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【3】

「血もしたたる、いいかげん男」

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 雄大ゆうだい山々やまやまから成るドリンガデス国の王城おうじょう、ゴービーッシュ城。

 中でも、そそり立つ岩山のグラインだけ圧巻あっかんで、グライン嶽上部じょうぶには王族の生活スペースがもうけられている。

 王と王子の部屋には大きな両開きの扉が四つあり、ひとつは屋内おくないの廊下に通じる正式な出入口で、

 後の三つは寝室、浴室、露台ろだいへと通じている。

 そして他にもうひとつ、部屋の片隅かたすみに小さな片開きの扉がひっそりと存在していた。

 その扉の外は断崖だんがい絶壁ぜっぺきとなっており、

 一歩み出す前から足がすくんで動けなくなる程、傾斜けいしゃの急なせまい岩の階段が、

 下りても下りても地上が見えない状態で延々えんえんと続いている。

 片側の絶壁以外に手すりやかこいなどいっさいなく、

 足を踏み外せば誰しも一巻いっかんの終わりとなる事は間違いない。

 これ程までに過酷かこくけわしい階段をものともしないのは、

 部屋のぬしをのぞいては、彼らにつかえるシェード達だけだ。

 他の者が登りきるのは不可能である事に加え、シェード達が急を要する際になど、

 すみやかにあるじの元へ向かうため効率的に利用している事もあり、

 この岩階段は『シェードの近道』と呼ばれていた。

 その過酷な『近道』を、なんなくけ上がって行く少女、サファイアの姿があった。

「好きになれないなぁ、この階段。

 上に行けば行くほど風がきっついんだよねっ。でもやっぱり近道だし……」

 可憐かれんな美少女だが、魔族であり、第一王子のシェードである。

 人間はもちろん、一般の魔族よりもはるかに体力がある。

 折れそうに細いその身体からは、全く想像もつかないが……



「王子、お待たせいたしました」

 小さな扉の前に着いたサファイアが、ノックをして声をかける。

「入れ」

「失礼します」

 扉を開けるといつも、部屋の中の遊んでいるムダな空間が視界いっぱいに広がり、どうもしっくりとこない。

(こんなバカでかい部屋、落ち着かないよね。

 つうか、王子どこっ? 声は近かったようだけど)

 室内に足を踏み入れ、真っすぐ前を向いたまま、ピンク色の目玉をキョロキョロさせるサファイア。

 すると、彼女の死角しかくとなる、扉のすぐ横の壁際かべぎわから……

「待~ち~く~た~び~れ~た~ぞ~」

 不気味な目つきのけだものの顔が、ヌーッと出て来た。

「きゃ、きゃあああ――っっ!!」

 予期せぬ獣の出現。

 仰天ぎょうてんしたサファイアの強烈きょうれつなアッパーカットが、高い天井てんじょうに獣を頭からした。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ」

 まだ手に残る、獣を突き上げた余韻よいんのほてり。

 何度か肩で大きく息をした後、呼吸を整え、サファイアは冷静さを取り戻す。

「あ~、びっくりした。なんだってあんな魔獣まじゅう、部屋でってるワケ!?

 どこで拾って来たんだか。しかもあの魔獣、なんかしゃべってたよ。

『待ちくたびれた』とかなんとかさぁ。

 けだもんのくせに、なぁ~にが待ちくた……び……」

 サファイアは、気づいてしまった。

 不気味な目つきの獣がしゃべっていた事実。

 その獣が待ちくたびれていた事実。

 そして、部屋中くまなく目をやっても、声がしたはずの王子がどこにも見当たらない事実。

 これらを総合して考えると――

(ゲッッ! あたしってば、またやっちゃった!?)

 サファイアが見上げるよりも先に、天井に突き刺した獣が自力でズズッと頭を引き抜き、転がるように目の前に下りて来た。

 頭から流れる血がひたいをつたい、鼻筋を通って床にポタリ、ポタリと落ちている……

 サファイアが気づいた通り、

 この獣は魔獣ではなく、この部屋のあるじ、第一王子のギリザンジェロだったのだ。

「お、王子っっ! 申し訳ありません! 王子を魔獣と間違えるなんて!

 でも悪いのは王子であり、いえ、その獣みたいな目つきであり……」

 あわてふためくサファイアをよそに、王子は自らのしたたり落ちる血を手の平で受け、ボソリとつぶやいた。

「我が心は、この血のごとし……」

「……へ?」

 今度という今度は打ち所が相当そうとう悪かったのか?

 サファイアは、王子の顔をまじまじと見つめた。

(と、とうとう頭おかしくなっちゃった? まあ元からおかしいけど。

 でも今のセリフ、どっかで聞いたような……?)

 ギリザンジェロは、さらに続けてつぶやく。

「血にえた王家の、血られた城で、聖ならぬさかずきに血をそそぎ、君を花嫁として迎えよう……」

(――そ、それって!)

 サファイアは思い出した。

 そのセリフは、いつか王子に代筆を命じられて自分が書いた、ラズベリー姫への恋文こいぶみの書き出し文だった。

「王子っ。まさかあの恋文を送られたんですか!? それじゃあ、これは……」

 サファイアは自らの青いブラの中から、王子に渡すつもりだった一通の封筒を取り出した。

 女性らしさがうかがえる、花柄はながらのその封筒を裏返すと、

 差出人の名は『ラズベリー=ジャム』と、しるされている。

「おお! ラズベリー!!」

 差出人の名を見るや、うつろな状態だったギリザンジェロの赤い目に、生気せいき宿やどった。

「サファイア! 早く読むのだ!」

「王子っ。あの恋文はお捨てになったものとばかり……」

「仕方がなかったのだ。

 先日は体調をくずして手紙は結局、未完成に終わった。

 これ以上ラズベリーを待たせる訳にはいかぬと思ってな」

(な、なに考えてんのっ。バカ王子!

 だからってあんな変な恋文を送るか? フツー!

 まさかこのラズベリー姫からの手紙が、あの時のろくでもない恋文の返事だったとはっっ)

「安心しろ、サファイア。

 あの手紙だけでは俺の情熱が伝わらんだろうからな。

 実際、我が血にまみれたハンカチーフを同封しておいた」

(……なに? なになに? この男、あたしの事おちょくってるの?)

 サファイアのはらわたの一部が、煮えくり返ってきた。

(誰がどう考えてもあん時の恋文は、花嫁じゃなくて生贄いけにえとして迎える文だよね。

 そのうえ血まみれのハンカチーフゥゥ?

 アンタがバカであればある程、シェードのあたしまでいい笑いモンになるんですけど……!)

 バカ王子にもう一度パンチを食らわすすんでの所で、サファイアは何とかふみとどまった。

 ――最期まで、王子を守り服従ふくじゅうせよ――

 サファイアの怒りをしずめたもの。

 それは、子供の頃から聞かされてきたゼスタフェの教えだった。

「何をしている、サファイア! さあ、早く手紙を!」

 子供のように、目を輝かせるバカ王子。

 サファイアはためらいつつ爪先つめさき丁寧ていねいに封を開け、ラズベリー姫からの返事を読み始めた。

「……『血なまぐさい王子様。

 お手紙心より嬉しくなくご拝見はいけんいたしましてそうろう』……」

「な、なんと教養ある文面ぶんめん! ラズベリー、やはり俺からの手紙を待っていたのか!」

(よく聞け。『心より嬉しくなく』っつってんだよ。

『血なまぐさい』だよ。血なまぐさいんだよ、アンタ。

 それにこの姫、あたしの敬語より最悪じゃん)

「サファイア、続きを!!」

「……『王子と初めてお会いした時の事、今でも忘れられません。

 どこの牢獄ろうごくから脱走して来た極悪人かと、私ったら本当におびえてしまって』……」

「フッ。そうだったな。おびえる君は、いっそう美しかった」

(そ、そんなエピソード!?)

 懐かしそうに笑みをこぼすギリザンジェロとは対照たいしょう的に、

 サファイアは読み進める程、イライラ度がつのってきた。

「『今でも毎夜まいよ、王子のお顔を思い出すだけで震えが止まらず、

 王子の夢を見るたびにうなされております』」

ごと俺の事を思い、夢にまで見ておるとは……なんと愛おしいことよ」

「(ちょっと黙ってろ。マジはら立つから)……

 『王子からのお手紙は、いつも何を書かれているのか分かりませんでしたが、今回いただいてしまったお手紙は、最後まで読む事が出来てしまいました。

 どなたが代筆されたのでしょうか? 若い女性の文字のようですが』」

 その文に反応し、浮かれてにぎやかだったギリザンジェロが突如とつじょ、沈黙した。

「王子……?」

「サファイア……もしかしたらラズベリーは、俺のそばに女の気配を感じとり嫉妬しっとしているのやもしれぬ」

(……ないから、ソレ。絶対に有りえないからっ。

 でも……そうだ!!)

 サファイアは、良い事を思いついた。

「王子のおっしゃる通りだと思います!

 女性は何かと敏感びんかんですからね。

 ですから誤解されないためにも今後は、恋文は王子ご自身がお書きになられた方が良いと思います!」

「しかし、今まで俺が書いた恋文には何の返事もなかったのだ。

 おそらく、俺の字が達筆たっぴつすぎて気おくれしていたのであろう……」

(アンタの字は何書いてんのか分かんなかったんだよっっ。

 なんで都合のいい部分しか聞いてないワケ??)

 ギリザンジェロはおもむろに、露台へ出るガラスの扉へと歩き出した。

 床には、道標みちしるべのように血のしずくつらなっている。

 露台に出たギリザンジェロが見つめる空には、思いを寄せるフルーテュワ国の年上の王女の顔が浮かび上がっていた。

 その目、髪の色からは、熟したラズベリーの赤い実が連想され、ぽってりとした唇もまた赤くれている。

 健康的な肌と、ショートヘアをいろどるハイビスカスのヘアコサージュは、いかにも暖国だんごくのフルーテュワ的だ。



 姫を思う王子のやるせない気持ちが、サファイアにもひしひしと伝わってきた。

(片思いって、つらいもんだよね。

 王子は両思いだとかん違いしてるけど、実際は片思いだもんね……

 分かる。痛いほど分かる。

 それなのにあたしったら、恋文作りのお手伝いから逃げようとするなんて……

 もっと優しくしてあげなく……ちゃ……)

 サファイアはふと、手紙の文に視線を戻し、次の一行に目を見ひらいた。

「王子っ。聞いてください! もうすぐ姫の誕生日パーティーがひらかれるかもですよ!」

「なに!? 誕生日が近いのか!?」

「誕生日をご存知ぞんじなかったんですか?

 ええ、それっぽく書かれてあります。

『お心もふところもあたたかいドリンガデス国の王子様にふさわしく、

 豪華なバースデーパーティーにいたします事でございましょう』って!」

「しょ、招待状ではないか! こうしてはおられぬ! 

 フルーテュワ国へ向かう支度したくを整えねばっ。

 サファイア! マキシリュにも伝えるのだ。夜中にはつとな!」

「こ、今夜ですか!?」

「くれぐれも父上と愚弟ぐてい、そのシェード達にかぎ取られんようにしろ!」

「は、はいっっ」

 返事を最後まで読み終えぬままライティングデスクの上に手紙を置き、

 サファイアは片隅の小扉から外へ出て『近道』の岩階段を駆け下りて行った。

 長く険しい階段が終わり、石橋を駆け抜けシェードの住処すみかに駆けこむと、

 今度は石の階段を駆け上がって行く。

(か、駆けてばっかりだよ、あたし! さすがにしんどっっ!)

 石階段を上がってすぐ右にある、茶色いドアわくの木製ドアの前まで来ると、

 ようやくサファイアは足を止めた。

「マキ、マキッ。居るんでしょ? 開けてっ」

 周りを気にしながら、忍び声で小さくドアを叩く。

「サファか? 手紙を届けに王子のご自室じしつへ行ったものとばかり……」

 ドアが開き、中からマキシリュが出て来た。

「しっっ!!」

 再度、周りを確認すると、サファイアはマキシリュの部屋の中に素早く入りこみ、そーっとドアを閉めた。

「なんだよ。何かあったのか?」

「王子がね、ラズベリー姫に会いに行くんだって」

「フルーテュワ国へ!? いつだ!?」

「夜中に発つって言ってるよ」

「今夜なのか!? でも――」

「こりないよねぇ。人間界の一件で、王の怒りもめやらぬままだってのにさ。まあ、気持ちは分かるけど」

「なあ、サファ……王子はフルーテュワ国の王女に本気なんだろうか」

「今さら、なに言ってんの!?」

 マキシリュは深刻な面持おももちになり、ベットのはしに腰をかけた。

「まだ間に合うなら、これ以上ラズベリー姫に関わるのはお止めした方がいいよな」

「マキ……どうしたの?」

「このままでは、王子のお立場が……」

 マキシリュは、ギリザンジェロの身を心配していた。

 おおやけにはされていないが、ギリザンジェロには両親により定められた婚約者こんやくしゃがいるのだ。

 婚約者の名はキャヴァ。

 王妃マーデリンのめいで、ガフェルズ家に養女として迎えられ、同じ城の中で共に育ってきた。

 言うまでもなく、今も同じ城内に暮らしている。

 キャヴァは子供の時分じぶんより王妃になるための厳格げんかくな教育を受け、

 いずれは王位をぐであろうギリザンジェロの妻となるべく並々なみなみならぬ努力をしてきたのだ。
 
 その婚約者をなおざりにして、他国たこくの姫に夢中になるなど言語ごんご道断どうだんな行いだった。

「マキ、大丈夫だって。王子は本気でもラズベリー姫はテキトーなんだから。

 テキトーにあしらわれ続けてる内に、王子もいつかは目がさめるんじゃない?」

「あの王子が? 目をさまされると思うか?」

(さめない? さめないよね、やっぱ。つうか、一生かん違いしてるよねっっ?)

 二人は、自分たちがつかえる王子の性分しょうぶんを知り尽くしている。

 ほしいと思ったモノをそう簡単になあきらめる男ではない。

 それどころか、ほしいと思ったモノがすでに手に入っていると都合良く解釈かいしゃくして、勝手に盛り上がっている。

 王子ゆえのうぬぼれの強さか――

「考えたって仕方ないよ、マキ。だいたいさ、王子をお止め出来ると思う?」

「……そうだよな」

「とにかく今は、誰にもかぎ取られないように王子のおともをしなくちゃだよっっ」


 そうして、夜がじんわりとけた頃。

 ギリザンジェロとシェード二人は、

魔馬まば』と呼ばれる魔界の馬にまたがり、

 ギリザンジェロを先頭に城門へと続く長い崖道がけみちを走っていた。

 走れども走れども、両側の視野しやから離れない、脈々みゃくみゃくたる岩山の城。

 慣れてはいても、先を急いでいる時はなかなか抜けられず、わずらわしくなってくる。

 ようやく門が見えてきた時点じてんで、

 マキシリュとサファイアは二人の門番たちに向け、気をうしなわせる程度の軽い魔力を放った。

 その場でバタリと倒れ込む門番の横を行き過ぎる、三頭の魔馬。

「ごめんね。ちょっと眠っててねっ」

 サファイアはいたずらっぽい笑みを浮かべ、ウィンクをした。

 ――――――――――――――――――――

「ん……もう、朝……?」

 窓から入る朝の日差しが、すき通るような肌に触れ、キャヴァは目覚めた。

 起床きしょうするやいなや、隣りの浴室へ向かい湯浴ゆあみをすませると、

 パールホワイトのワンピースドレスを身につける。

 そして、いそいそと寝室に戻るやドレッサーのイスに腰を下ろし、

 しなやかな手で、限りなく透明に近いピンク色がかった髪にくしを入れ、

 最後に、青紫の幽光ゆうこうゆかしいタンザナイトの髪飾りを、さも大事そうに扱いながら髪につけた。

「これがないと、一日が始まりませんわ」

 どこを見ているのか、おぼつかない目に消え入りそうな容姿と、鈴ののような声。

 ドレスをあやなすバラのコサージュもほのかな色合いで、

 全体的に色素しきそが薄くはかなげなキャヴァは、

『王女』でありながら存在感がない、そんな自分に悩んでいた。


「姫さまっ。お一人で湯浴みされたのですか!? おぐしもつくろわれて……私の仕事でございますのにっ」

 部屋から廊下に出たキャヴァに、彼女の侍女じじょが声をかける。

「後でお買い物について来てちょうだい。お昼前には出かけたいわ」

「贈り物は何になさるか、お決めになったのですか?」

「いいえ、まだよ。だから早く出かけようと思っているの」

 キャヴァは言葉少なに、部屋を出て食堂へと足を進めた。

 彼女の歩調ほちょうは氷の上をすべるみたいに速度があり、それでいて軽やかで、足音ひとつしない。

「姫さま、お待ちくださぁ~い!」

 ぽっちゃり体型の侍女は到底とうていついて行けず、途中で置き去りにされてしまった。


 扉が開放かいほうされてある、食堂の前。

 キャヴァは、中から聞こえてくるマーデリンとパンダの話し声に耳をかたむけた。

「ギリザには困ったものじゃ。キャヴァの事をどう考えているのであろう」

「ご心配には及びません、王妃。

 他国の王女に寄せられている王子の思いは、一時いっときの感情にすぎません。まだお若いですから」

「……だと良いのじゃが。

 なにしろ、外見からは想像もつかぬロマンティストな父親に、その部分だけは似ておるからのぅ」

(似てらっしゃるのは、ロマンティストな部分だけではございません。

 全てです。全て似ておられます。それも悪い意味で……)

 パンダは、無表情で黒メガネのブリッジを上げた。

「どうかしたのか? パンダ」

「いえ、何も……」

「ああ……ギリザとキャヴァの距離がちぢまる、何か良い案はないものか……」

 マーデリンが眉間みけんを押さえ、深く息を吐く。

「王妃。お二人の距離を縮められる前に、お二人のご自室の距離を縮められてはどうでしょう」

「部屋じゃと?」

「お城のあまりの広さゆえに、王子と姫がお顔を合わせる頻度ひんどは数少ないと存じます。

 ご自室が近くなれば、お二人が会われる機会も増え、互いに意識し合うようになられるのでは……

 さいわい、未使用のまま眠っている部屋が寝息ねいきの数ほどございますし」

「おお、パンダ! パンダのぶんざいで、それは良案りょうあんじゃ!」

「……恐れ入ります」

 ガフェルズ王家には、特別な場合をのぞき家族が食事を共にするなどの習慣しゅうかんがない。

 バッタリ遭遇そうぐうするか、相手の居る場所に出向いて行かない限り、

 この広い城内で幾日いくにちも顔を合わさないのは決して珍しい事ではなかった。

「……母上さま」

 キャヴァが食堂の入口から呼びかけると、

「キャヴァッッ。い、いつからそこに!?」

 マーデリンは、いつにない動揺どうようを見せた。

(パンダとの会話を、聞かれてはいないだろうか――)と……

「たった今ですわ。おはようございます、母上さま。わたくし、今日はお買い物に行って参ります」

 素知らぬ顔でキャヴァが食堂に入って来ると、パンダはイスを引いて彼女をスムーズに座らせた。

「キャヴァ、そなたに相談があるのじゃ」

 先ほどの会話を聞かれていなかったと安堵あんどしたマーデリンは、

 さっそくキャヴァに話を切り出した。

「そなた、ギリザと最近会っていないであろう?」

「ええ。でも、じきにお会いできますわ。だってもうすぐお兄様の……」

「それだけではならぬ。そなた達は兄妹として育ったが、いずれ夫婦となるのじゃ。

 これからは多くを語り合い、密接みっせつな関係をきずいていかねば」

「わたくしはそのつもりですけれど、ギリザお兄様は……」

 どこを見ているのか定かではない娘の目が、うれいに満ちているのを、母は見逃さなかった。

「心配するでない。母には良い考えがある」

「もうぞんじています……聞いてましたもの」

 キャヴァは、母に聞こえないよう小声でささやいた。

「ギリザンジェロの自室に最も近い部屋を、そなたの自室にすれば良い。どうじゃ、良い思いつきであろう」

(それは、貴方あなたが出した案ではありません)

 キャヴァとパンダの言葉が、口には出さぬが心の中でピタリと重なった。

ぜんは急げじゃ。

 パンダ、ギリザのバースデーパーティーが終わり次第、キャヴァの部屋を移動させるのじゃ。

 使用人たちにそう申し付けよ」

「かしこまりました。とどこおりなく――」

 母と執事のやりとりを黙って聞いていたキャヴァ。

 光の加減かげんだろうか?

 パンダの黒メガネに、ギャヴァの唇がしたちをしたかのように心なしかゆがんで映ったのは……

 違う。光の加減ではない。

 マーデリンもパンダも、知り得なかったのだ。

 ギャヴァの憂いに満ちた表情の理由はギリザンジェロの気持ちが自分に向いていないせいではなく、

 今の部屋から別の部屋に移動するのがただ面倒くさく、母と執事の余計なお世話にイラついているだけだという事を。。。
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