桜咲く恋を教えて

篠宮華

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なれそめ

なれそめ①

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「来栖です。お祝い、されに来ました」

 インターホンに向かって、息を切らせながら言うと、少ししてから小さく扉が開いた。その人は少し目を細めてから、扉を大きく開け、にっこり笑って「どうぞ」と私を中に入るように促した。
 「鍵はしめてね」と言いながら、奥へすたすたと進んでいく。初めて訪れたその部屋からは、目の前の公園にある桜がよく見えた。窓は換気のためか半分開いていて、そこからカーテンが控えめに揺れている。
 1LDKだと言っていたその部屋は結構広くて、壁一面が大きな本棚になっていた。大きな地震が来たら、絶対に危険だと思うような量の本が収納されたそれを見上げて、感嘆の溜め息をつく。
 ローテーブルには、よくわからないメモやノートパソコンが無造作に置かれていた。

「久しぶりだね。何か飲む?」
「…先生が好きなやつがいいです」
「俺が好きなやつ?」
「ブラックの珈琲ですよね」

 私は肩にかけていた鞄を床に置きながら、「え、ブラックでいいの?」と心配するその人に、紺色のカーディガンの袖を少し引っ張りながら大きく頷いて見せた。

「この格好も、今日が最後です」
「あ、そっか。今日、卒業式だったんだよね。おめでとう」

 膝より少し短いプリーツスカート。少し大きいサイズのカーディガンに、校章のついたブレザー。卒業したらもう着ることはない。
 しかも、家庭教師として勉強を見てもらっていたときはいつも私服だったから、すごくレアなはず。だから、あえて着替えずにこの格好のまま来た。ちょっと邪な気持ちがあったのに、意外にさらっと返されて拍子抜けする。
 「適当に座ってて」と言われて、ラグに座って周りをきょろきょろと見回す。部屋の壁には本以外にも、以前、着ているのを見たことがあるジャケットがかけられていた。アースカラーの家具で整えられた部屋は、がちゃがちゃしていなくて、先生らしいし、好きだなあと思う。
 キッチンからコーヒーメーカーの静かな音が聞こえて、空気を吸い込む。この匂いも好きだ。

「いい匂い」
「甘党の唯ちゃんがブラックなんて、本当に飲めるの?」
「飲みます…飲むの初めてですけど」

 珈琲の香りが漂うキッチンから、「飲んだことないのか」と小さく笑う声が聞こえた。
 こちらに戻ってくると、その人は私の隣に座りながら、ローテーブルに湯気を立てている紺色と緑色のマグカップを置いた。ソファの背凭れにかかっていたブランケットをとってさりげなく私の膝にかけてくれる。

「来栖教授は今日も学会だよね。会えるのは夜?」
「いえ。今日は夜遅くなるみたいので、明日かな。でも、父が来てくれました。会ったの久しぶりで一瞬誰だか分からなかったけど」

 大学受験を控えて、朝から晩まで予備校の自習室に入り浸りだった私と、こちらも朝から晩まで研究に忙し過ぎる母と、そもそも海外で仕事をしている父とでは、なかなか顔を合わせることが少ない。父に至っては、今日の便で再び生活拠点へ発ってしまった。友達には、「放任で羨ましい」と言われることもあるけれど、そうは思っていない。多忙な両親は、しかし、それぞれが私のことをいつも気にかけてくれていると思っている。
 湯気を吹き冷ましながら、私よりも先に大きなマグカップに口を付けたその人は「お二人ともお忙しいけど、唯ちゃんのことはとっても大切に思ってるからね」と独り言のように言うから、ちょっと心が温かくなる。
 高い背に、意外とごつごつした手。切れ長の瞳。一見ちょっと冷たそうに見えるし、声も低めだから、はじめはちょっと緊張したけれど、実際はすごーく優しい。髪は最後にあった日と比べると、少し伸びていた。
 髪が伸びたことに気付くくらいは会っていなかった。——でも、やっぱり気持ちは変わらなかった。

「先生もお仕事中でしたよね。変なタイミングでお邪魔してごめんなさい」
「いや、まだ締め切りまであるから。全然大丈夫」

 葉山航《はやまわたる》。
 この人——先生とは、大学で教鞭をとっている母に忘れ物を届けに行ったときに知り合った。偶然出会った彼は、母の研修室のOBで、5つ上。今はフリーランスで翻訳の仕事を中心にしているとのことだった。
 受験生にも関わらず成績が伸び悩んでいた私は、彼に助言を乞い、特に苦手だった英語でめでたく大幅な偏差値アップを果たした。それが縁で、現役時代に全国模試で偏差値上位をキープし続けていたという彼に、家庭教師としてアルバイトをしてもらうことになったのが去年。
 とても優しくて、教え方が上手で、爽やかで、時には叱咤してくれる面倒見のいい気さくなお兄さん。
 好意を抱くのに、時間はかからなかった。
 しかし、受験生なのに恋愛にうつつを抜かしているなんてばれたら、きっと引かれてしまう。でも、一緒にいたら絶対に気付かれてしまう。
 大好きだから、嫌われたくない。一緒にいたいけど、そうすると成績を上げるという本来の目的は達成できない。ボランティアで勉強を教えてもらっているわけではなかったから、私は結果を出さなくてはいけないのに。でも、集中できない。
 自分自身の中に膨れ上がった思いの大きさが怖くなってきて、私は逃げた。
 「あとは自分で勉強する。絶対に受かる」と大口を叩いて、予備校に通うことにしたのだ。母は「唯が自分で決めたことなら好きなようにしなさい」と鷹揚に笑っていたけれど。

『突然ですが、来週から予備校に通うことにしました。先生のおかげで勉強の仕方がわかりました。今までたくさん相談にのっていただいて、ありがとうございました。』

 LINEで先生にそう連絡をした後に返ってきた励ましのメッセージは数えきれないくらい読んだ。勉強が煮詰まるとそのメッセージを読んでモチベーションを保った。受験日間際はスクショした画面を待ち受けにしていた。
 でも、それ以降先生からの連絡は一度もなかった。お別れの挨拶もなしに、急に契約を解除されていい気はしないだろう。
 後戻りすることはできなかった。とはいえ、そんなこんなで無事に大学受験に合格した私に、ある時 母が言った。

『そういえばこの間、葉山くんが研究室に来たわよ』
『…先生が?』
『うん。唯にも会いたがってたわー。大学合格したって言ったら、ぜひお祝いしたいって。お世話になったんだし、会いに行ってみれば?彼の家、うちから結構近いから。伝えておいてあげるわよ』



*  *  *



 砂糖もミルクも入っていない苦い珈琲を一生懸命飲んでいると、隣で先生が「無理しなくていいよ」と笑う。でも、これを飲み切ると決めてここへ来た。以前先生が「珈琲はブラックに限る」「ちゃんと自分で淹れる」と言っていたから。飲み切ったら、ちゃんと自分の気持ちを伝えよう、と。
 でも、久しぶりに会うのもあって、なかなか会話が続かない。「音楽でもかける?」と尋ねられて、こくこくと何度も頷いた。
 勉強を教えてもらっているときには沈黙なんてよくあることだったのに、何だか今はものすごく緊張していた。もしかして先生も同じかなと思いながらも、そんなわけないとその考えを頭から追い払う。部屋に静かな洋楽が流れ始めた。
 すると、先生は開いたままだったノートパソコンを自分の方へ引き寄せる。「保存しておかなきゃ」と言うので、画面を覗き込むと、書きかけのテキストが表示されていた。

「これ、今翻訳してるやつですか?」
「うん、小説の翻訳」

 お仕事の資料だから、あまり見ない方がいいかと思っていたら、にやっと笑った先生は「読める?」と試すように言う。思わずちょっと後退りそうになったけれど、先生のおかげで英語は得意科目になった。意を決して英文に目を通す。
 一見難しそうだったけれど、使われている英単語には知っているものも多く、思ったよりわかりやすい文章だった。

「…んー…なんか、魔法とか使う感じの、ファンタジーみたいな…?」
「おー、これが読めるか。すごいな、大正解」

 先生は心底感心したように言って、えらいえらい、と何気なく頭を撫でてくる。でもこちらとしては、触れられたところから湯気が出るのではないかと思うほどドキドキしている。出会ったばかりの頃は流していたような触れ方だったけれど、好きだと自覚してからは意識的に避けていた。ずるい。顔が熱くなるのが自分でも分かって俯く。
 すると、隣で先生が静かに話し出した。

「唯ちゃんから、『今までありがとうございました』って連絡もらったとき、実はどうしても訳がうまくいかないところがあって」
「お仕事の?」
「うん、小説でね…親しい友人が急に遠くに行ってしまったっていう場面。連絡をとれないわけでもない、一生会えないわけでもない、でも、大きな喪失感が消えないっていう文章だった」

 マグカップを少し傾けながら「俺はそれがどうもしっくりこなくて」と苦笑する先生の話を、ふむふむと頷きながら聞く。

「それで思ったんだ。もしかして、親しい友人じゃなかったんじゃないかって」

 気付くといつの間にか、珈琲を半分くらい飲み終わっていた。
 はじめから飲み切ると決めていたけれど、よく考えたら、これを飲み切ってしまったら思いを伝えることになる。そして、伝えたからには返事が返ってくるわけで。心なしかそわそわしてくる。

「明確に書かれてはいなかったけど、本当はそれ以上の思いがあったんだろうって思った」
「それ以上の思い…」
「‘親しい友人’じゃなくて、自分が気付いていなかっただけで、好きだったんだろうなって。そうしたら、そこからの訳がすごくスムーズにいったんだ」
「それは、よかった…です」

 先生の口から発された‘好き’という言葉にちょっとドキッとしつつよくわからずにいると、ゆっくり横から手が伸びてきて、マグカップがそっと奪われた。それをされるがまま見ていると、先生が、はぁっと大きく息を吐いた。

「ごめん、まどろっこしい言い方だったな」
「まどろっこしい?」
「俺、唯ちゃんのことが、好きなんだ」

—私のことが、好き?
 一瞬、何を言われているかわからなくて、今日初めて、その顔を正面からまじまじと見つめる。窓から風が吹き込んで、カーテンがひらっと舞い上がったのが横目で見えた。

「好き…って言うのは、その…それこそ、親しい…生徒ってこと、じゃなくて?」
「違う」
「え、いや、あの…」
「唯ちゃんと会わなくなって、なんかこう、大事なものを失ったような感覚になって。毎日気付くと君のことを考えてぼーっとしてしまっていた」
「それなら、連絡くれたらよかったのに…」
「いや、受験生の君が予備校で頑張るって言ってるところに連絡するのもよくないと思ったし、何より高校生だったし。そこはさすがに大人として我慢した」

 ぐしゃぐしゃと頭を掻きながら「家庭教師頼まれたのに手出すなんて、来栖教授にも申し訳ないし。正直こう…信用を失うなと思って。人間関係的にも、社会的にも、いろんな意味で」と苦笑する顔はちょっと気まずそうで。
 思わず目の前のその人の手首を掴んでしまう。

「そっ…、わ、私、毎日先生からのLINEを見てやる気出してました!だんだんアプリ開くのすら面倒になって、最後は先生からのLINEをスクショして、待ち受けにしてたくらい、ほんとに今日まで、先生に、支えてもらって…ていうか、我慢、しなくていいです!もう、私卒業したし!!」

 自分が何やら興奮しているということしかわからない。だから口をついて出る言葉は、言った直後に、余計なこと言わなきゃよかった!と思ってしまうようなことばかりだ。でも、伝えたくて。

「だって、私も、先生のこと、めちゃくちゃ、大っ好きですから!!」

 もし音声の演出が出来るなら多分ここはエコーがかかるだろうと思うくらい、自分の声が妙に響いて聞こえた。

「……え、本当に言ってる…?」
「本当…ですけど……」

 沈黙。
 そして、空気を読んでいるのか読んでいないのか、プレイリストの再生が終わり、このタイミングで、BGMも途切れる。先生は、目元を掌で覆って「…冗談だと思ってた」と天を仰いだ。
 これまで見てきた先生は、穏やかで、冷静で。いつも理路整然と論理的に解説をしてくれたのに、なんだか今はそうではないようだ。
——でも、そうであってほしい。
 逆に少し冷静になってきた私は、顔がにやけそうになるのを止められなくなって、ローテーブルに置かれていたマグカップを手に取り、残っていた珈琲を一気に飲み干した。

「先生、見てください!全部飲みました!」
「あ、うん……ていうか、ちょっと待って。気持ちが追い付かない」

 明らかに戸惑っている様子だったから、ちょっと心配になって先生の顔を覗き込んだ。すると。

「…先生、なんか照れてます?」
「………こら、大人をからかわない」

 否定されなかったことにいよいよ顔がにまにまするのが止められなくなった私は、先生の方へ顔を近付けて言う。

「からかってなんかないですよ」
「………むしろ、なんで唯ちゃんはそんな平気なの」
「平気じゃないです。平気なわけないじゃないですか!」
——それ以上に嬉しくて、目の前のあなたが愛おしいんです。
 でも、それを伝えるのはさすがに恥ずかしくて、えへへと笑うと、頭を撫でられて、そのまま引き寄せられた。背中に手がまわり、そっと抱き締められる。
——うわ、あったかい。
 そんな風に触れ合えるなんて、まるで夢のようで。
 模試の点数がよくなくて落ち込んだときのこと、そんなときも先生からのLINEを見て気合いを入れ直したことを思い出す。何だか涙腺が緩んできて、思わず鼻を啜ると、先生は弾かれたように体を離した。

「ごめん、嫌だった?」
「違います~…嬉しいんです…」
「あ、なんだ。焦った…」

 先生は、なだめるように背中をとんとんしながら、ティッシュ箱を目の前に差し出す。何枚かもらって、目元を押さえながら確認する。

「私、先生と両想いってことですか?」
「うん…いや、都合よすぎて自分でも信じられないけど、どうやらそうみたいだ」

 名前を呼ばれて顔を上げると、先生はちゃんと私と目線を合わせてから言う。

「俺と、付き合ってくれますか?」
「…はい!」

 先生は眩しいものでも見るように私を眺めながら、安心したように笑った。


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