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1章
1-19 こーゆーのは、あーん、ってしゅゆんだよ
しおりを挟む俺はスープをスプーンですくって、ふーふーと適温になる様に冷ました後、彼に向き直る。
「ナスタチウムさん、口を開けて下さい」
「……ひぇ……」
またか。傷つく。
隣でテロペアさんは、マイペースに俺のスープを啜り続けていた。こっちは心温まる。
「ナスタチウムさん、食べなければ薬を飲めませんし、体調も良くなりません」
「だ、大丈夫です」
「本気でそうお思いですか?」
じろりと見れば、彼は「ぴっ」と、小さな悲鳴ようなものを上げて、身を縮こまらせた。
「ナスタチウムさん、口を開けて下さい」
「ひぇぇ……」
梃子でも飲まないのか、こいつは。
「あのしゃー、ジシュしゃん」
「はい」
こと、と、サイドテーブルにスープカップが置かれる。俺がナスタチウムさんにと、作って注いで渡したそれは、たった今テロペアさんの胃の中に収められたようだ。
完食。ありがとうございます。俺の心とスープが救われました。
「こーゆーのは、あーん、ってしゅゆんだよ」
「あーん、ですか」
言われてみれば、幼い頃に熱を出してしまった時には、母にそんな風に食べさせてもらった事があった気がする。幼すぎて記憶はあやふやだが、言われてみればなんとなく覚えがあった。
俺はナスタチウムさんにスプーンを近づけると、「あーん」と言ってみた。
「あーん?」
ナスタチウムさんが不思議そうに「あーん」と口にしてくれたおかげで、すっ、と、スプーンは彼の口の中に侵入する事に成功した。
ややあってスプーンを引き抜けば、スープはナスタチウムさんの口の中。
最初こそ目を白黒させていたナスタチウムさんであったが、徐々に状況を理解し、もぐもぐと口を動かしている。
咀嚼しなければいけない程の野菜が入っていない……というより、全て煮溶けているようなスープなのだが、彼は必死にもぐもぐと口を動かし続けた。
「ナスタチウムさん」
俺はもう一杯スプーンにスープを掬って差し出す。
「嚥下して下さい」
食べる気があるのなら、是非二杯目もいって欲しい。が、ナスタチウムさんはいつまでももぐもぐしていた。
「二杯目もあります。嚥下して下さい」
「……んー……」
駄目だ、飲む気が見受けられない。
「ねーねー、ごっくん」
俺がどうしたものかと考えあぐねていると、テロペアさんが笑いながら続けた。それに対し、ナスタチウムさんは、素直に嚥下した。
そうか、ごっくんって言えばいいのか。
「ナスタチウムさん、あーん」
「あーん」
二杯目を摂取させる事に成功し、俺は三杯目をスプーンで掬う。暫くもぐもぐさせてから「はい、ごっくん」と言えば、素直に飲み込んだ。
この手順を覚えれば、後は簡単だ。
俺は何度も「あーん」と「ごっくん」を繰り返し、やっと彼に食事をさせる事に成功したのである。
「この人、子供?」
「いえ、非常に優秀な上司です」
「ジシュしゃんの上司……」
テロペアさんの視線は、どこか疑い深い物だった。確かに、この状態だけ見るのなら子供っぽく思えるかもしれない。
だが、一人でとんでもない量の書類仕事をこなす、優秀な上司。これは紛れもない事実だ。
やがて食べさせ終えると、薬も同様の手順で飲ませた。
薬だけはやたらと早く飲み込むと「……うえっぷ」と小さく呻く。美味しくは無いからな、薬って。
何か口直しになる物は持っていなかったかとポケットを漁れば、仕事中、リリウムさんに頂いた飴玉が入っていた。
何でも、上品な甘さの蜂蜜を固めた飴だ、と言っていた気がする。
俺は包み紙を取ると、ナスタチウムさんに「あーん」と言って口を開けさせた。彼は素直に口を開けたので、ぽいっと飴を入れてやる。
「……んんー」
殆ど変わる事の無い表情。俺の認識では、ナスタチウムさんはそういう物だった。
だが飴玉を入れてやると、口元は嬉しそうに弧を描いていた。……子供か。テロペアさん、大正解じゃないか。
「ナスタチウムさん」
「ふぁい」
飴玉が口に入っているせいで、不鮮明な「はい」だ。幼い頃から知っている相手のはずだが、どうしてだろうか。今日、初めて知った顔や、知った仕草がある。
出来る事なら幼い頃から、もっとこんな顔を見たかった。仲良くして、幼馴染になりたかった。
などと、一瞬だけ感傷に浸ったが、過去には戻れないし、仮に戻ったとしても不可能だと思い直して、平静を装って立ち上がった。
「スープはあと二つ、こちらに置いて行きます。これは、明日の朝食と昼食にして下さい」
「明日の朝は、ジギタリスさんは来ないのですか?」
……ジギタリスさん? ジギタリス・ボルネフェルトさんではなく?
幼い頃からのフルネーム呼びではないせいか、違和感を覚える。が、まぁいい。質問には答えなければならない。
「来ない方が貴方にとっては宜しいのでは?」
「……来て貰えないと、困ります」
「困るのですか」
「はい。あーんして貰えません」
え、明日も俺は朝からここにきて、あーんするの? いやいや、それで食事を取るのなら良いじゃないか。
「分かりました。では、明日の朝またこちらに伺い、食事の支度を致します」
「お願いします」
お願いされちゃったよ。さっきまで俺に怯えていたのではなかったのか。あーんで心を許したのか。それとも飴玉か。
「今日はこれで失礼いたします」
「はい」
「ゆっくり休んで下さいね」
「はい。ジギタリスさんも、ゆっくり休んで下さい」
こんな事、言われた事も無い。俺は内心では狼狽えつつも、必死で平静を装い、彼の部屋をテロペアさんと後にした。
俺の分の夕食となる、スープの器を一つだけ持って。
「じゃ、ジシュしゃん。器は明日回収すゆね」
「はい、お手数をおかけします」
「いいえー」
テロペアさんは軽い調子で返す。彼に来て貰ってよかった。おかげでちゃんと食事して貰う事に成功したのだから。
「じゃ、おやしゅみ」
「はい、おやすみなさい。道中にお気をつけてお帰り下さい」
「はーい。怖ぁい殺人鬼に会わないように気を付けゆ」
この人、死を刻む悪魔の模倣犯の残党の事、知っているのか? いや、まさか。たまたまか。……しかし……。
「じゃ、また明日ねー」
俺の疑問と不安の混じった視線を気に留めることなく、テロペアさんは手をひらひらと振って帰路につく。俺はその背中を見送ってから。部屋へと帰ったのだった。
***
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