この夢が醒めるまで──図書室から始まる恋の物語

蒼村 咲

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第19話 噂と選択

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「──富永さん」

 いつも通り昇降口のベンチで待っていると、図書委員の仕事を終えた佐伯先輩がやってきた。

「佐伯先輩! お疲れ様です」

 急いで立ち上がり、佐伯先輩に向き直る。が、その表情には少し陰りがあるように見えた。声はいつも通りだったと思うのに。

「いつも待たせてばかりでごめんね。嫌じゃない?」

 佐伯先輩が優しく尋ねる。気を遣われているのを感じ、私は勢いよく首を振った。

「いえ、そんな、全然です! 好きで待ってるので」

 本当のことだった。
 あの日から、私は佐伯先輩と一緒に帰りたいがために、先輩の仕事が終わるのを待っている。

「……そっか。そろそろ嫌になってきた頃かと思ったんだけど」

「……え?」

 ふっと笑った佐伯先輩の言葉に、私は耳を疑った。佐伯先輩はなんだか色のない、乾いた笑顔を浮かべている。

「聞いちゃったんでしょ? ……あの話」

「……!」

 何のことを言っているのかは明らかだった。
 それでもどう答えればいいのかわからなくて、私は無言で佐伯先輩の顔を見上げる。さっきは「色がない」と思った笑顔に、今は悲しみと諦めの色が滲んでいるように見えた。

「僕が二年『遅れている』のは少年院にいたからだ、って」

 感情のない声で発せられたその言葉に、私は息をのむ。そこまではっきり言われてしまっては、こちらとしてはどうしようもなかった。

「どうして……わかったんですか」

 それでも直接認めたくはなくて、質問の形をとった。もちろん、認めたも同然だということはわかっているけれど。

「……わかるよ。富永さんを見てれば」

 その言葉に、私は再び言葉を失う。そんなことを喜んでいる場合じゃないことはわかっていたけれど、佐伯先輩がそんなことに気づけるくらいに私を見てくれていることが嬉しかった。かなり挙動不審だったのも事実だろうけど、それでも気を向けることがなければ気づかなくてもおかしくはないから。
 でもその瞬間、佐伯先輩の瞳がかすかに揺れるのを、私は見てしまった。なぜだか胸の奥がちくりと痛む。

「……確かめないといけないことが、あるんじゃない?」

 佐伯先輩が静かに言った。
 放課後すぐと部活終了後の二回の帰宅ラッシュ──その谷間の時間にあたる今、周囲には人の気配すら感じられない。そんな中、佐伯先輩と二人きりで向き合っている私は、その一言ではっきりと感じた──試されている、と。
 佐伯先輩が何を望んでいるのかはわからない。でもそのまなざしは真剣そのものだった。だからこそ私も、迷ってはいけないのだと思う。

「……ないと思います」

 まっすぐに見つめ返して答える。と、佐伯先輩は意外そうに目を瞬いた。

「なんで?」

「なんで?って言われましても……」

 まさかそこを追及されるとは思っていなかった。私は少し考えてみる。佐伯先輩に噂の真偽を確かめたいと思わないのはなぜか。

「結局は同じこと、だからです」

 慎重に言葉を選ぶ。すると案の定意味が伝わらなかったのか、佐伯先輩はほんの少しだけ眉をひそめた。

「どういう意味かな」

 詰問とは程遠い、あくまで穏やかな口調だった。私は軽くうなずき、言葉を加えていく。

「佐伯先輩は最初私に、怪我と病気で入院してたって言いました。そして後から別の人が、実は入っていたのは病院じゃなくて少年院だったんだよって言ってきました」

 そう、これが私の置かれた状況だ。それ以上でも、それ以下でもない。

「でも私には、本当の意味で真実を知る手立てはありません。ということは、どちらを信じるかを選ばないといけない。だったら私は佐伯先輩を信じます。それだけです」

 言ってしまってから、もう少し言い方を考えるべきだっただろうかと不安になる。が、私の視線の先で佐伯先輩が再び目を瞬いた。

「僕が、『実は君が聞いた通り、本当は少年院にいたんだ』って言う可能性は考えなかったの?」

 正直に言えば、考えなかったわけじゃない。でも私はその可能性を捨てたのだ。それが、佐伯先輩を信じるということだと思ったから。……だけどもし佐伯先輩がそう言ったとしたら、私はどうしただろう。

「……佐伯先輩がそう言ったとしても、本当のことを言っているとは限らないですよね。私が真実を知ることができないのは同じです」

 診断されなきゃガンじゃないとか、証拠がないなら有罪じゃないと言っているのと同じような気もしたが、間違ってはいないはずだ。
 けれどそんな私の言葉に、佐伯先輩は少し首を傾げた。

「……その場合、僕を信じてるって言えるのかな?」

「ええと……」

 佐伯先輩の指摘はもっともだった。「信じる」なんていくら聞こえの良いことを言っても、佐伯先輩の今の主張を聞いていない以上詭弁に過ぎないのかもしれない──けれど。

「でも、だとしても佐伯先輩が最初に『入院してた』って言った事実は変わらないです。それに、あの時の佐伯先輩にはそんな嘘をつく必要はなかったと思います。……私に諦めさせようとしてたくらいですし」

 迷ったが、最後に小声で付け足した。告白してきた相手に想いを諦めてもらおうとするのなら、単に年上であることよりも有効なはずだ。けれど佐伯先輩は首を振った。

「そんなことないと思うよ。たとえ僕が富永さんの告白を断ろうとしていたとしても、前科──少年院にいた過去なんて知られたくないでしょ。一年生である富永さんにそんなことを不用意に話せば、下手すれば一年生全員に広まる可能性だってある。できる限り穏便な理由で諦めてもらおうとするはずだよ。たとえばそう、二歳余計に年を食ってるとか、ね」

「……」

 まるで用意してきた台詞をただ暗唱しているかのようななめらかさに、私は何も言えなくなってしまった。第三者でなくともわかる。明らかに、佐伯先輩の言うことの方が説得力がある。

「……わかりました。降参です」

 私は目を伏せ、大きく息を吐き出した。当り前だけど、私なんかが佐伯先輩に口や理屈で勝てるわけがなかったのだ。ただでさえ私より長く生きていて、私よりたくさん本を読んでいるのに、きっと頭の回転もレベルが違う。
 それならもう、道は一つしかない──文句のつけようがない選択を示すだけだ。私はすぅっと息を吸った。

「……なので、言い方を変えます」

 さっき突き上げたばかりの白旗をそっと下ろす。その代わりに、私は佐伯先輩の顔を正面から見つめた。

「私は、自分が信じたい方を信じます。そしてその選択に責任を持ちます。それを覆すのは……決定的な証拠を突きつけられた時で遅くないと思うので」

「──!」

 佐伯先輩の目が驚いたように見開かれる。私はそれを見届けると、そっと足元に視線を落とした。

「……いつかにも言った気がしますけど、私は、今の佐伯先輩を好きになったんですよ」

 その気持ちを過去に──それも本当かどうかもわからない噂話に否定されてはたまらない。だからこそ私は、この選択を下したのだ。

「……富永さん」

 名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。

「僕は富永さんのこと、見くびってたのかもしれない。良くも悪くも素直でおっとりした、大人しい性格の人だと思ってたから」

 それはそれで間違ってはいない。私は基本的に人の前に出たり、人の上に立ったりするタイプではないし。
 でもそれが本質かと問われれば、必ずしもそうとは言い切れない気がする。

「そう思ってる人は多いですよ」

 わざとらしく笑いながら言うと、それにつられたのか佐伯先輩も少し笑ってくれた。たぶん、今日初めて見る本物の笑顔だと思う。

「あらためて……ありがとう。こんな僕を好きになってくれて」

 そんな佐伯先輩の言葉に、私は笑顔で答える。
 私たちが話している間にもまた少し傾いた夕日が、昇降口の窓を優しく照らしていた。
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