【完結】「少年」呼びのお姉さんと、夜の公園

夏灯みかん

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「少年」呼びのお姉さんと、夜の公園

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 友達が送ってきた猪の親子が夜明けの住宅街を疾走するショート動画を再生しながら、俺は「猪って足速いんだな」と見たまんまのコメントをつけて、少し考えてから、「足速いんだなw」と最後に草を生やした。

 猪の走る速度は速い。素早い母猪の後を小さいウリ坊たちがてててててと頑張って走って行く様は面白いとは思う。けど、このあたりだって山から近い住宅街だ。明け方に猪が出てきて人やら車にぶつかってきたら、事故になってしまう。――そんなことを考えていたら、返信に15分を要してしまった。

 時計を見ると夜の22時。俺一人だけのアパートでは時計の針の秒針の音さえよく響いていた。俺の家には俺と母さんしかいない。父さんは4年前に事故で死んだ。救急病棟勤務の看護師の母さんは今日も夜勤だ。誰かの命がなくならないように、今も走っているのだろうか。

机の上に視線を戻すと、上に参考書、下にノート。ノートは白紙だ。高校2年。受験を考えるなら、そろそろ勉強も本格的に頑張らなくてはいけない。けれど、やる気が出ない。勉強をすると、自分が頭が悪いのを実感するので、やりたくない。数学なんか、特に何を言っているのかよくわからない。XとYまでは理解できる。虚数ってなんだ。実際にない数って……なんだ。

 スマホを開くと、友達からも「塾のやる気が出ない」という連絡が来ていた。「俺も」と送るとさっきの動画を送ってくれた。けどあいつは塾で頑張って勉強しているから偉い。俺は塾にも行っていない。こんなにやる気がないのに、金を出してもらって行くのが悪い気がしたからだ。

 立ち上がって窓を開けると、夜風が入ってきた。少し冷たくて、気持ちがいい。
 外に出たくなった。俺はスウェットの上着を羽織って、誰もいない玄関を静かに出た。

 歩道の街灯が、間隔をあけて並んでいる。
 コンビニの看板だけが、眠らないみたいに光ってたけれど、その灯りは眩しすぎて、俺は住宅街の暗がりの方へ足を向けた。
 電気がついている家もあれば、消えている家もある。
 ついていない家の住人はまだ仕事なのか、もう寝ているのか。
 そんなことを考えながら、ふらふらと歩いていると、小さい公園にたどりついた。
 公園の隅の自動販売機のぼんやりとした灯りの中の「あったか~い」の赤い表示に目が向く。そういえば何だか身体が冷えてきた。一息ついて甘いものでも飲みたいな。

 俺はスマホを出すと、ホットココアのボタンを押して、スマホをかざした。

「……?」

 けれど、ガタン!と飲み物の出てくる気配がない。
 スマホを自販機のいろんなところにぺたぺたしてみたが、駄目だった。

 その時、後ろから、呼びかけられた。

「しょ――少年」

 少年。聞きなれない呼びかけに振り返ると、女の人が、俺の背後に立っていた。
 長い明るい茶色の髪が外灯の光をかすめる。
右手にチューハイ缶、左手にコンビニおにぎり。
そのアンバランスさが絵になっていて、俺は目を見開いた。

「その自販機は、現金専用だよ」

彼女は真剣な眼差しで、そうつぶやいた。
 
「少年」呼びする、気だるそうな、酒飲みのお姉さん……。
 俺は漫画から飛び出してきたようなお姉さんの姿に、何度か瞬きをすると、はっとして自販機を見た。『現金専用』と注意書きが貼ってあり、どこにもスマホをかざす場所がない。

「あ、そうなんですね……。気づかなかったです」

 さっきまでスマホで自販機をぺたぺたしてたのを思い出し、顔が赤くなった。
 すごく間抜けな様子だっただろう。
 それから、ぼそっとつぶやいた。

「どうしよ。現金ないや」

 スマホと鍵だけポケットに入れて出てきたので、現金はなかった。

「今時だね」

 お姉さんは笑うと、俺に聞いた。

「――1本なら、私が買ってあげるよ」

「えっ、それは、さすがに、いいですよ」

 そう言うと、お姉さんはチューハイの缶を持ち上げて笑った。
酔ってるのかなと思ったけど、目はまっすぐで、声は穏やかだった。

「そう? 私もちょうど飲み終わって、コーヒー飲もうかなって思ってたところなんだけど」

 そう言って、お姉さんはチューハイの缶を斜めがけのショルダーバッグの中から出したコンビニのビニール袋に入れると、財布を出し、自販機に千円札を入れた。
 自販機の調子が悪いのか、入れた千円札が認識されず吐き出される。
 お姉さんはむっとした顔をすると、数回「えい」「えい」とつぶやきながら千円札を自販機に食わせた。ようやく自販機がお札を飲み込んでくれると、お姉さんはひと仕事終えたように額を拳で拭いて、「やった」とつぶやいた。
 さっきまでの格好つけたような様子とのギャップが微笑ましく、俺は思わず噴き出した。

「……」

 お姉さんが若干ショックを受けたような様子で俺を見つめている。

「すいません……」

 慌てて謝ると、お姉さんは咳払いして、また少し格好つけたように言った。

「少年、何か飲みたいものはない?」

 少しの沈黙。断れない空気を感じ俺はココアを指さした。

「じゃ、じゃあ、ココア……」

 お姉さんは「ココア」と復唱して、笑った。

「何ですか……」

 そう言ってお姉さんをジト目で見ると、彼女は笑った。

「笑ってごめんね。ココアって懐かしい響き。私もココアにしようかな」

 そう言って、ココアのボタンを2回押す。ガシャン!ガシャン!という排出音が夜の小さな公園に響いて、2本のココアが自販機から出てきた。

「ほら、少年」

 お姉さんはその1本を俺に差し出した。

「ありがとうございます」

 そう言って受け取ると、お姉さんが先にプルタブを開けた。
 ほかほかとした湯気が外灯に照らされる。
 俺も缶を開けた。1口飲むと、糖分と温かさが身体に染みわたって生き返ったような気がした。

 お姉さんは俺がココアを飲んだのを見ると、にっこり満足そうに笑って、公園の隅のベンチへと戻って行った。この公園にはベンチは一カ所しかない。俺は会釈して、ココアをまた一口飲んだ。熱々なのでゆっくり飲むしかない。顔を上げると、お姉さんがこっちを見ていた。目が合って、お互いに無言で見つめ合うような形になってしまった。

「……座る?」

 しばらくの沈黙のあと、お姉さんがそう俺に言ってベンチの隅に移動した。

「……ありがとうございます」

 そう言って頭を軽く下げ、ベンチの反対側の隅に座った。
 ココアを数口。夜風がお姉さんと俺の間を抜けていく。

「はっくしょん!」

 お姉さんが思いのほか大きいくしゃみをしたので、俺はびくっとして彼女を見た。

「――すっかり、冬だね」

 お姉さんは鼻から手を離すと、照れたように笑ってジャケットのボタンを留める。
 暗闇にお姉さんの着ている白いシャツが浮いて見えた。
 仕事帰りのような雰囲気だった。

「仕事帰りとかですか」

 ふと思い立って聞いた。こんな時間まで大変そうだ。
 お姉さんは深いため息を吐いて、つぶやいた。

「――いったん、家には帰ったのね。だけど、冷蔵庫がからっぽで、コンビニにご飯を買いに行ったの」

「公園で夕食ですか」

 思わずそう言ってから、口を押さえた。失礼だったかもしれない。
 お姉さんはココアをお酒のように飲んで、力なく微笑んだ。 

「家までね、我慢できなくて。お腹が空いちゃって……」

「お疲れ様です……」

「ああ、でもココアの甘さが沁みるよ……。今日はココアで正解だぁ。ありがとう、少年」

 お姉さんは微笑むと俺に聞いた。

「少年は――高校生?」

「……高2です」

「こんな時間にどうしたの? 散歩?」

「家にいても、やる気が出なくて……」

 するっと言葉が出てきた。こんな初対面の人に、自分の気持ちを話すなんていつもならあり得ないことだったけど。言葉がすらすら出てくるのは、全く知らない人だからか、それとも夜の静けさのせいか。俺は独り言のように言葉を続けた。

「来年受験だし……勉強とかしなきゃいけないのわかってるんですけど……家にいてもスマホ見たり、ゲームしたり、そんなことしてばっかりで……」

「こんな遅くにふらふらしてたら、保護者の方心配しない?」

「俺の家、母さんしかいないし……、母さん、看護師で夜勤だから家にいないんですよ」

「夜勤……大変そうだね」

「そうなんですよね。――それなのに俺、こんなふらふらしてていいのかなって感じですよね。けど、やる気が、しないんですよ」

 俺は暗闇を見つめた。お姉さんも同じ方向を見つめた。
 しばらくの沈黙のあと、お姉さんがつぶやいた。

「……やる気って、どこにあるんだろうね」

「――どこに、あるんでしょうね」

「私もね、今日こそは自炊しようって毎日思うんだけどね。やる気がしないの」

「疲れてるんじゃないですか。お仕事で」

「疲れてはいるけどね。……でも、自炊できてる人もいるじゃない?」

 そうなんだろうか。仕事帰りの会社員らしき人たちが駅前の定食屋で定食を食べているのをよく見かける。

「――料理とか、好きなんですか?」

「……あんまり、好きじゃない」

 お姉さんは悲しそうに首を振った。

「じゃあ、コンビニでいいんじゃないですか」

「そうかな……。でもね、『ちゃんと』したいの」

 俺はうなずいた。それは、わかる。
 他の人もやってないからというのとはまた違う。
 自分がちゃんとしたいけど、できないのがストレスたまるんだよな。

「『ちゃんと』したいっていうのは、わかります。俺もちゃんとしたいんですけどね……」

「少年は勉強好きなの?」

「――好きじゃないですね。俺、頭あんまりよくないんで」

「そうなの? 何だか、真面目そうだし……成績良さそうな雰囲気あるけど」

 苦笑した。そう、俺は『真面目そう』とよく言われる。
 『真面目そう』というのは、非行に走ったりせず、毎日学校に行き、教科書を開き、部活をし、特に問題ない学校生活を送れてそうということだ。
 実際、特に問題なく毎日を過ごせているとは思う。
 大人しく、無難に波風を立てずに、飯を食べて学校に行き、帰宅しを繰り返していれば、問題なく毎日は過ぎていく。

「暗記はできるんですけどね。数学とか、考える系は駄目ですね。時間かけても、わかんなくて……」

「数学は私も苦手だったな……」

 お姉さんはつぶやいてから、俺を見つめた。

「でも、暗記ができるのは、すごくない? 私は暗記も苦手だったよ。世界史とか?」

「俺、日本史です」

「日本史派かあ。漢字が多くて……覚えるの大変だよね……。私、世界史派……」

「世界史派ですか。――結構面白いですけどね。日本史。戦国時代とか」

 俺はお姉さんを見つめた。20代中ごろくらいだろうか。
 社会人らしき人と、科目の話をするのはなんだか変な感じだ。

「そうなんだ。好きな科目があるのはすごいね」

「お姉さんは、好きな科目なかったんですか?」

「私? んー……、文化祭とか……?」

「――科目……ではないですかね……」

「そうだね。学校行事か」

 俺は感心してうなずいた。

「すごいですね。俺、行事系、苦手です」

 わいわいしたお祭り気分の空気に馴染めず、いつも端役の役割をこなして、なんとか乗り切っている。今年の出し物は焼きそば屋だったが、調理班で調理室に引き籠り、ひたすら野菜を切って乗り切った。

「そう? お店やったり楽しかったなあ。教室の装飾したりとか……」

 お姉さんはココアを飲み切るように飲んでから、時計を見た。

「23時だ。少年、23時過ぎると深夜徘徊で補導されるよ。条例で」
 
「そうなんですか? よく知ってますね?」

「昔、調べたから」

「――何年前ですか」

 お姉さんは頬を膨らませた。

「まだそんなにたってないよ」

 お姉さんは立ち上がる。

「私も帰らなきゃ。明日また仕事だし」

「まだ水曜日ですもんね」

「そう。あと少しで週末だ。頑張ろうね、少年」

 お姉さんは俺にぴらぴらと手を振った。
 俺も立ち上がると会釈をして、公園を背に歩き出した。

 誰かと話したからか、気持ちが少し軽くなった。
 何だか大人は何でもできるイメージがあったけど、少し抜けたお姉さんは、俺の延長線上にいるような人だなと思って、少し、安心感を感じた。
 誰もいない家に帰ると、電気をつけて、日本史の参考書を取り出した。
 数学よりはやる気が出て、しばらく進めてからベッドに入った。


 
 それから、俺は母さんが夜勤をしている平日、水・金あたりで週に2回程度、その夜の公園に行って、お姉さんと話すようになった。お姉さんは、俺が22時ごろ公園に行くと、いつもベンチに腰掛けて缶チューハイを飲みながら、コンビニのおにぎりを食べている。

「こんばんは、少年」

俺を見つけると、そんな風に手を挙げてくれる。
俺は頭を軽く下げて、それから自販機でココアを買って、ベンチに座る。

そうするとお姉さんもココアを買ってきて、並んで飲むのが習慣になった。

お姉さんは俺の名前を聞かず、「少年」と呼んだ。
俺もお姉さんの名前は聞かず、「お姉さん」と呼んだ。

それは俺にとって、自分が匿名の存在になったようで、妙に居心地がよかった。
クラスメイトや親にも話さないような愚痴のようなものも、気づくとぽろぽろと口から出てきた。匿名の掲示板に書き込むような、そんな感覚だったのかもしれない。名前を置いてくるだけで、人っていうのは少し軽くなるんだなと思った。

「俺、本当、何にもやる気がしないんですよ」

「高校生なのに」

「ほんとに。帰宅部だし、バイトもしてないし、勉強もしてないし」

「家で何やってるの?」

「動画見たり……ゲーム……とか……」

 俺はため息を吐いた。ココアの湯気に、白い息が混ざる。

「ほんと、時間を無駄にしてますよね」

「動画もゲームも、楽しいならいいと思うけど」

「――楽しく、ないんです」

「楽しくないの?」

 俺はうつむいた。

「周りのやつが面白いって言うからやってるだけで……、なんか、俺って空っぽなんですよね」

 そう言うと、お姉さんは首を傾げた。

「――たくさん悩んでて、ぜんぜん『からっぽ』なんかじゃ、ないんじゃない?」

 それから「ふふふ」と笑った。

「悩めるうちは、悩んでいいんだよ」

 赤いリップが塗られた微笑む口元を見つめて、俺は顔が赤くなった。
 『からっぽ』じゃないと言う言葉が嬉しかった。

「お姉さんは、仕事何してるんですか?」

「私は、お菓子の会社で――営業、かな」

「営業……」

「そう。小売店――スーパーとかを回って、売り場の確認とかする感じ」

 俺は「はあ」とうなずいた。
 なんとなく仕事内容をイメージできるような、できないような。

「何でその仕事にしたんですか?」

「うーん……、私お菓子売り場ってもともと好きで……、そういうの作ってる会社で働きたかったからかなあ」

 お姉さんは笑った。

「就活の時以来だ。志望理由答えるのなんて」

「お姉さんは大学……?」

「うん。大学は東京だったんだけど、配属されたのはこっちで、もう3年……」
 
 お姉さんはココアを1口飲んでため息を吐いた。

「私もやる気しなくて……でもね」

 お姉さんは顔を上げて、夜空を見上げた。髪の毛が風になびいて、いい香りがした。

「最近、週に何回かは自炊してるのよ。少年がいるかなって日以外はちゃんと家で食べようって思って」

「あ、それ俺もあります。お姉さんがいるかなって日以外は、ふらふらしないで勉強してるんですよ、家で」

 俺はうなずいた。
 夜にふらふらするのはお姉さんに会う時だけと決めたら、夜家で勉強できるようになった。

「メリハリが大事なんだよね、きっと」

 お姉さんはそう言うと、缶を持ち上げた。

「少年も私も、頑張ってる!」

 俺はお姉さんの缶と乾杯して、ココアを1口飲むと、笑った。



 ある日、俺は昼のお姉さんに会った。

 学校帰り、母親から『お米がもうないから買って来て』と連絡があった。
 俺は家の近くのスーパーに行くと、米を探した。
 売り場がわからず、店内をぐるぐるしていると、男の叱責するような苛立った声が聞こえた。

「新商品、全然出ないね。もうちょっと考えてよ、次の提案」

 スーツ姿の俺の父親くらいの年の男の人が女の人を叱責していた。
 雰囲気的にこのスーパーの店長だろうか。
 女の人は、深く頭を下げていて、一本に縛った茶色い髪が肩から前に下がっていた。

「すいません、これからキャンペーンも始まりますので、少し動くと思います」

 冷静に対応するその声に俺は聞き覚えがあった。
 ――お姉さんだ。

 俺は足を止め、女性を見つめた。
 彼女は顔を上げた。――確かに、お姉さんだった。
 お姉さんは夜の公園の気の抜けた感じではなく、きりっとした仕事中の姿だった。
 髪は一つできっちり縛って、背筋をぴんと伸ばしている。
 瞳も真剣だった。
 店長(たぶん)のおじさんは深いため息を吐いた。
 
「そもそもさあ、キャンペーンしなきゃ売れないのがおかしいんじゃない? なんかさあ『キムチ味』とか『ワサビ味』とか変な味ばっか出してるけど、それ売れると思って作ってんの?」

 お姉さんはまた頭を下げて、落ち着いた声で言った。

「貴重なご意見有難うございます。商品開発の担当にも、現場のご意見として伝えさせていただきます」

 店長の深いため息。声がもっとトゲトゲしくなる。

「毎回そんなこと言ってるけど、本当に伝わってんの? 口じゃなんとも言えるけどさ、売り場のことなんて考えてないんじゃないの?」

 きつい口調に、店内にいた客の視線が店長に集まった。
 店長は咳払いすると、吐き捨てるように言った。

「――とにかく、在庫どうにかしてよ」

 お姉さんは頭を下げると、入り口の方へと向かって行った。
 俺はなんとなく、その後ろを追った。
 お姉さんは入り口を出ると、スーパー裏の職員用の駐車場っぽいところに向かって、壁際に寄りかかってうつむいた。唇を噛んでいる。――そして、涙が一筋、お姉さんの頬をつたった。

 俺は思わず息を呑んだ。
 お姉さんは目をこすると、近くに止めてある車に向かい、バックドアを開けた。
 そこから、今流行ってる漫画のキャラクターの等身大パネルを「よいしょ」っと言いながら出した。パネルには『レシートで応募キャンペーン!』と書いてある。そして、自分の身長ほどあるそのパネルを抱えて、スーパーに戻ろうとした……ところで、俺と目が合った。

「……あれ? しょ、少年?」

 お姉さんは驚いたように目を広げると、瞬きを繰り返した。
 俺は「こんにちは」と頭を下げた。

 お姉さんは気まずそうに笑った。

「……買い物?」

「米を買いに来たんですけど……、売り場わかんなくて……」

 言い訳のようにそう言うと、お姉さんは「お米はこっちだよ」と俺を手招きした。
 俺はキャラクターパネルを担いで歩くお姉さんの後ろをついていった。

「それ、持ちましょうか?」

 パネルはお姉さんの身長より大きかった。
 昼間に見るお姉さんは思っていたよりも小柄で、パネルを担ぐと姿が見えない。

「大丈夫だよ。軽いし。お客様に手伝ってもらうわけにはいかないしね。ありがとう」

「――店長に怒られちゃいます?」

 俺が手伝ったりするのを見られたら、また怒られるからだろうかと思ってそう聞くと、お姉さんは笑顔から真顔になった。

「――さっきの、見てた?」

「……はい」

 お姉さんは肩をすくめた。

「怒られちゃうとか、そういうんじゃなくて……、これは私の仕事だし」

 そう言って、俺に微笑んだ。

「だから、大丈夫だよ。ほら、お米買うんでしょ?」

 そう言ってすたすたと歩いて行くお姉さんの後ろをついていく。
 お姉さんはお米売り場につくと、俺に「じゃあね」と言ってお菓子売り場の方へ去って行った。俺はそれ以上声をかけられなくて、お姉さんの後姿を見送ってから、米を買って家に帰った。

 ◇

 家に帰っても、俺の頭の中には何度も、スーパーの裏の駐車場の壁際で、涙を流して、拭いて、車に戻るお姉さんの姿が頭に浮かんでは消えた。

 『やる気がない』なんて言っていたけど、お姉さんは、ちゃんとした人だった。
 泣いて、立ち上がって、ちゃんとやるべきことをやっている。
 
 ――俺は。
 俺は天井に向かって手を伸ばした。
 俺は、あんなふうになれるのだろうか。数年後に。
 お姉さんは、なんで、あんなにふうにスーパーの裏で泣いてまで仕事を頑張ってるんだろう。――そこまでする、意味はあるのか?

 次の母さんの夜勤の日。
 俺はいつものようにお姉さんのいる公園に向かった。
 ふと、お姉さんはいつもみたいにいるだろうかと不安に思った。

 俺は昼のお姉さんを見てしまった。
 夜の公園に現れる漫画の登場人物のようなお姉さんは、昼間の現実のスーパーで頑張って働いていた。現実に引き戻されるようで、夜のお姉さんはいなくなってしまうんじゃないかという考えが頭をめぐった。

 ――けれど。

「こんばんは、少年」

 公園のベンチには、いつものようにお姉さんが座っていた。
 俺にひらひらと手を振る。
 俺はココア缶を買って、彼女の隣に腰掛けた。

「――お疲れ様です」

 なんとなく、口から出たのはそんな言葉だった。
 お姉さんは一瞬動きを止めてから、苦笑した。

「少年、見てしまったね。昼の私を」

「何ですか、その倒置法の言い方」

 俺は大げさな言い方に噴き出した。
 夜のお姉さんは、少し芝居がかっている。

「――びっくりしたよ。カッコ悪かったでしょ。ペコペコして」

「――カッコよかったです」

 そう答えると、お姉さんは「へ」とつぶやいて口を開けた。

「お姉さん、頑張ってるんだなと思いました」

 お姉さんはしばらく黙ってから、ぐすっと鼻を鳴らした。

「何それ……、嬉しいこと言ってくれるじゃない……」

 俺は一呼吸してから、お姉さんに聞いた。
 夜の、この公園でしか聞けないことだった。

「何で、頑張ってるんですか?」

「え?」

「頑張るのって、意味あります?」

 そこから先は、一気に口から言葉が流れ出た。

「俺の父さん、死んだんですけど。俺が中2のときに事故で。――事故って言っても、単独事故で。カーブで車突っ込んじゃって、父さんが運転ミスっただけなんですけど。――普通に、朝、俺と一緒に家を出たんですよね。でも、帰ってこなくて……」

 俺は顔を上げると、お姉さんを見つめた。
 話しながら、頭の中で、今まで漠然としていた自分の気持ちが言葉になって出てくるのがわかった。
 父さんは、本当にいつもと同じように俺と家を出た。
 父さんは野球が好きで、野球のスマホゲームをしていた。俺も同じゲームをスマホに入れていた。それの新シーズンの選手ガチャが今日からスタートするから、帰ったら一緒にひこうと話したのが、最後の会話だった。

「なんか、頑張っても意味あるのかなって思っちゃったの、それからかもしれないです。結局、勉強だって仕事だって頑張ったって、急にそうやって終わりになっちゃうなら、頑張る意味ってあります?」

 そこまで一気に喋って、大きく息を吐く。
 お姉さんは圧倒されたように、少し身を引いてから、表情を和らげて、ふっと微笑み、つぶやいた。

「――意味は、よくわかんないや」

 お姉さんはココアを飲んだ。夜風が長い茶色い髪を揺らす。
 仕事中と違って、夜のお姉さんは髪を縛っていない。

「でも、頑張ったあと、コンビニで買うチューハイはおいしいよ」

 お姉さんは空になった空き缶を俺に見せた。

「あと、少年にカッコよかったって言ってもらえて、嬉しいし」

 俺はうつむいた。
 なんだか、目から涙がぼろぼろ出てきた。
 おかしいな。父さんが死んだときだって、そんなに泣かなかったのに。

 でも――そうか。頑張る意味はわからないんだ、お姉さんも。
 お姉さんは俺の背中をぽんぽんっとたたくと、バッグからハンカチを出して渡してくれた。おしゃれなタオル地のハンカチだった。ふんわりといい香りがした。やっぱりお姉さんはちゃんとした人だ。

「なんで、泣いてるの?」

「わかんないです……、すいません……」

「わかんないよねえ。人生わかんないことだらけだね」

 お姉さんはそう言って笑うと、俺にビニール袋を渡した。

「これは、少年にプレゼントです」

 開けてみると、スーパーの特大ビニール袋の中にお菓子がたくさん入っている。

「お菓子売り場担当の私がセレクトした、おすすめお菓子よ」

「――お姉さんの会社のですか?」

 お姉さんは首を振った。

「最近弊社のお菓子は迷走しているので、他社のお菓子が中心なのです」

「迷走……」

「あのお店の店長が言ってたのは、間違ってはないのよね。最近変な味ばっかり出しててさあ」

 お姉さんは「あはは」と笑ってから、怒った顔をした。

「だからって言って、お客様がいる前で怒鳴るなっていう。ああいうことして、お店の空気が悪いから売れないってのもあるんじゃないのー?って思ったりする。引き継ぎ書に『パワハラ気質』って書いといてやろうかな」

「引き継ぎ書……」

 って、誰かに何かを引き継ぐ時に書くものだよな。
 その言葉が引っかかって、俺は口に出してつぶやいた。

「そう。私、東京本社に異動になりまして」

 お姉さんは「ぱちぱち」と手をたたいた。

「これは少年への餞別なのです」

 俺は口をぽかんと開けて、膝の上のビニールに詰まったお菓子を見つめた。
 それから、ポケットからスマホを出した。

「連絡先、とか……」

 お姉さんは気まずそうに笑うと、言った。

「事案になっちゃうから……」

 俺はうなだれた。ちょっと期待した自分がいたのは認める。
 ――けれど、交換したからといって、お姉さんとこの夜の公園以外で話が続けられる自信もなかった。

「そうですよね……」

 お姉さんは立ち上がると、俺に向かって笑った。

「まあ、社会人になって気が向いたら、東京で私を探して?」

 俺は外灯で照らされるお姉さんの横顔に見惚れて、無言でうなずいた。

 お姉さんは照れたように、おろした髪をかきあげた。
 そして、俺に向かって、「じゃあね」と手を振った。
お姉さんの背中が、街灯の光の向こうに消えていった。

冬の夜の空気は冷たかったけれど、手の中のココアはまだ温かかった。
ビニール袋の中で、スナック菓子の袋がかさりと鳴った。
俺の手の中には、俺の涙と鼻水がついた、お姉さんのおしゃれなミニタオルが握られていた。

「頑張る意味は、よくわかんないや」

その言葉を、俺はたぶん一生忘れない。
 



 翌日、俺は母さんに「塾に行きたい」と言った。

「どうしたの? 急に」

「家だとやる気が出なくて。ここに行きたいんだけど。俺、数学苦手だから、まず数学」

 集めてきた塾の資料を見せると、母さんは目を丸くした。

「いいわよ。行きたいなら行って」

「ありがとう」

 そう言うと、母さんは今度は口を開けた。

「――何だか気持ち悪いわね」

「とりあえず、受験頑張ろうと思って」

 そして、とりあえず大学に行って、社会人になろう。
 そのうち、どこかでお姉さんにまた会えるかもしれないし、もう二度と会えないかもしれない。
 それはわからないけれど、また会ったときに「頑張ってるね、少年」と言ってもらえるように、俺は頑張りたいと思う。

 俺は「よし」とつぶやいて、机に向かった。

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