楓の花

森山葵

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楓の花

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楓ノ花
                             
 
    *                
「女というものは泣かせてやらなければならない。泣きぬくと、泣くべきものがなくなって、あとはすぐ忘れてしまうものなのだ」
            (セーレン・キルケゴール デンマーク 一八一三~一一八五)
                  
                 *
(十月十四日)
楓花は、そっと、優しく、僕と唇を重ねた。彼女の温もりが、唇の柔らかさが、血の潮流が、僕に接吻越しに伝わってきた。不意に、彼女の甘い香りが僕の鼻をふわりと刺した。花の蜜のようで、でも散りゆく楓のような、そんな儚い香りだった。 
 僕は脳裏で彼女を抱きしめてしまおうとぼんやりと思ったが、僕にそんな勇気はなかった。ただ、僕の手は緊張からなのか、ガタガタと震えていた。
 唇が離れた。気が付けば彼女は泣いていた。小さく、鳴き声も上げず、ただただ涙だけが崩れ落ちる水晶片のように、ぽたり、ぽたり、と地面に落ちた。
「楓花……」
僕は何を言っていいかわからず、彼女の名前を呼んだ。楓花は無言のまま、涙を垂れるだけだった。僅かではあるが、寂しい沈黙が空気を包み込んだ。
「ごめんね」
そう言って彼女は泣き崩れた。僕の手はまだ震えていた。彼女も怯えるように震えていた。僕はありったけの勇気を振り絞り、この腕に彼女を抱き寄せた。彼女は紅日が沈むまでの僅かな時間、消えてしまいそうなくらい泣いた。
 僕はそんな彼女が消えないように、ただただ、その場で彼女を抱き寄せるしかなかった。
 
(九月一四日)
生徒会の仕事をサボって本好きの僕は図書館でぼんやりと本を読んでいた。委員長が自分の仕事を平気でサボるせいでいつも僕が貧乏くじを引く。知るもんか、どうにでもなれ。
 投げやりな気持ちで本を読んでいると、僕の肩をトントンとたたくやつがいた。親友の桑田雄大だ。こいつ、相変わらず変な髪型をしている。まるで物理法則を無視したかのように髪を逆立たせ、その髪型には絶対に似合わないであろう、流行遅れな格好をしていた。そして、講釈師気取りなのか、扇子を片手に持っている。学校一の変人の名は伊達じゃない。
「なぁにしてんだよ、相棒」
「生徒会、サボった」
「なんだ、またあのブスと喧嘩したのかよ」
桑田が悪く言う女とは、僕の所属する園芸委員の委員長だ。僕はとにかく彼女と仲が悪い。
LINEの返信も遅いし、やたらと物を忘れる、全体委員会は平気でサボって友達との約束を
優先する。それでもって仕事をしないしできない。本当にいらつく人間だ。思い出すだけでイライラする。
「で、嫌になって、逃げてサボって、そんな難しい本読んでるのかよ」
僕が読んでいたのはドストエフスキーの「罪と罰」だった。前々から読みたいと思っていたが、「罪と罰」ほどの長編になると、なかなか読めなかった。読みたい時期に読みたい本を読みたいように読むのが一番本を面白く読める。時期を逃すと読もうという気も失せる。
「洋書な。俺は西洋の名作より落語や講釈聴いてる方がおもしれえや」
「だってお前は講釈師になりたいんだろ。『平家物語』や『牡丹灯籠』なら役立つだろうけど、お前が洋書を読んでも役立たんだろう」
「そんなことないさ、この世に無駄なものなんてないのさ」
「そうか」
桑田を適当に聞き流していると、桑田が部室に来て落語と講釈を聞かないかと誘ってきた。別に僕は講釈に興味があったわけでもないが、このあと生徒会室に戻る気もさらさらなかった。あのオサボリ委員長は先生にでも何にでも怒らればいい。……なんか、嫌な気分だ。委員長のことにイライラしていたこともあるだろうが、それ以上に僕はこんなに人様に向けた悪口がホイホイ出てくるのにもっとイライラしていた。心が荒れている。どうせこんな気持ちで生徒会室に戻っても、仕事なんぞ手に付くはずがない。
 講釈の一つでも聞けば心も晴れるだろう。桑田の誘いに乗って、落語研究会の部室に向かった。
                  

 落語研究会は五年前まで不良の溜まり場のような部活だった。残念なことに、桑田が入って講釈を始めるまで約十年間、学園祭はおろか、まともな活動はほとんどやってこなかった。今はまだ桑田一人しか部員はいないが、なんとか頑張ってまともな部として成り立たせている。
「講釈と落語、どっち先に聞く?」
「落語」
「誰がいい?」
誰がいい?と聞かれると迷いモノである。若手なら一之輔もいいし、三三や白酒が上手い。
古典の名人なら志ん生や文楽、円生もいい。新作なら喬太郎に志の輔、上方で文珍も面白い。聞く落語家を選ぶだけでもワクワクする。僕は本好きだからいろんな本を読んできたが、夏目漱石の「三四郎」の中に三代目柳家小さんについての記述があるのは有名である。
「志ん朝の『明烏』なんてどうだ?」
「いいね、志ん朝」
昭和の大名人、古今亭志ん朝。夭逝したのは悔やまれることだが、間違いなく昭和後期と平成初期一番の名人だ。もし今日まで生きていれば、人間国宝になっていたに違いない。
 桑田が動画を再生すると、志ん朝師匠の「明烏」が始まった。相変わらずキレのあるいい声をしている。話にひきこまれる。ほんとうに聞いていて魂が洗われるような気分だ。名人芸は志ん朝に使うのがふさわしい。
 落語や講談は本当によくできている。数百年も前にできたものが幾人もの名人に幾度となく高座の上にかけられ、言葉は磨かれ、話は洗練され、一つの型として完成している。最近の小説だってもちろん悪くないが、落語のように後世まで残るようなものばかりかというと、それには疑問を呈したくなる。おそらく、年間何千何万と現れる本のうち、一冊か二冊残ればいいほうだろう。
 「明烏」を二十分程聞いたところで、桑田が僕に突然話しかけて来た。
「なあ」
「なんだ」
「お前、知ってるか?」
「うん」
「まだなにも言ってないよ。そうじゃなくて、あのな、二組のリョウガと四組のユリ、あいつらヤったんだとよ」
「は?」
桑田の衝撃発言に思わず耳を疑った。僕は動画を止めて、桑田の方を見た。
「え、ど、どゆこと?」
「だから、一線超えたってことだろ。全く、高校生のくせに何してるんだ」
「確かなのか、それは」
「ああ、八組のシゲルが言ってた。あいつは嘘なんて言う輩じゃない」
噂には聞いていた。リョウガとユリが廊下で楽しそうに話すのは何度も見たし、帰り道を手をつないで楽しそうに歩くのも見た、インスタに載っかったふたり仲良く映るプリクラの写真も見た。しかし、まさか一線を越えるなんて。
 
go beyond(越えていけ)
 
 こんな時にCMのワンフレーズを思い出してしまった。不謹慎だ、けしからんな、僕。
でも、僕は二人が……
「おい、ぼーっとすんな。叱られんぞ」
「何にだよ」
危なかった、あと少しでふしだらなことを脳裏に浮かべるところだった。
「しかしいいよな、俺にはこんな事、どうせないんだから」
「いや、そんなことないさ」
「なんだよ、高校生のガキのくせに淫らなことしやがって。ただ……」
「ただ?」
「そんなことしてる奴らが羨ましく思うような自分もいる。なんでだろうな。いくら考えてもわからない。俺ら学生の本分は勉強だ。でも、そんなつまらないことがやたらできるやつより、好きな女と両思いでいて、好きな人と手を繋ぎ、仲良く話して、一緒に飯を食って、キスして、そして……まあ、そういう事している奴もほうが俺の目にはなぜか輝いて映る。女がどうこうとか、そんなこと、学生の本分じゃねえ、むしろそれを否定する大人もいる。だから男子校や女子高なんて概念が生まれる。アウトローなんだよ、女と付き合うなんて。でも、なぜか自分はこの背徳的とされる行いに憧れる。なさけないなあ、俺。俺なんてダメな男さ。好きな女はいる。でも思いの一つも伝えることができなけれれば、話しかけることすらできない。臆病者の弱虫さ」
「でも、お前にもいつか彼女ができるって。な」
「その『いつか』っていつの話なんだよ」
僕は黙ってしまった。僕が黙ると、桑田も感情的になっていたことに気がついて、深呼吸をした。
「すまない、つい」
「いいんだ、そういうこともある」
迷い、悩む。それが青春だ、我々に与えられた猶予モラト期間リアムだ。三百人の生徒がいれば三百通りの生き方がある。三百通りの青春がある。他人と優劣を競い合ったり、何かと比べて挫折し、ペシミズムに陥る必要もない。
 桑田は落ち着くと、窓の方を見つめた。そういえば、校庭に植えてある桜の葉も紅葉する頃であろうか。いや、今年はもう少し先だろうな。十月の半ばになるだろう。中庭の楓も、十月には綺麗に錦を着るだろう。四月に咲いていた楓の花。桜やマリーゴールドなんかと比べたら地味かもしれないが、つつましげに咲く小さな楓の花も、またきれいなもんだ。
「ふう」
桑田はため息をついた。落語家は面白い話ばかり語るからなのか、ぶっきらぼうに明るい人間が多いんだろうけど、桑田のように講釈を演る人間は、仇討や幽霊、血なまぐさい軍記物ばかり語るせいか、暗い性格の人間が多いような気もする。こいつはなにか気に入らないとただ深くため息をついた。そして、
「何で講釈師はモテねえんだろうな」
とぼやいた。
「いくらすごい話が出来って、アイドルには敵わんよ。ただな、人間の面の美なんざ、所詮は十年そこらのもんなんだ。いつかは花のように枯れて、楓のように散る宿命。そう考えれれば落語や講釈は顔なんざ関係ない。いつまでも同じように楽しめる。でも、人々はそんなものより、刹那的な美を好むのさ。文化に優劣つけたら終わりだろうけだど、明らかに落語や講釈は最近の若者文化に負けてんだよ」
桑田の嘆くことも一理あるだろう。確かに、落語や講談はアイドルやアニメなんかと比べれば不人気だ。でも、文化の好みなんてのは年齢にもよるだろうし、第一人の心を豊かにすればそれは一度に何万人も楽しもうと、目の前の人間一人が楽しもうと、それは文化なのだ。よくベートーベンやモーツァルト以外は音楽じゃないとか、シェークスピアやゲーテは高尚で、大衆文学は低俗だという奴もいるが、そんな文化に優劣をつけようとする輩の方がよほど低俗だ。文化は、人の心を豊かにすれば立派な文化だ。それでいいじゃないか。
 どちらにしろ、僕も今日は気分が良くないし、桑田も感情的になりすぎだ。
「桑田」
「なんだ」
「一緒に駅前にハンバーガー食いに行こうぜ」
「行くか」
                 

 嫌なことがあれば、僕と桑田はたいてい二人で飯を食いに行った。ただ、飯といってもほとんどハンバーガーだ。とにかく早く出てくるし、美味い。そしてなにより安い。一個百十円。チーズバーガーは百四十円。僕ら高校生からすれば最高のコスパグルメだ。
 二人でハンバーガーをかじりながら、Sサイズのコーラを飲みつつ、意味のない会話に花を咲かす。腹も膨れると、たいていの嫌なことは忘れる事ができる。
「お前、最近園芸委員会の仕事どうなん?」
「まあまあだね。相変わらず委員長が仕事しないし、貧乏くじ引いてばかりだ。でも今の季節、綺麗な花が沢山咲くからね、ガーベラなんかきれいに咲いてるよ。もうじき中庭の楓も色づくだろうしね」
「ふーん」
こんなことばかりだ。でも、それが楽しくて、僕にとっても桑田にとってもかけがえのない時間なんだ。僕ら二人共、それほど友達が多くいるわけでもなかった。いや、お互いが唯一無二の親友とも言える存在だった。だからこそ、この時間は本当に楽しい。そして、そこに安いハンバーガーもついてくる、最高じゃないか。 
 もちろん、ハンバーガーよりも多少値の張るものの方が美味い。例えばベーコンポークバーガーなんかは亜流という感じのワクワク感と、それでもダブルチーズバーガーやテリヤキバーガーに負けない美味さがある。このバーガーは二百円。なぜこんなに安いのかというと、パテが牛肉ではなくて豚肉なのだ。でも、そのおかげで牛肉独特の臭みもなく、さっぱりとした味わいになる。そして、カリカリに焼かれたベーコン。これはバーガー全体のジューシィさを引き立てるだけでなく、カリカリの食感がまたほかの食材とは異なる歯ごたえで実に美味い。決め手は、レタスやオニオン、そしてパテやベーコンと絶妙に絡み合うガーリック風味の特製ソースだ。これがピリリと辛くて、少し濃い目の照り焼きソースのような味わいなのだが、これが全体的にさっぱりしたバーガーとマッチして、食の
「化学ケミス反応トリー」が起こる。
 自分が頑張ったときのご褒美として、時折このバーガーを食べるが、これはたまらない。
冗談抜きで、「どうせ変わり種だろ」などとバカにせず、いろんな人に食べてもらいたいものである。
 桑田と冗談交じりに話していると、いつの間にやら恋愛の話になった。
「お前、好きな人、変わらんのか?」
「何度も言わせるな。そうコロコロ想い人が変わるもんか。彼女のことが好きだよ」
「軽音楽部の川瀬楓花ちゃんだっけ?」
「バカ、名前だすな」
僕は慌てて桑田に釘を刺した。こいつはやたら口が軽い。恋愛相談には不向きだ。
「え、どんな感じ?」
「お前と同じだよ、話しかけることすらできない。一方的に片想いだよ」
「ふーん。そうか」
川瀬楓花。僕と同じ二年生で、学年の中でも指折りの美女と呼ばれる。大きな瞳に、茶髪で艶のある長い髪、血色の良くて締まった薄い唇に高い鼻。それに加えて可愛い童顔をしていて、見るものを魅了する。体つきは比較的華奢だが、腰にはくびれがあって、胸元だって思わず目がいってしまうような、豊満な女子だ。彼女は軽音楽部に所属し、バンドのボーカルをしている。楓花は綺麗だけど、多分彼女は僕とは住む世界が違う。高嶺の花ってやつだ。漫画の世界やドラマの世界でヒロインになる女の人って多分こんな感じなんだろうって会うたびに思う。僕なんてドラマの主人公になんてなれやしない。モブキャラか、主人公に秒殺される敵キャラAがせいぜいだろう。スクールカーストってやつがあるならば、彼女は間違いなく一番上の人間
だ。僕や桑田なんて、一番下か、せいぜい下から一つ上の下層民のインキャラだ。楓花のような女子に恋したって、どうせ叶わない。恋するだけ無駄だ。でも、この感情を否定したくはない。目をつぶっても彼女の姿が目に浮かぶ。絶対そんなことないんだろうけど、彼女と手を繋ぎ、デートでスタバに行って、一緒にプリクラ取るような妄想を、するだけ無駄だとわかってても思い浮かべてしまう。
 桑田から色々聞かれていると、なんの偶然か、話題の人物が僕らの近くにいることに気がついた。楓花さんだ。僕は突然喉が渇いたような気がして、もう氷だけになったコーラをすすろうとした。
「おい、見ろよ」
桑田がニヤニヤしながら彼女の方を指さした。指なんか指すなと桑田にツッコミを入れつつ、僕はチラチラと彼女の方を見た。どうも楓花さんは近所の高校の女友達と一緒にいるようだった。楓花さんと同系統の女子であることに間違いはないだろうけど、楓花さんはその中でも際立って綺麗だった。
「お前、何ニヤニヤしてるんだ。気持ちわるいぞ」
桑田に注意されて、我に帰った。バカだな、僕。こんなんだから彼女に満足に話しかけることすらできないんだ。
「行こうか、桑田」
「え、もう行くの?」
「うん」
なんだか彼女と同じ空間にいるだけで、気恥ずかしくなってしまった。僕と桑田は席を立ち上がり、席を後にした。残念なことに、彼女は友達と楽しそうに話していて、僕らの存在に気がついていなかったようだった。やはり、彼女は僕と住む世界がちがうんだろう。
 席を立ったあと、ハンバーガーの包み紙を捨てようとゴミ箱の近くに行ったらゴミが散らばっていた。どういう倫理観があればこんな適当なゴミの捨て方ができるのだろう。ゴミはゴミ箱に、これは常識だ。先ほど高校生くらいの連中が食べていた。あいつらのしわざだろう。高校生は赤ちゃんじゃない。立派な主義主張をしたり、スマホなんて大それたもので遊ぶ前に、まずゴミをちゃんと捨てるとか、そういうことができないといけない。そんなことすらできないのであれば、見た目は高校生といえども、中身は赤ん坊も同然だ。僕はゴミを拾い集め、ゴミ箱に捨てた。これほどのことができないのは、何も先ほどの中学生に限った事ではないだろう。大人だってこんな基本的なことができない奴は山ほどいる。店員さんはこんなことすらできない客に頭を下げるのだから、本当に感服してしまう。
 ゴミを桑田と拾い集め、今度こそ帰った。
                  


(九月二一日)
「ちょっとお、何で本部会の資料できてないの?」
園芸委員長の沙織は僕に文句を言ってきた。ここで物申すなら、僕は彼女に作る必要があるか三日前に聞いた。そのときは、一度既読スルーされたのでもう一度聞いたら、無料のスタンプで「ノー」と返ってきた。おそらく、この適当女の頭の中には生徒会のことなんて微塵もなかったのだろう。ひどい話だ。理不尽だ。
「あんたさ、もっと仕事ちゃんとできないの?」
その言葉、そのままあなたにお返しします。こんな奴、よく生徒会長は放っておくな。僕が会長ならこんな適当な委員長、即座に罷免だ。僕の人脈は狭いけど、すくなくともこんなやつよりもましな人間を見つけてこれる自身はある。
「もおう、気をつけてよね」
「すみません」
なんでこんなやつに頭下げないといけないんだ、と思いつつ、どうにもならない現実に僕は必死に向き合った。
「あー、不愉快だ」
委員長と別れたあと、イライラしながら廊下を歩いていた。
「本当にまじなんなん、あの野郎」
あんな人間に腹を立てるだけ無駄であるが、もうなんかどうでもよくなってしまった。
 教室にもどってもろくに昼飯を食う気になんてなれなかった。イライラしたまま、朝図書館で借りた夏目漱石の「坊ちゃん」を読んだ。「坊ちゃん」は読んでいて痛快だ。何度読んでもその世界感に惹かれる。そして、主人公の「坊ちゃん」の正義感に僕は憧れたりもする。あの理不尽委員長が赤シャツで、僕が主人公。ならば山嵐は桑田か。
 そんなこと考えていると、前の席のクラスメイトの会話が聞こえてきた。
「お前、彼女できたのかよ」
ああ、この系列の話か。人の恋愛の話を聞くのは好きじゃない。自分がうまくいかなすぎて、周りの人間を妬ましく思ってしまうからだ。僕は、実に情けない。桑田を励ます割に、自分も人様に構ってられるような身分かと言えば、そうじゃない。傷の舐め合いをしているだけだ。僕のようなカーストの一番下の地味なインキャラ、叶わない恋なんて諦めて、学生の本分に身を注げばいいものを、そんなこと出来もしない。
「はあ・・・・・」
桑田みたいに僕までため息を漏らしてしまった。
「何部のやつだよ」
「えっ、ちくわぶ」
くだらない冗談言い合って笑い合うクラスメイトを見ていると、嫌な気分になってしまった。
世の中、平等平等と憲法法律が言っても、どうせ人間いつまでも不平等だ。スクールカーストがその証拠だ。先生は生徒を皆同じポーンや歩兵のように思っているだろうが、それは違う。ナイトやビショップもいれば、香車に銀将だって存在する。みんな、学校とかいう狭い社会に複雑な人間関係を持っていて、そこにスクールカーストといういやみな階級が存在する。身分の違う人間とは、関係なんて築けるはずがない。僕のような最下層民は、影ものとして学校生活を終えるのだろう。
結局、昼休みに僕が弁当に手を付けることはなかった。
                  *
 放課後、園芸委員会の仕事で、花に水遣りをした。花はいい。何か文句を言うわけでもなく、ただひたすら風に揺られてじっとしている。詩や小説の題材にしたって怒りゃしない。人間となると肖像権、著作権と権利、権利でとても花のように題材には出来やしない。
 今の季節、コスモスなんかが綺麗だ。菊もある。まだ東雲草(アサガオ)も咲いている。花を愛でると、嫌な気分なんて吹っ飛んでしまう。人の心を豊かにする物が「文化」ならば、花も文化だろう。
                  

 帰り道、ちょっとした出来事があった。いや、そんなことの何が面白い、実にくだらないと、九割の人間は思うことだろう。でも僕にとっては大事件だ。何があったかというと、 なんと楓花さんに話しかけられたのだ。ほら、多分ほとんどの人間がこんな事聞いたら、呆れて僕に愛想尽かすだろう。普段から彼女と当たり前のように話す人間もいるだろうけど、僕にとって彼女と話せるのは「日常」ではなく、「非日常」にほかならない。仮に彼女に話しかけようとするならば、ありもしない生徒会の仕事をでっち上げて、無理矢理に話しかけるしかないだろう。でも、あろう事か、今回はそんなバカげた事せずとも、彼女と話すことができたのだ。しかも、話しかけたのが僕の側でなく、彼女の方から話しかけてきたことに、僕は驚きを隠せなかった。天変地異でも起こるんじゃないだろうか。
事件は、学校東門を出てすぐのところの自販機前で起こった。僕が自販機でブラックの缶コーヒーを買って飲んでいると、偶然にも彼女が通りかかったのだ。僕はいつもどおり彼女の方をチラチラみるだけだったが、彼女はあろう事か、僕に一つ会釈をしてくれた。僕は予想外の展開に慌てふためいたが、僕の方も大急ぎで「どうも」と、会釈をした。これだけでも僕からすれば大事件だ。でも、この大事は、これだけで終わらなかった。最初、幻でも見てるのかと思った。楓花さんが、僕に話しかけてきたのだ。
「ヤスくん、ブラックなんて飲めるの?」
「ええ、まあ、はい」
彼女に話しかけられることに慣れないせいで、こんなしどろもどろな返事しか出来なかった。
「すごいね、私ミルクと砂糖入れないとコーヒーなんて飲めない」
「へー、そうなんですね」
もう、なんて返事をすればいいかわからなかった。恋愛小説は嫌というほど読んだのに、現実に自分の恋物語に出くわすと、まさかここまで不慣れだとは、思いもしなかった。
 その日は、それで会話が終わってしまった。普通の人間からすれば、こんなの明日になれば忘れているだろう。でも、僕にとっては特別な、甘い出来事なんだ。彼女と話した時間は、おそらく一分にもみたないだろうけど、ぼうっと過ごす一時間なんかよりもよほど長く感じた。
 
(九月二八日)
 僕が彼女に話かけてもらえるなんて、あれっきり一度だろうと思い込んでいた。あれを人生の良き思い出にして生きようと思っていたが、なにか起こったのか、彼女は僕に廊下ですれ違ったら挨拶をしてくれるようになったし、少しだけ話すことも増えた。僕はこの「日常」の変化に、最初は戸惑った。なぜなら、彼女のような身分違いの美女が、僕のような人間に話しかけてくることは、僕が今まで理想としてきた妄想が、単なる空想ではなく、現実のものとして起こっているからである。僕は突然の変化の理由を考えずにはいられなかった。彼女はなにか僕をだまそうとしているとか、あるいは僕のほうが狐にでも化かされているとか、いろんなことを考えた。でも、今の幸せを味わってみるのも、悪くないのかもしれない。騙されるのも、また人生だ。
 彼女と話すこと、それは浮かんでは消えていくような、本当にとりとめのないことだった。僕は本と花くらいしかめぼしい話題なんてないし、そもそも楓花さんと話なれていないので、僕からなにか話すことは希で、彼女からの質問に答えるか、それとも彼女の身の上話を聞くか、どちらかだった。
「ヤスくんはどこ出身?」
「生まれは実は千葉ですが、ここに引っ越してきたんです」
「へえ。実はね、私ハーフなの」
「え、それは意外でした。どことのハーフなんですか?」
「東京と愛知」
「そ、それはハーフじゃないでしょう」
そう言って彼女は笑った。僕も笑った。いいよな、こんなに幸せなことないよ。この幸せが、いつまでも崩れることなく続けばいいのに。
                  

 この学校の連中はみんな無愛想だった。先生に挨拶をしない。だから、僕が挨拶をすると、先生は戸惑う。馬鹿じゃないか。挨拶なんて呼吸をするようにできないといけない。それなのに、この学校の連中ときたら、立派な主義主張を述べるくせに、挨拶一つできない。いくら勉強が出来るからって、挨拶しないのは違う。僕の学校は県内有数の進学校だが、こんな挨拶もろくにできない連中ばかりのようでは、二本の未来は暗い。もちろん、一括りにはできないが、このような傾向であることは否めない。
                  *
 放課後、図書館に新書が入ったらしく、司書の甲本先生が重たそうなダンボールを図書館に運んできた。あまりに重たそうだったので、運ぶのを手伝った。どうやら古代メソポタミアについての本が数冊、あと知らない作家の全集に、ロシア文学の文庫本が何冊かあった。
                  

 図書館で甲本先生を手伝い終えると、桑田から電話がかかってきた。何事かと思うと、落語研究会の部室に来いとのことだ。図書館を出て、部室へ走っていった。
 部室では桑田はいつになく真剣で深刻そうな表情をしていた。
「どうした、そんな苦虫を潰したような顔して」
「・・・・・」
桑田はうつむいて何も言わなかった。ただ自分に座れと促してきた。
「なんだよ、どうした」
「俺さ、学校やめようかと思う」
「は?」
桑田は最初、冗談を言ってるのかと思ったが、どうも深刻そうな雰囲気から、そうではないらしかった。
「高校やめて、夢だった講釈師になろうと思う」
元々落語研究会で落語や講釈を研究してきたやつだ、腕は確かなのだが、高校を中退して芸の道に入るなんて、そうとう苦労するんじゃないだろうか。桑田は僕の唯一無二の親友だ、彼がいなくなったら、僕は・・・・・、
 
「孤独」
 
僕は桑田を引き止めたかった。
「辞めるなんて言うなよ、桑田」
「俺さ」
桑田は語気を強めて僕に言ってきた。
「もう、嫌なんだよ。孤独で、周りから変人扱いされて、お前しか友と呼べる存在がいなくて、俺は限界だ。すまんが、一人で悩んで、結論を一人で決めちまった。お前に相談しようとも思ったが、自分の人生だ。自分で決めるさ」
桑田は感情的でいるようで、冷静に己の論を展開した。僕は一時間ほど彼の説得を試みたが、彼の心はもはや決まっているようだった。
 次の日、学校に行くと、全校生徒は一人減っていた。僕以外、誰も桑田がいなくなったことを気にも止めなかったみたいだ。僕は、大切な物を失った。本当に孤独になった。その日は、まともに授業を受ける気になんてなれなくて、保健室で頭が痛いと嘘ついて、一日中ぼうっと桑田のことを考えていた。
 
 
(十月七日)
 喪失感から立ち直るのは、一週間そこらでは叶わなかった。テストも近いのに、勉強がバカバカしく感じてろくに参考書も開かなかったし、もうなんか全てどうでも良くなってしまった。高校をやめて、その先に人生に光なんて差すだろうか。僕はすくなくともそうは思わない。中退は、逃げと思っているからだ。一度逃げると、逃げ癖がつく。人生に正解はないが、自分の主義は「逃げ」を美学とはしない。桑田は、辛い現実から夢に「逃げ」たのだ。彼の運命は、もはや神様しか知らない。僕は、友人のことが心配でならなかった。
 そんな中で、楓花さんの存在は僕にとっての救いだった。彼女は元気のない僕のことを心配してくれたし、気遣ってもくれた。楓花さんがいなければ、僕は死んでいたかもしれない。
 生徒会の方は、嫌なことばかり起こった。あろう事か、あの役立たず委員長に彼氏ができたというのだ。別にその彼氏がイケメンかと言われれば、否。ぶりのアラみたいな面構えで、とても褒められたもんじゃなかった。でも、あんなひどい女に彼氏ができて、僕のように委員長のやらないことを引き受けるような貧乏くじ人間が独り身なんて、やはり世の中不平等だ。
                  


(十月十四日)
 友を失って二週間。まだ僕は闇の奥底で沈んでいた。その日の放課後、園芸委員の仕事で花に水をやっていた。生徒会顧問の趣味で育てているコケの盆栽。コケにもちゃんと花言葉はある。コケ類の花言葉は「孤独」。モウセンゴケもゼニゴケも梅の木ゴケも、みんなそうなのか知らないが、「孤独」。「孤独」、「孤独」。一人だ。
「ヤスくん」
「あ、どうも」
突然僕に声をかけたのは楓花さんだった。綺麗だな。彼女はどんな時も綺麗だ。美しい。今ここにあるどんな花よりも美しい。僕は手に持っていたジョウロを置いた。
「何してるの?」
「園芸委員会の仕事で花に水遣りしてまして」
「お疲れ様。なにか手伝う?」
「いえ、いいですよ。もう終わりますし。楓花さんもお忙しいでしょうから、お構いなく」
そう言って僕が水遣りを再開すると、彼女は近くに植わった、丁度紅葉した楓の木に近寄った。今が楓の見頃だろう。立派な錦を着ている。楓は秋だけのものではない。むしろ、春に咲く楓の花は、小さいながら、和を感じさせる上品な紅色で、僕はあの花の美しさが大好きだった。
「楓って、綺麗ですよね」
「そうね」
「楓の花って、今は季節じゃないですけど、綺麗ですよ。上品な色をしている」
「ヤスくんは、花が好きなの?」
「ええ」
「その楓の花も好きなの?」
「ええ、一番好きですよ。あの色合いが・・・・・・」
ここで僕はハッとした。僕は、自分の言ったことを見返して、心臓が張り裂けそうになった。彼女は気づいてるだろうか。ちらりと見ると、楓花さんは「えっ」という表情を浮かべていた。百パーセント嫌われただろうな。
「ごめん」
こう言われる心構えをした。しかし、彼女から発せられたセリフは、意外なものだった。
「私さ、生きるの嫌なの」
「何でですか」
「だって、孤独で、みんな私と上っ面な付き合いしかしない。いつも周りに合わせて、弱みを見せたらそれを利用される。生きるのって苦しいよ」
僕も、同じことを考えたことがある。人間はみな孤独だ、だから宗教にすがる、強がってみる、権力にすがる、そして実存主義に走ったのが孤独な哲学者たちなのだろう。
「私、孤独ね」
「僕もだよ」
「あら、仲間ね。そういうヤスくん、好きよ」
「僕も、大好きですからね」
僕は、自分で何を言ってるのか分からなかった。楓花さんと一ヶ月前はなんでもない関係だったはずだ。一方的な片想いだった。それが今、実に理解しがたい状況になっている。
「あのさ」
僕がこう言いかけた瞬間、彼女は僕の言葉を遮るように、
「あなたって、優しい人。私、前ゴミ拾ってるのとか、先生を手伝って荷物運ぶのとか見たよ。だから、いい人。孤独なもの同士、慰めあっていこ」
と言った。僕は大いに賛同して、「うん」と言った。
 これで終わりかな、と思ったら、彼女は突然僕に顔を近づけ、唇を重ねた。彼女の温もりが、唇の柔らかさが、血の潮流が、僕に接吻越しに伝わってきた。もう一人じゃないって、言っていいのかな。
 彼女は泣いてた。僕も泣きそうだった。これが呪縛からの開放なのか、それとも単なる孤独の延長の涙なのか分からなかった。
 ただ、孤独な人間がそこでふたり、肩を寄せ合って、なぐさめあっていた。

(終わり)
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青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

妹の仇 兄の復讐

MisakiNonagase
青春
神奈川県の海に近い住宅街。夏の終わりが、夕焼けに溶けていく季節だった。 僕、孝之は高校三年生、十七歳。妹の茜は十五歳、高校一年生。父と母との四人暮らし。ごく普通の家庭で、僕と茜は、ブラコンやシスコンと騒がれるほどではないが、それなりに仲の良い兄妹だった。茜は少し内気で、真面目な顔をしているが、家族の前ではよく笑う。特に、幼馴染で僕の交際相手でもある佑香が来ると、姉のように慕って明るくなる。 その平穏が、ほんの些細な噂によって、静かに、しかし深く切り裂かれようとは、その時はまだ知らなかった。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

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