文字中毒

二ノ宮明季

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文字中毒

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 私には、人の全てが文字に見える。
 最初からそうだったわけではないが、少なくとも女子中学生として青春を謳歌しようとしていた頃には、そうなっていた。相手の職業や名前は、全て文字になっているのだ。
 そうなり始めた頃は、顔が判別出来る程度だったが、社会人となった最近は、最早人の顔は文字で覆われて見えなくなっていた。
 学生の頃に、私の話を不審に思った両親に、病院に連れて行かれた事がある。だが、医者に「心理的なものだろう」と答えられて終わってしまった。
 私にはその医者に、「多忙」と「困惑」の文字がくっついていたように見えたのだが果たして――。いや、止そう。今更だ。私には人が文字に見えると言う事実が変わるわけではないのだから。
 さて、この文字の事だが、黒い切り絵のようなものだ。けれども、私の方を見つめてくる。
 昔からそうだった。
 相手が私に背を向ければ、文字はズルズルと這うようにして移動し、私の正面に来る。
 これが一体何なのかは分からない。けれど、分かりようもないまま、私は大人になった。

「青山さん、これ、やっておいて」
「はい」
 職場で仕事を振られる。振った相手には「面倒」と「帰りたい」という文字が張り付いていた。
 量が多すぎて、流石にもう顔も見えない。分かるのは文字の向こうに人が存在するという事だけ。
 社会人になってからは、「面倒」「辛い」「帰りたい」という文字が張り付いている人が、圧倒的に多くなっていた。もしも私にも文字が張り付いているのなら、同様の言葉がついているだろう。
 社会は辛い。自分に合う仕事なんて、どうやって見つけたらいいのかも分からない。
 何しろ私には、もう人の顔も見えないのだ。親の顔すら、数年間認識出来ていない。
 けれども、これは中々に便利な生活だ。顔が見えなくとも文字さえ見れば、相手が誰なのか、何を思っているのか、こちらに対してどんな感情を抱いているのか、その全てが分かるのだから。
「青山さん、頑張ってるね」
「ありがとうございます」
 声をかけてくれたその人は、私に好意的な感情を抱いている。「好意」という文字が見えるから分かるのだが、私は人に好かれていて安堵した。
 嫌われたくないから、嫌われるような事はしない。
 例え、「都合がいい」と考えられているのを知っていても。あの文字たちが私に向かって「嫌い」や「不快」だと示す状況は、きっと耐えられないだろう。
 それなりに愛想を良くしておき、それなりに仕事をこなす。このサイクルが一番心地いい。
 自分に合う仕事が見つからなくても、面倒で帰りたい事が多くても、このままでいい。
「木村さん、髪型変えたんですね。お似合いです」
「そうなの。ありがとう。自分でも気に入っているの」
 更衣室では、ほんの少しの事にも目を配り、口を開く。
 相手の顔は見えない。髪型だって、本当は見えない。
 人の髪があるべき場所に「流行りの髪型」と書かれているだけ。これが昨日までは「大分伸びた髪」と書かれていたからこそ、私は気が付いて声を掛けたのだ。
 程々に「仲良くお話」をした後は、帰路につく。

 すっかりと暗くなってしまった外には、冬の冷たい空気が充満していた。街はイルミネーションで彩られ、黒い文字たちが灯りに照らされながら蠢く。
「……あれ?」
 何だろう。ふと、私は違和感を覚えた。
「こんなに、文字ってあったっけ?」
 人が動く度に、目の前の文字もぞろぞろと動く。人の情報が、色が、何も分からない。
 ただ黒い文字だけが、立ち尽くした私の方をじっと見ていた。
 今までは人にくっついた文字が、顔を見る事を邪魔しているようなものだった。いや、強く言い過ぎたか。別に邪魔、とまでは思っていないが、相手の顔を判別出来ない状態にしてきていた。
 それが何故だろうか。たった今気が付いたのは、「人が存在しない」事だった。
 私は驚きで大きく目を見開き、よろよろと後ずさる。
「何で?」
 理由は分からない。
 けれども私の目には、人間のような白いシルエットの何かが、文字で覆われているものしか見えなくなっていた。
 右を見ても、左を見ても、白いシルエットに黒い文字。ぐちゃぐちゃと、ごちゃごちゃと動く文字に、酔いそうになる。
 今まで気が付かなかった。一体、いつから?
 また医者に行ったって分かる筈がない。文字が動いて、文字と文字がくっついて、文字が全てを侵食する。
「ああ、でも」
 驚いた。不安がなかったわけでもない。
「今まで気づかなかったんだし、いいか」
 それでも、文字が心地悪いとは思えなかった。もしかしたら私は、とっくの昔に文字という名の情報にすがって生きていたからかもしれない。


 むしろぞっとしたのは、翌日出社してからだった。
「中川です。今日からよろしくお願いします」
 全体的に色素の薄い女性は、ニコッと笑う。きっと印象はいい人なのだろう。
「青山さん、彼女に色々教えてあげて」
「は、はい」
 思わず上ずった声が出た。
 こんな事、あるだろうか。今日も変わらず文字が蠢いているのに、どうして突然……。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 私は引きつりそうになる表情を必死に抑え、彼女にぺこりとお辞儀した。
「もしかして、何かついてます?」
「いや、全然。全然何もついていません」
 寧ろ何もついていない、というのが問題なのだ。私は十数年ぶりに見た「文字のついていない人間」に驚きを隠せないまま、ぶんぶんと首を左右に振る。
「よかったです。じゃ、何からすればいいですか?」
 相手の感情が分からない。ニコッと笑う相手に、どう対処したらいいのかが分からない。
 私は必死に内心を押し殺して、彼女と一緒に仕事を始めた。

 よくも悪くも、相手は真っ直ぐだった。
 言い換えれば、空気が読めない、だ。見た事や納得のいかない事は、そのままオブラートに包む事なくダイレクトに伝える。
 これが続けば、職場の中でどんな立ち位置になるのか。想像するまでもなく答えは出ている。
 一応私は何度も注意したが、中々理解はして貰えなかった。必死になって伝えても、伝えても、伝わらない。相手の感情も分からない。
 そうしている内に、周りから向けられる感情も変わってきた。
 私に対して否定的な文字を向けられるようになってきたのだ。
 「指導能力がない」「最近ピリピリしてる」「あいつと一緒に早く辞めろ」。全員から向けられている感情ではない。分かってはいるが、どんどん憂鬱になっていく。
 これが一か月も続いた頃に、私は皆と一緒に昼食を取るのを止めた。
 面白半分で中川の悪口を言ってくる相手や、私を嫌っていながら仲間に入れようとする文字の群れに入る事が、苦痛になってしまったのである。
「……あーあ」
 職場近くの公園のベンチで、総菜パンをかじりながら一人呟く。
 俯けば、私自身の服すら「制服」「水色」「40デニールのストッキング」と文字で構成されている。
「こんなの、見えなければよかった」
 散々頼っておきながら、今更辛くなって吐き出した。
 腕につけた時計は、「腕時計」という文字と、現在の時刻を文字で表示している。残りの休憩時間は、沢山あるとは言えない。
「何が見えない方がよかったんです?」
「へ? あ、え?」
 声が聞こえて顔を上げれば、目の前には中川さんがいた。
「えっと、何故ここに?」
「そりゃ、天気がいいからここで食べようかと思ったらですよ。青山さんがいたのは想定外でしたけど」
 彼女は何故か、そのまま私の隣に腰掛ける。
「んで、何が見えてるんですか?」
「……言ったら、笑うから」
「面白かったら笑うかもしれませんが、面白くなかったら笑いませんよ」
 良くも悪くもそのままの発言に、私は面食らった。
「言いふらしますよね?」
「黙ってろって言われたら、黙ってますよ。言いふらす理由もありませんし」
 続けて尋ねれば、そのままの言葉で返ってくる。この人は、少なくとも嘘をついた事はなかった。
「……文字」
 私は思い切って、吐き出してみる事にした。
 得体のしれない、姿かたちだけがはっきりと見える相手に。きっと疲れてしまっていたのだろう。
「文字、ですか?」
「そう、文字」
「意味が分かりません」
 話していないのだから当然だが、彼女は訝しげな表情を浮かべた。ああ、そういえば人の表情がコロコロ変わるのなんて、中川さん以外では見ていないな。
 あんなに文字が見える事に安心していた筈が、どこかで「人が見える」事にも安心する。
 私はどうなってしまっているのだろう。
「他の人には言わないで下さいね。私、人が文字に見えるんです」
「はぁ」
 続けるも、まだピンと来ていない中川さんに、どんな状態なのかを全て吐き出した。
 洗いざらい話しすぎて、思わず中川さんには文字が見えない事も、中川さんの言動によって、向けられる言葉が変わって辛い、という所まで口にしてしまったが。
「そりゃまた、けったいな」
「けったいって」
 何も知らない人からしたら、文字が見えないのが当たり前。それが当たり前なのであれば、確かにけったいとも言えるかもしれない。
「いやー、でも私、思ってたんですよね」
「何を?」
「青山さん、人の顔色を窺いすぎだな、って」
 尋ねれば、直ぐに答えは返ってきた。
「まさか人が文字に見えてる、なんて想像もしてませんでしたけど」
 私が文字を読んでいる姿が、人の顔色を窺っていると捉えられていたのは意外だ。しかし、意外にもその事実は私の中にストンと腰を下ろして根を張った。
 私が読んでいた文字の数々は、すべて感情や、外見の情報だ。これを読みながら行動していたとなれば、まさしく人の顔色を窺っていた事になるだろう。
「青山さん、そりゃあ私の事は文字に見えませんよ。多分それ、青山さんが顔色を窺えるかどうかに依存してるんでしょうし」
「え?」
「私、よく人に何を考えてるか分からないって言われるんです」
 私だけではなく、他の人もそうなのか。
「よく言えば裏表がない。悪く言えば空気が読めないってやつです」
「自覚していたのに、あんな風に?」
「いや、だって誰かがはっきり言わなきゃどうにもならない事もあるでしょ」
 つまり、私の注意を理解していなかったのではなく、分かった上で無視していた、という事か。思わずため息が零れる。
「それで青山さんが追いつめられるっていうのは、考えてませんでしたけど」
 裏表がない為に、なさ過ぎるが故に、あんな行動をしていたらしい。
「青山さん、人の顔色を窺うって、疲れません? あ、すみません。疲れたからここに一人でいるんでしたっけ」
「……まぁ、そうですね」
 私は頷く。疲れていなければ、文字が見えなければよかったと一人ごちる事はなかったはずだ。
「結構いい事をしているつもりかもですけど、それって自分がないんじゃないんですか?」
「自分がない?」
「他の人に合わせてうんうん言ってた今までって、楽しかったですか?」
「楽しいとか、楽しくないとか、関係ないのでは?」
「いやいや、重要ですよ」
 楽しくはないが、もしかすれば人よりは楽だったのかもしれない。
 沢山の文字は沢山の情報となり、私のすべき行動を導き出してくれる。
「きっと、青山さんは周りに合わせ過ぎてたんですよ。もっとマイペースにいきましょう」
 私は横着していたのだろうか。文字や感情に自分の行動を委ねたのは、間違いなのか。
「案外、人の顔色……青山さん風に言うなら、文字? を気にしないでいたら、何かそういうのが見えなくなるんじゃないですか?」
「そう、ですか?」
「断言は出来ませんけど」
 私は必死に文字を見ないようにしながら顔を上げた。
 公園では、子供が遊んでいる。やはり文字は見えるが、何となく輪郭だけだった人の姿が見えてくるような気がした。
「私、文字中毒だったのかもしれません」
「またけったいな名称が」
 けったいと言われても仕方がない。
「人の文字ばかりに依存して、何も見ないのがいけなかったのでしょうか」
 ……やはり、私の今までの行動は間違いなのだろう。そうでなければ、ここで文字が見えなければとぐちぐち呟いている理由がない。
「この文字も、皆思い込み、とか」
 私にははっきりと見える文字たちが、実は私の妄想の産物かもしれない、というのは、殊の外辛かった。
「それは知りませんけど」
 中川さんは、肯定も否定もしない。
 完全に否定されなかった事に僅かな安堵を覚えつつも、依存し過ぎていいものではなさそうだ、と私の中で結論付けた。
「ちょっとずつ、自分探しでもしてみようかな」
「前向きになったのならよかったですね」
 人の助けを借りながらではあるが、文字が見えるようになってから、初めて自分で文字に左右されずに何かを決めた気がする。
「じゃ、戻りましょうか。休憩が終わりますよ」
 慌てて腕時計を見やると、確かにもう直ぐ休憩を終える時間を短針と長針が示していた。これもまた、違和感がある。
「時計の針が、見える」
「んなものまで見えなくなってたんですか」
 違和感の正体は、文字だ。最近は「時計」という文字と、文字で表記された時刻が腕についてまわっていたのだ。
「……ま、逆に私は、少しは人の顔色見ておきますよ。今まですみませんでした」
「いや、私の方こそ」
 中川さんの顔は、変わらずに見える。
 少しずつでも変わっていこうという心と共に、私は昼食を無理やり胃に詰め込み、彼女と職場へ戻った。

 職場では、相変わらず文字がついて回る。仕事を終えて街に出ても、文字たちが蠢いていた。
 けれども私は大きな深呼吸一つ。真っ直ぐに帰り道を見据えて歩き出した。
 大量の文字の向こう側に、人の気配を確かに感じながら。
 この沢山の文字に、感情に、飲み込まれないようにと心を新たにした一歩は、きっと私にとっては大きな一歩だ。
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