人魚未満

二ノ宮明季

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人魚未満

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 ザザー、ザザー、と、波が寄せては返している。

「あのね、私」

 彼女はそう言いながら、テトラポットの上で器用に身をひるがえした。

「人魚なの」

 意味が分からない、と、僕は困惑する。

「ねぇ、ちょっと聞いて。そして見ていて」

 困惑している僕の事等気にしていないように。あるいは僕の事こそ気にしているかのように。

 彼女は少しだけ大きな声を出したようだ。

「人間でいる意味が、見いだせないの」

 まるで悲鳴のようなのに、潮騒に掻き消える。

「私、人魚なの」

 もう一度、人魚である事を口にした。

 僕は「もう帰ろう」と、凍える身を擦りながら促す。口からは白い息が、まるで真冬の蜃気楼のように立ち上った。

「いーやーだっ!」

 僕の言葉は、彼女の意にはそぐわなかったらしい。

 頬を膨らませ、冬の潮風に煽られながら、再び身をひるがえす。

 ただし、今度は僕側からひるがえしたのだ。反対側、というよりも、側面と言うべきか。

「――ちょっ!」

 テトラポットの向こう側――海へと彼女は吸い込まれていく。

 さすがに慌てて、そろりソロリとテトラポットに上れば、眼下の海で彼女が服を着たまま泳いでいた。

「ねぇ、私、人魚に戻ってる?」

「戻ってるも何も、君は人間だろう」

 唇と頬は、この短時間の内に色を失っている。

「良いから、二つの足で地面を踏みしめる生活に戻ってきなさい」

「いーやーだー」

 ……仕方がないか。

 僕はため息を吐いてから「わかった」と頷いた。

「僕は君を陸に連れ帰る」

 テトラポットから、情けない格好で水面に近づき――飛び込む。

 冷たい水しぶきを上げながら、僕の服やコートには海水がしみ込んだ。飛び込んでみた先は、冷えて冷えて、こんな世界には長く浸かっていられないと感じた。

「ほら、帰るよ」

 ガチガチと奥歯が震え、元の重さの倍以上になって身体に纏わりつく衣服がまた、僕の体温を奪っていく。

 これは、先に真冬の海に飛び込んだ彼女も同様だろう。

 ちゃぷ、ちゃぷ、と、波になぶられながら彼女に近づき、冷えた手を取る。やはり僕と同様に、寒さに震えていた。

「人魚は、冬の海でこんなに震えないよ」

「違うもの。人魚に……人間なんてやめて、人魚に……」

 彼女の頬が濡れているのは、海水なのか涙なのか。どちらもしょっぱいので、同じと言えば同じか。

「これで、人間だった私は死んだの」

 それは自殺だった。

 けれども死んでいない。

「このままここに居たら凍えちゃって、本当に死ぬよ」

 「さぁ」と、手を引いて陸を目指そうとするも、彼女は「やだ」と頭を振った。

「だって、生きていたって、死んでいるようなものだったんだもの」

 確かに最近の彼女はどうにも不運続きだったようだ。

 しかし人間は魚になれない。まして人魚にもなれない。

「私が人魚なら、私の肉を貴方にたべさせて不老不死になって貰うのに」

 彼女の言葉は冷たくて、この冬の海のようだ。

 これが現実逃避であることは知っていた。

「あのさぁ、人魚姫の話って悲恋じゃん」

「う、うん」

 ため息を吐けば、その分蜃気楼が上がる。

 蜃気楼は蛤の吐く息だ、という話があるらしい。もしも彼女を本物の人魚であると仮定するのなら、僕は蛤なのだろうか。

「ハッピーエンドにはなるつもりはないの?」

 いいや、この冷たい海の話を終わらせるには、蛤であって良い筈がない。

「だって私、人魚の中でも末端で、姫じゃないもの」

「それを言ったら、僕だって人間の中では末端で王子ではないさ」

 蛤よりも王子、と言いたい所だが、残念ながら無理だ。ごくごく普通の生活をしている、ごくごく普通の男。

 だが蛤よりは現実的だろう。

「陸に上がって、僕の傍で幸せに暮らしました。めでたしめでたし、じゃ、駄目なの?」

 髪も濡れて、きっと場所によっては凍っている。こんな寒い場所に一体どんな幸せがあると言うのか。

「ほら、おいで」

「……零れる想いを掬い取ってくれる?」

 手を引けば、今度は首を傾げられた。

「いくらでも掬い取るよ。今まで辛かった分、全部話を聞く」

 思えば、あまり話を聞いてこなかったかもしれない。

「勿論、暖かい部屋でね。このままじゃ本当に死んじゃう」

「……人魚、やめる」

 やっと分かって貰えた。

 僕は彼女の手を引き、陸を目指しながら立ち泳ぎする。

 段々と陸は近づき、砂が靴底に触れ、ついには身体が海から出た。じゃぶじゃぶと、海の雫を盛大に零しながら、砂浜を歩く。

「私、人魚未満だ」

「おかえり、人間の世界に」

「……ただいま」

 じゃぶじゃぶと海水が零れる。肩口なんかは、冬の冷たい風にさらされて、パキパキと凍っている。

「部屋に戻ろう。飛び切り暖かくするよ」

「人魚だったら干からびちゃう」

「人魚は止めたんだろう」

 徐々に零れる海水も減っていくが、砂浜を抜けてアスファルトを歩いていると、靴が何度も重い水分を含んだ音を奏でた。

「……あのね」

「うん」

 陸に上がっても僕に手を引かれながら、彼女はぽつりと呟く。

「私、人間でいる」

「うん、そうして」

 海に身を投げた時よりも大人しく、それでもどこか落ち着いた声に、安堵を覚える。

 暖かい部屋を目指しながら。

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