アカイロ -京子の赤-

より。

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アカイロ -京子の赤-

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 まだ、水曜日。ようやく折り返し。週の真ん中の水曜日がひとつの我慢目標、先ずは折り返し日を越える事。そうすれば残りはあと二日。折り返し日を含め頑張った3日より少ない、残り2日間。水曜日が来るのが耐えきれないからといって休むわけでも、遅刻早退するわけでもなく、黙々と出勤する。真面目にまじめに。

 すべて投げ出してしまえればいいのに。

 ある日突然すべてを捨てて知らない土地へ行って知らない人たちに交じって全く違う人生を、、、始めちゃえばいいのに。

 そう思う事はあっても、所詮、飼い犬と同じ。どこかへ行って食べるものも無く飢えたり、冬に凍え死にするまで宿もなくさ迷ったりなど、すぐに思い付いてしまうようなリスクを冒すことは出来ず、繋がれている不自由さに安心しているのだ。日に何百人何万人と行き交う巨大駅の構内をいつも通り人を避けながら歩きつつ、いつも通り、そっとため息をつく。

 午後八時半。京子が暮らしているマンションの殆どの部屋の明かりがついている。住んでいるのは比較的若い夫婦、まだ小さな子供のいる家庭が殆どだ。 大きな箱のようなこのマンションで京子のように一人暮らしをしている者は、恐らくいない。

 5年前に父が亡くなった。

 田舎にある実家には母親と妹がいる。畑や田んぼ、山を所有していた父が亡くなった後には誰もそのどれ一つとしてまとも維持する事など出来ず、住居のある敷地以外の土地をすべて売り払った。その遺産を頭金にして、このマンションを買った。当時はまだ結婚の可能性もあるかもしれない、根拠等皆無なただ淡いだけの期待もあった。けれど今は既に婚活にも疲弊し、一人で生きている事が楽になり当たり前になり、恋愛の仕方など思い出すこともできなくなった。過去の私は一体どうやって、恋愛を始めていたのだろう。どうして人を好きだとか愛してるとか、思う事ができたのだろう。ある意味、44歳は気楽だ。マンションなんて購入したら本当に結婚出来なくなるかもしれない、と恐れる気持ちもあったが、きっと結果は同じ、やっぱり買っておいて良かった。

 片手にコンビニの袋を揺らしながらマンションのエントランスへ向かう。 何か、違う。違和感を感じる。ふと足を止め、揺れ続けるコンビニ袋を自分の体にぐっと引き寄せ当てて止めた。

 箱。

 エントランス脇の小振りな植木の傍に、箱がある。結構大きい。両手で抱えたら前が見えるかどうかも分からないくらいの大きな箱。なんでこんな所にあんな箱が?

 不審に思いながらもゆっくり近づいていく。辺りには誰もおらず、京子の靴音だけが響く。あるよね、こういうのドラマで。そっと近づいてみたら中に血まみれの死体が入ってるとか。箱を覗き込んだ瞬間、第一発見者が悲鳴をあげて後ろへ倒れるの。そこへどうしましたか!?って通りすがりのお巡りさんが・・・今目の前にある箱は、蓋が閉まっていた。H貼りという、上から見下ろせばアルファベットのHに見える貼り方でぴっちりとガムテープが貼られている。ただ、その箱は真っ赤だった。エントランス内側からの光が当たって映し出したその箱は、ラベルが貼られているわけでもなく、文字、例えばどこかの特産品だとか会社名だとか、が書かれているわけでもなく、赤一色の無地な箱。くるっと反対側も覗き込んで見てみたが、この箱の所有や用途、中身を示すようなものは何一つ、見当たらなかった。

 何だろう、ちょっと不気味。でもまさか爆発物とかじゃないだろうし、、、うん、時限爆弾みたいな音もしないし。このまま放っておけば誰かが確認して何とかしてくれるでしょう。自分なりにそう結論付けて京子はエントランスの自動ドアへ向き直った。先ずはお風呂に入って適当な冷凍食品、炒飯にしようかな、で夕飯を済ませ、帰りに寄ったコンビニで久しぶりに見つけた大好きなチーズケーキを食べよう。赤い箱の事など、エントランスに入った瞬間に忘れた。



 どうして?

 理解不能な言葉が頭の中を猛スピードで駆け巡る。それと同時に胸の奥から渦巻いて荒々しく沸き上がってくる感情。何ともコントロール出来ずに口から吐いてしまいそうだ。

 何、してるの?

 誰、誰なのその人?

 扉の向こうから聞こえてくる軋む音に悪い予感しかしなくて、恐る恐るそっと、扉を開けた。目の前には、ベッド。現実には本棚やサイドテーブル等他の家具もあったはず。けれど、京子の視界に入ってきたのはいつもに増して大きく膨れ上がったベッド、そしてその上で絡み合う恋人の裕次と髪の長い女。裕次に股がったまま、女は時おり大きな声で喘ぎ、激しく腰を振る。汗だくの背中に貼り付く髪と、左右前後に振り乱れる髪。女の顔は見えない。裕次の顔も、見えない。足を開き折れ曲がった膝と脛だけがこちらを向いている。何秒経っただろうか、魂が抜けたように呆然としていた京子はふと我に返り、その瞬間、激しい混乱と吐きそうな感情に襲われて、大きく震える手でドアノブを握りしめ、静かに扉を閉めた。京子の激しい動揺に油を注ぐかのように、ベッドの軋む音は更に大きく鳴り続け、知らない女の喘ぎ声は叫び声のように響き渡った。

 何が起きているのか、何故こんな事が起きているのか。

 いつも私を優しく抱き、私の体を隅から隅まで愛しいと舐め回す裕次が、

 何度果ててもまだ愛したり無いと、いつも朝方まで京子の体を貪る裕次が、

 何故、他の女の体とベッタリと抱き合い繋がり、激しい喘ぎ声を響かせているのか。まるで身体中の血が熱を持って一気に心臓へ押し掛けているかのように、激しく動悸する。頭の中は混乱でクラクラしてくる。両目からボロボロ零れ落ちてくる涙の温度を首筋にも感じる。それでも、そこから一秒でも離れたくて、よろよろと裕次の部屋の玄関へ戻る。左手にバッグを掴んだまま、バッグ諸共に手を壁をぶつけて押し当てふらつく自分の体を支えながら、合鍵を握りしめたままの右手で必死に自分の靴を引っ張り寄せた。靴を履こうにも力が抜けたようにふらつく足は、なかなか靴の中に入らない。落ち着かなければ、そう必死に自分に言い聞かせながら片足つつ、靴の中に押し込む。口の歪んだ靴は醜く私を見上げている。それを見て更に涙が勢いを増す。

 片付けが苦手な裕次のマンションの玄関には、何足もの靴が出されたまま、散らばっている。ようやく両足を各々靴の中に押し込み立ち上がろうとした時、右前方で何かが私の視界を捉えた。折り重なった彼のブーツの影にハイヒール。安っぽいエナメルの、テラテラと下品に光った、赤いハイヒール。汗でベッタリねっとりとした背中に張り付いた長い髪の隙間から見える、吐き気を催す程ギラギラと光ったあの女の肌のような、安物の光沢。京子は思わずそれを右手で引っ張り出し力強く掴んだまま、急いで彼のマンションを後にした。

 自分のマンションへ戻ってそれから3日間、只ひたすら、カーテンも閉めきった暗い部屋の中で踞った。何も食べず、時折、ペットボトルのお茶を、啜った。あの日裕次のマンションへ行く前に買ったものだ。時々聞こえるスマホのバイブレーションの音。電話は一度きり。無断欠勤を不審に思った同僚からのものだった。咄嗟にインフルエンザで暫く休むと返答し、すぐに切った。それ以降、誰とも口をきいていない。裕次からの電話も、無い。元々電話など滅多にかけてこない。だが、1日か2日に1度はラインのやり取りをしている。今も、ラインには裕次からのメッセージが未読数となって表示されている。裕次は、何を思っているだろうか。あの日私が裕次のマンションに行くという事は言ってなかったはず。だから、私があの場にいたこと、あの知らない女との行為を見たことを気づかぬまま、いつも通り優しい眼差しと温かい大きな手、がっしりとした指で、私にいつもと変わらぬ熱量のメッセージを送ってきているのだろうか。私が、今ここでこんなにも深く苦しみ泣き腫らしている事など知らず。

 そう思った瞬間、すべてがどうでも良くなってきた。

 京子はおもむろに立ち上がり、洗面台へ向かった。汗と涙とでぐちゃぐちゃに混じりあった化粧がこべりついた顔。いつもの2倍以上の量のクレンジングオイルを掌に乗せ両手に広げ、勢いよく何度も何度も顔に擦り付けた。刺激が肌に良くないなど、そんな事はどうでも良かった。とにかく、あの日の残骸を削り落としたかった。10分程ひたすら顔を擦り続けクレンジングオイルを流した後、再度洗顔フォームで顔を洗った。少し、頬が痛む。けれどその痛みは今日、今、新たに生まれたものだ。あの日の残骸は消えた。京子の心の中に渦巻いていた耐えられない負の感情も、消えた。穏やかな私のココロ。

 タオルで顔を拭き、そのまましっかりとした足取りで玄関へ向かう。自分の靴。しゃがみこみ、小さな靴箱の上に置いていたその靴、3日前に履いていたその靴をを押し退け、靴箱を開ける。そこにはあの日無心で掴んだまま持ち帰った赤いハイヒールの片方がある。それを取りだし。廊下に置く。そして京子は再度立ち上がりキッチンへ向かった。棚から小さめのジップロックを取り出す。次に包丁とまな板。再び玄関へ戻り、廊下に正座をした。手前にまな板を置き、その上に包丁をおいた。ジップロックの封を大きく開けておき、まな板の左横に置いた。まな板を挟んで向こう側には、片方だけの赤いハイヒール。下品にねっとりと光る、赤いハイヒール。京子は右手に包丁を構えた。切るべきものをまな板の上に乗せ、包丁の刃をその上にかざし、先端をまな板に押し当てる。続けて少し大きく息を吸い込み、そしてその息をゆっくり吐き出す。そして今度は勢いよく息を吸い込み、すぐに大きく吐いた、同時に、まな板に当てていた刃先を軸にした包丁を勢いよく振り下ろした。短く残った薬指には、真っ赤に染まった指輪がまだ嵌っていた。

 赤いハイヒールの中に、真っ赤に染まった私の薬指。裕次のくれた一粒ダイヤモンドの指輪も、残った根本から外して嵌めた。第一関節には少し、緩い。

 ジップロックの中の私の指は、このハイヒールより格段に美しい、赤色。濃く、深い、艶やかな美しいアカイロ。

 下品な赤いハイヒールと共に、ジップロックを通しても美しい私の赤い指を綺麗に包装し、小箱に入れて裕次に送った。

 そっか、あの色に似てるんだ、あの箱の赤色は。だから中身が気になっちゃったのね、私。

 京子はそれに気づいた事で心の隅に何となく残った小さな淡い違和感が消えたのを感じ、チーズケーキの封を開けた。

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