「君を愛したことはない」と言われたので出て行ったら、元婚約者が毎日謝りに来ます

かきんとう

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 王都でも有名な名門公爵家、レイヴェルト家の屋敷には、今日も重苦しい空気が流れていた。

 磨き上げられた大理石の廊下を歩きながら、エレノア・グランシェは静かに息を吐く。

 この家に嫁いで、半年。

 正確には、まだ“婚約者”の立場だった。だが周囲はすでに彼女を未来の公爵夫人として扱い、屋敷の使用人たちもそう認識している。

 けれど――。

「……お嬢様、大丈夫ですか?」

 付き侍女のミアが心配そうに声をかける。

 エレノアは小さく微笑んだ。

「大丈夫よ」

 嘘だった。

 本当は、少しも大丈夫ではない。

 婚約者であるアルベルト・レイヴェルトは、彼女に驚くほど冷たかった。

 必要最低限の会話しかない。

 食事も別。

 夜会では隣に立つが、視線すら向けない。

 最初は“仕事が忙しい人なのだ”と思おうとした。

 だが半年経った今、エレノアにも理解できている。

 彼は、自分を嫌っているのだと。

 理由はわからない。

 この婚約は王命によるものだった。互いの家格を考えれば当然の組み合わせで、誰も反対しなかった。

 ただ一人を除いて。

 アルベルト本人だけが、この婚約を望んでいなかった。

 その証拠のように、彼はエレノアに一度たりとも優しい言葉をかけたことがない。

 それでもエレノアは努力した。

 公爵家の仕事を覚えた。

 領地経営の書類も学んだ。

 社交界の調整役も引き受けた。

 アルベルトの好みを調べ、紅茶の種類まで変えた。

 けれど、何も変わらなかった。

 そして今日。

 とうとう決定的な言葉を聞いてしまう。

 執務室の扉の前で、エレノアは足を止めた。

 中から聞こえる声に、思わず動けなくなる。

「アルベルト様も大変ですね。愛してもいない令嬢と婚約だなんて」

 若い男の声だった。友人だろう。

 続いて、低く冷たい声が返る。

「……愛したことはない」

 エレノアの指先が震えた。

「今後も愛するつもりはない。あれはただの政略相手だ」

 空気が止まる。

「なら婚約破棄でも――」

「王命だ。簡単にはいかない」

 淡々とした声。

 そこには迷いも感情もなかった。

「せめて最低限、問題を起こさず隣にいてくれればそれでいい」

 エレノアは静かに俯いた。

 胸が痛かった。

 苦しかった。

 でも、不思議と涙は出ない。

 ああ、そうだったのね。

 ようやく理解した。

 私は最初から、必要とされていなかったのだ。

 扉の前から離れる。

 ヒールの音が響かないように歩き、自室へ戻った。

 そしてその夜。

 エレノアは荷物をまとめた。

「お嬢様、本当に……?」

 ミアが泣きそうな顔をする。

 エレノアは静かに頷いた。

「ここにいても、アルベルト様を苦しめるだけだもの」

「ですが!」

「愛されない相手の隣に立ち続けるのは、少し疲れてしまったの」

 微笑みながら言うと、ミアはとうとう泣き出してしまった。

 エレノアは机に一通の手紙を置く。

『婚約破棄の件、受け入れます』

 短い文だった。

 本当はもっと色々書こうと思った。

 けれど最後には、これしか残らなかった。

 翌朝。

 エレノアは屋敷を去った。

 誰にも見送られず、静かに。

 向かった先は王都から少し離れた小さな町、リュミエール。

 祖母から譲り受けた古い別荘がある場所だ。

 花に囲まれた小さな家。

 豪華さはないが、空気は穏やかだった。

「……静か」

 窓を開けると、春風が髪を揺らす。

 それだけで少し泣きそうになる。

 張り詰めていたものが、一気にほどけた気がした。

「今日から、ここで暮らしましょう」

 そう決めた三日後。

 事件は起きた。

 朝早く、玄関の扉が激しく叩かれる。

「エレノア!!」

 聞き覚えのある低い声に、彼女は硬直した。

 まさか。

 扉を開けると、そこにはアルベルトが立っていた。

 黒髪は乱れ、息も荒い。

 どう見ても徹夜だった。

「……アルベルト様?」

「なぜ何も言わずに消えた!」

 怒鳴るような声。

 けれどその顔は、怒りより焦燥に満ちていた。

 エレノアは困惑する。

「婚約破棄を望んでいたのは、アルベルト様では……?」

「誰がそんなことを言った!」

「え……?」

「私は一度も婚約破棄など望んでいない!」

 意味がわからなかった。

 だって彼は言ったのだ。

『愛したことはない』と。

 エレノアが戸惑っていると、アルベルトは苦しそうに顔を歪める。

「……手紙を見た時、心臓が止まるかと思った」

「……」

「屋敷中探してもいない。馬車の行き先もわからない。三日間、眠れなかった」

 エレノアは目を瞬いた。

 そんなふうに探される理由がわからない。

「ですが、私は政略相手なのでしょう?」

 その瞬間、アルベルトの表情が凍った。

「……聞いたのか」

「執務室の前で」

 沈黙。

 長い沈黙だった。

 やがて彼は額を押さえ、深く息を吐く。

「……最低だな、私は」

 ぽつりと漏れた声は、ひどく弱々しかった。

「確かに言った。だが、あれは……」

 そこで彼は言葉を止める。

 珍しく迷っていた。

 いつも完璧で冷静な男が、初めて取り乱している。

「……私は、人を愛したことがない」

「……え?」

「だから、どう接すればいいかわからなかった」

 エレノアは目を見開いた。

「幼い頃から跡継ぎとして育てられた。感情より結果を求められ、人と距離を置くのが当たり前だった」

 アルベルトは苦しそうに続ける。

「そんな私が、お前を前にするとおかしくなる」

「……」

「何を話せばいいかわからない。目が合うだけで落ち着かない。だから避けた」

 エレノアの心臓が跳ねた。

「紅茶を変えてくれた時も、夜会で笑った時も、本当は全部嬉しかった」

 低い声が震えている。

「だが期待を持たせるのが怖かった。私には愛情というものが理解できないと思っていたから」

 エレノアは言葉を失った。

 ずっと嫌われていると思っていた。

 だから出てきた。

 なのに。

「……なら、なぜあんなことを」

「友人に図星を突かれて、意地を張った」

 アルベルトは苦々しく呟く。

「お前を愛しているのかと聞かれて、認めるのが怖かった」

 春風が静かに吹き抜ける。

 沈黙の中、アルベルトは真っ直ぐエレノアを見た。

「頼む。戻ってきてくれ」

「……」

「今すぐ許してもらえるとは思わない。だが、やり直したい」

 その瞳は真剣だった。

 初めて見る顔だった。

 けれどエレノアの胸には、まだ傷が残っている。

「……無理です」

 アルベルトの表情が固まる。

「私は、あなたに必要とされていないと思っていました」

「……」

「毎日苦しかったんです」

 声が震える。

 今さら気づく。

 本当はずっと悲しかった。

「だから、少し休みたいんです」

 アルベルトは唇を噛み締めた。

 そして静かに頷く。

「……わかった」

 それだけ言って帰るのかと思った。

 だが翌日。

 また彼は来た。

「おはよう、エレノア」

 大量の花束を抱えて。

「……何をしてるんですか?」

「謝罪だ」

「毎日来るつもりですか?」

「許されるまで来る」

 真顔だった。

 しかも次の日は焼き菓子。

 その次は高級紅茶。

 さらに翌日は庭仕事用の手袋。

「なぜ手袋?」

「この家の庭が広かったから」

「……」

 不器用すぎる。

 だが、どれもエレノアが以前好きだと言ったものばかりだった。

 ちゃんと覚えていたのだ。

 それが少しだけ、嬉しい。

 そして一週間後。

 庭で花の手入れをしていたエレノアは、不意に後ろから抱き締められた。

「っ!?」

「……もう限界だ」

 低い声が耳元に落ちる。

「毎日会っているのに、まだ足りない」

 アルベルトだった。

 エレノアの顔が熱くなる。

「ちょ、離してください!」

「嫌だ」

「嫌って……!」

「お前が好きだ」

 さらりと言われ、エレノアは固まった。

 アルベルトは首筋に額を押し当てる。

「好きでたまらない。だから他の男が近づくのも嫌だ」

「……え」

「昨日、花屋の男と楽しそうに話していただろう」

「普通の会話です!」

「笑っていた」

「それくらいします!」

 するとアルベルトはさらに抱き締める力を強めた。

「私にはあんな笑顔を見せなかった」

「……っ」

「どうすれば、あの顔で笑ってくれる?」

 掠れた声だった。

 こんな甘い声を出す人だなんて知らなかった。

 心臓がうるさい。

 けれど簡単に許すのも悔しい。

 エレノアは振り返り、じっと彼を見上げた。

「……では、まずは恋人から始めましょうか」

「恋人?」

「婚約者ではなく」

 アルベルトが息を呑む。

「あなたは私を知らなさすぎます。だから、一からやり直しです」

 数秒後。

 彼は信じられないほど嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見た瞬間、エレノアの胸が大きく跳ねる。

 ――ずるい。

 そんな顔、初めて見る。

「では、恋人として口説いてもいいんだな?」

「……ほどほどにしてください」

「無理だ」

 即答だった。

 そしてアルベルトはエレノアの手を取り、そっと口づける。

「覚悟してくれ。私は今、とても機嫌がいい」

 その目は獲物を見つけた獣のように危険だった。

 エレノアは嫌な予感を覚える。

 きっとこの男は、ここから猛烈に甘やかしてくる。

 そんな未来が容易に想像できてしまって――。

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