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【2】

「G.D.」

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 夜景を見渡せる贅沢ぜいたくな見晴らしの高台たかだいに、三階建てのシンプルな四角い家がある。

 度合どごう兄弟の自宅だ。

 買い物を終え家に戻った豆実まめみはベルトを外し、レトロなバラ模様の赤い和風の上衣じょういを脱いでリビングのソファにそろえて置くと、休む間もなくキッチンへ向かいエプロンをつけた。

 エプロンの下から、雌黄しおう色の可愛いノースリーブ・フレアワンピースをのぞかせ、豆実は鼻歌まじりで夕食の支度したくにとりかかる。

 そのうち、食欲をそそるおいしそうな香りが家中にしみ渡っていった。

「豆実! いいにおいップね!」

 豆実の長くふんわりした竜胆りんどう色の髪の間から、クッペがひょっこり顔を出した。

「やっぱり不思議ね、クッペちゃんて。お鼻がないみたいだけど、ちゃんとあるんだもの」

 豆実がクスリと笑うと、クッペの白ほっぺが赤くなる。

 女の子らしくて優しくて、んだアイスグリーンの目をした豆実が、クッペはとても好きなのだ。

「クッペちゃん。三人を呼んで来てくれない? 私ったらロン君の事すっかり忘れてたわ。一番にロン君に声をかけてね」

「了解ップ。でも煎路せんじはまだ帰ってないと思うップよ。どうせまた……」

「帰ってるよ」

 クッペの言葉をさえぎり、煎路がリビングに入って来た。

「どうせまた、何なんだよクッペ」

 煎路は仏頂面ぶっちょうづらで、豆実の上衣とベルトをどかしてソファにドッシリと腰かけた。

「な、なんでもないップ! なんでもないップよ! 焙義ばいぎとロンヤを呼んで来るップ!」

 煎路ににらみ付けられたクッペは小さな手を羽ばたかせ、逃げるようにリビングのすみにある階段をパタパタ上へと飛んで行った。

「そんな顔してどうしたの? また女の子にふられちゃった?」

 ほっくり炊き上がったご飯を茶碗ちゃわんによそいながら、豆実は煎路をチラリと見た。

「またって何だよ、お前まで。言っとくけどなぁ、俺はふられてんじゃなくて踏まれてんだよ」

「もっと悪いじゃない!!」

「それにしても……ハァ~ッ、今日の子は惜しかったなぁ」

 よほど好みのタイプだったのか、ふられる事は日常茶飯事さはんじの煎路がめずらしく落胆らくたんしている。

「元気出して、煎ちゃん! 相手がどうあれ、いつもの事じゃない! ほら、今夜は煎ちゃんの大好物のポトフよ!」

 豆実はなぐさめの声をかけながら、湯気ゆげのたつうつわを食卓に並べ始めた。

「ポ、ポトフじゃ――!!」

 好物のポトフがいざなう器をめがけ、煎路は我慢できずにカンガルーのごとく大ジャンプする。

「まだダメよ!!」

 そうはさせるかと豆実が器を持ち上げると、煎路の顔はあごからテーブルに直撃した。

「クッ……いってえなぁ……」

 そんな煎路の醜態しゅうたいを、下りて来た兄の焙義とクッペがの当たりにしていた。

「何やってんだ、お前は」

「いやしすぎるップね」

 二人は素気すげなく言う。

「うっせえな……マジで死ぬかと思ったってのに、なんて心ねえ奴らだよっ」

 打ったあごをさすり、煎路はよろめきながら立ち上がる。

「煎ちゃん、良かったわ無事で! さっ、さめない内に食べましょっ」

 豆実はにこやかにポンッと手を打ち、エプロンをとって食卓についた。

「お、俺をこんな目に合わせたのはおめえだろっ。無事もクソもあるもんかっっ」

「煎路の事はもういいが、ロンヤはどうしたんだ?」

 弟をかやの外に追いやり、焙義はひとつ空いているイスを気にかけ豆実に確かめた。

「先に呼んでおくの忘れちゃってたの。ロン君が来たらあやまらなきゃね」

「おい、豆実。お前がわびるのは俺にだろーが。ロンヤなんぞにわびるこたねえよ。

 らいらいあいうはいうわれらっれも(だいたいあいつはいつまでたっても)……ハ、ハフハフ」

 煎路の口には早くも熱々あつあつのジャガイモがつめ込まれ、何を言っているのか全く分からない。

「大丈夫よ、お兄ちゃん。ロン君の食事はまだ何もよそってないからさめたりしないわ。私達が食べ終わった頃には来るでしょ」

「そうか。それなら先に食べるとするか」

「ロンヤを待ってたら、夕食が朝食になってしまうップゥ~」

 ようやくスプーンを手にした三人とは対照たいしょう的に、煎路はポトフにがっつきもうたいらげている。

 惜しんでいた女の子への思いも、今では完全に『過去』になっていた。


 みなが食事を終えた頃、浅緑あさみどりのポロシャツを着た、寝グセがついたような黒髪の男がリビングへやって来た。

 メガネがよく似合う、おっとりした感じの若者で、煎路と同じくらいに上背うわぜいがある。

 流行はやりのペラッペラPhoneフォンを片手に、空いていたイスに座るこの若者は、焙煎ばいせん兄弟と豆実の同居仲間、ロンヤだ。

 ロンヤはとにかくのんびり屋で、何をするにもマイペース。それがかなりのスローペースである。

「遅くなって……ごめん……」

 ロンヤが来た頃合いが見当けんとう通りだったので、豆実は「ほらね」と焙義に耳打ちし、ロンヤのポトフを温め始めた。

「こっちこそ、声をかけるの遅くなってごめんねっ」

「いや……豆実ちゃんがあやまる事ないよ……自分が遅れただけだから」

 ロンヤがまったりと答えるのを聞き、煎路がすかさず突っ込んだ。

「ロンヤ。お前もう少しペース上げられねえのか? 

 そんなんじゃ~この世の終わりの時にでも、お前だけ食いモンにありつけねえままおっちんじまうんだぜ?」

「それは、その、そうだけど……」

「煎ちゃんたら、ジャマしないでっ。ロン君、気にしないで食べてね」

「うん。いただき……ます」

 ロンヤは食事を始め、ゆっくり、ゆっくりと食べていたのだが……

 ふと、床から天井てんじょうにまで至る壁一面のガラス窓の外に目を運び、食事の手を止めた。

 今夜は満月だ。だが、何かが違う。何かがおかしい。

 何が――?

「雲……」

 ロンヤのつぶやきに、煎路たち四人は彼の目線をなぞるように、その先にある夜空の月をいっせいに見つめた。

「満月なのに……雲がないのに、なんであんなに暗いんだろう……」

 ロンヤは空を指さした。

「ジ、ジ、ジ、ジオードップよ! ならず者の魔族ップよ!!」

 モコモコした毛をさか立てて、クッペが落ち着きなくそこらじゅうを飛び回る。

「――違う」

 煎路がけわしい声でそう言うと、いつになくあまりにも真剣なその表情に、豆実の胸もさわぎ始めた。

「……何が違うの? 煎ちゃん?」

 おし黙ったまま月に目をこらす煎路とロンヤ。

 いの一番に動いたのは、焙義だった。

 何も言わずにリビングを出て、階段を下りて行く。

 静かに、ただ前だけを見て――

 その胸の内は、得体えたいの知れない何かをかぎ取り穏やかではなかったが、それを誰にもさとられないよう眉ひとつ動かさずにいた。

(不安を与えてはいけない――)

 今も、そして今までも、その思いが常に焙義を平常心へと導いていた。

 その焙義の平常心に、煎路とロンヤも同調しようとするが……

「ジオードップよ! 荒くれ魔族の襲来しゅうらいップよ!」

 パニックにおちいったクッペは今もって部屋中をばたつき、いっこうに止まる気配がない。

「バタバタするな!!」

 煎路はいら立ちをあらわに一喝いっかつし、クッペの体をキャッチした。

 クッペは煎路の手の中でちぢみ上がる。

「こ、こわいップよ……」

 伝わってくる、クッペの小さな体の微動びどう

 煎路は気付く。

 それは、かつてない不吉な前兆ぜんちょう狼狽ろうばいする自分自身の動揺どうよう、弱さなのだと――

 おのずと指の力がゆるみ、つり上がった目じりが垂れていく。

「煎路さん、急がないと……」

 ロンヤが小声で呼びかけた。

「あ、ああ……お前に言われたらおしまいだな」

 煎路はクッペをイスの肘掛ひじかけにそっと乗せ、

「大丈夫だから……だから豆実を頼んだぞ!」

 気強い声でそう言い残すと、ロンヤと共に焙義の後を追った。

 三人が出て行った後のリビングが寒々さむざむしく、広く感じられる。

「みんな……」

 立ちつくす豆実の足元を、吹くはずのない冷たい風が通り過ぎていく。

 クッペは豆実の肩へと飛び、茫然ぼうぜんとした豆実の横顔に寄りそった。



 薄黒い月光の下、工場裏の空地あきちへとひた走る焙義と煎路、ロンヤ。

「ったく、いつもながらおめえって奴はワケ分かんねーな」

 日常生活からは想像もつかない程のロンヤの快速ぶりに、煎路は苦笑する。

「煎路さん、また言ってる……」

 行動もしゃべりも普段はスローなロンヤだが、いざという時は一変いっぺんして動きが速くなる。

「言いたくもなるぜ。前言ぜんげん撤回てっかいしてやるよ。この世の終わりでも、お前は食いモンに困ったりはしねえな」

 焙煎ばいせん兄弟と豆実が、人間界で最初に知り合い仲間になったのがロンヤである。

 今日こんにちまでの長きに渡り、ひとつ屋根の下で苦楽を共にしてきた家族同然の存在だ。

 そしてこの四人には、魔界人と人間、二種の血を通わせている、混血だという共通点があった。

 魔界では彼らのような混血は『ブレンド』と呼ばれ、不当ふとうな扱いを受ける事も少なくなかった。

 だからなのか――? 兄弟が豆実を連れて、生まれ故郷である魔界を去り人間界での暮らしを選んだのは……

「煎路、ロンヤ。油断するなよ」

 焙義は二人に注意をうながし、足を止めた。

 辺り一帯いったいがどす黒いうずおおわれ、空には大きな空洞くうどう停滞ていたいしている。

 今回は三つの空洞で、空洞内にはそれぞれ違った色が幻想的にきらめいている。

 これまで何度となく目にしてきた、魔族が現れた時の光景だ。

「三つのジオードで来やがったか。それにしても、でっけえな……」

 煎路は空洞を見上げた直後、目の前に込めるもやの中へと視線を落とした。

 靄の中には、複数の人影がゆらめいている。

(何なんだ、こいつら……!)

 魔族が起こす渦と、『ジオード』と呼ばれるその空洞は、太陽や月の光をさえぎりこそするが、本来は光そのものに影響を及ぼすものではない。

 だが、今夜の満月はかげに染められており、完全に光を衰退すいたいさせていた――

「ほお~、ここが人間界か。満月の夜だというのに暗いではないか」

「王子。それはおそらく我々……特に王子のジオードのせいではないでしょうか」

 赤茶色の髪と、白いロングコートが目を引く端正たんせいな顔立ちの男が、彼に付き従う二人の男女と共に靄の中からぼんやりと姿を見せた。

 ドリンガデス国の第二王子ドラジャロシーと、彼のシェードであるドゥレンズィとルースだ。

 煎路たちの視界に少しずつ、前方まえかたに立つ男、ドラジャロシーの姿が明瞭めいりょうになってきた。

 えりを立てたコートの赤い裏地にはドクロの絵柄えがらが入っており、コートの下は上半身の肌を露出ろしゅつしている。

 トラウザーズをロングブーツにタックインしたスタイルはコートと同じく王家の男お決まりのスタイルで、ブーツには名前の頭文字が刻まれていた。

「お前ら、何モンなんだ!?」

 煎路は待ちきれず、一歩前に踏み出した。

「お前だと? この俺に向かってお前とは……礼儀を知らぬゲスのきわみとは貴様の事だな」

 ドラジャロシーは、嗤笑ししょうする。

「ゲ、ゲスだぁ!? ごあいさつじゃねえかっ。そーゆーお前様はいったいどなた様なんだよっっ」

 怒りを覚えながらも、煎路は何とかこらえてきいた。

「王子様だ」

 かんはつをいれず返ってきた一言ひとことに、煎路たちは言葉を失う。

「驚いたようだな。では、今度はこちらから質問しよう。貴様ら、ブレンドか?」

 ソフトな声とは裏腹うらはらに、ドラジャロシーの象牙ぞうげ色の目が三人を蔑視べっしする。

「へえ~、この段階だんかいでよく分かったな。俺たちがブレンドだって……」

「この暗がりで、俺様の姿がしかと見えているようだからな。多少なりとも魔族の血を引いている事は誰にでも分かる。

 そもそも俺たちは貴様らブレンドの武勇伝ぶゆうでんとやらを伝え聞き、興味をもって来てやったのだ。

 こうして人間界まで出向いてやった事に感謝するんだな」

 ドラジャロシーが鼻で笑うと、それまで黙って聞いていたドゥレンズィが無気力なグレージュの目をなかば閉じ、

「王子、『俺たち』ではありません。興味をもたれたのは王子お一人でございます」

「――同意!」

 ルースも加わり、背後からピシャリと切り捨てた。

 消えかかる靄の向こう側、ドラジャロシーの後ろに控えるシェード達の姿も、次第に輪郭りんかくが見えてきた。

「ヘッ。王子様はどこへ行くにもお付きの者が必要か? 一人で旅行もできねえなんてよ。お子ちゃまだよなぁ~」

「なに……?」

 からかうような煎路の憎まれ口がくいとなり、ドラジャロシーの眉間みけんに深く打ち付けられた。

「こ、この俺をお子ちゃま呼ばわりするなど聞き捨てならん……! ドリンガデス国の王位継承者である、このドラジャロシー様を!!」

 ドラジャロシーの端正な顔に、眉間からピシピシと亀裂きれつが走る。

「ドンジャラシロさんま? 何だよそれ、名前か? したかみそうなややっこしい名前してんじゃねえっつうの!」

「ええい、欠点種けってんだねのブレンドが図に乗るな! 悪趣味きわまりない下品なぬのっきれまといやがって! そいつぁ~タラコか!?」

 ドラジャロシーは指をとがらせ、煎路の上衣にあるくちびる刺繍ししゅうを差した。

「タラコだぁ!? こいつは世にも愛くるしい唇じゃ!

 お前様こそ薄気味悪い頭蓋骨ずがいこつのコートなんか着てんじゃねえよっ。しかも下ははだかじゃねえかっっ。見苦しいてめえの表皮ひょうひチラ見せしやがって!

 王子のクセに着る服も持ってねえとは哀れな奴め!」

「着る服を持ってないだと……!?

 フン。衣装なら城へ戻ればいて捨てる程あるのだ。

 お前は実際、衣装を掃いて捨ててみた事があるか? ないだろう。

 貴様らのような庶民しょみんには一生かかっても持てぬ勇気に違いない」

 聞き苦しい子供じみた言い争いはいつまで続くのか……

 煎路の事だ。王子目線の勝手な決めつけと傲慢ごうまんな態度が許せず、ますますヒートアップするだろう。

(そろそろ止めに入るか……)

 焙義がこのくだらない、ムダな時間をリセットしようとした、その時、

「……ある」

 先ほどまでの勢いはどこへやら。

 突如とつじょ、シリアスな雰囲気をかもし出し、煎路が声のトーンを下げて答えた。

 煎路のオレンジ系の目は、うれいに満ちている。

「な、なんだと!?」

 煎路の予期せぬ返答に衝撃を隠せないドラジャロシーもまた、威勢いせいを失い硬直こうちょくした。

「……あれは、俺たち兄弟がまだ、魔界のパンブレッドに居た頃だ……」

 煎路が静かに語り始めると、みなの視線が煎路に集中した。

「たくさんとは言えないが、俺もそれなりに服を持っていた。

 少々地味だと思いながらも満足していたよ。だが、ある日……

 俺は知ってしまった。それらの服は全部、アニキのお下がりだったって事をな……」

「――」

 そこに居る全員が口をひらかず、いや、ひらけず、煎路の話にただ耳をかたむけていた。

「それでも俺は我慢した。これが後から生まれた者の宿命なのだと、自分に何度も言い聞かせたさ……
 
 でも本当は叫びたかった。

 俺が着たいのは、陰気くせえアニキ好みの暗色あんしょく無地むじな服なんかじゃない。

 桃の形や、白くて丸い二つのまんじゅうに小豆あずきをのせた、そんなうまそおながらのある服が着たいんだってな……

 そうさ。我慢が限界に達した時に俺は、アニキのお下がりの服を全てほうきで掃いて捨てていた……!

 今では後悔してるよ。なんてもったいねえ事しちまったんだろうってな……

 まさか今になって、あんな昔の事を思い出すなんてよ……虎次郎とらじろう、お前のせいだぜ」

「……虎次郎??」

 ドラジャロシーを見つめ哀し気にほほ笑む煎路の隣りで、ロンヤが首をかしげた。

「……分かるぜ……」

 煎路に共感し、しみじみと目をせるドラジャロシー。

 みなの視線は、今度はドラジャロシーへと移動した。

「俺はお下がりなど身につけた事はないが、後から生まれた者の理不尽りふじんな宿命は痛感している。

 王である父、王妃である母。同じ親のもとに生まれながら、次期王の座は第一王子の兄が優位ゆういだと国中の誰もが思っているのだ……

 そしてあの卑劣ひれつな兄は、自分が王位を享受きょうじゅするのは当然だと横行おうこう闊歩かっぽしている……!」

  グッと手をにぎりしめたドラジャロシーの中に、沸々ふつふつと怒りの感情がわき上がってきた。

「先に生まれた長男というだけで……

 目つきも性格も頭も悪い、あのクソ意地の悪い気随きずい気儘きままなアホ兄貴が……!」

 ――空気が、激変げきへんした――

 言いようのない重たい気流が、気付けば煎路たちブレンドの三人を取り巻いていた。

「煎路、ロンヤ……油断するなよ!」

 ドラジャロシーの煮え返った気に包囲ほういされ、いよいよとばかりに焙義が身がまえる。

「さっきも聞いたぜ、アニキ」

「……す、すごい気だ……!」

 三人は改めて、(今までとは違う――)それを間近まぢかで、身をもって感じていた。

「フフフッ。貴様らには不運な事だが、俺の格を上げるための最初の犠牲ぎせいとなってもらうぞ……」

 象牙色の目が、異様いような輝きを見せる。

「そのために俺は……わざわざ人間界ここまでりに来たのだ――っっ!!」

 突然大声を上げ手の平を広げたドラジャロシーのパワーが全開ぜんかいすると、そのパワーは激しく渦を巻きとんでもない速度で煎路たちに襲いかかってきた。

 竜巻たつまき――

 まさに竜巻のような驚異きょうい的な魔力だ。

「よけろ――っっ!!」

 三人はそろって高く跳躍ちょうやくし、ドラジャロシーの攻撃をギリギリのところでかわした。

 猛スピードで通過した竜巻は消滅したものの、立ち上がる土ぼこりが三人をまるごとのみ込んだ。

「ゴホッ、ゴホッ……!」
「い、一秒でも遅かったら……」

 着地したロンヤの足は、震えがまだ止まらない。メガネがくもって、前も見通せないでいた。

 焙義と煎路も目をかばうのがやっとの状態で、ロンヤを安心させる余裕すらなかった。

 なにしろ、身をかわすだけで精一杯だったのだから……

「なるほど、噂通りだな。ブレンドとはいえ、底辺ていへんの魔族よりは出来るようだ」

 まだまだ本気を出さず、ブレンド相手に楽しむ王子に、

「王子、後は私めが。下等かとう生物など、これ以上王子が相手になさる事はありません」

 ドゥレンズィが片手を胸に当て、そう告げた。

 間を置かずして、ルースも告げる。

「王子でもドゥレンズィでも、どちらでも構いません。さっさと片付けてください。それとも私が始末いたしましょうか」

 言いたい放題の魔族たちの慢心まんしんぶり。

 そして、自分たちが守らなければならない者たちへの責任――

 ドラジャロシーとの力の差をたった一撃で実感しながらも、このまま引き下がる焙義と煎路ではなかったし、引き下がる訳にはいかなかった。

 敵の力ははかり知れない。だからこそ、気力では絶対に負けられない。

 いつもの調子を取り戻さなければ――!!

「……まいったな。服も何もかも真っ黒だぜ。豆実に怒られちまうな」

 全身の土を払い落としながら、焙義がぼやいた。

「豆実はアニキに怒ったりしねえよ。それにしても、めんくらうとはこの事だぜ。

 虎次郎もやってくれるよな。俺が男前だからって嫉妬しっとしてんのかぁ?」

 顔面に付いた土を、煎路はそででふき取った。

 だが逆に、袖についていた土をこすり付けてしまい、自称じしょう『男前』の顔はますます黒ずんだ。

「おのれ、しょうこりもなく……二度の偶然はないと心得よ!」

「お待ちください、王子」

 次の攻撃を仕掛けようとする王子をドゥレンズィが呼び止め、再度申し出た。

「王子のお手をけがす必要はございません。どうか私めにお任せください」

 王子を立てる事を忘れず、その上で無益むえきな戦いは自らが戦場に立つ。

 この時のドゥレンズィは、彼が敬愛けいあいしてやまないシェードの鏡、ゼスタフェを彷彿ほうふつとさせた。

 しかしそれは表面上だけの忠誠心で、内心ではごうを煮やしていた。

(チッ……なぜさっきの一撃で仕留しとめなかったのか理解に苦しむ。そしてはなはだ面倒くさい。

 それはそうと、王子の中途半端な攻撃のおかげで俺のベストにまで微量びりょうの土が付いてしまったではないか!

 このライトグリーンのベストは、俺のアンニュイなカッセルブラウンの髪色がきわ立つようわざわざコーディネートして特注したもの……!

 早く帰ってクリーニング店に出さなければ、汚れがとれなくなってしまう!)

「引っ込んでなよ、ドゥレンズィ。あたしの出番だよ。あんたはお洗濯の心配でもしてな」

 ドゥレンズィの心中を読み取ったのか、代わりにルースが手で髪をなびかせ前に出た。

(ドゥレンズィだって王子とおんなじだよ。すぐ終わる戦いを無意味に長引かせる可能性は十分じゅうぶんにある。

 男ってのは力をひけらかしたがるおバカな生き物だからねぇ。

 とっとと魔界に戻るためには、あたしがやるのが手っ取り早い……)

「王子、失礼を。ブレンドごとき、このルースが鎧袖がいしゅう一触いっしょくで片付けてみせます」

「フン、いいだろう。俺は高みの見物けんぶつとしゃれこうべするか」

「王子、それを言うなら『しゃれこむ』ではないでしょうか……(髑髏しゃれこうべはアンタのコートの裏っかわだろうが――っ!)」

 ドゥレンズィが、前半は口で冷静に、後半は心の中で荒々あらあらしくっ込みを入れた。

 
 土けむりがおさまってきた頃、ずっとピンぼけ状態だったシェードの姿に煎路は目をこらし、怒声どせいを上げた。

「おい、お付き! 今、害虫がいちゅう触角しょっかくって言わなかったか!?

 人を虫けら扱いしやがって。だいたい女みてえな声色こわいろ使ってんじゃねーよ!

 お前らたいがいにしね……え……と……」

 いきり立っていた煎路の勢いが、急に弱まっていく。

 その原因は、土けむりが消えクリアになった視界に飛び込んできた、なやましい眺めのせいだった。

「こ、こいつは夢か、幻か……」

 煎路はあまりの眺めの良さに、軽い立ちくらみを起こした。

 臙脂えんじのフレアパンツが風にひらめき、ワインレッドのレギンスとしなやかな足が垣間かいま見える。

 その二つの色から成る、ちょうが羽を広げたようなデザインのブラと胸の谷間。

 さらに上へいくと、女らしさを匂わせつつ引きしまった唇、

 紫色の目と姫カットの髪が実にセクシーな少女が、煎路の目の前にハッキリと存在していたのだ。

「おお……」

 少女の色気と美しさに感動するあまり、煎路は酔いが回ったような状態になる。

「煎路、しっかりしろ!!」

 敵である少女に戦闘意欲を奪われ、まるっきりぬけにされた弟のていたらく。

 さすがの焙義もいら立ちをしまい込めず厳しい声を叩きつけたが、

 すでに煎路は少女めがけて一直線に猛ダッシュしていた。

「君のためなら、俺は害虫にでも成り下がろう――!!」

 痛切つうせつな思いを胸には秘めず、大声で告白しながら……

「――なっ!?」

 敵の男がものすごい速度で真正面から接近して来る。

 これまで幾多いくたの戦いを経験してきたルースだが、こんな無防備な攻撃は見た事がない。

 何より、尋常じんじょうではない男の必死な目つきと黒ずんだ顔、その迫力――

「よ、寄るな――っっ!!」

 ルースはひとかたならない恐怖を感じ、ありったけのパワーで目前もくぜんに迫る男を吹っ飛ばした。

「ぬおおおおぉぉぉ――っ!!」

 煎路の身体がロケットのごとく上昇した後、加速をつけて下降した。

「……バカが……!」

 あきれ果てる焙義の背後に、弟だと認めたくない人型ひとがたの物体が墜落ついらくした。

「煎路さん! ちょっ……大丈夫っ?」

 ロンヤが駆け寄り、心配そうに声をかけた。

「ううう……ロンヤ、少女は……少女は無事か?」

「無事に決まってるよ。それより煎路さんは……」

 あお向けに横たわる煎路の身体を、ロンヤが起こそうとした時だった。

 雲のない夜空に、とつとして暗雲あんうんれこめた。

 雲の動きは異常に早く、薄黒かった満月が純黒じゅんこくきぬよそおい、完璧なまでの闇がつくられた。

「な、なん……だろう!?」

 ロンヤは左右に首をふり、あまりの暗さにうろたえる。

 ロンヤだけではない。煎路も、焙義も、三人の魔族たちさえもがいぶかしげな表情になり、

 魔族の特殊とくしゅな『暗闇仕様しようの目』を極限きょくげんにまで切り上げ、この奇奇きき怪怪かいかいな成りゆきに警戒を強めていた。

 次の瞬間――!!

 地上を突き刺すような赫然かくぜんたる血色の稲光りが走り、その場が一瞬、鮮烈せんれつに照らし出された。

「……もしや……」

 ドラジャロシーがいち早く事態の根源こんげん察知さっちまゆをひそめると、

「まさか……!」

 シェード二人も王子と同じ結論を導き出し、顔色を変えた。

 鼓膜こまくく程の雷鳴らいめいがなり響き、煎路が真っすぐ見つめる荒れた上空に、黒い渦とジオードが出現した。

 二つの大きなジオードと、ひときわ大きなジオードが――

「や、やはりそうか……!」

 ドラジャロシーが声をしぼり出したのと同時に烈々れつれつたる落雷らくらいしょうじ、

 激しい電流をともない三人の男女が彼らの前に姿を現した。

 ギリザンジェロとサファイア。そして、

 第一王子のもう一人のシェードである、こけ色まじりのオレンジがかった茶色の髪と、モスグリーンの目をした少年、マキシリュだ。



「なるほどな。ここが人間界か。満月の夜にしては真っ暗ではないか」

「王子、それは王子のジオードのせいではないでしょうか」

 マキシリュが率直そっちょくに言うと、ギリザンジェロはけだるそうに片手を上げて空をさし、力を込めて手首をひとふりした。

 すると、どうだろう。

 空に停滞していた六つの大型ジオードが急激に収縮していき、膨張ぼうちょうしていた黒雲こくうんまでもがその範囲をせばめていくーー

 黒装束くろしょうぞくの月は、本来あるべき妖しくも美しい黄金こがね色へとよみがえり、

 闇の世界があっと言う間に、ごく普通の明るい月夜になった。

 めまぐるしい変化に放心ほうしん状態のロンヤと、寝転がったままの煎路。

 焙義はもっぱら、二組の魔族を見比べていた。

 先に来た王子と類似るいじした服装の長身の男。

 その男に付き従う二人の男女もまた、先に来たお付きの者たちと似たような服装をしている。

 しかも、長身の男は先に来た王子と同じ口調で同様のセリフを言い、おまけに「王子」と呼ばれている。

 そしてその、稲妻いなづまを起こす程のとてつもない魔力――

「あの長身の男が、ドリンガデス国の第一王子か……」

 焙義がそう確信すると、ドラジャロシーは驚倒きょうとうした。

「き、貴様! なぜ分かった!?」

「……俺の弟以外なら、誰にでも分かる事だろうな」

 髪の上から右目を押さえ、焙義はため息まじりで言葉を返した。

 
 自然がもたらす照明のもと、ギリザンジェロはまず、見あきた弟たち三人の顔を一瞥いちべつしてニヤリと笑った。

 つま先に尖鋭せんえいつのが生えた白いロングブーツの重々おもおもしい音をたて、  

 ギリザンジェロは、特に目にしたくないドラジャロシーの前にあえて近付くと、腕組みをして見下ろした。

「ドラジャロシー。貴様、ずいぶんと無謀むぼうな計画を立てたではないか。

 人間界を征服せいふくするとほざいていたそうだが、正気しょうきのさたではあるまいな」

 それを聞くや、ルースはギョッとしてサファイアに視線を投げかけた。
 
 サファイアは思わずマキシリュの後ろに身を隠し、ヒョコッと顔を出して「ごめん」と言わんばかりに両手を合わせた。

(サファッ。あれほど口止めしといたのにっ)

 ルースの口元がピクピク震えている。

(ルース。これには深くもないけど浅くもない訳があるのっ。うちの王子が変態になったりするもんだから!)

 サファイアは、目立たないよう「王子のせい」だと指で示しうったえるが、ルースに通じるはずもない。

 ルースと同じく、ドラジャロシーの口元も小さく痙攣けいれんしていた。

 それでもかろうじて笑みを浮かべ、平静へいせいを取りつくろう。

「人間界を征服? さあな。酒の席でそんな冗談を言ったかもしれんが……

 兄上ともあろう者が、そのような話を真に受け人間界ここまでくだって来るとは……

 それこそ、正気のさたとは思えんな」

「フン、口がへらぬ愚弟ぐていめ。

 この俺が、貴様ごときの戯言ざれごとひとつで人間界くんだりまで足を運ぶと思うか」

「……!? それなら、なんでわざわざ来やがった!?」

 ムリヤリに作った笑みがほころびを見せ、ドラジャロシーは眉根まゆねを寄せた。

「決まってるだろ。征服するためだ。この世界をな……

 言っておくが、俺は腰抜けの貴様と違い冗談ですませるつもりはない。あくまで正気のさたと知れ」

「お、俺だって本気だっ!! 人間界を手に入れるのはこの俺だ!!

 先に生まれたクセに後から来て先こそうとしてんじゃねーよ!!」

 ドラジャロシーの創作した微笑びしょうは完全に崩壊ほうかいし、憎らしい兄に向かい臨戦りんせん態勢に入ると、

 口から銀色のナイフみたいなきばを伸ばしてむき出しにした。

 ドラジャラロシーの頭上には、ワイルドホース的な白と赤茶色のマーブル模様のたねがグルグルと回転している。

「やはり本気だったか、ドラジャロシー。しかも、俺に対して牙を出すとは身のほど知らずな奴よ。

 いいだろう……まずは貴様から打ちのめしてくれる」

 魔族は各段に強い魔力を持つ者に限り、相手を威嚇いかくする際や真剣勝負を意識した際など、口から瞬時に牙が生えてくる。

 この場でドラジャロシーが牙を出したのは単なる威嚇ではなく真剣勝負をするつもりである事を、ギリザンジェロはさとっていた。

 自らも、口元に鋭利えいりな牙を出しギラつかせると、

 胸部きょうぶからは、密林みつりんに飛び散った血しぶきをイメージさせるブラッドストーンに似た種を引き出した。

「王子!!」

 四人のシェードがこぞって声を上げる。

 王家兄弟のえげつないケンカは、常日頃のあいさつのようなもの。

 しかし今は――

 人間界という、世界の満月の影響なのだろうか。それとも魔界ではないという解放感がそうさせるのか……

 長年そばにつかえてきたシェード達すら見た事のない、心底からの憎悪ぞうおと敵対心に、二人の王子はとりつかれていた。

「ちょっと、マキ! どーしよう!? なんかこれ、やばくない!?」

 あせったサファイアの上ずった声を聞くが早いか、マキシリュはとっくに走り出していた。

(このままでは、王子のお立場が!!)

 身をていしてでも二人の戦いを阻止そしするため、迷わず前進する。

 マキシリュは、シェードの義務だけではなく、ギリザンジェロを心からしたい仕えてきた。

 ギリザンジェロのシェードである事が、彼にとって何よりの誇りであり、生きがいですらあるのだ。

(何としてもお止めしなければならない!!)

 無我夢中で王子の前に踏み出そうとしたマキシリュの前を、何かがビュッと横切った。

 鳥か? それとも突風とっぷうか――!?

(どっちでもないっ。あれは矢だ!)

 マキシリュはそう思い込んだのだが、実際ソレは矢ではなく、一本の長いかたなだった。

 刀はにらみ合う王家兄弟めがけ、矢をしのぐ速さで飛んでいく。

「!!!!」

 向かってくる刀に気付いたギリザンジェロとドラジャロシーはほぼ同じタイミングで反射的に退しりぞき、

 自分たちの交戦を妨害ぼうがいして通り過ぎた刀を目で追った。

 刀はブーメランのように大きく旋回せんかいしたのち、持ち主の元へと戻った。

 名刀めいとう、『深中浅しんちゅうせん』――

 それは焙義にとって、ある意味種よりも大切な唯一ゆいいつ無二むにの魂だ。

 そう、名刀『深中浅』が戻ったのは、焙義の手の中だった。

「お前ら……本当に血を分けた兄弟なのか!?」

 焙義は顔をしかめ、刀身とうしんさやにおさめる。

「兄は弟を見守り、弟は兄をうやまう。兄弟ならどんな時でも信じ合い、助け合うべきだろ」

「そおそお……兄を敬うってのはどおかと思うけどよ。兄弟ってのは仲良く協力するもんだぜ」

 兄に同意しながらむっくりと起き上がった煎路は、ロンヤの肩を借りフラつきながらもどうにか立ち上がった。

 この時、煎路の目は第一王子を通りこし金髪の可憐かれんな美少女、サファイアの姿をキャッチしていたのだが、

 さすがに今の千鳥ちどりあしでは美少女に突進したくてもかなわない。

 突進どころか、立っているのがやっとの情けないありさまだったのだ。

「貴様ら……何者だ」

 ギリザンジェロは牙と種を引っ込め、初めて目にする人間界の三人を品定しなさだめするように見すえた。

「そおいやまだ、虎次郎たちにも名のってなかったよな……」

 煎路はロンヤから身を離すと何とか一人で踏んばって立ち、

「教えてやるよっ。俺の名は度合煎路! 人間と魔族の間に生まれた生粋きっすいのブレンドだ!」

 声も高らかに、意気いき揚々ようようと自らの名を告げた。

(ブレンドを生粋とは言わねえだろっっ!!)

 焙義とロンヤは頭をかかえた。

「ほお……ブレンドか……それで魔力が使えるワケか」

 ギリザンジェロの血潮ちしおのような赤い目が、より鮮明になった。

「虎次郎。その人相にんそう悪いのが『横暴おうぼう河童かっぱ』『キスいやいや』のにーちゃんか?

 しばらく二人のやりとりを聞かせてもらったが、予想以上の意地の悪さだな」

「分かったようだな。その通りだ。

 魔族史上しじょう、間違いなく三本の指に入るであろう性悪しょうわるの兄だ」

「黙れ、愚弟。生きて魔界へ帰りたければそれ以上発言するな。

 それはさておき……そこのオレンジ!」

 ギリザンジェロは煎路に目をやり、まじまじと見つめた。

「な、なな、なんだよっ。なに見てんだよ!

 あっちの金髪と紫のお嬢ちゃんなら嬉しいけどよっ。男に見つめられても気持ち悪いだけだぜっっ」

「貴様、この俺が『キスいやいや』とは何を根拠こんきょにそのようなデタラメを!

 どこぞの美女がそれを聞いたらどう思うか考えてみろ。『あの方はキスがお嫌いなのね』と誤解されてしまうだろうがっ。

 どおだっっ。弁明べんめい次第では、ただではおかんぞ!」

「お、俺は知らねえよっ。そこにいる虎次郎が『キスいやいやの兄』とか言うからよっ……」

 ギリザンジェロの気迫きはくに押され、へっぴり腰になった煎路がドラジャロシーを指さすと、

 鋭く赤いギリザンジェロの目の玉がドラジャロシーの方へと動いた。

「ち、違うっ。俺は『気随気儘』だと言ったんだっっ。それをあのブレンドのタラコがっ!」

「認めるのだな、ドラジャロシー! やはり貴様が『キスいやいや』だと言い広めたのだな!

 そうまでして俺の印象を最悪にしたいのか!!」

「『気随気儘』と言うとるだろーが!! 何を聞いとるんじゃ! よーく聞け! 『気随気儘』じゃ!!」

「おのれ、まだ言うか!! 『キスいやいや』などと口から出まかせを! 『キスいやいや』などとぉぉぉ――!!」

 犬も喰わない口ゲンカを続ける王子二人を取り囲み、それぞれの者たちの思いが交錯こうさくする。

マキシリュ:(この程度の口論なら毎度の事だが、人間界での王子たちの感情は高ぶっておられる……

 今度こそ、俺が何とかしなければ!)

ドゥレンズィ:(ベストを早く洗わなければ汚れが、汚れがしみ付いてしまうではないか!)

ルース:(あ~あ。ますます帰れなくなったじゃないのさ。サファの奴、ぜーったい温泉に沈めてやるよ)

サファイア:(あたしのせい? 全部あたしのせいなの!? でも、このケンカの原因はあたしじゃないよねっっ? どーでもいいけど、温泉に入りたいっ!)

煎路:(虎次郎、先に生まれた兄貴が気に入らないとはいえ、このやり方には賛成できないぜ。

 唇をこよなく愛する一人の男として、にーちゃん王子が絶望する気持ちは痛いほど分かる……)

焙義:(煎路、全てお前のせいだ。この状況を何とかしろ)

ロンヤ:(えっと……人間界征服は、どうなったのかな……どう……あ? あれ? 空が……)

 真上に顔を上げたロンヤのメガネに、ポツリと雨粒が落ちてきた。

 のしかかってくるような灰色の積乱雲せきらんうんが、目にもとまらぬ速さで空を支配していく。

「おいおいおい、またかよ! 今度はどなた様が登場するんだぁ!?

 こおなったら三男でも四男でも何でも来やがれ!」

 復活をとげた闇に向かってか、本降りになってきた雨に向かってか、煎路はヤケクソになって叫んだ。

 空で記者会見でもしているように、カメラフラッシュの発光みたいな雷光らいこう明滅めいめつを繰り返す。

「――うっっっ!!」

 時々発する青色のスパークが、ギリザンジェロとドラジャロシー、王家兄弟の背筋を凍りつかせた。

「ク、クソ親父――っ!!」

 歯をギリリと食いしばり、二人の王子は重苦しい声をひとつに重ねて絶叫ぜっきょうした。

 雨脚あまあしが、だんだんと強まってくる。

「王子っ! 人間界に来ている事が王の知るところとなったようです!

 いっこくも早く魔界へお戻り下さい!」

 マキシリュは身を低めて、王子たちをせき立てる。

「兄上、しくじったな……!」

「バカを言うな! 俺たちは誰に……も……」

 ギリザンジェロの脳裏のうりに、ゼスタフェの顔が浮かび上がった。

 あの時、うっとうしげな前髪の下から自分に向け、視線を直射ちょくしゃしていた父のシェードの顔が――

(ゼスタフェの奴……俺の行動を不審ふしんに思い、オンボロ車でパンかじりながら張り込んでいやがったか……

 ドラマの刑事デカみたいなマネを……!

 奴のかじるパンは平凡なモッツァレラピザふうトーストか、それともクロワッサンサンドか……

 いや、おつに澄ました奴の事だ。ちょっと小粋こいきにアンパンかもしれん!)

「王子! お急ぎ下さい!!」

 四人のシェードが、荒れた空に魔力でジオードを拡大させる。

 ギリザンジェロとドラジャロシーは降りすさぶ雨で視界不良の中、未練ありげに煎路たちブレンドを改めて目に焼き付けた。

「兄上だけでなく父上まで……

 とんだジャマが入ったが、次こそは必ず貴様らを俺の配下にしてみせる。その日まで、存分に楽しんでおくんだな」

「愚弟の言う事は無視しろ。人間界をぎゅうじるのはこのギリザンジェロ様だと覚えておけ」

「……覚えておこう……」

 最後に、二人の王子が吐いた捨てゼリフ。

 焙義は端然たんぜんとした姿勢を保ちつつ、刀を持つぬれた手に力を込めた。

 多量の雨だけでは不十分なのか、王子二人を標的ひょうてきとして今度はひょうまで降ってきた。

「いてっ! いててててっ! あのクソ親父っ! いてててっっ!!」

 頭を腕でかばいながら、二人は一目散いちもくさんにジオードへ飛び乗った。

 こうして、黒い渦とジオードと共に、魔族たちは目的を果たせぬままあわただしく人間界を後にした。

 今までの悪天候がウソのように、空は雲ひとつ見当たらない晴れた夜空へと戻ったのだが、煎路の心はくもっていた。

(ギリ……タン、ベロ、ベロ? あ、あいつら。まさかとは思うが、敵に舌をかませるのが目的なのか……?)

「結局……戦わないで、終わったね……」

 気がぬけたとたんに、ロンヤの腹がググゥ~ッと、音をならした。

「そういえば、ロンヤは夕食の途中だったな」

「う、うん……」

 焙義とロンヤが顔を見合わせ笑顔になると、焙義の名刀は役目を終えたかのごとく、消失しょうしつした。

 ―――――――――――――――――――――

「豆実! クッペ! 帰ったぞ!」

 煎路の威勢のいい声が、リビング中のガラス窓に反響はんきょうする。

「みんな!! 無事だったップか!! 無事だったップか!!」

 待っていたクッペが空中で舞い踊り、小さな体全身で喜びを表現する。

「……お兄ちゃん、煎ちゃん、ロン君。お帰りなさい……」

 三人を出迎えた豆実の目がうるんでいるのに誰もが気付いていたが、あえて知らないふりをした。

「思ってた程の強敵じゃなかったよなっ。六人の敵をものの五分で倒してやったぜ! なっ、アニキ、ロンヤ」

「確かに相手は六人だったが、俺たちはギリギリかわしただけだ」

 大法螺おおぼらを吹いてソファに座る弟を尻目しりめに、焙義は涼しげな顔でありのままを伝えた。

(……アニキめ。なにフツーに語ってんだよ。俺の立場、どうしてくれるんだ……)

「かわしただけで、どうやって勝ったップか?」

「いや、その……勝ったワケじゃなくて……なんて言うか、えっと……」

「ホントの事ゆうとよ。あいつら勝手にうちわもめ始めやがって、しまいには何かの事情があったみてえで帰っちまったんだよな。王子ってのはとことん気まぐれだよなぁ~」

 ロンヤの説明では夜が明けてしまうので、煎路が代わりに話をまとめた。

「王子!?」

 豆実とクッペが目を丸くする。

「魔界の王子なの? 王子が人間界に来てたの!?」

「ああ。ドリンガデス国の王子が二人、お付きの男女につれられてな」

 煎路の言葉に、クッペは思わず身ぶるいした。

「ガフェルズ王家ップか!? 魔族最強の一族ップよ! お付きもただのお付きじゃないップ! 最強の護衛ごえい『シェード』ップよ! また来たらどうなるップか!」

「来るだろーな。人間に制服せいふく着せるとか言ってたからな。でもよ、さっきも言ったように王子ってのは気まぐれだからよ。そう言いながら来ねえかもしれねーし」

「ホントに、よく無事に帰って来られたわね。天気がコロコロ変わってたのも、王子たちの仕業しわざだったの?」

「最後の雹をのぞいたらな。あれは多分……」

「多分、なんなの? 煎ちゃん」

「別に……なんでもねえよ。それより今夜分かった事は、王家の兄弟は信じらんねえくらい仲が悪いって事だ」

 何を思ったのか、煎路は急に浮かない顔つきになり、皆に背を向け階段へと向かった。

 そして、階段を上がりきり三階のテラスに出ると、安定を取り戻した平穏へいおんな夜空を真似まねて下に広がる街の夜景を見下ろした。

「……親父か……」

 ふうっと、ものさびしさが、煎路の心の扉をノックした。



「俺たちだけじゃないだろ?」

「――アニキ!」

 いつの間にか、煎路の後を追って来ていた焙義が隣りに並んでいた。

「ロンヤは両親の顔も、名前すらも知らずに育ったんだ。豆実も同じようなもんだ。分かっているのは母親の名前と彼女が人間だったという事だけだ。

 でも俺たちは違う。両親の名前を知っているし、母さんとの思い出もあるじゃないか。それで十分だろう?」

「……分かってるよ」

 煎路は、豆実とロンヤのいる下の階に顔をかたむけ、妹のような弟のような二人がいとおしい気持ちでいっぱいになった。

「ヘヘッ。あいつらを守ってやれるのは俺たちだけだもんな。奇妙な敵も出来ちまったしよ。変な感傷かんしょうにひたってる場合じゃねえよな」

「ああ……」

 焙義はふと、弟の横顔に母の面影おもかげを見た。

 そうなのだ。煎路は亡き母にとてもよく似ている。性格は別として――

 母は賢く、美しく、いかなる時もりんとした女性だった。

 強い魔力としんの優しさをかねそなえていた。

 焙義にとって母は、理想像そのものだった。だからこそ、母に恥じないよう礼節れいせつを重んじ、真実しんじつ一路いちろに生きてきた。

『焙義、アンタは本当に……に似ているわ』

 母がし目がちに自分を見てつぶやいた言葉が、今でも心に残っている。

 父ではない誰かに自分が似ているという事、その人物が母にとってつらい過去である事を、焙義は子供ながらにおしはかっていた。

「なあ、アニキ。アニキってばよっ」

「……!!」

 煎路の呼びかけで、焙義は記憶境きおくきょうから引き返した。

「あ、ああ……なんだ?」

「アニキはどっちなんだよ?」

「は……? 何の話だ?」

「だからぁ~、紫の女の子と金髪の女の子! どっちがタイプかって聞いてんだよ」

「ったく……お前って奴は……」

「俺はどっちもタイプだなぁ。グフ、グフフフ」

 魔界から来た二人の美少女を思い出し、煎路はふくみ笑いをする。

「煎路」

「あ?」

「それでこそ、俺の弟だ……!」

 焙義が語調ごちょうを強めてほほ笑むと、兄の優しい笑みが煎路はやたらと嬉しくなった。

 どうしてなのかは分からない。ただ、なんとなく……

(兄弟だもんな、俺たち――)
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