恩師から3通

今日から閻魔

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5.15時の訪問

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 泣き腫れた目を冷やし、普段とそこまで変わらない顔にまでなった頃、時計は14時半が近くなっていた。そろそろ先生の家に行がなければならない。急いで喪服に袖を通してネクタイを巻いた。iPhoneと財布とハンカチだけが入った地味な黒色のクラッチをチャリのカゴに放り投げる。先生の家まで近道をするとなると、道は細いし入り組んでいるのでチャリの方が早い。どの道、車は親父が乗って出ているので使えない。もともと20分くらいかかる道程だ。14時半に家を出たので時間が気になっていて結構な気合を入れてチャリを漕いでいるつもりだったが、ペダルの重さはイメージの中のそれよりも遥かに重かった。

 ようやく先生の家が見えてくる。少し汗をかいたことやこの歳でチャリで登場するのもなんだか恥ずかしかったので、チャリは近所のケーキ屋さんの駐輪場を借りた。帰りにシュークリームかエクレアでも買えば許してもらえるだろう。ハンカチで汗を拭きながら先生の家までの残った道のりを歩く。なんだか夏に営業回りをするサラリーマンのような状態だと思えておかしかった。先生の家に着く頃には、とりあえず発汗が止まっていて何よりだった。背中が汗ばんでいるままだったが見えないので問題ない。表札の山城という文字を確認して僕はピンポンを押した。


 中から奥さんが「ようこそ。どうもありがとうね。」と出迎えてくれた。玄関に家族写真が立てかけてあるのが見えて僕は急に辛くなった。奥さんは目の前にいる、お子さんもきっとどこかで生活しているだろう。先生だけがもう時間を止めてしまったんだと再認識した。玄関からダイニングとリビングを通り過ぎると和室に通された。正面に先生の遺影と仏壇がある。先生が亡くなった事実を受け止めてここに来たと思っていたが、どうやら僕は受け止めようとしてここに来たようだ。座りもしない、和室に入って先生の遺影が視界に入った瞬間から東京のアパートでハガキを読んだ時と同じ痛みがした。少し立ち尽くしてしまった僕に気を利かせて、先生の奥さんは「お茶入れときますからゆっくりお話しして差し上げてね。」と和室を後にしてくれた。
 ひとまず鞄を置く。ほぼ無意識ながらどうにか仏壇の前に正座して、お線香をあげることはできた。手を合わせて目をつぶる頃には涙がどうしょうもなく溢れてきた。自分でもこんなに溜めていたとは思わなかった。先生が亡くなった悲しみは東京のアパートで泣いて、東京の生活に疲れた分は実家で泣いたと思っていたのに。全部がごちゃ混ぜになってしまう。家を出る前に先生の手紙を読んだからだろうか。自分が何を失ったのかが分かる。本当はまだまだ長い間持っておきたかった関係を失ったんだ。見守って欲しい人を。きっと全部受け止めてくれる人で、自分を理解した上で話をしてくれる貴重な縁を。3年も会っていなかったくせに急に1人ぼっちになりそうな感覚がして怖かった。僕は人に甘えるのが苦手な方で、今でこそ落ち着いているが学生までは同年代より自分は優れているという自己肯定感や顕示欲が強かった。そんな人間性すらもちゃんと愛でてくれる人だった。そんな人に会いに来なかったこと、せめて亡くなる前に会って手紙に書いてくれたようなことを直接話してもらわなかったこと、1人で塞ぎ込んでしまっていること、何にもなれていないこと、何よりも努力をする気持ちを失っていること、自分であれ程掲げていたくせに人を大切にしない失敗をしたこと。先生の遺影に手を合わせながら、そんな反省ばかりを考えた。きっと普通は「お疲れ様でした。」「ありがとうございました。」「どうかゆっくり休んでください。」と祈るはずなのに。どこまでも僕は先生に甘えている。これからも甘えてしまうだろう。申し訳なさと感謝が交互に湧いてくる。本当に不甲斐ないけれどせめてもの頑張りとして、先生がずっと諦めずに与えてくれたものや与えようとしてくれていたもののおかげでどうにかまだ生きていけそうですとは伝えた。
 涙越しに見るせいで視界はぐちゃぐちゃだが先生の遺影は、本当に穏やかな笑顔だと分かった。熱血教師だと説明しても信じない人の方が多いだろうというくらいに。僕はこんな風に穏やかな顔の写真を撮れるだろうか。今は撮れないと思う。いつかこんな顔で写真に映るおじさんにならなければと漠然と思った。


 乱れた心の内をそれとなく整えて涙を収めたあと、奥さんに挨拶しなければと思いリビングの方に戻った。リビングのテーブルには白地に青いラインが2本細く入った上品なコーヒーカップがあった。湯気が立っているのを見ると、僕の様子を見ながらコーヒーを用意してくださったらようだった。
 座るかどうか悩んでいる僕に奥さんの方から声をかけてくれた。
「ごめんなさいね。結構お泣きになってたので少し落ち着かれてから帰った方がよろしいかと思って。コーヒーはシロップとか使われます?」
「すみません、見苦しいところを。ブラックで大丈夫です。ありがとうございます本当に。」
 僕は椅子に座ってコーヒーを一口飲んだ。コクが控えめのスッキリした飲み味だった。すっと飲めるのは今の僕にはありがたい。なんて会話を広げたらいいかもわからなかったので僕はリビングを見渡した。今はきっと奥さんが1人で生活しているのだろうが、1人で住むには家がどうにも広い。テレビはとても立派だし、ソファもL字型の4,5人座れそうなサイズのものだった。遠目に「大輔」と可愛い札が掛かっている扉が見える。先生の部屋だったんだろう。強烈な興味がそそられるがさすがに失礼だと思って口には出さないようにした。一通り見渡したところで奥さんが思い出したように口を開いた。
「そういえば美結ちゃんがそろそろ来ますよ。
 吉川君が来たら帰さずに粘っといてと言われてまして。
 もう少しいてくださいね。」
 なんでそんなどこにでも頼むんだと思ったが、先生の奥さんに言われてはもう仕方がなかった。こんな1日に2回も泣いたような顔で同級生には会いたくないが。この美結ちゃんというのは、中田美結という子で中学高校の同級生であり先生から見ると姪にあたる。先生のお兄さんの娘なのだ。だから基本的に僕の近況などを報告していたのもきっと美結だ。僕と美結は中学校の最初の席が通路を挟んだ隣で仲が良かった。それから6年間で4回もクラスが被り、高校ではサッカー部で選手とマネージャーの関係だったから本当に距離が近い思春期だった。家もそこそこに近くて電車で隣駅まで行って歩いて10分というぐらいだった。その気になれば1時間弱チャリを漕げばついてしまう。気の迷いってことにしたが中学生の時には告白もしたことがある。まぁあの年代では仲が良すぎると特別に思えてしまう勘違いがある。そういう話だったと今は思う。
 しかし、今更僕に何の話があってうちの親にも先生の奥さんにも根回しすると言うんだろう。僕は。仕方なしに美結が来るまでコーヒーをスプーンでくるくる混ぜることにした。
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