2 / 70
【1】
「最下位は恥ずかしいっ。再会は懐かしいっ。」
しおりを挟む
「煎ちゃん! 起きて! 何時だと思ってるの!?」
真っ白なブラインドが上げられ、窓からまばゆい日の光が差し込むと、煎路のオレンジ色の髪がいっそう明るさを増した。
眠気と太陽のまぶしさのせいで目が開けられない。
ますます布団にもぐり込む。
「なんだよ豆実、昨夜は寝たのが遅かったんだ。もう少しだけ……」
「ダメよ! 早く起きて!」
布団をはぎ取る豆実の腕を、煎路は目を閉じたまま瞬時につかみ、
「グフフ。お相手してくれるってんなら、今すぐ起きてやるよ」
何ともだらしのない寝ぼけ顔を、その細い腕にすり寄せた。
だが、直後には――
もう片方の豆実の細腕が煎路の頭をマクラに強く押さえ付け、彼の一筋の欲望の光をあっけなくさえぎった。
(真っ暗だ。しかも息苦しい――)
「地上からお前がいなくなったら、世界は花園になるだろうな。種が安全に芽を出せるだろうよ」
傍らで見ていた兄、焙義の、決して冗談ではない本気の言葉を聞き、ようやく煎路の上まぶたが下まぶたに別れを告げた。
「うるせえな! 黙秘エロのアニキにだけは言われたかねーよっ!」
窒息寸前で豆実の腕をふり払い、煎路は勢いよく上半身を起こした。
「黙秘エロってのはなぁ、別名『だんまりエロ』っつってアニキみてえな水面下型の悪質な女好きの奴をゆうんだよ!」
ワンレン風の髪型で右目が隠れている兄の横顔に向かい、煎路は威勢よく声を上げた。
「またそんなこと言って! お兄ちゃんを煎ちゃんと一緒にしないでっ」
豆実がむきになって言い返してきた。
いつもの事だ。焙義を悪く言われると、普段はおとなしい豆実が突っかかってくる。
「ったく、豆実は分かってねえな……」
もつれた髪をかきながら面倒くさそうにベッドから立ち上がると、煎路は二人に背中を向けバスルームへ向かった。
大きなガラス窓の、開放感あるバスルーム。
陽光とシャワーを同時にあびる至福の時。
これで可愛い子ちゃんが一緒なら言う事はないのだが……
煎路は静かに目を閉じた。
物心ついた時から、煎路は女の子が大好きだった。それを隠した事は一度もない。
たとえ相手にされなくても、どんなに踏みつけられても、めげる事なく女の子には全身全霊を注いできた。
だからこそ、自分とは真逆の性格である兄が理解できなかった。
兄は、冷たい訳ではないがお世辞にも愛想が良いとは言えない。
にもかかわらず、何もしなくても女の子達にウケがいい。
全くおもしろくない。
でも、何より煎路が理解できないのは、彼女たちをまともに相手にしない兄の落ち着き払ったその態度だ。
(なぜアニキは女の子を前にして、あんなにも平然としていられるのか。ふつう、コーフンするだろ……
いや、アニキも男だ。平気でいられるはずがない。
あの理性的な面の皮をはいだらきっと、ただただみっともないニヤけ面が現れ出るに違いない。
そもそも、右っ面だけ隠匿したうさんくさい髪型も、実は何らかの思惑があるのでは……)
正体を突きとめるため、兄の行動を逐一追跡したかったが、
煎路は日々女の子を追いかけるのに時間をとられ、決定的な証拠をつかめないまま今日に至っていた。
「煎ちゃん! お仕事の依頼が入ったわよ!」
豆実の声に、煎路はハッと我に返る。
「煎路はいい。俺一人で十分だろ。行ってくるわ」
焙義は飲みかけのコーヒーをカウンターに置き、羽織っている上衣の上からベルトを締めるや出口へと足を早めた。
「待てよアニキ! 俺も行く!!」
上半身裸のまま脱衣場から飛び出して来た煎路は、タンクトップを着ながら肩には上衣を掛け、慌ただしく焙義を追った。
身体をふく時間も惜しんだのだろう。肌に残る水滴がそこらじゅうに飛び散っている。
「二人とも、気を付けてねっっ」
兄弟が出て行った後、豆実はぬれた床を見て小さくため息をついた。
「こんな事はもう慣れっこだけど、二人の帰りを待つのはいつまでたっても慣れないわ。きっと、これからも……」
―――――――――――――――――――――
工場裏の人気のない寂しい空地。
その辺り一帯がどす黒い渦に覆われ、空に大きな空洞が停滞している。
「これが噂に聞いた人間界か。ずいぶんとあったけえな」
うす汚れて黄ばんだ腰丈のチュニックに、くたびれたゆったりめの長ズボンと木靴、
古き時代の欧米諸国からタイムスリップして来たような身なりの大男が、周囲をぐるりと見回している。
「それにしても、あの白いのはどこへ消えやがった……?」
タワシのような無精髭をこすりながら、大男が再び周りを見回していると、背後に微々たる気配を感じ取った。
「やはりまだ、すぐそばにいやがったか!!」
大男はその巨体を半回転させると目線を下ろし、岩のように硬い拳を草陰へと向け、拳から強烈な風を吹き起こした。
すると次の瞬間、白いモコモコの小さな生物が強風にあおられ宙を舞った。
「クップゥー!!!!」
白いモコモコの生物はかん高い悲鳴を上げ、大男の古びたブーツの前に落っこちた。
「ガハハハッ! 見つけたぞっ。もう逃がさんからなぁ!!」
硬く太い手がモコモコの生物をがっちりと捕らえ、もがく事すら許さない。
「クップゥ! クップゥゥー!!」
「ケケケッ。俺様のジオードに無賃乗車した報いだ。ひと思いに握りつぶしてくれる」
大男の生温かく汗ばんだ手が、モコモコ生物にとどめを刺そうとさらに力を込めようとした、まさにその時――
すさまじい突風が、大男を襲った。
突風にあおられ、今度は大男の巨体が宙を舞い、野太い声を轟かせ頭から真っさかさまに落下した。
その衝撃で地面は激しく震動し、大男の頭を型どって深く穴をあけていた。
「グ、グググォ!」
深々とあいた穴に埋まった頭をぬこうと、死にもの狂いで暴れる巨体の無様なありさま。
そこへ――
「なあに遊んでんだよ? そんくらい簡単に抜けるだろ? お前らご自慢の魔力でさ」
背が高く、奇天烈な格好の若い男が登場した。
ダークなオレンジ色のタンクトップ、空色と茶色の二色で構成された和風の上衣、
赤みがかった茶色のダボダボズボンに橙色のベルトと足袋、
そして、上衣の片側には、彼にとって「愛の象徴」とも言うべきセクシーな唇の柄が並んで刺繍されている。
本能には決してさからわない男、度合煎路だ。
「煎路、さっさと魔界へ送り返せよ」
煎路の後ろから、兄の焙義がそう促した。
個性的な弟とは正反対で、焙義は和風の上衣から草履にいたるまで全体的に黒や濃紺で統一した、無柄でシンプルな装いだ。
「分かってるよアニキ。でもなぁ、せっかく来たんだ。もおちょっと楽しもうや」
「お前なぁ……」
二の句も継げない、あきれ顔の焙義の衿には、
先ほどまで死へのカウントダウン残り0秒だった白いモコモコの生物が、小刻みに震えながらしっかりとはり付いている。
煎路の突風のおかげで助かっていたのだ。
「こ、小僧ども――!!」
ほとんど執念で自らの頭を穴から引き抜き、大男が巨体をゆらしながら血まみれの顔で二人をにらみ付け、のっそりと歩み寄って来る。
「俺様を窒息寸前にしておいて、ただですむと思うなよ……!」
(窒息――?)
その言葉に、煎路はすぐさま反応した。
「なあに言ってんだ! 俺だってなぁ、今朝目ぇ覚ますなり窒息死しそうになったんだよっ。
おめえなんかよりずっと理不尽で苦しい思いしてんだよ!」
「小僧! ふざけてんじゃねえぞ! これから死への恐怖をたっぷりと思い知らせてやる!」
頭からしたたり落ちる血をぬぐった自らの手を見つめ、大男は目の前の若者が起こしたであろうすさまじい突風を、つと思い返した。
「小僧ども、ただの人間ではないな。魔族……いや、ブレンドか……?」
「その通りさ。泣く女子も惚れる焙煎兄弟とは俺たちの事だぜ。
ヘヘッ。ブレンドを甘く見ねえ方がいいぜ。俺らぁ、てめえらみてーなのを倒しておまんま食ってんだからよ」
「そうか、それじゃあお前らが……」
大男は煎路の言葉にゴクリとつばを飲み込み、その直後にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「探す手間がはぶけたぜ。二人そろって八つ裂きにしてくれる。
フン。まだ百や二百そこそこしか生きてねえような、しかもブレンドのクソガキどもが……」
大男は目玉をギョロリと見ひらくと――
「俺様の種を獲れると思うな――っっ!!」
煎路に焦点をしぼるやいなや、上気し煮えたぎった全身のパワーを拳に集め、熱風を放った。
さっきとは比べものにならない、とてつもない威力だ。
大男のデコボコの胸元からは彼の“種”が出現し、鈍い光が走っている。
煎路もまた、大男の拳に照準を定めていた。
対象の動きがスローモーションに見える。
岩のような敵の拳にパワーが集中し、自分に向けて放たれている。
「……生かしてはおけねえ……な」
対象を見すえ、両足を広げて踏んばり両手を構えると、煎路の胸元からもオレンジカルサイトを思わせる、鮮やかに輝く種が姿を現した。
煎路の中の力がみなぎっていく。
オレンジ色の種が、輝きを増していく。
「うおおおおーー!!」
大男が魔力を強め、咆哮した。もはや、血に狂った珍獣である。
煎路は体中にみなぎった力を、手の平から一気に大男へと放出した。
「ブレンドの力をなめるなぁ――っっ!!」
二つのエネルギーが激しくぶつかり合い、大男が放つ湿気を帯びた熱風を煎路のパワーが刹那的にはね返した。
――勝敗は、すでに決まっていた。
大男の拳が砕け、その巨体は立っているのもままならない程のダメージを受け、ドスン! と、両膝を地に落とした。
鈍く光る大男の種が、見る見るうちに色あせていく。
「こ、こんな……バカな……」
頭上に浮かぶ己の色あせた種を見つめながら、大男は自らの死を感じずにはいられなかった。
死への恐怖――
まさか、この場で自分が思い知る結末になろうとは……
「こんな……ブレンドの、欠点種……に」
岩山が崩れ落ちるかのごとく、大男の巨体が土ぼこりを上げて倒れこむ。
大男の種は完全に色、光沢を失って落ち、本体の屍に寄りそった。
その様子を、ただ黙って見つめる煎路の肩に、焙義がそっと手をかける。
「この手の類は、魔界へ返すだけじゃダメなんだろ?」
「……ああ……」
奔放で楽天家の弟が、この時ばかりは無口になり、大好きな女の子を追いかける大事な日課すら忘れ去る。
見上げた空には、停滞していた大きな空洞は無くなり、辺り一帯は明るい日差しを取り戻していた。
「焙義っ。煎路っ。会いたかったップ――!」
焙義の衿にしがみついていた白いモコモコの生物が、チョコンと付いてある小さな手を羽のように羽ばたかせて、二人の顔の前で歓喜の舞いを舞い始めた。
あるのかないのか分からないような、小さな手だ。
必死に羽ばたいても上がったり下がったりを繰り返している。
その懐かしい滑稽な光景に、ようやく煎路にいつもの笑顔が戻った。
「やっぱりお前か、クッペ! 見間違いかと思ったぜ!」
「正真正銘、クッペップよっ。焙義と煎路に会いたかったップよ!」
「久々だなぁ、お前の声の感じ」
雲のようなモコモコの顔と胴体、
小さな手足の白い生物クッペは、焙煎兄弟が魔界で過ごしていた頃の、古き良き友である。
クッペは常に目をギュッと閉じており、鼻と口は必要に応じて伸縮するため、普段は肉眼で見えないくらいに極小だ。
クッペが発する声は脳裏に直接伝える、ぞくに言うテレパシーである。
「それにしてもクッペ。荒くれ魔族のジオードに無賃乗車とは、臆病者のお前が思いきったマネをしたもんだな」
羽ばたき過ぎて苦しそうなクッペを見かねた焙義が、そのモコモコの体をつかみ自分の肩に乗せながら言った。
「仕方がなかったップ。どうしても、どうしても二人に会いたかったップ」
「それはもう、何度も聞いたよ」
兄弟の声が合わさる。
「豆実はどうしてるップか? 早く豆実にも会いたいップよ」
「ああ、元気だぜ。相変わらず男を見る目はないけどな」
煎路は意味ありげな視線を焙義に投げかけるが、焙義はどこ吹く風といった調子で、表情ひとつ変わらない。
「それより煎路、凄いップよ! 魔界にいた頃よりも、魔力がずっとアップしてるップ!」
「あたりめえだろ。俺たちが魔界を出てどんだけたってると思ってんだよ」
「そりゃそおだけど、感動したップ」
焙義のブラウンの髪を手足にからませ、無邪気に飛びはねるクッペを見ているうちに、
煎路は改めて自分たちが生まれ育った故郷、魔界のパンブレッド国への懐かしさが込み上げてきた。
クッペからはパンブレッドの匂いが、わずかながらも感じられる。
何より、危険をおかしてまで自分たちに会いに人間界まで来てくれた、友の気持ちが嬉しかった。
「ヘヘッ。俺も会いたかったぜ」
煎路がちょっぴり照れくさそうに言うと、クッペの白ほっぺがほんのり赤くなった。
「クッペの魔力はてんで変わってねえけどな」
「ププッ! ひどいップよ――! これでも少しは進化をとげてるップ――」
すかさず続けた煎路の次の一言に、クッペの白ほっぺと白い体が真っ赤に変化した。
「どこがだよっっ」
兄弟がまたしても声をそろえて、今度は高らかに笑う。
「そろそろ帰ろうぜ。豆実が心配してっからな。それにクッペ、お前に紹介したい奴がいるんだよ」
「紹介したい……? 誰ップか??」
二人と一匹? いや、三人は、豆実の待つぬくもりいっぱいの『団欒の時』へと急いだ。
「仕事の報酬は後でもいいよなっ」
ブレンドの兄弟にとって第二の故郷である人間界、図本国の朝は、戦いから一転、思いがけない再会の祝賀会となった。
晴れた空に見る事は出来ないが、確かに存在している、優しい満月に見守られて――
真っ白なブラインドが上げられ、窓からまばゆい日の光が差し込むと、煎路のオレンジ色の髪がいっそう明るさを増した。
眠気と太陽のまぶしさのせいで目が開けられない。
ますます布団にもぐり込む。
「なんだよ豆実、昨夜は寝たのが遅かったんだ。もう少しだけ……」
「ダメよ! 早く起きて!」
布団をはぎ取る豆実の腕を、煎路は目を閉じたまま瞬時につかみ、
「グフフ。お相手してくれるってんなら、今すぐ起きてやるよ」
何ともだらしのない寝ぼけ顔を、その細い腕にすり寄せた。
だが、直後には――
もう片方の豆実の細腕が煎路の頭をマクラに強く押さえ付け、彼の一筋の欲望の光をあっけなくさえぎった。
(真っ暗だ。しかも息苦しい――)
「地上からお前がいなくなったら、世界は花園になるだろうな。種が安全に芽を出せるだろうよ」
傍らで見ていた兄、焙義の、決して冗談ではない本気の言葉を聞き、ようやく煎路の上まぶたが下まぶたに別れを告げた。
「うるせえな! 黙秘エロのアニキにだけは言われたかねーよっ!」
窒息寸前で豆実の腕をふり払い、煎路は勢いよく上半身を起こした。
「黙秘エロってのはなぁ、別名『だんまりエロ』っつってアニキみてえな水面下型の悪質な女好きの奴をゆうんだよ!」
ワンレン風の髪型で右目が隠れている兄の横顔に向かい、煎路は威勢よく声を上げた。
「またそんなこと言って! お兄ちゃんを煎ちゃんと一緒にしないでっ」
豆実がむきになって言い返してきた。
いつもの事だ。焙義を悪く言われると、普段はおとなしい豆実が突っかかってくる。
「ったく、豆実は分かってねえな……」
もつれた髪をかきながら面倒くさそうにベッドから立ち上がると、煎路は二人に背中を向けバスルームへ向かった。
大きなガラス窓の、開放感あるバスルーム。
陽光とシャワーを同時にあびる至福の時。
これで可愛い子ちゃんが一緒なら言う事はないのだが……
煎路は静かに目を閉じた。
物心ついた時から、煎路は女の子が大好きだった。それを隠した事は一度もない。
たとえ相手にされなくても、どんなに踏みつけられても、めげる事なく女の子には全身全霊を注いできた。
だからこそ、自分とは真逆の性格である兄が理解できなかった。
兄は、冷たい訳ではないがお世辞にも愛想が良いとは言えない。
にもかかわらず、何もしなくても女の子達にウケがいい。
全くおもしろくない。
でも、何より煎路が理解できないのは、彼女たちをまともに相手にしない兄の落ち着き払ったその態度だ。
(なぜアニキは女の子を前にして、あんなにも平然としていられるのか。ふつう、コーフンするだろ……
いや、アニキも男だ。平気でいられるはずがない。
あの理性的な面の皮をはいだらきっと、ただただみっともないニヤけ面が現れ出るに違いない。
そもそも、右っ面だけ隠匿したうさんくさい髪型も、実は何らかの思惑があるのでは……)
正体を突きとめるため、兄の行動を逐一追跡したかったが、
煎路は日々女の子を追いかけるのに時間をとられ、決定的な証拠をつかめないまま今日に至っていた。
「煎ちゃん! お仕事の依頼が入ったわよ!」
豆実の声に、煎路はハッと我に返る。
「煎路はいい。俺一人で十分だろ。行ってくるわ」
焙義は飲みかけのコーヒーをカウンターに置き、羽織っている上衣の上からベルトを締めるや出口へと足を早めた。
「待てよアニキ! 俺も行く!!」
上半身裸のまま脱衣場から飛び出して来た煎路は、タンクトップを着ながら肩には上衣を掛け、慌ただしく焙義を追った。
身体をふく時間も惜しんだのだろう。肌に残る水滴がそこらじゅうに飛び散っている。
「二人とも、気を付けてねっっ」
兄弟が出て行った後、豆実はぬれた床を見て小さくため息をついた。
「こんな事はもう慣れっこだけど、二人の帰りを待つのはいつまでたっても慣れないわ。きっと、これからも……」
―――――――――――――――――――――
工場裏の人気のない寂しい空地。
その辺り一帯がどす黒い渦に覆われ、空に大きな空洞が停滞している。
「これが噂に聞いた人間界か。ずいぶんとあったけえな」
うす汚れて黄ばんだ腰丈のチュニックに、くたびれたゆったりめの長ズボンと木靴、
古き時代の欧米諸国からタイムスリップして来たような身なりの大男が、周囲をぐるりと見回している。
「それにしても、あの白いのはどこへ消えやがった……?」
タワシのような無精髭をこすりながら、大男が再び周りを見回していると、背後に微々たる気配を感じ取った。
「やはりまだ、すぐそばにいやがったか!!」
大男はその巨体を半回転させると目線を下ろし、岩のように硬い拳を草陰へと向け、拳から強烈な風を吹き起こした。
すると次の瞬間、白いモコモコの小さな生物が強風にあおられ宙を舞った。
「クップゥー!!!!」
白いモコモコの生物はかん高い悲鳴を上げ、大男の古びたブーツの前に落っこちた。
「ガハハハッ! 見つけたぞっ。もう逃がさんからなぁ!!」
硬く太い手がモコモコの生物をがっちりと捕らえ、もがく事すら許さない。
「クップゥ! クップゥゥー!!」
「ケケケッ。俺様のジオードに無賃乗車した報いだ。ひと思いに握りつぶしてくれる」
大男の生温かく汗ばんだ手が、モコモコ生物にとどめを刺そうとさらに力を込めようとした、まさにその時――
すさまじい突風が、大男を襲った。
突風にあおられ、今度は大男の巨体が宙を舞い、野太い声を轟かせ頭から真っさかさまに落下した。
その衝撃で地面は激しく震動し、大男の頭を型どって深く穴をあけていた。
「グ、グググォ!」
深々とあいた穴に埋まった頭をぬこうと、死にもの狂いで暴れる巨体の無様なありさま。
そこへ――
「なあに遊んでんだよ? そんくらい簡単に抜けるだろ? お前らご自慢の魔力でさ」
背が高く、奇天烈な格好の若い男が登場した。
ダークなオレンジ色のタンクトップ、空色と茶色の二色で構成された和風の上衣、
赤みがかった茶色のダボダボズボンに橙色のベルトと足袋、
そして、上衣の片側には、彼にとって「愛の象徴」とも言うべきセクシーな唇の柄が並んで刺繍されている。
本能には決してさからわない男、度合煎路だ。
「煎路、さっさと魔界へ送り返せよ」
煎路の後ろから、兄の焙義がそう促した。
個性的な弟とは正反対で、焙義は和風の上衣から草履にいたるまで全体的に黒や濃紺で統一した、無柄でシンプルな装いだ。
「分かってるよアニキ。でもなぁ、せっかく来たんだ。もおちょっと楽しもうや」
「お前なぁ……」
二の句も継げない、あきれ顔の焙義の衿には、
先ほどまで死へのカウントダウン残り0秒だった白いモコモコの生物が、小刻みに震えながらしっかりとはり付いている。
煎路の突風のおかげで助かっていたのだ。
「こ、小僧ども――!!」
ほとんど執念で自らの頭を穴から引き抜き、大男が巨体をゆらしながら血まみれの顔で二人をにらみ付け、のっそりと歩み寄って来る。
「俺様を窒息寸前にしておいて、ただですむと思うなよ……!」
(窒息――?)
その言葉に、煎路はすぐさま反応した。
「なあに言ってんだ! 俺だってなぁ、今朝目ぇ覚ますなり窒息死しそうになったんだよっ。
おめえなんかよりずっと理不尽で苦しい思いしてんだよ!」
「小僧! ふざけてんじゃねえぞ! これから死への恐怖をたっぷりと思い知らせてやる!」
頭からしたたり落ちる血をぬぐった自らの手を見つめ、大男は目の前の若者が起こしたであろうすさまじい突風を、つと思い返した。
「小僧ども、ただの人間ではないな。魔族……いや、ブレンドか……?」
「その通りさ。泣く女子も惚れる焙煎兄弟とは俺たちの事だぜ。
ヘヘッ。ブレンドを甘く見ねえ方がいいぜ。俺らぁ、てめえらみてーなのを倒しておまんま食ってんだからよ」
「そうか、それじゃあお前らが……」
大男は煎路の言葉にゴクリとつばを飲み込み、その直後にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「探す手間がはぶけたぜ。二人そろって八つ裂きにしてくれる。
フン。まだ百や二百そこそこしか生きてねえような、しかもブレンドのクソガキどもが……」
大男は目玉をギョロリと見ひらくと――
「俺様の種を獲れると思うな――っっ!!」
煎路に焦点をしぼるやいなや、上気し煮えたぎった全身のパワーを拳に集め、熱風を放った。
さっきとは比べものにならない、とてつもない威力だ。
大男のデコボコの胸元からは彼の“種”が出現し、鈍い光が走っている。
煎路もまた、大男の拳に照準を定めていた。
対象の動きがスローモーションに見える。
岩のような敵の拳にパワーが集中し、自分に向けて放たれている。
「……生かしてはおけねえ……な」
対象を見すえ、両足を広げて踏んばり両手を構えると、煎路の胸元からもオレンジカルサイトを思わせる、鮮やかに輝く種が姿を現した。
煎路の中の力がみなぎっていく。
オレンジ色の種が、輝きを増していく。
「うおおおおーー!!」
大男が魔力を強め、咆哮した。もはや、血に狂った珍獣である。
煎路は体中にみなぎった力を、手の平から一気に大男へと放出した。
「ブレンドの力をなめるなぁ――っっ!!」
二つのエネルギーが激しくぶつかり合い、大男が放つ湿気を帯びた熱風を煎路のパワーが刹那的にはね返した。
――勝敗は、すでに決まっていた。
大男の拳が砕け、その巨体は立っているのもままならない程のダメージを受け、ドスン! と、両膝を地に落とした。
鈍く光る大男の種が、見る見るうちに色あせていく。
「こ、こんな……バカな……」
頭上に浮かぶ己の色あせた種を見つめながら、大男は自らの死を感じずにはいられなかった。
死への恐怖――
まさか、この場で自分が思い知る結末になろうとは……
「こんな……ブレンドの、欠点種……に」
岩山が崩れ落ちるかのごとく、大男の巨体が土ぼこりを上げて倒れこむ。
大男の種は完全に色、光沢を失って落ち、本体の屍に寄りそった。
その様子を、ただ黙って見つめる煎路の肩に、焙義がそっと手をかける。
「この手の類は、魔界へ返すだけじゃダメなんだろ?」
「……ああ……」
奔放で楽天家の弟が、この時ばかりは無口になり、大好きな女の子を追いかける大事な日課すら忘れ去る。
見上げた空には、停滞していた大きな空洞は無くなり、辺り一帯は明るい日差しを取り戻していた。
「焙義っ。煎路っ。会いたかったップ――!」
焙義の衿にしがみついていた白いモコモコの生物が、チョコンと付いてある小さな手を羽のように羽ばたかせて、二人の顔の前で歓喜の舞いを舞い始めた。
あるのかないのか分からないような、小さな手だ。
必死に羽ばたいても上がったり下がったりを繰り返している。
その懐かしい滑稽な光景に、ようやく煎路にいつもの笑顔が戻った。
「やっぱりお前か、クッペ! 見間違いかと思ったぜ!」
「正真正銘、クッペップよっ。焙義と煎路に会いたかったップよ!」
「久々だなぁ、お前の声の感じ」
雲のようなモコモコの顔と胴体、
小さな手足の白い生物クッペは、焙煎兄弟が魔界で過ごしていた頃の、古き良き友である。
クッペは常に目をギュッと閉じており、鼻と口は必要に応じて伸縮するため、普段は肉眼で見えないくらいに極小だ。
クッペが発する声は脳裏に直接伝える、ぞくに言うテレパシーである。
「それにしてもクッペ。荒くれ魔族のジオードに無賃乗車とは、臆病者のお前が思いきったマネをしたもんだな」
羽ばたき過ぎて苦しそうなクッペを見かねた焙義が、そのモコモコの体をつかみ自分の肩に乗せながら言った。
「仕方がなかったップ。どうしても、どうしても二人に会いたかったップ」
「それはもう、何度も聞いたよ」
兄弟の声が合わさる。
「豆実はどうしてるップか? 早く豆実にも会いたいップよ」
「ああ、元気だぜ。相変わらず男を見る目はないけどな」
煎路は意味ありげな視線を焙義に投げかけるが、焙義はどこ吹く風といった調子で、表情ひとつ変わらない。
「それより煎路、凄いップよ! 魔界にいた頃よりも、魔力がずっとアップしてるップ!」
「あたりめえだろ。俺たちが魔界を出てどんだけたってると思ってんだよ」
「そりゃそおだけど、感動したップ」
焙義のブラウンの髪を手足にからませ、無邪気に飛びはねるクッペを見ているうちに、
煎路は改めて自分たちが生まれ育った故郷、魔界のパンブレッド国への懐かしさが込み上げてきた。
クッペからはパンブレッドの匂いが、わずかながらも感じられる。
何より、危険をおかしてまで自分たちに会いに人間界まで来てくれた、友の気持ちが嬉しかった。
「ヘヘッ。俺も会いたかったぜ」
煎路がちょっぴり照れくさそうに言うと、クッペの白ほっぺがほんのり赤くなった。
「クッペの魔力はてんで変わってねえけどな」
「ププッ! ひどいップよ――! これでも少しは進化をとげてるップ――」
すかさず続けた煎路の次の一言に、クッペの白ほっぺと白い体が真っ赤に変化した。
「どこがだよっっ」
兄弟がまたしても声をそろえて、今度は高らかに笑う。
「そろそろ帰ろうぜ。豆実が心配してっからな。それにクッペ、お前に紹介したい奴がいるんだよ」
「紹介したい……? 誰ップか??」
二人と一匹? いや、三人は、豆実の待つぬくもりいっぱいの『団欒の時』へと急いだ。
「仕事の報酬は後でもいいよなっ」
ブレンドの兄弟にとって第二の故郷である人間界、図本国の朝は、戦いから一転、思いがけない再会の祝賀会となった。
晴れた空に見る事は出来ないが、確かに存在している、優しい満月に見守られて――
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる