
妻に言われて、しばらくは我慢をしていた夏王だったが、好奇心には勝てず、ラップを小さな指でツンツンと突っつき始めた。
その気配に気づいた妻が振り返った。
「夏くん、まだダメでしょ!」
夏王は妻の迫力に驚いてビクッとすると、私を見てチロッと舌を出した。

 私たちがあの不思議な体験をしたのは高校二年生の夏だった。
あと十五年もたてば、夏王はその年齢になる。
そのとき、二人であの話をしてやろうと思う。
夏王は妻の目を盗んで音を立てないように、こっそりとラップを剥がし始めた。ときどき、私の方を見て表情を伺っている。
私が怒らないのを確認すると、またラップと向き合う。
二歳になるとそのくらいの知恵は働くようだ。
やがて、隙間ができて、白い湯気が上がった。湯気は意外と熱かったようで、あわてて手を引っ込めた。私はその表情を見て、妻に聞こえないほどの小さな声でクスリと笑った。
この子が高校生になったとき、私たちの話を信じるだろうか。
それとも笑い飛ばすだろうか。
お父さんとお母さんが体験したあの不思議な出来事を――。

 当時、高校二年生だったボクは、体が揺れるのを感じて目を覚ました。カーテンを閉めていない窓から見える景色は、すっかり暗くなっていた。夕方、部活を終えて家に帰ると、そのまま疲れて、寝てしまったようだ。
今の揺れは地震だったようだが、夢の中で起きたのか、現実に起きたのかがはっきりしない。しかし、現実のできごとだったとしても、部屋の中はきれいに片付いている。何かが倒れたり、落ちて来たりした様子はないので、大きな地震ではなかったようだ。
首をひねって時計付きのラジオを見上げる。
――夜の七時十二分。
確か、ラジオを聴きながらベッドに寝転んでいたはずなのだが、流れているはずの音は聴こえず、雑音がしているだけだ。
寝ている間に手が触れて、チューニングがずれてしまったのかもしれない。
ボクはベッドから起き上がると、部屋の電気をつけて、ラジオのオレンジ色に光っているチャンネル表示を見た。周波数は合っている。いつも聴いている地元のFM局だが、何の音も聞こえてこない。
故障かと思って振ってみたが、デジタル時計はちゃんと動いている。
この放送局に何かトラブルがあったのだろうと思い、他の局やAMラジオに変えてみたが、やはり雑音しか聴こえない。
ラジオ局のストライキなんかあるんだっけ?
クラスの中にもFMを聴いてせっせとリクエストをしている連中がいるから、ストなんかがあったら話題になっていただろう。今日はいつも通りの平穏無事な一日だったはずだ。
訳が分からん。でも、腹も減ったことだし、それどころじゃない。
何らかの電波障害が起きてることにしておこう。
そろそろ夕飯の時間だったため、部屋の電気とラジオのスイッチを切って、キッチンに向った。
キッチンは廊下を隔てて、ボクの部屋の斜め向かいにある。お母さんと、最近料理に目覚めた妹がお揃いのエプロンを着て、作ってくれているはずだ。
ピー、ピー、ピー。
そのとき、キッチンから電子レンジの音が聞こえた。
ボクはドアを開けてキッチンに入った。
エアコンがかかっているため、キッチン内は涼しかった。換気扇も静かに回っている。
しかし、二人の姿はなかった。
何やってるんだ、二人は。
テーブルの上には三人分のお皿が並べてある。お父さんはいつも残業で遅くなるので、夕飯は三人で食べている。
炊飯器からは湯気が上がっていて、もう炊ける頃だろう。
ピー、ピー、ピー。
電子レンジからさっきより長い音がした。できあがった物を早く出しなさいという催促の音だ。
「お母さん、鳴ってるよー!」
ボクは少しイラついて、大きな声で叫んでみたけれど、お母さんも妹も来る気配はない。
どこへ行ったんだよ、二人とも!
アラーム音を発し、ボクと同じようにイラついている電子レンジからお皿を取り出す。そこには、大きなシューマイが六個乗っていた。一人二個ずつ。お父さんの分の二個は冷蔵庫の冷凍室に入っているはずだ。
コンロにかかっている鍋のフタを開けると、クリームシチューだった。見ているうちに煮えたぎってきたので、あわてて火を切る。隣にかかっていたヤカンの火も止めた。こちらも沸騰していてフタがカタカタ鳴っていた。
ちょっと頼むよ。ボクが目を覚まさなかったら火事になるところじゃないか。
「お母さーん!」
もう一度、さっきよりも大きな声で叫んでから、ふと足下を見た。
お母さんの赤いスリッパが脱いであった。右側のスリッパが少し前に、左側がやや後ろに。まるで、コンロのある場所から電子レンジに向って、今まさに歩いて行っているような形をしている。
その先に妹のピンクのスリッパも見つけた。冷蔵庫の前に行儀よく並んでいた。冷蔵庫のドアを開けて中を覗いている姿勢だったら、こういう具合に並ぶだろう。
冗談だろ?
ボクはキッチン中を見渡した。そして、そのときになって始めて、テレビがついていることに気づいた。キッチンの隅においてあるというのに、音が全然していなかったからだ。
テレビではナイター中継をやっていた。ピッチャーの斜め後ろから映しているいつものアングル。五回裏、点差とストライクとボールとアウトカウントが画面の隅に表示されている。
しかし、そこには選手も審判も映ってなかった。
ピッチャーズマウンドの上に置いてあるグローブ。バッターボックス内に転がっているバット。いつまで立っても切り替わらない画面。何も言わないアナウンサーと解説者。
何が起きてるんだ? 乱闘騒ぎでもあったのか?
そのとき、ボクはまた変なことに気づいた。
ネット越しに見えるはずの観客が誰もいなかったのだ。去年きれいに改装された無人の観客席が静かにこちらを向いている。
何か重大な事故でも起きて、全員が避難したのか?
雨は降ってなさそうだし、雷の音も聞こえない。
それにしても、何かテロップでも流してくれればいいのに、これでは状況がさっぱり分からない。ボリュームを上げて、しばらく待ってみたが何も変化はない。
なんだよ、ラジオにつづいてテレビまで変なのか。
ボクはリモコンを持ってチャンネルを変えた。
突然大きな笑い声がした。そこではお笑い番組をやっていた。
あわててボリュームを下げて画面を見つめる。ボクがよく見ているトーク番組だ。人気司会者が巧みな話術でゲストをいじって笑いを取っている。
なんだ、ちゃんとやってるじゃないか。さっきの局が何かのトラブルでおかしくなっていただけだろう。
ボクはキッチンを出ると、トイレをちょっと乱暴にノックした。
返事はない。入るよーと断ってドアを開けたが、二人の姿はない。
お風呂場と他の部屋を探してから、二階に上がった。そこには妹の部屋がある。
ここにもノックをして入ってみたが、誰もいない。机の上には妹が大事にしているケータイが置いてある。
彼女が出かけるときは、必ずケータイを持って出る。友人は多い方だし、最近何かと物騒なので、出かけるときは持つように両親から言われている。
――ということは、家の中にいるはずだ。
二階にある部屋を押入れの中まで全部確認したボクは、もう一度一階に下りて、恥も外聞もかなぐり捨てて、お母さんと妹の名前を叫んだ。
「お母さーん! おーい、知美ー、どこにいるんだよー!」
もし、二人にイタズラを仕掛けられていたなら、現れた二人に大声で笑われただろう。高校二年生にもなって、今にも泣き出しそうな声で、母と妹の名前を叫んでいたのだから。
しかし、二人は現れなかった。

家の中にいないということは、どこかに出かけたんだ。
きっと何か急用ができて、出て行ったんだ。
だけど、鍋の火よりヤカンの火より大事な用って何だ?
火事になるかもしれないのに、それよりも優先すべきことって何だ?
ボクの脳裏に浮かんだのは、お父さんの顔だった。
お父さんが事故にでも遭ったんじゃないのか?
お母さんも妹も根っからの心配性だ。
きっと病院から電話があって、あわてて出かけたんだ。スリッパも揃えるヒマもなく、寝ているボクを起こすヒマもなく、二人は病院に直行した。
そうに違いない。
ボクはキッチンの隅にある電話の受話器をつかむと、お父さんのケータイに電話をした。ここからかける方が早い。自分の部屋までケータイを取りに行っているヒマはない。
しばらく鳴らしてみるが出ない。やはり事故なのか?
電話機の横に置いてある電話番号簿から、お父さんの会社を探し出してかけてみる。
しかし、ここも出ない。
お父さんはいつも夜の九時過ぎに帰ってくる。社会人になって、九時前に帰ったことはないし、たまには早く帰ってゆっくりとナイターを見たいと、いつも言っていたことを思い出した。
時計を見るとまだ七時台だ。会社には誰かが残っているはずだ。なのに、誰も出ないというのはどういうことだろう。留守番電話にもなっていないのはどういうことだろう。
お父さんのケガか病気が重くて、みんなで病院に行ったのかもしれない。
でも、もしお父さんが事故だとしても、ここにメモでも残しておくか、電話でもかけてくれればいいのに。
ボクは部屋に戻って自分のケータイを確認した。
何も着信はなかった。

 ボクの家の隣には、山越さんという老夫婦が住んでいる。ボクと妹が子供の頃には、共働きで忙しかった両親に代わって、よく面倒をみてもらっていた。今でも、たくさん作ったからと言って、煮物などのオカズを持って来てくれる。
お父さんの身に何かあったのなら、きっと伝えているはずだ。それにあの夫婦は夜に出掛けたりしないから、家にいるはずだ。
ボクは急いで玄関に向った。
そこにはお母さんと妹が普段履いている見慣れた靴が仲良く並んでいた。
ボクも二人がどんな靴を履いているのかをすべて知っているわけではない。でも、コンロの火を止めるヒマもないくらいに急いでいるのに、靴箱から違う靴を取り出して、わざわざ履き替えて出かけるだろうか。
一応、靴箱を開けてみた。並んでいるのは、ほとんどヨソ行きのおしゃれな靴だ。なくなっている靴があるのかどうか分からない。でも、何が起きたか分からないが、こんな緊急時、玄関に置いてある妹のピンクのスニーカーを、わざわざおしゃれな靴に履き替えるだろうか。走るにしてもスニーカーの方がいいに決まっている。
ボクは後ろを振り返った。
まだ、二人は家の中にいるのではないか?
そう考えるのが妥当じゃないか?
そのとき、靴箱の上にある長方形の水槽に目が行った。
泳いでいるはずの金魚がいなかった。

 大きな水槽の隅に、酸素の泡で回る小さな水車が置いてある。酸素は出続けていて、水車をクルクル回しながら、泡は水面に向って上昇している。ところどころには藻が沈んでいる。それらの陰を隈なく探してみるが、五匹いたはずの金魚は一匹もいなくなっていた。 
ボクが寝ている間に起きたであろうことを推理してみるとこうだ。 
お父さんが事故か事件に巻き込まれた。連絡を受けたお母さんと妹は夕飯の支度もほったらかしにして、コンロの火をつけたまま、テレビも消さずに、ボクに声もかけず、ヨソ行きの靴に履き替え、金魚を持って出かけた。
そんなバカな。
玄関に突っ立ったまま、考えをまとめようとしたが無理だった。何がどうなっているのか分からない。ボクをからかっているのなら、もうとっくにネタばらしをしてくれてもいいはずだが、二人が笑い転げながら出てくる気配はない。
取り敢えず、山越さんの家に行って、訊いてみよう。
でも、もしかして、外がとんでもなく変化をしていたら?
魔界と化していたら?
ボクは恐る恐るドアを開けた。
そこには、いつもと同じ風景があった。
大通りへとつづくアスファルトの道路。それを照らす街灯。街灯の下には町内会で買った消火器が赤い箱に入れられて置いてあった。
夏独特の生ぬるい風が吹く。小さな紙切れが舞い上がって、かすかに電線が鳴った。
何も変わったところはない近所の風景。
ボクは少しだけ安心して、ふと街灯を見上げた。
あれっ?
そこだけ違和感があった。

お隣の山越さんの家にも電気がついていて、在宅のようだった。
門柱についたベルを鳴らす。家の中からベルの音が聞こえる。
しばらく待つが出てくる様子はない。
そういえば、おばあさんが、私も主人も最近は耳が遠くなってと言ってたっけ。
しかし、何度も鳴らして待ってみたが、物音一つ聞こえてこなかった。
庭に咲いているボクと身長が同じくらいの二つの大きなヒマワリが、こちらを睨んでいる。
山越さん夫婦も、お父さんのことを聞いて、家の電気をつけたまま病院に行ったのだろうか。
家の横に回ってみるが、誰もいない様子だ。
あれっ? ここにはサニーがいたはずだが。
いつもボクが通りかかると寄ってくる黒いイヌのサニーがいなくなっている。不思議なことに犬小屋につながったロープと首輪だけが残っていた。まるで、首輪を抜け出して逃げてしまったかのようだ。
スリッパを残していなくなったお母さんと妹と同じ状況ではないか。
ボクは山越さんの隣、その隣と順番に呼び鈴を押しながら歩いたが、誰も出てこなかった。そして、不思議なことに、すべての家は電気がついたままになっている。みんながみんな電気をつけたままにして、出かけるのだろうか。
一体どうなってしまったんだ?
ボクは小走りで大通りに出た。
そこにも見慣れた光景が広がっていて、少し安心した。みんなが会社から帰宅するこの時間はいつも車が渋滞していた。上り方面、下り方面ともに車がつながっている。バスがいればタクシーもいる。砂利を積んだ大きなダンプカーは現場からの帰りか。
やがて、下り方面の信号が青になった。
しかし、いつまでたっても車は動こうとはしない。
先頭車は何をやってるんだろう。
それにしても、クラクションも鳴らさないし、人の声も聞こえない。
ボクはふと目の前に止まっている軽自動車の中を覗き込んだ。
誰も乗ってなかった。

 無人の車が何台にも渡って渋滞している。エンジンはかかったままで、ライトもついている。乗る人がいなくなったバイクもライトとエンジンをつけたまま倒れている。マフラーからは排気ガスが上がっている。
しかし、エンジン音が響いているだけで、車が走っている音は聞こえない。
信号は静かに、青、黄、赤と点滅を繰り返している。
路肩には、後ろに子供が乗るイスがついた自転車が倒れていた。母親が乗っていたものだろう。その後ろには補助輪がついた小さな自転車が倒れずに立っていた。子供用のものだ。
お父さんが事故か事件に巻き込まれて、お母さんと妹と山越さんたちがあわてて出かけたのではないかと思っていたが、この状況を見る限り、そんな個人的な理由で異変が起きているわけではない。
もっと大きな何かが起きている。
この近くで大きな事件があって、みんながいっせいに避難したというのはどうか?
あわてていたため、エンジンを切るヒマもなく逃げ出したという仮説はどうなのか?
もう一度、さっきとは違う大きな車の中を覗き込んだ。
助手席にアタッシュケースが置いてある。ビジネスマンが乗っていたのだろうか?
何かこの状況が分かる手がかりはないかと、ウィンドウに顔を貼りつけて見ていたボクは、自分の立てた仮説が見当違いだということに気づいた。
シートベルトが装着されたままになっていたのだ。
信号待ちで止まっていた時に、何か大変なことが起きたらどうするのか?
エンジンもライトも切らず、逃げ出すためにシートベルトをはずして外に飛び出る。そして、そのまま車から離れて逃げる。
しかし、目の前の車の中では、シートベルトのバックルが締まったままになっていて、ドアは開かなかった。
一度はずしたシートベルトを、無人のままもう一度締めて、ドアの鍵をかけて逃げるのか?
他の車の中を覗いてみたが、すべて同じ状況だった。後部座席に人が乗っていたと思われる車では、後部のシートベルトも締まったままだったし、チャイルドシートのベルトも赤ちゃんが乗っていないのに締まっていた。
バスの中もタクシーの中も覗いてみたが、ドライバーも乗客も誰一人としていなかった。

悪夢――。
そんなチンケな言葉が重要な意味を持ってボクの体を圧迫してくる。
まだ、頭の中では睡眠状態がつづいているのか?
それとも、頭の中が変になってしまったのか?
ボクは道路脇に呆然と立ち尽くしたまま、懸命に考えた。
そして、その苦しみの中から、ボクは一つの結論を導き出した。
靴を残したままいなくなったお母さんと妹。跡形もなく消えた金魚。鳴らないラジオ。誰も映らない野球のナイター中継。
あのお笑い番組は、きっと録画で自動的に放送されていたに違いない。そして、誰もいないお父さんの会社。電気がついているのに出てこない近所の人たち。
街灯を見上げたときに感じた違和感。
いつも群がっていた虫たちが一匹も飛んでいなかったのだ。消火器の箱の上には死骸がたくさん散乱しているというのに。
そして、自転車やバイク、無人の車がエンジンをかけたまま渋滞をしているというこの不思議な光景。
誰もいないどころか、生物がみんないなくなっている。
ザザーッ。
道路際の木が風に揺れた。
山越さんの庭に立っている大きなヒマワリ。
この世に存在するのは、ボクと植物だけになってしまったのか?

ボクは順番に車の中を覗きながら、交差点に向って歩き出した。これだけの車がエンジンをかけたまま止まっていれば、一台くらいは人が乗っているのではないかと思ったからだ。 
三つのタイヤがついているため、倒れないでいるピザ屋のバイク。荷物を積んだままの宅配便の車。他県のナンバーをつけた観光バス。
その縦列の中に後部のドアが開いたままのタクシーがあった。小走りで駆け寄ってみたが、やはり誰も乗っていなかった。お客さんが乗り込むところだったのか、清算して降りるところだったのか、料金メーターは倒れたままだった。
風も止み、車のエンジン音だけが響く道路を一人で歩く。
いくらなんでも、寝て起きたら、自分一人だけの世界になっていたなんて、どう考えても理解できない。
どこかに大きな隕石が落ちて、みんなで見に行っているというのはどうか?
有名な芸能人が事故を起こして、瀕死の重症に陥り、みんなで見に行っているというのはどうか?
しかし、自家用車に乗っていたのならともかく、バスやタクシーの運転手まで仕事を放って、見に行くだろうか。
もともと乏しい想像力をフル回転させながら歩き続けて、最初の交差点にたどり着いた。交差点の真ん中にも数台の車が止まったままだ。そして、交差しているもう一方の道路にも無人の車が渋滞していて、所々で車同士がぶつかっていた。
これが原因なのかと思ったが、軽く接触した程度の事故で、これを見るために、みんなが車を降りて行ったとは考えられなかった。
やがて、正面に見上げていた信号が赤から青に変わった。こういうのは、人がいなくても自動的に変わっていくのだろう。しかし、青に変わったところで車は発進しない。交差点内に止まっている車を挟んで、にらみ合ったままだ。
ボクはあてもなく、右に曲がった。歩道を工事していたらしく、道路工事中と書かれた電飾看板が点滅している。これも渋滞の原因になっていたのかもしれないが、工事をしている人は一人もいない。傍らには工具類が置きっ放しになっている。
この先からは商店がつづく。音楽が流れてネオンが点灯しているが、人がまったく入ってないパチンコ屋。動物が入っていないケージが並んでいるペットショップ。給油中にもかかわらず誰もいないガソリンスタンド。いつも利用しているビデオショップの前に来たときには、今なら誰もいないから借り放題だなとバカな考えが浮かび、そして、よく行くコンビニの前に出た。いつもは、駐車スペースに部活帰りの生徒たちが座り込んでジュースを飲んでいたりするのだが、今は誰もいない。
コンビニの自動ドアが静かに開いた。ボクに声をかけてくる店員はいない。カウンターの上には、ペットボトルに入ったスポーツ飲料が二本置かれていて、レジスターの引き出しが開いている。覗いてみると、中にはおつり用の現金が入ったままだ。
そうだ!
ボクはレジスターの上から伸びているレシートをつまんで時間を確認した。
“2013年7月10日(水)19時10分”
このときだ!
この時間に、この世界がおかしくなったんだ!
たしか、ボクが目を覚ましたのは、19時12分だったはずだ。
そのわずか二分前に何かが起きたんだ。
ボクは振り返って店内の時計を見た。
――19時55分。
時間が止まっているわけではない。正確に経過している。たぶん、ボクが目を覚まして、歩き回っていたのは、確かに40分間ほどだと思う。
カウンターのおでんから湯気が上がっている。
そういえば、何も食べてなかった。ボクはいったん家に帰ることにした。
帰りは反対側の歩道を歩いてみる。動かない車の列をすり抜けて道路を横断する。車が走ってないことが分かっていても、いつもの習慣で左右を確認して渡る。
ときどき家族で行っていたファミレスの前を通り過ぎる。いつもの通り、オレンジ色のライトがついているが、店内には誰もいない。愛想のいい女性店員の、何名様でいらっしゃいますか? という声も聞けない。
「一名様です。たった一人だけ、この世に取り残されてしまいました。みんなは? 分かりません。みんな、死んじゃったのかもしれません。これからのこと? それも分かりません」

 ボクは家に戻ると、電話とテレビとラジオとケータイをチェックした。 
留守番電話には何のメッセージも登録されてなかった。ラジオはどこも雑音だらけで、テレビもあの録画と思われるお笑い番組が終わって、赤と黒と黄が並んだテストパターンの画面に切り替わっていた。他のチャンネルも同じか、しばらくお待ちくださいと書かれた静止画面で、ナイターをやっていた局は、相変わらず誰もいないピッチャーマウンドを映していた。
自分の部屋に入り、ケータイで片っ端から友人にかけるが誰も出ず、無駄だと分かっていたが、連絡をほしいと書いたメールを一斉送信しておいた。
つづいて、パソコンを起動させた。
こんな不思議な現象が起きているのは、この街だけかもしれないと思い、全国からたくさんの人々が集まっている掲示板にアクセスをした。書き込みをするとリアルタイムで日付と時間が更新される。しかし、あちこちのスレッドに行ってみたが、やはり最終の書き込みは、2013/7/10(水)19:10で終わっていた。書き込みはどれもそのスレの話題で、何か異常なことが起きているといった内容の書き込みはどこにもなかった。
この街だけではなかった。日本中の人々がいなくなっていた。
もしかしたら、世界中の人々がいなくなっているのかもしれない。
ボクは天井を見上げた。何か考え事をするときに見つめる天井の染みは、いつもと変わらない。
ボク自身は何も変わってない。でも、ボクを取り巻いている世界が変わってしまっていた。
大通りで渋滞している車の音がかすかに聞こえる。やがて、車たちもガソリンが切れて静かになり、バッテリーが切れて、ライトも消えていくのだろう。
今、何が起きているのか、他に確かめる方法はないのか?
ふだん、困ったことが起きたときはどうするのか?
単純なことを思いついた。
ボクはふたたびケータイを手に取って、110番通報をした。
生まれて初めてかける110番だった。
呼び出し音がつづく。ちゃんと電話がつながっていることは間違いない。
あちこちから電話が入って出られないのか?
それとも、この不思議な現象を調べるために、みんな出かけてしまったのか?
いや、やはりお巡りさんまで消えてしまったと考えた方が普通だった。
異常の中の普通。人がいないのが自然。ボク一人しかいない世界。
119番、消防署も出ない。
104番、NTTの番号案内も出ない。
117番の時報と177番の天気予報はテープが流れた。
ボクは腕時計の時間を正確に合わせると、部屋を出て、腹ごしらえをするためにキッチンに向った。
テーブルの上に出したままだったお皿から水滴がついたラップを剥がし、もう冷めてしまっているシューマイを一つ、口に放り込む。口をモゴモゴさせたまま、鍋からお皿にクリームシチューを不器用によそい、炊飯器を開けて、左手にお茶碗を持ったまま、ご飯をかき回した。熱い湯気が顔に当たる。
お母さんと妹はこんな仕事を毎晩やってくれていたのか。
無人の野球場を映したテレビ画面を見ながら、一人でご飯を食べた。いつもは、お母さんと妹がどうでもいいことをしゃべっているのを、うるさいなあと思いながら食べているのだが、今日は一人ぼっちだ。
こんな生活がずっとつづくのだろうか。
とにかく今は仲間がほしい。顔を見ながら話す相手がほしい。
ボクは、お母さんと妹が作ってくれた夕飯を急いで食べ終わると、使ったお皿を洗い、キッチンの隅に常備してあった大型の懐中電灯と財布を持って、主のいなくなった水槽を横目にふたたび家を出た。

 イタズラにしてはタチが悪すぎる。大掛かりなドッキリカメラにしては、ターゲットのボクは有名人でもなんでもない。普通のどこにでもいるような高校二年の男子生徒を騙しても、視聴者は面白くとも何ともないだろう。
人も魚も犬も虫もいない。
ボクの街から生き物たちが、まるで消しゴムで消されたようにいなくなってしまった。
比較的大きな街だというのに誰もいない。あんなにたくさんの人が住んでいたというのに、みんなどこへ行ってしまったのだろう。
たくさんの人が歩き、たくさんの人が生活していたというのに。
たくさんの人――。
そうだ!
この街で一番たくさんの人が集まる所といえばJRの駅だ!
行ってみよう。誰かいるかもしれない。仲間が見つかるかもしれない。
ボクは少しだけ早足になり、少しだけの希望を持って、無人の車の列を追い抜いた。

 自転車通学をしているボクがJRの駅を利用することはあまりない。遊びに行くときも、わざわざ電車に乗って遠出することは、めったにない。
ボクの行動範囲は自転車があれば十分に回れるからだ。
この小さな街にしては大きな駅。駅名がライトアップされて、闇夜に浮かび上がっていた。構内はちゃんと照明がついていたし、発券機も自動改札機も使えそうだ。これで駅員さんと乗客とキオスクの店員さんがいれば、ごく普通の風景だった。
キオスクで売っている新聞のタイトルをざっと目で追った。
昨日、連敗を脱出して勝った野球チーム。
熱波が到来して、いつもより暑い夏。
景気が回復しつつある日本経済――何も変わったことは書いてないごく普通の日常。
ボクは入場切符を買って改札を抜けると、列車の発車時刻が表示されている電光掲示板を見上げて、隣に設置されている時計が示している今の時刻と見比べた。
すべての電車の発車時間は過ぎていた。
つまり、19時10分以降に出発予定の電車がまだ到着していない状態だった。
ボクは一番近いホームから身を乗り出して、左右を見渡した。
右方向のホームのすぐ手前に、上り電車がライトをつけたまま止まっていた。左方向を見ると、はるか遠くに小さなライトが見える。この駅ですれ違う予定の下り電車だ。
たぶん、この駅に向って走っていたときに、何かが起こって運転手も車掌も乗客も突然消えてしまった。そして、非常停止装置が働いて、あそこに止まっているのだろう。
両方とも電車は無人のままだろうが、近い方の電車の中を見に行くことにして、ホームに飛び降りると、懐中電灯をかざしながら暗い線路をトボトボ歩き始めた。
もし、時間通りに電車が到着し、時間通りに家に帰っていたなら、そこにはいつもと同じ日常が待っていたに違いない。しかし、なぜか突然に消えてしまった人たちは帰ることもできずに、どこかをさまよっている。
枕木につまずきそうになりながらも、ボクは夜空を見上げた。星がきれいに出ている。
一瞬にして違う星に行ってしまったのか?
まさか、テレポーテーションか?
古いSF映画で見たことがあった。あれはタイムマシンの車に乗って過去と未来を行ったり来たりするというお話だった。
みんな、過去に行ったのか。それとも未来に行ってしまったのか。
ボク一人を置いて?
そのとき、ボクの脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
いなくなったのは、ボクの方じゃないのか?
部屋で寝ていたはずのボクがいなくなった。お母さんと妹がボクをあちこち探したが見つからない。お父さんも残業をしないで帰ってきて探してくれている。お隣の山越さん夫婦も心配して家に来てくれている。学校に連絡したがとっくに帰ったという。友人関係にも当たってみたが分からない。
あいつは無断で家を出る子じゃない。きっと何かの事件に巻き込まれたんだ。
お父さんは警察に捜査願いを出した。
みんなはボクがいなくなって、大変なことになっているかもしれない。
でも、いなくなっていたとしても、ボクに連絡を取るすべはない。
ボクはみんながいなくなって、大変なことになっている。
そして、みんなに連絡が取ることができないでいる。
どうなってしまったんだ、この世界は?

 やがて、ボクは止まったままの電車にたどり着いた。よじ登って中を見るが、やはり誰も乗ってなかった。手に持っていたと思われるバッグ類が通路に散乱している。網棚の上にも荷物が置いてある。シートの上にはついさっきまで読んでいたであろう新聞が広がって置いてある。その横には派手な装飾がついたケータイが無造作に残っていた。メールのチェックでもしていたのかもしれない。
手がかりは何もない。渋滞している車と同じだ。
ただ、突然人が消えたという事実だけが、ボクを包み込んだ。

 ボクは仲間を探して、広い駅の中を隅々まで歩き回った。
無人の改札。無人のキオスク。無人のそば屋。無人の駅弁屋。
普段入ることができない駅長室の中まで覗いてみたが、誰一人として、出会うことはなかった。
いくつかのベンチの上には、カバンやおみやげが置かれたままになっていた。ここに座って電車を待っている間に、何らかの異変が起きて、体が消失してしまったのだろう。
自販機で缶コーヒーを買って、待合スペースにあるベンチに座った。ここからはガラス窓越しに、駅へつながっているメイン通路がよく見える。
ボクの家の近所と同じように、誰も乗っていないエンジンとライトがつけっぱなしの車の渋滞が遠くまでつづいていた。動いているものは、駅前のパチンコ屋の流れるネオンサインだけだ。
誰かがここに来れば分かるだろう。来ればの話だが。
蒸し暑い風が首筋をなぞって行くが、コーヒー缶を握り締めている手は、冷たくなってきた。
自販機はもともと無人なのだから、お金さえ入れればいつものように作動する。しかし、商品やおつりがなくなったとき、これも使えなくなるのだろう。いや、その前に電気が来なくなれば止まってしまう。今は人がいなくても電力会社からは自動的に電気が供給されているようだ。しかし、それもいつか途絶えるのだろう。
そして、夜になるとこの街は暗闇に包まれるようになる。
やがて、電気、ガス、水道といったライフラインは全滅する。
そのとき、ボクは一人で生きて行けるのだろうか。
それまでに、この世界は元に戻らないのだろうか。
ボクは冷たさが抜けた缶コーヒーを、まるで大人がヤケ酒をあおるように、上を向いて一気に飲んだ。そして、フゥとため息をつきながら、道路を見下ろしたとき、右目の隅に何かが光るのを感知した。
懐中電灯だった。
誰かが懐中電灯を照らしながら駅へ向って来る!

 ボクは飲み干した缶をゴミ箱に放り込むと、下りのエスカレーターを駆け下りた。
――人がいた!
確かに、人がこっちへ歩いてくる。やっと仲間に会える。
この世界に存在しているのは、ボクだけじゃなかったんだ。
やはり、駅に来てよかった。あの人もきっと誰かを探して、ここに来たに違いない。
ボクは息を切らせながら、一階までたどり着いた。
その人は駅の正面玄関にたたずんでいた。
そして、ボクの顔に懐中電灯を向けてきた。ボクはまぶしくて目を細める。
構内は無人とはいえ、ライトが煌々とついているので、照らす必要はない。いきなりボクが下りてきたので動揺したのだろう。
エントランスに若い女性の声が響いた。
「もしかして、渡月くん?」
名前を言われて、今度はボクが動揺した。
「えっ、誰ですか?」
「清滝です。清滝涼です」
彼女はボクのクラスメイトだった。

ボクたちは、さっきまでボクがいた待合スペースのベンチに並んで座った。彼女の手には缶入りウーロン茶が握られている。まだ、晩御飯を食べていないと言ったので、ボクが自販機で買ってあげたものだ。
彼女の状況も同じだった。
部活を終えて家に帰ると、疲れて寝入ってしまった。
目を覚ますと誰もいなかった。
キッチンには作りかけの夕飯がそのまま置いてあり、火にかけたヤカンからは湯気が上がっていた。大学生の兄の部屋に行ってみると、DVDがかけっ放しで、アクション映画をやっていた。飼っていたネコも見当たらず、外に出てみたら、誰一人として歩いている人がいなかった。
そして、人が一番たくさん集まる駅にやってきて、ボクと出会った。
「いったい、どうなっちゃったの?」
清滝さんが僕の顔を覗き込んで来たが、僕にも分からない。彼女の表情は不安に満ちていたが、ボクの顔も負けず劣らず、不安でいっぱいだっただろう。なんとか、彼女を元気づけてあげようと思ったのだが、頭に何も浮かばず、情けないことに、不安な表情のまま、黙って首を振っただけだった。
でも、仲間が一人だけ増えたことで、少しだけホッとした。きっと彼女もそうだろう。
これから先、ずっと一人だったら、しっかり生きていけるか自信はなかった。女子と話すのはあまり得意じゃないんだけど、とてもありがたいと思った。
ボクたちは、今起こっている異変について、いろいろな可能性を出し合ってみた。
何かが起きて、みんながいっせいに逃げ出したにしては、動物や虫たちもいない。
タイムスリップしたにしては、新聞の日付や時計の時間は合っている。
違う場所に来てしまったにしては、いつもの見慣れた光景が広がっている。
つぎつぎに仮説を出してみたが、すべてが不条理でおかしい。
人は今まで体験したり、見聞きしたりしたこと以外のことが、突然目の前で展開されたら、こんなに弱いものなのか。
ボクはクラスメイトの女の子一人助けることができない。
「渡月くん、あれ何だろう」
「えっ?」
ボクは我に返って、彼女が指差す方向を見た。
一軒の家が燃えていた。
「火事だよ、きっと。行ってみよう」
 火事を見に行ったところで、何かが変わるわけではないだろう。
 しかし、何でもいい。
この異常な世界の正体を知る手掛かりが欲しかった。

その家の玄関のドアは開いたままで、地面に夕刊が落ちていた。外に出て、新聞を取りに行ったとき、何らかの異変が起きて、そのまま消えてしまったのだろう。
しかし、それが幸いした。
ボクたちは鍵がかかってないドアから靴のまま家に入ると、廊下の隅に置いてあった消火器をつかみ、キッチンに走った。
そして、天井まで届き、窓から噴き出している炎を消し止めた。
後になって外から見てみると、その炎は二階にまで達し、クリーム色の壁を焦がしていた。
コンロに掛けっぱなしだったフライパンの油に引火して燃え上がったようだ。
ボクの家ではシチューの鍋とヤカンの火を消した。清滝さんも火を止めてきたという。
しかし、みんなが夕飯の支度をしている頃に人が消えたのだから、自動で火が消えるようなコンロではない家では、つぎつぎにこんな火災が発生するのではないか。
たまたま駅の近くで、清滝さんが見つけてくれたから良かったものの、この街全体が炎に包まれたら大変なことになる。みんなが何かのきっかけでふたたび帰ってきたとき、家がなくなっていたのでは気の毒だ。
ボクたちは歩ける範囲内を、二人で懐中電灯をかざしながら点検して回った。もしかしたら、誰かに会えるかもしれないし、また違う何かが発見できるのではないかという期待もあったのだが、何も収穫はなかった。
そして、空き地に捨ててあった古いロープを拾って道路にトラップを仕掛けると、また誰かが来るかもしれないという希望を抱いて、駅に戻ることにした。
途中で彼女に、何か食べないと体に悪いよと言ったのだが、ショックで食欲もないらしく、自販機でウーロン茶をもう一本買っただけだった。
だが、仕方がないと思う。こんな状況で食欲があるボクの方がおかしいのだろう。
でも、ボクたちは考えなくてはならない。
これからこの世界はどうなるのか?
これから二人はどうするのか?
できるだけ栄養を取って脳に送り込まなければ、ボクのもともと貧相な脳細胞は十分に活性化してくれない。
ボクは友人として、男として、隣をトボトボ歩いている彼女を助けなくてはならない。
そして、二人がふたたび無人の駅に入ろうとしたときのことだった。
「渡月くん、この音――」
「えっ?」ボクは耳をすました。
――聞こえる。
ボクと清滝さんは夜空を見上げた。
赤いランプを点滅させながら飛行機が飛んでいた。
「渡月くん、どういうこと?」
清滝さんは飛行機とボクの顔を交互に見る。
飛行機が飛んで行く方向からして、近くの国際空港に着陸するのだろう。
もしかして、こんな状況になっているのは日本だけで、外国は無事なんじゃないか?
ボクたちは駅に走って、構内に貼ってあるキャンペーンポスターを探した。
この駅から直通電車で空港へ行って、海外旅行に出かけると割引が効くというサービスをやっていて、テレビでも何度かCMを見たことがあったからだ。
そこに空港の連絡先が載っているはずだ。ケータイで検索するよりもこっちの方が早いだろう。検索機能もちゃんと稼動するのか分からない。
「あったよ!」
“水上コテージ泊 モルディブ六日間の旅 ”
清滝さんが、白い砂浜と青い空の写真がきれいなポスターを見つけた。
ボクは、ポスターに載っているいくつかの電話番号の中から、空港の代表番号を見つけて電話した。
あの国際空港は二十四時間開いている。誰かがいたとしたら出るはずだ。今、飛行機が着陸しようとしているんだ。誰もいないはずはない。管制塔から着陸の許可を出して、誘導しているはずだ。
しかし、何度鳴らしても出ることはなかった。
日本だけじゃなくて、この地球全体がおかしくなっているのか?
では、なぜ飛行機が飛んでいたのか?
そして、あの飛行機はその後、どうなったのか?
ボクたちは訳が分からないまま、駅のベンチで朝を迎えた。

 鳥もさえずりも聞こえない静かな朝。
ボクは、まだ食欲がないという清滝さんを、駅のホームにあるコンビニに無理矢理引っぱって行った。いくらなんでも、昨日の夜からウーロン茶二本だけじゃだめだ。何か食べさせないと体に悪い。もし体調でも崩されたら大変だ。病院も無人で、お医者さんもいないからだ。
二十四時間営業のコンビニは、店員さんがいなくても自動ドアは開き、電気はつき、音楽が流れていた。そして、夏の時期だけ出現する派手にディスプレイされた花火コーナーが、ボクたちを出迎えてくれた。
誰も入って来なくて、換気がされてなかったからだろうか、真夏でもカウンターで売っているおでんの匂いが店内に充満している。
そして、通路のあちこちには、バッグやケータイなどお客さんの持ち物が散乱していた。会社や学校帰りに、ここへ寄っていたのだろう。
ボクたちは、それらをまたぎながら狭い店内を歩いた。
おにぎりやサンドイッチなどの賞味期限は切れていたので、まだ大丈夫そうな普通の菓子パンと缶に入ったジュースを買って、駅のベンチで食べることにした。元気をつけようと栄養補助食品もたくさん買い込んだ。
清滝さんは食べ物を前にして、ちょっと気分が良くなったようだ。
両手に朝食を持ったまま、あるコーナーの前で立ち止まった。
「渡月くん、ほらここ」
そこは、お菓子コーナーだった。
「ここに並んでるお菓子をぜーんぶ買って、一日中食べ続けるのが、小さい頃からの夢だったんだよ」
そう言って笑った。昨日の夜に出会ってから初めて見た清滝さんの笑顔だ。
「へえ、そうなんだ。でもこんなに食べたら体壊すよ」
「大丈夫、お菓子は別腹だから。わたしの別腹、デカイもん」
「じゃあ、これ全部買っていく?」
「ダメダメ、そんなにお金持って来てないよ。それに今、ダイエット中だし」
しかもこの夏二回目のねと、笑いながら彼女はレジに向った。
誰もいないからといって、商品を勝手に持って行ってはいけない。見上げると防犯カメラが睨んでいる。作動しているのかどうか分からないが、この世が元に戻ったとき、捕まったら大変だ。
ボクたちは、見よう見まねでレジスターを動かしてみた。よくコンビニを利用していて、店員さんの手元も見ているのでできるだろうと思ったからだ。買ったものを順番にバーコードリーダーで読んでみる。
できそうだ。
最後に合計金額を出して、二人で割り勘にして払った。おつりをレジからもらって、レシートも持って帰ることにする。
レシートの日付と時間は今日のものに変わっていた。これも自動的に変わるのだろう。
そして、出て行くときに新聞の日付を見た。こっちは昨日のままで変わってなかった。新しい新聞が補充されてないのだから、当然だった。

街では、渋滞している車の列が静かになっていた。一晩中エンジンがかかっていたので、何台かの車のガソリンが切れて、止まってしまったようだ。バッテリーも消耗しだして、ライトも薄くなっている。
代わりに風の音が聞こえる。駅前はビルが多いので、ビル風が吹いている。車の音が静かになったため、風の音がいつもより騒がしく感じる。
真っ青な空には、まだ朝だというのに、暑そうな入道雲がモクモクと湧き上がっている。
「太陽があって良かった」
清滝さんが空を見上げて言った。
「えっ?」
ボクは彼女が何を言っているのか分からず、聞き返した。
「太陽じゃなかったらどうしようかと思ってたんだ」
彼女はまぶしそうな顔をして答えた。

 一度、彼女の家に寄り、着替えなどを持ってから、ボクの家へ行くことにした。駅にいると誰かに会えるかもしれないが、いつまでもベンチで寝泊りというわけにはいかない。どちらかの家にしようということになって、単純にボクの家の方が駅に近くて広いという理由で、すんなりと決まった。
渋滞している車はガソリンが切れて、しだいに静かになりつつある。倒れているオートバイはすべてエンジンが停止していた。パチンコ屋さんのネオンや工事中の電飾看板は消えていた。タイマーが設置されていて、昼間は自動的に切れるのだろう。
動いている物はボクたち二人と、風に揺れている植物だけの世界。
これからどうなるのか? 想像もできない世界が待っているのか?
ボクたちは順番にシャワーを浴びて着替えをすませると、昨日通った道に向った。そこは駅前の広い道路で四車線になっている。無人の車や事故車が渋滞したままだが、なんとか真ん中のスペースを通ることができる。
昨日、ボクは拾ったロープを道路に渡して、トラップを仕掛けておいた。
そのロープが真ん中から切断されていた。
「風で切れたんじゃないよね」
清滝さんがロープの切り口を見て言う。
「それはちゃんと確認しておいたよ。古いロープだけど風が吹いたくらいで切れそうな箇所はなかったし、手で引っぱっても無理だったよ。切り口を見るとまだ新しいね」
「じゃあ、誰かがここを通ったということ?」
「そうだと思う。ボクたちが寝ている間に、誰かがここを車で通り過ぎたんだ」
「私たち以外にも誰かがいるんだね」
清滝さんの目がパッと輝いた。
「そうみたいだ。しかも、車を運転できるということは大人ということだ」
ボクたち子供の頭で考えても限界がある。大人ならいいアイデアも持っているかもしれない。少しだけ希望が見えてきたかもしれない。
たぶん、ボクの目も輝いていたのだろう。  
清滝さんがボクの方を見て笑っていた。
ボクは切られたロープの端を大事そうに持ったままだった。

 静かになってしまった街だが、車が走っていれば聞こえるかもしれない。
ボクたちはしばらく駅前にある花壇の端に座って、耳をすませていたが、夏の陽が照り付けてくるばかりで、何も動くものはないし、何も物音はしなかった。
しかし――。
「わっ!」
ボクと清滝さんは思わずのけぞった。
二人の間を通り過ぎて行ったものがあったからだ。
「清滝さん、見た?」
「見た。どういうことなんだろう」
一匹のハエが飛んでいたのだ。
あの夜以来、犬も猫も鳥も小さな虫さえも見ていない。
なのに、なぜハエが飛んでいるのだろう。
二人で目をこらしてみたが、もうハエの姿はない。エサを求めてどこかへ飛んで行ったのだろう。
この世から人や動物がいなくなっても、ハエは困らないのかもしれない。植物がある限りは、その果実を舐めていればいいのだろう。
「私、ハエを見てこんなに感動したのは初めてだよ」
清滝さんが、まだ信じられないという顔をして言った。
もちろん、ボクもそうだった。ハエに感動は似合わない。
「ハエがいたということは、ゴキブリもどこかに生きてるんじゃない?」
「えーっ。この世に存在するのは、渡月くんと私とハエとゴキブリ? やめてよねー!」
「最後まで生き残るとしたら……」
「ゴキブリか。やっぱり嫌だね。この地球がゴキブリのものになるなんて」
そのときだった。
――グラッ。
地震が起きた。
駅前の木の枝が揺れている。すぐに収まったが、かなり大きな地震だった。
「そういえば、渡月くん、地震が起きなかった?」
「やっぱり、そう? ボクも今、同じことを考えた。確かに揺れたんだよ、あのとき」
あのとき、地震の揺れで目を覚ましたんだ。
そして、母と妹を探したけど見つからなかった。
「清滝さんもそうだったのか。この世界が変化したのは、地震と何か関係あるのかもしれないね」
でも、その何かとはと訊かれても分からない。
一匹のハエと地震には、何ら関連性がないように思えた。

 ボクたちは、車で走っていたと思われる人物に会う方法を考えた。その人が来るのを駅前で待っていても、いつになるか分からない。ロープが切られた場所で張り込んでも、また同じ場所を通ってくれるとは限らない。別の場所に仕掛けたとしても、いつになったら会えるのか分からない。たぶん、向こうも残された人を探しているに違いない。
では、すぐにこちらの存在を示す方法はないのか?
「渡月くん、ラジオはどう?」
「えっ、ラジオ?」
「宣伝するなら、テレビかラジオを使えばいいんじゃないかなと思って」
「ラジオって、ボクたちがDJをやるわけ?」
「そうだよ」
なんだか、清滝さんは楽しそうな顔をしている。
「テレビじゃ大変でしょ。あの遠くの野球場にまで行って、マウンドの上からカメラに向って手を振らなきゃならないし。ラジオ局ならここから近くて、しゃべればいいだけだし、音楽をずっとかけておけば、気づいてくれるかもしれないよ」
「そうだなあ。じゃ、行ってみるか。でも、機械の操作できるかなあ」
「今までしゃべってた人が突然いなくなったのだから、そのままマイクの前で話せば放送されるんじゃないかなあ」
「そうか。実はボク、DJに憧れてたんだよね」
「じゃあ、がんばってね。ミスターDJ!」
希望が垣間見えた。ボクたちは軽口を叩いて、立ち上がった。
地元の放送局といっても、何台ものラジオから声が聞こえるのだから、あの車に乗った人だけじゃなくて、他の人とも出会えるかもしれない。あとはラジオのスイッチを入れてくれていることを祈るだけだ。きっと何らかの情報が欲しいから、ラジオは付けっ放しにしているはずだ。

 ボクたちは一度家に帰ると、自転車に乗ってFM局に向った。一階にオープンスタジオがあって、何度か公開録音を見に来たことがある、地元では一番大きな放送局だ。
玄関は開いていて、すんなりとスタジオまで入ることができた。
そこは大きな窓からグルリと360度、外の景色が見渡せる特殊なスタジオだった。ここからだと、今の街の天気も分かる。
清滝さんが言っていた通り、ついさっきまで放送をやっていたままの状態で、テーブルの上にはのどを潤すペットボトルの水が栓をあけたまま置いてあり、番組の進行表が広げたままになっていた。ところどころに赤いペンでチェックが入れてある。壁にかかっているカレンダーの日付には、どういう意味か分からないが、いくつかの丸印が付いていた。
そうか、あの人の番組の最中だったんだ。
ボクは、この局で一番人気がある男性DJの軽快な声を思い出した。
清滝さんはガラスの向こうに立って、ディレクターよろしく、格好をつけながらキューサインを出している。
かしこまってイスに座ると、「渡月くん、落ち着いてね」と頭にかけたヘッドホンから声が聞こえてきた。
ボクは大きなマイクに向かってしゃべり出した。
「あーあー。えーと、みなさん、えーと、こんにちは」
やはり、事前に原稿を書いておくべきだった。誰もいない世界に向ってしゃべっていても緊張するものだ。
清滝さんを見ると笑い転げている。
でも、よかった。ちゃんと、ボクの声が流れていることが分かった。
「あのう、ボクの名前は渡月良です。高校二年生です。もう一人、清滝さんという女性がいます。どなたか、この放送を聴いていたら連絡をください」
何度か同じことを言って、最後にボクのケータイ番号を知らせておいた。
清滝さんの方を見ると、指でOKサインを出している。
あとは、電話を待つだけだ。
何かの音楽をかけようと思ったが、機械が複雑すぎて、やり方が分からなかった。
「じゃあ、渡月くんが歌ったら?」と言われたけど、それはやめておいた。
食欲が失せた昨日と違い、清滝さんは冗談が出るほどにまで元気になっていて、ボクは少しだけ安心した。

 何度かマイクに向かって呼びかけのDJをやり、廊下にある自販機で買った紙コップに入ったジュースを飲んでいるとき、ボクのケータイが鳴った。
隣でジュースを飲んでいた清滝さんが驚いて噴き出しそうになる。
知らない電話番号だった。ボクはおそるおそる電話に出た。
「はい、渡月です」
「ラジオを聴いたんだけど」
「えっ!」
聞こえてきたのは大人の男性と思われる声だった。ボクは清滝さんを見て、うなずいた。
そして、なんとか興奮を抑えながら話し出した。
「今から会えますか?」
「そのつもりだ」
「今、どこにいるんですか」
男性はここから程遠くない地名を告げ、今から車で放送局まで来ると言った。
「そっちは何人いるんだ?」
「二人です。そちらは?」
「一人だ。昨日から誰にも会ってない。お前さん達がはじめてだ」
ボクたちは急いでジュースを飲み干すと、エレベーターで正面玄関に下りて行った。
「どういう人だったの?」
「なんか、ぶっきらぼうな人。ちょっと苦手なタイプ」
「でも、大人の人でしょ。何か分かるかもしれないね」
すっかり静かになった街では、たった一台の車が走るだけで、こんなに音が響くのだと驚いた。やってきたのは外国製の高級車だった。
そして、降りてきたのは、真っ赤なアロハシャツを着た五分刈り頭の中年男性だった。
「アンタが渡月くんか?」
「はい、そうです。こちらが同じクラスの清滝さんです」
「そうか。俺は嵯峨という名前だ。今のところ、確認できた生き残りは三人というわけか」
ふたたびエレベーターに乗ってスタジオに向った。
そこなら応接室もあるし、ゆっくり話ができる。

嵯峨さんは、紙コップに入ったアイスコーヒーを一口すすって、ここから放送していたのかと言って、スタジオ内を見渡していた。普段、見ることはできないので珍しいのだろう。  
ボクは、さっきから気になっていた疑問をぶつけた。
「さっき、生き残りと言われましたが、みんな死んじゃったのですか?」
「いや、そうじゃない。ただの言い回しだ。この世界がどうなったかは分からん」
嵯峨さんは昨日からのできごとを話し始めた。一睡もしないで、車に乗って街中を走り回っていたらしい。そのとき、ボクが仕掛けたロープを切ったのだろうが、ロープには気付かなかったという。コンビニやパチンコ屋さんや飲み屋街に行ってみたが、誰一人会うことはなく、もう少し遠出してみようかと思っていたときに、カーラジオからボクの声が流れてきて、ここにやって来たらしい。
「そうか、二人は駅で出会ったのか。俺はあまり電車に乗らないから、駅とは気づかなかったな」
期待していた大人の人だったが、やはりダメだったか。嵯峨さんもこの世界がどうなってしまったのかは見当もつかないようだ。
ボクが、飼っていた金魚がいなくなった話をすると、俺んちのイヌもいなくなったしなと言って、舌打ちをした。なんでも、お母さんと二人暮しで、最初はお母さんがイヌを連れて散歩にでも行ったのかと思ったそうだ。
しかし……。
いつまでたっても帰ってこないので、迎えに行こうと外に出てみたら、ゴーストタウンになっていたってわけだ。
そう言って、嵯峨さんは紙コップをゴミ箱に投げ入れた。
ボクたちは応接室に入って、お互いの情報を出し合うことにした。
清滝さんが嵯峨さんに言った。
「昨日、飛行機を見たんですけど」
「ああ、あれか。俺も不思議に思って空港まで行った」
「えっ、どうだったんですか?」
「誰もいなかったこと以外、空港では何も起きてなかった。さっきまで飛んでいた飛行機は無事に着陸していた」
「じゃあ、どうやって?」
「たぶん、自動操縦じゃないのか。無人の飛行機が自然に着陸できないだろ。勝手に自動に切り替わるのか、パイロットが何らかの異変を感じて切り替えたのか、その辺の仕組みは分からんが、飛行機から降りてきた人はいないみたいだ」
やはり、外国でもこんな異変が起きているのか。
「それと、ボクたち駅前でハエを見たんですけど」
「ハエって、あのハエか? 一匹だけか?」
「そうです。なんでハエがいるんだろうって話していたんですけど。何か分かりますか?」
「ハエなあ。俺たち三人とハエの共通点かよ。まあ、俺はハエみたいな生き様してるけど、お前さん達は真面目な高校生だからなあ。ハエのことは置いておいてだな、この三人だけが存在しているからには、何か共通点があるはずだ」
ボクと清滝さんは嵯峨さんのちょっと怖い顔を見た。
「待て待て。あんまり俺に期待するな。確かにお前たちよりも長く生きてるが、こんな経験ははじめてだ。過去に見たり聞いたりしたことなら分かるがな、突然、みんながいなくなったなんて、聞いたこともない」
嵯峨さんはボクたちを見渡した。
「まず、性別も年齢も名前も関係ないな。お前たち、何か怪しいカルト宗教とかオカルト団体に入ってないか?」
「いえ」「いえ」
ボクたちは首を振った。
「俺はもともと神も仏も信じないからな。宗教も思想も関係ないってわけか――なんだ曇ってきやがったな」
この応接室からも外を見ることができた。西の空が暗くなってきていて、ときどき稲光が走っているのが見える。
「西か……。俺の家は向こうの方面だが、お前たちの家はどこだ?」
「ボクの家はここからだと東の方で、清滝さんはもっと先です」
 そのとき、嵯峨さんが何かに気づいた。
「待てよ。その辺に地図はないか?」
「私、探してきます」清滝さんが立ち上がった。

 やがて、清滝さんはどこからからか全家形入りと書かれた道路地図を持ってきた。
そして、三人の家の場所にボールペンで赤点を打ってつないでみると、きれいな一直線になった。
「原因はこれじゃないのか。この線上に住んでた人間だけがこの世に残って、あとは消えちまったんじゃないのか」
嵯峨さんがそう言ったときだった。
――グラッ。
建物が大きく揺れた。昨日から頻繁に起きている地震だ。ビルの上の階にいるため、揺れが大きく感じる。
ボクと清滝さんは不安げに目を合わせたが、嵯峨さんは何事もないような顔をして訊いてきた。
「お前たち、その異変が起きたときは何をやっていたんだ?」
「ボクは学校から帰って来て、寝ていたところです」
「私も部活で疲れて帰って、しばらく寝ていたところでした」
「実は俺も寝ていたんだがな、そのときに地震が起きなかったか?」
共通点が分かった。
三人とも、夕方からその線上で寝ていて、地震の揺れで目を覚ましていた。
もう一度、地図を見ていた清滝さんが言った。
「もしかして、ここに活断層のようなものがあるんじゃないですか?」
「活断層って、地震のか? でもな、これ見てみろ。この直線を伸ばすと伏見団地に当たるぜ」
嵯峨が指差す団地は、世帯数が三百を越えるこの街最大の団地だ。
「あれだけ人が住んでいたら、一人や二人は寝ていた奴がいるだろ。お年寄りとか子供とか。でもよ、俺たち以外誰にも会ってないというのはおかしくないか?」
「だったら、活断層のように何十キロも続いてなくて、この線は幅も狭くて、長さもほんの数キロしかないんじゃないですか?」
「ほんの数キロの線の中に、偶然、俺たち三人が入っていたということか」
「それとその線の中にハエもいたんじゃないですか?」
嵯峨さんは清滝さんの仮説を聞くと、腕組みをしてしばらく考えていた。
「確かに辻褄は合うな。その線の先は伏見団地までは届いてない。じゃ、もう一方の先はどうだ?」
ボクは地図に書かれた直線の逆方向をたどって、次のページを開いた。
「嵯峨さん、ダメです。カガミ池に当たります。その先は東山です」
「ため池と山か。人は住んでなさそうだな。探しに行けばカエルくらいは見つかるかもしれんがな」
なんとなく、ボクたち三人だけになってしまった理由が分かりかけてきた。
その活断層のような地域の上で眠っているうちに、地震が起きて、この世に取り残されたか、どこか異空間に運ばれてしまった。あるいは、ボクたちだけが何らかの異変から守られて生き延びたのか、たぶんそういうことなのだろう。
嵯峨さんは組んでいた腕をほどいて、二人に訊いてきた。
「もう一つ疑問がある。昨日から何回か地震が起きてるだろ。その異変が何度か起きてるんじゃないかと思うんだ。だったら、なぜ、俺たち以外の人間や動物に会えないんだ? 新たにこの世界にやって来た奴がいるはずだぜ」
「そうですね」ボクには考えが浮かばなかったが、
「こういうのはどうでしょう」清滝さんが言った。
「その活断層はあちこち移動していて、地震が起きたときは山の中とか、すでに海に出てしまっているとかじゃないですか?」
「そうか。その可能性はあるな。海に出たんじゃなあ。カエルの次は魚かよ。」
ボクと清滝さんがさんざん話し合ってもさっぱり進展しなかったが、嵯峨さんが加わったことで、少しずつ真相に近づいている気がする。嵯峨さんは何も分からないと謙遜するけど、やっぱり大人の人が加わると違ってくる。
「でも、どうやって元に戻るかですよね」
嵯峨さんはボクの方を向いて言った。
「肝心なのは、そういうことだな」
それからしばらくの間、三人でこの世界からの脱出方法を話し合ってみたが、アイデアは行き詰ってしまった。
「こんなときは気分転換をするのが一番だろ」
嵯峨さんが立ち上がって外を見た。
「俺は街の探索も兼ねて、ドライブに行くけど、お前たちも一緒にどうだ。西の空はまだ曇っているけどな」
「そうですね」
ボクも立ち上がって清滝さんを見たが、彼女は周りをキョロキョロと見渡していた。
「嵯峨さん、見てください。曇っているのは西の方だけじゃないです」
彼女が言うとおり360度、見渡せるすべての方向の空が暗くなっていて、チカチカと稲光が見えていた。

 嵯峨さんはもう一度地図を開けると、周りの景色と見比べながら、赤いボールペンでチェックをはじめた。
「おい、二人とも見てみな。ここが今いる所だろ。あの曇っている境界線のあたりに印を付けていくだろ。そうすると、この放送局を中心に円ができあがる」
「どういうことですか?」
ボクはきれいにできあがった円形を見て言ったが、嵯峨さんは首を振っている。
その円を指でなぞっていた清滝さんが言った。
「台風のようなものじゃないですか?」
「ああ、そうかもしれんな。ちょうど台風の目の中に入っている状態と似ているな。しかし、台風なんか来てたか?」
「いえ、昨日の朝の天気予報では何も言ってませんでしたけど」
ボクが住んでいる地域にはあまり台風はやって来ないが、激しい台風でも、中心の目の中に入ると晴れていると聞いたことがある。そのことを言っているのだろう。確かに周りは曇っていて稲光が見えているが、ボクたちがいる場所は晴れていて、太陽もギラギラと照り付けている。
「この異変は俺たちや動物たちだけじゃなくて、天候にも現れているということだろ。急にこんな所に台風が発生するなんておかしいだろ。なあ、渡月くん」
「そうですね。だいたいフィリピンあたりで発生して日本にやって来ていますからね」
「まあ、この建物は頑丈そうだから大丈夫だろうし、あの曇っているあたりを見ても暴風雨が発生しているようには見えんしな。台風なんか放っておこうぜ。――さあ、ドライブだ」

 ボクたち三人は嵯峨さんが運転する大型の外車で街に出た。嵯峨さんは、静かに渋滞している車の間を上手にすり抜けて、信号も無視しながら飛ばして行く。
「これは俺の車じゃないんだ」
ボクは、安っぽい芳香剤じゃなくて、高そうな香水らしい香りがほんのりと漂う車内を見渡した。シートはゆったりしていて、たぶん本革だ。エンジン音もほとんど聞こえてこない。
「誰のか分からんが、止まっていたのをちょっと借りているだけだ。ガソリンもセルフのスタンドに行って、勝手に入れてきた。まあ、後で返すから心配するな」
確かに、信号や一旦停止を無視して走っているボクたちをとがめるお巡りさんはいないし、誰もいないのだから、自分でどこかにぶつからない限り、交通事故は起きない。
「俺の仕事は見ての通りの泥棒だ」
「えっ?」
ボクと清滝さんは驚いて目を見合わせた。
たぶん冗談だろう。自分から泥棒ですという人はいないと思う。でも、本当かもしれない。今まで本物の泥棒には会ったことはないけど、なんだか嵯峨さんには泥棒の雰囲気がある。あまり変なことを言って気分でも害されたらいけないので、深く追求するのはやめておいた。
清滝さんも、へえ、そうなんですかと感心したような返事をしたきり、何も訊かないで黙っている。
「よし、着いたぞ」
車が到着したのは、大きな丘の上に建つ豪邸だった。
「こんちはー!」
嵯峨さんは車から下りると、躊躇なく大きな門をくぐり、玄関のドアを開けて入って行った。仕方なく、ボクたちも後に続く。
豪華なシャンデリアが下がっているホールを抜けて、長い廊下を歩き、右に曲がったところにある部屋に入った。そこは家族がくつろぐための居間なのだろう。大型テレビの方を向いてソファーが並んでいる。大きな窓からは外が見渡せた。ボクはソファーのクッションを確かめながら訊いた。
「ここは嵯峨さんの知っている家ですか?」
「知らん家だ」
なんだか高そうな壺を見ていた清滝さんも驚いて振り返った。
「いや、冗談だ。見てみな」嵯峨さんは窓の方に歩いて行って、カーテンを開けた。「小さい住宅が密集している所があるだろ。あの中に俺のボロ家があるんだ。あそこからいつもこの家を見上げて、いつかあんなデカイ家に住んでやると思ってたんだ」
見下ろしてみると、確かに長屋のような古い家が並んで建っている地域がある。
「ところがどうだ。今日からここに住もうと思えばできるだろ?」
嵯峨さんの隣に立って、街を見ていた清滝さんが言った。
「そうですね。もう誰もいませんからできますね」
「このデカイ家が全部俺のものだぜ。裏には発電機があるから電気が止まっても大丈夫だ。その辺のスーパーに行ってかっぱらってくれば、食い物にも不自由しない。冷凍食品を食っていれば一生持つだろ。庭には、見てみろ、プールがあるだろ」
楕円形のプールが水をたたえていた。
プールサイドにはテーブルとイスとビーチパラソルまである。
「一生遊んで暮らせるってわけだ。海外旅行は無理だけどな」
ボクは嵯峨さんを見上げて訊いた。
「本気なんですか?」
「冗談だ。いや、最初は本気だったんだ。でもよ、よく考えてみたらつまらん人生になっちまう。ここには金もあるだろう。しかし、何でも手に入るこの世界で金を使う必要はない。高い服や装飾品を身に着けて高級外車を乗り回したところで、見てくれるのは、お前たち二人だけだ。何の自慢にもならんし、誰も褒めてもくれない。俺は今まで何をやってきたのかと思うよ」
ボクたちはせっかくだからと、この豪邸の中の探検をはじめた。
嵯峨さんはマッサージチェアに座って考え事をしていたようだ。
一通りの探検を終えて居間に戻ると、ちょうど嵯峨さんが立ち上がったところだった。
「お前ら、腹が減っただろ。キッチンに来いよ。何か作ってやるから。こう見えても、俺は昔、洋食をやってたんだ。たぶん、いい食材が揃っているだろうから、うまい物が作れると思うぜ。まあ、勝手に食ってしまう分、ちょっとだけ金を置いておけばいいだろ」

 ボクたちは豪邸で遅いランチを取った後、FM放送局に戻り、もう一度、ラジオからの呼びかけをやった。
仲間が多いほど心強いし、いいアイデアも出てくるだろう。嵯峨さんのように駆けつけてくれる人が現れるのを祈った。
そして、夕方になってボクは清滝さんと些細なことでケンカをした。
一人でコンビニに行くと言い出したので、ボクが危ないから一緒に行くと言ったのだが、彼女は一人で行くと言い張って、ケンカになってしまったのだ。大きな声で言い合っていたとき、見かねた嵯峨さんに止められた。
「お前ら、いい加減にしとけよ。三人しかいないんだから仲良くしろ。それに、ケンカが高じてケガでもしたらどうするんだ。転んで腕の骨でも折ったらどうする。病院に行けば道具とか薬はあるだろうけど、誰が手術をするんだ。俺は魚をさばけても、人間はさばけないぜ。いいか、ケガと病気には気をつけるんだ」
「すいません」清滝さんが嵯峨さんに頭を下げた。ボクもあわててあやまる。
「ごめんね」清滝さんはボクにも頭を下げて、屋上に行ってくるからと言ってスタジオの重いドアを押した。
ボクも清滝さんも普段はこんなつまらないことで怒ることはないのだが、この異変が起きている状況下で、お互いが情緒不安定になっていたのかもしれない。嵯峨さんが来てくれて、いろいろな話をしているうちに、かなり精神的には安定してきたのだが、まだこの先はどうなるのかは、まったく分からない。ときどき不安が頭をよぎってくる。
スタジオを出て行く清滝さんの後姿を見ながら、ボクも言い過ぎたと思ってもう一度、ごめんとあやまった。
嵯峨さんはタバコを取り出して、吸いはじめた。目の前のテーブルには地図が広げてある。ときどき、ページをめくりながら、何かつぶやいている。
三人の中で大人は嵯峨さんだけだ。ボクたちが期待をしていることに責任を感じて、何とかこの異常な世界から脱出できないものかと考えてくれているのだろう。話し方や見かけはボクが苦手なタイプだが、嵯峨さんがいなかったら、ボクたちはこの先、もっとケンカが絶えなかったかも知れない。
何本かのタバコを吸い終わったところで、嵯峨さんが振り向いて言った。
「彼女、大丈夫か? ちょっと見てきたらどうだ」

 ボクはエレベーターに乗り、最上階に行くと、階段を上って屋上に出た。
すっかり日が暮れて、街のあちこちに電気がついていた。無人になってもまだ電気の供給はつづいている。電力会社のシステムがどうなっているのか分からないが、いずれ発電所が停止して、この街は闇に包まれるのだろうか。
屋上の大きなアンテナの下、清滝さんはフェンスを両手でつかんで夜空を見上げていた。足元には大きなコンビニの袋が置いてある。屋上に来る前に買って来たものだろう。そして、ボクの足音に気づいて振り返った。彼女が何か言う前に、ボクはもう一度あやまった。
「さっきはごめん。ちょっと苛立ってたから」
「私の方こそ、ごめんなさい。嵯峨さんが言う通り、この世に三人しかいないんだから仲良くしないとダメだね」
「今、何を見ていたの?」
清滝さんは、また空を見上げた。
「お月さん。お月さんで良かったと思って」
そういえば昼間は、太陽があって良かったと言ってたっけ。
「もし空に浮いているのが、太陽と月じゃなくて、地球だったらどうしようかと思って」
この空に青い地球が浮いている?
「ボクらがいるのは地球じゃなくて、どこかの惑星ってこと?」
「そう。ワープしたのかなと思っていたけど、太陽と月が出ている方角からして、やっぱりここは地球だった」
「ここが違う星だったらどうしようと思っていたの?」
「飛行機の操縦はできないから、NASAには行けないし、とりあえず、車と船で種子島宇宙センターに行って、ロケットに乗ってみるかな」
「ロケットの操縦はどうするわけ?」
「ああいうのは自動操縦じゃない? 渡月くん、理系志望でしょ。頼んだよ」
頼んだと言われてもなあ。
確かに数学は好きだけど、ロケットの操縦とはちょっと違う気がする。清滝さんは本気で言っているのか、それとも、さっきのケンカの仲直りの意味も込めて冗談を言っているのか、横から表情を覗き込んだが分からない。
この年代の女の子の感情は複雑だ。
でも、気分が良くなってきたのは確かなようだ。
「あっ、渡月くん、花火やらない?」
清滝さんが足元から大きなコンビニの袋を持ち上げた。

 この屋上で打ち上げ花火をやれば、どこからでも見えるし、静かな街に音が響くだろう。言ってみれば、のろしの代わりだ。コンビニの花火コーナーを見たときに気づいて、売っていた打ち上げ花火を全部買ってきたらしい。
「棚ごと買っちゃった。大人買いってやつ。ホントはお菓子の大人買いの方がよかったんだけどね」
ボクと清滝さんは花火をセットすると、一緒に買ってきた百円ライターで点火をはじめた。
シュルシュルと花火が上がって、夜空に色とりどりの花が開いていく。
もし他に誰かがこの街にいて、ボクのラジオのDJを聴いてくれてなかったとしても、この音を聞いて花火を見ればきっと気づいてくれるだろう。そして、きっとここに駆けつけてくれるに違いない。
どうか、ボクたちのメッセージが届きますように。
そして、一人でも多くの仲間が集まってくれますように。
そう願いながら、ボクたちは花火の打ち上げをつづけた。
「おう、きれいだな」
嵯峨さんが夜空を見上げながら、屋上にやってきた。建物の中まで花火の音は十分に聞こえているらしい。嵯峨さんも加わってボクたち三人はFM局の屋上で、夜遅くまで打ち上げ花火をつづけて、スタジオ横の仮眠室で一夜を過ごした。

 翌朝、大きな地震があった。
ラジオから呼びかけをしていたボクはヘッドホンをはずして、副調整室にいる清滝さんと嵯峨さんを見た。
二人も心配そうに揺れる天井を見上げている。かなり長く揺れている。昨日からしだいに地震が起きる頻度が、増えているような気がする。
とたんに停電が起きた。あわてて腰を浮かして暗くなったスタジオを出ようとしたとき、ブーンという音がして、ふたたび電気がついた。
自動的に発電機が稼働したのだろう。
嵯峨さんがガラスの向こうから、ヘッドホンをはずして立ち上がっているボクに、両手を下にして落ち着けという仕草をしている。
やがて地震の揺れは止まった。
結局、午前中だけでも五回の大きな地震があり、その都度停電が起きた。
嵯峨さんは、テーブルの上に地図を置いて、360度のパノラマスタジオから四方を確認している。
「二人とも見てみろ」
嵯峨さんの緊張気味の言葉に驚いて、ボクたちは地図を覗き込んだ。
地図の上には新しく赤い線が引かれていた。
「これが昨日書いた円だ。この放送局が中心になっている。そして、この円が今の状態だ」
雲って稲光が起きている地点を結んでいくと、きれいな円ができあがる。清滝さんが台風の目じゃないかと言った円だ。
その円が今、二重になっていた。内側の小さな円が今の状態らしい。
「円が小さくなっているのは、どういうわけですか?」清滝さんの声が震えている。
嵯峨さんは地図を閉じて立ち上がった。
「あの曇ってる境界線のあたりを見に行って来る」
「じゃあ、ボクたちも一緒に……」
「いや、ダメだ。危ないかもしれん」
嵯峨さんはボクたちを振り返って言った。
「たぶん、この世界は閉じようとしている」

 嵯峨は勝手に拝借している高級車で、雲って稲光が轟いている境界線までやってきた。
そこは田園地帯だった。車を停めている向こうには、違う世界があるように感じた。暗くて先は見えない。視界は十メートルもないだろう。激しい雨が降っていて、大きな木が傾くくらいの風が吹いている。その中をときどき轟音とともにギザギザの光の線が交差する。
一瞬、まばゆい光が畑の中の畦道を照らした。
一羽の山鳩が死んでいた。
こいつは俺たち三人と一緒に、この世界にやって来たのか?
あの二人はハエを見たと言っていたから、鳩がいてもおかしくはない。
嵯峨はこのまま車で、向こう側に突入しようとした。この向こうに、いつもの世界があるかもしれないと思ったからだ。
しかし、どうしてもアクセルを踏むことができなかった。
得体の知れない怖さがあったからだ。
いくつもの修羅場を乗り越えてきた嵯峨であったが、進むことはできなかった。本能が止めたとしか言いようがない。たぶん、ここに入って行ったら二度と戻れないのだろう。
今まで生活をしていた世界とも、異変が起きているこの世界とも違う、また別の世界が存在している。そして、たぶんそこには“生”という概念はない。
“怖い”と嵯峨は思った。
ここは違う。この先は行ってはいけない場所だ。
嵯峨は雨の飛沫が降り注いでくる中、急いで車をUターンさせた。
そして、帰る途中、地割れにより道路が大きく寸断されているのが見えた。

 ボクと清滝さんは屋上に上がって、嵯峨さんが車で向かっている曇りと晴れの境界線をながめていた。
嵯峨さんは引き返すことに決めたらしい。ケータイから途切れ途切れの声でそう言ってきた。
恐怖を感じるとも言っていた。
あの嵯峨さんが恐ろしいと言うのだから、何か想像もつかないことが起きているのだろう。もしかしたら、あの向こうに行けば、元に戻れるのではと思っていたのだが、望みは絶たれた。
「ねえ、渡月くん。人は死んでしまうとき、今までのことが走馬灯のように蘇って来るって言うじゃない?」
「うん。聞いたとこがあるけど。別に何も蘇ってこないよ」
「じゃあ、よかった。私も何も感じないから。もしかしたら、もう終わりかなと思っていたから」
清滝さんが寂しそうに言う。
「そんなことないよ。きっと帰れるよ。根拠はないけど。でも、過去の記憶が蘇らないってことは、まだ生きられるんじゃない?」
「そうだよね」
「あんまり弱気なのは、清滝さんに似合わないと思うよ。だって、走馬灯ってよく聞くけど何をするもの?」
「うーん、行灯みたいなのがクルクル回るんじゃないのかなあ。そういえば売ってるの見たことないね」
「でしょ。コンビニにも売ってないから、気にしなくてもいいよ。まだまだ大丈夫だよ。嵯峨さんもいるしね」
「苦手なタイプじゃなかったの?」
「そうだけど、いい人だって、だんだん分かってきたから」

 ボクたちは嵯峨さんの提案で寝ぐらを変えることにした。
地震が起きる頻度が増してきた。停電の回数も増えてきた。道路には地割れが起きているという。放送局のビルの壁面には、ヒビが走っているのが見つかった。
そして、この街に砂ぼこりが舞いはじめた。あんなに輝いていた太陽は霞んで見える。
ボクたちの世界が崩壊を始めた。
嵯峨さんは、早くしないと時間がないと言う。
だから、ボクたちが戻れるかもしれないたった一つの希望を信じて、ボクの家で寝泊りすることにした。
活断層のような何らかの地域がある。そこで寝ていたボクたちが地震とともに違う世界に入り込んだ。では、もう一度、その場所で寝ながら地震を待ってみたらどうか?
地震の回数は以前よりも増えている。活断層が移動するとしてもチャンスはあるはずだ。
嵯峨さんがそう言ったのだ。
あの曇った地域には入れない。仲間はこれ以上増えそうにない。ぼんやりと待っていてもこの世界が崩れていくだけだ。
他に方法はなかったし、思いつかなかった。
 嵯峨さんは放送局から借りてきた道路地図を持って、二階にあるボクの妹の部屋に入って行った。
部屋には誰もいないことが分かっているのに、嵯峨さんはドアをノックして、お邪魔するよぉと言ったので、清滝さんと目を合わせて笑ってしまった。若い女の子の部屋だから遠慮をしたのだろう。
二階のもう一つの部屋からは北側が見えるが、南側は妹の部屋からしか見えない。
嵯峨さんはベランダに出ると、だんだん近くに迫って来ている晴れと曇りの境界線を、赤いボールペンで地図上に書き込んでいった。
そして、赤い円ができあがると嵯峨さんの顔はとても険しくなった。
ボクは横から地図を覗き込んで訊いた。
「円がまた小さくなったのですか?」
「それもあるが、もっと不思議なことが起きている。あの局からここまで、北に向かって十キロほど移動しただろ」
確かに放送局とボクの家は十キロほど離れている。嵯峨さんは車を運転して、ボクと清滝さんは自転車に乗って、渋滞している車の合間を抜けながら、この家に帰って来たのだ。
「すると、俺達がいる場所も円の中心の北の方に移動しているはずだろ。ところが、見てみろ。この家が円の中心になっている」
「どういうことですか?」清滝さんが驚いて訊いた。
「この世界は俺たちの存在を感知して、追いかけて来ている」

 ボクの部屋のベッドを退けたちょうどその場所に、三人で並んで、雑魚寝をすることにした。
あの日の夕方、このベッドの上に寝ていて異変が起きた。この真下を活断層に似たものが走っていたらしい。ここで寝ているときに地震が起きると、ふたたびあの街に戻ることができるかもしれない。他に何らかの要因が絡み合っているのかもしれないが、今のところ、三人には分からない。もう一度、活断層がこの下に来てくれることを祈るしかない。
ボクは十年以上この部屋で過ごしてきた。ボクにとってはいつも見慣れた部屋。ここは異次元空間なんかじゃない。間違いなくボクはいつもの街のいつもの家のいつもの部屋にいる。そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
そして、目を覚ますと嵯峨さんがいなくなっていた。

嵯峨さんがいない。
清滝さんの声で目を覚ましたボクは、真っ先に玄関へ行って靴を確認した。
停電が頻繁に起きているため、気を利かせてロウソクでも買いに行ったのではないかと思ったからだ。
しかし、嵯峨さんの靴はあった。玄関の横の窓から見えるガレージには、勝手に拝借しているという外車が止まったままだ。
ボクは清滝さんと家中を捜した。トイレ、風呂場、押入れの中まで――。
「この前と一緒だ」
「えっ、何が?」
「ついこの前も、こうして家の中をお母さんと妹を捜し回ったんだ」
でも、見つからなかった。お母さんも妹も嵯峨さんも見つからない。
意外と律儀な嵯峨さんのことだから、置き手紙でも残してないかと捜してみたが、何も発見できなかった。
ボクと清滝さんは、嵯峨さんが寝ていた布団を見下ろした。枕には頭の形がまだ残っていて、タオルケットは丸まって、横の方に寄っていた。布団の横にははいていたズボンと真っ赤なアロハシャツが、きちんと畳んで置いてあった。
「嵯峨さんだけが戻れたのかも」そう言って清滝さんがボクの顔を見た。
「ボクもそう思う。でも、どうして嵯峨さんだけが戻って行ったのだろう?」
「その活断層が、ちょうど嵯峨さんが寝ている真下を通ったんじゃないかな。私たちが寝ていた所にまで掛からなかったほど、活断層が細かったんじゃない?」
「でも、地震は感じなかったよ」
「私も気づかなかった。いつもより小さかったのかなあ」
嵯峨さんが、ボクたちに何も言わずに出かけたとは思えない。やはり嵯峨さんだけが戻ったのだろう。
確かに、嵯峨さんがいなくなって寂しい気もするが、これはボクたちが戻れる可能性も十分あるということだ。
しかし、だからといって、一日中布団の上でゴロゴロしているわけにもいかず、食料の買出しをするとともに、自転車で街の探索をしてみることにした。
ふたたびボクたちは、仲間を見つけるためにラジオのDJをやり、屋上から花火を上げた。しかし、嵯峨さん以外の人は誰も見つからなかった。
地震の回数が増えてきている。また新たにこちらの世界に来た人がいるかもしれない。希望を捨てず、ポジティブに考えると、ボクたちは急いで外に出た。
隣の山越さんの庭に立っていた大きなヒマワリが頭を垂れて、枯れ始めている。空を舞う砂塵の量も増えてきている。見上げたビルの壁がズルッと崩れて落ちた。
この世界の崩壊が加速している。
ボクたちはいつもよりちょっと離れたコンビニに行ってみた。カウンターの上にメモがセロハンテープで貼り付けてあった。
“これを見た人は連絡をください”
そう書いてあり、ボクのケータイ番号が載っていた。家から自転車で十分もあれば行けるコンビニ九件にすべて寄ってみたが、すべてのカウンターに同じメモが貼ってあった。
嵯峨さんの仕業だ。車に乗って、貼って回ってくれたのだろう。
停電が頻繁に起きているとはいえ、コンビニなら夜中も電気が煌々とついている。もし、突然、この世界に放り込まれた人なら、不安になって明るい場所を目指すだろう。コンビニなら誰かいるかもしれない。今までの世界なら、夜中だって、明け方だって、コンビニには人がいる。
嵯峨さんはそう思って、メモを置いて回ったのだろう。
しかし、ボクのケータイは沈黙を続けたままだった。

 ボクたちは夜になるまで自転車で街を走り回ったが、何の収穫もなく家に帰ってきた。そして、二人で夕飯を食べた後、清滝さんが嵯峨さんの使っていたタオルケットを畳もうとしたとき、何かがヒラッと落ちた。
ボクたちに宛てた手紙だった。こんなところに嵯峨さんの置き手紙が挟まっていたのか。
しかし、よく見るとそれは置手紙ではなく、向こうの世界から転送されてきた手紙だった。

“二人へ。どういうわけか、俺だけが戻って来てしまった。“

地震の揺れを感じて嵯峨さんが目覚めた場所は、やはりボクの部屋の中だったらしい。
しかし、何かが違うと感じた嵯峨さんは、物音がするキッチンに行ってみた。
そこには、ボクの母と妹がいたという。
突然ボクの部屋から人相の悪い(嵯峨さんが自分でそう書いていた)男が下着姿で現れて、パニックになった二人はあわてて110番通報をして、嵯峨さんはやって来た警察官に住居侵入の疑いで署まで連行されたらしい。
取調室で今までの経緯を話したのだが、誰にも相手にされず、途方に暮れていたところ、いつも世話になっている刑事(これも嵯峨さんが書いていた)がやって来て、嵯峨さんのあまりの真剣さに信用してくれたのか、ボクのお母さんと妹に引き合わせてくれたという。
その頃、ボクと清滝さんは行方不明になっていて、警察に捜索願が出されていた。しかし、手がかりはなく、家出する動機もないため、家族も友人たちも困っていたらしい。
何かが分かればと思って、警察は二人を嵯峨さんに会わせたのだが、それでも、あまりにも荒唐無稽な話のため、信用してもらえず、何とか手紙だけはベッドの上に置いてくれることになったという。

“なぜ、俺だけが戻れたのかは分からないが、あの部屋の下には何かがあると思う。こちらでは群発地震が頻繁に起きている。真下に活断層とやらが来るのを待て。チャンスはあるはずだ。今のところ、他に方法は思いつかない。俺もいろいろな所を当たってみる。何かが分かったらまた手紙で知らせるつもりだ。それと、タイムスリップのような現象は起きてない。間違いなくこの場所は日本であり、時は2013年だ。浦島太郎のように、帰って来たら、知らない人ばかりということはない。ただ、二つずれているが、心配することはない。また、いつか会おう。――嵯峨より“

二つずれている? どういうことだろう?
ボクと清滝さんは、嵯峨さんが送ってくれた手紙を何度も読み返したが分からなかった。

ボクは嵯峨さんが寝ていた場所の上に、ピッタリとベッドを移動させた。活断層は意外に短くて幅も細いようだ。もし、もう一度この下を通り、そのときに地震が発生すれば、ボクたちは戻ることができるはずだ。逆に手紙も戻って来ている。嵯峨さんが言う通り、今のところ、これ以外の方法はないし、ボクたちには時間もなかった。
崩壊し始めたビルの埃と突如発生した霧のため、街はしだいに薄暗くなって来ている。ボクたちを囲んでいる円はさらに小さくなり、すぐそばで何度も落雷がある。このところ、地震と停電が繰り返し何度も起きている。あんなに静かだった街は雷鳴に包まれていて、もはや、真っ青な空は雲の隙間から少しだけ覗ける程度になっていた。
そして、夏だというのに温度が下がり始めて、薄ら寒くさえ感じる。
ボクたちの街がしだいに消えていく。
この世界はボクたちを追いかけて、閉じ込めようとしている。
ボクたちをどうしようとしているのか?
包み込んで、葬り去ろうとしているのか?

ベッドの上にいるパジャマ姿の清滝さんがボクを見下ろした。
「大丈夫?」
ボクはベッドの下の狭い空間に潜り込んでいた。しかし、ここは物を置くための空間であって、寝るためのスペースではない。二人が横に並んで寝るよりも、上下に重なって寝た方が活断層に当たったとき、一緒に戻れる可能性が高いと思ったため、窮屈だけど、こうやって二段ベッドのようにして寝ることにしたのだ。
それに、付き合ってもいない同じクラスの女子と、一緒のベッドで寝るのはどうかなと思ったからだ。
清滝さんは、私は気にしないから横に並んで寝てもいいよと言ってくれたのだが、一人だけ戻ってしまったら大変だ。
どういう縁か分からないけど、一緒にこの世界に来てしまった。帰るときも一緒でなければ、残された方はきっと後悔してしまうだろう。
「渡月くん、そこじゃ狭くて寝返りも打てないでしょ」
ボクは顔だけ出して、上から覗き込んでいる清滝さんに言った。
「大丈夫だよ。ボクは誰かさんと違ってスリムだからね」
――バシッ!
枕で顔面をぶん殴られた。
少し鼻血が出た。

 いつも世話になっている刑事の計らいで釈放された嵯峨は、何とか渡月と清滝を助け出そうと、あの異様な世界の痕跡を求めて、街中を車で走り回っていた。
乗っているのは二年前に中古で買った自分の軽自動車だ。勝手に拝借していた高級外車はまだ向こうの世界にあるはずだ。
メモを置いていたすべてのコンビニに行ってみたが、何事もなかったかのように営業をつづけていたし、二人に食事を作ってやった豪邸は、相変わらず偉そうな顔をして、丘の上にそびえ建っていた。
恐怖を感じた世界に通じる晴れと曇りの境界線は、田園地帯の中にある普通の畦道に過ぎなかった。車から下りて草や土を観察してみたが、何も変わったことはなかったし、あのときに見た山鳩の死骸も見つからなかった。
最後に嵯峨はあのFM局に向った。渡月のラジオからの呼びかけがなければ、二人に出会うことはなかったかもしれない。
あのとき吸ったタバコと灰皿、自販機で買ったコーヒー。赤い円を描いた地図。何でもいいから残っていないだろうか。
 やがて放送局が見えてきた。屋上には大きなアンテナが立っていて、太陽の光を浴びてキラキラ光っている。
ハンドルを握りながら屋上を見上げていた嵯峨は思わず目を見張った。
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修理の担当部署が総務部なのかどうか分からないが、あの受付嬢は今ごろあちこちに電話をして、途方に暮れていることだろう。
最上階から屋上へは階段が伸びていた。
――ド、ド、ドーン!
派手な花火の音が通路にまで響いて聞こえてきた。
あのときと同じだ。コンビニで買ってきた花火を上げてやがる。
嵯峨は階段を二段抜きで駆け上がると、重そうな鉄製ドアを力いっぱい押して叫んだ。
「おい、お前ら、何をやって……」
屋上には二人の姿はなく、頬を切るような冷たい風が吹いているだけだった。

ピー、ピー、ピー。
グラリと揺れて目を覚ましたボクは、しばらく夢見心地だったが、聞こえてきた電子レンジの音で完全に覚醒した。
ベッドの上に清滝さんはいなかった。何か作ってくれているのだろうか。
ボクは部屋を出てキッチンに向った。
――寒い。
真夏だというのに、なんだこの寒さは。またこの世界の崩壊が加速したというのか?
キッチンのドアを開けた。お母さんと妹がいた。
妹がボクの方を見て笑った。
「お兄ちゃん、何、その格好は?」
ボクは自分の体を見回した。短パンとランニング。何もおかしくはない。
「今、何月だと思っているの?」お母さんがあきれながら言った。
ボクはそばに置いてあった夕刊を見た。
十二月二十日。
日付が七月十日から十二月二十日に変わっていた。
いつの間にか、夏から秋を過ぎて、冬になっていた。
そうか。嵯峨さんが書いていた、二つずれているというのは、季節のことだったのか。
「ちょっと、お兄ちゃん、シューマイ食べたでしょ!」
「えっ?」お母さんがお皿を覗き込む。「ホントだ。一個減っている。ちょっと、アンタ、いつの間に……」
そうか。この世界はここから始まるのか。
ボクは帰ってきた。
きっと、あのベッドの真下を活断層が通ったんだ。そして、タイミング良く地震が起きた。
「あれっ、良、アンタ、鼻血が出てるよ」母がボクの顔を指差す。
「えっ?」そうだ、清滝さんに枕で殴られたんだ。
清滝さんは? 清滝さんはどうしたんだろう?
ベッドの上にも下にもいなかった。まさか、ボクだけが帰ってきた?
ボクは手の甲で鼻を拭いながら、自分の部屋に向って駆け出した。ひんやりとした廊下の冷気は、真夏の姿に寒すぎる。
後ろから妹の声が聞こえた。
「ほら、お母さん、テレビ見て。放送局の屋上で花火を上げてた人がいたんだって」
「あら、寒いのにバカなことをする人がいるもんだねえ」
FM局の周りをたくさんの消防車が取り囲んでいた。
屋上からは白い煙がたなびいている。
お母さんと妹は不思議そうな顔をして、テレビに見入っていた。

 ボクが部屋に入ったとき、ちょうどケータイが鳴った。
清滝さんからだった。
彼女も帰って来ていた。目が覚めたら自分の部屋だったという。
ボクたちは一緒に出発したのに、到着地点は違っていたようだ。理由は分からない。
とにかく、彼女は無事だということが分かった。ボクも今までどおりのボクで何も変わった事はないと伝えておいた。彼女とは今すぐにでも会って話がしたかったが、もう遅いので、明日会ってゆっくりと話すことにした。
いつの間にか冬休みに入っていたボクたちにはたくさんの時間があった。眩暈がするほどたくさんの宿題もあったのだが。
ボクは部屋の壁に下げてある暖かそうなジャンパーを見つけた。ボクがあの世界に行っている間に、この世界にいたもう一人のボクが買ったものらしい。デザインはボク好みで、サイズは着てみるとピッタリだった。当たり前だ。ボク自身が選んで買ったものだからだ。
他に何か変わっていることはないかと机を開けてみると、冬休み前に行われたらしい英語のテスト用紙が出てきた。
なんと、九十八点! やるじゃん、もう一人のボク!
きっとボクのことだから、友人のみんなに見せびらかしたのだろうなあ。九十点以上なんて取ったことないもんなあ。
「ご飯できたよー!」妹が呼びに来た。そして、ボクの格好を見て言った。「お兄ちゃん、今から出かけるの?」
「えっ? ああ、そうじゃないんだ」
「出かけるなら、ジャンパーに短パン姿はやめた方がいいよ」
「いや、すぐ行くから」ボクはあわててジャンパーを脱いだ。
「じゃあ、急いでね。クリームシチューが冷めちゃうから。あっ、それとお兄ちゃんはシューマイ一個だよ」
「えっ、どうして?」
「さっき、一個つまみ食いしたでしょ!」
妹はドタドタとキッチンに戻って行った。
そして、きっとお母さんに告げ口をするのだろう。
お兄ちゃん、短パンの上にジャンパーを着て、テスト用紙を見ながらニヤニヤしてたよ。相変わらず変な兄貴だねえ。
 きっと清滝さんも、この世界にいなかった間に身に覚えのないことが起きていて、戸惑っている頃だろう。ボクたちがいなかった間に、もう一人のボクたちがこの世界でがんばってくれていた。
そして、ボクたちがいなくなったとき、懸命に探してくれていたらしい家族と友人たちがいる。しかし、お母さんも妹もそのことを何も言ってこない。
この世界もスリップしていたのかもしれない。
あの異様な世界と、このいつもの世界と、ボクたちが消えた世界。
三つの世界が複雑に交錯していた。

ボクにもこの世界を去る日がいつか来る。
そのとき、この空白の六ヶ月間の記憶は走馬灯のように蘇ってくるのだろうか。
蘇ってきてほしいと思う。ボクたち三人が途方に暮れていたとき、もう一人のボクは何を思っていたのだろうか、とても知りたいと思う。でも、きっとボクのことだから、いつものように、のほほんと生きていたのだろうな。

 二歳になる一人息子の夏王が、プラスチックのフォークにシューマイを刺してかぶりついている。
それを微笑ましく見ながら、妻の涼が私に言った。
「明日の朝起きたとき、またあの世界になっていたらどうする?」
私はビールが入ったコップをもてあそびながら答えた。
「うーん。がんばって三人で生きて行くか。でも三人じゃ寂しいから、またDJと打ち上げ花火をやって仲間を集めるかな」
「じゃあ、また、キューサイン出してあげるね、ミスターDJ!――でも、嵯峨さん、来るかなあ」
「来るよ、きっと!」
「あのとき、嵯峨さんは四十歳くらいだったでしょ。だから、今は五十歳くらいになっているよね」
「五十歳になっていても、アロハを着て現れそうだな」
「真っ赤なアロハを着て、おう、お前ら久しぶりだな、なんてね」
「お前ら腹減っているだろ。何か作ってやるよ、なんてな」
そう言って、夫婦で笑った。
夏王も訳が分からないまま、こちらを見て笑った。
シューマイからグリーンピースがコロリと落ちた。
                           (完)
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