桟田譲児とその家族

ミダ ワタル

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第七話

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 煉瓦造りの校門の柱に貼り付けられている石版に刻まれた「緑風学園高等学校」の文字をしばし眺め、在学時に広すぎると感じていた敷地へと目を向けた。
 卒業から七年ぶりに訪れた場所は、三年生半ば頃に完成した本校舎の他に新しい校舎が一つ増えていた。
 この様子ではもしかするとあの木造校舎は取り壊されているかもしれないと危ぶんだが、本校舎に近づけばその裏に隠れるようにひっそりと昔のままの姿で講堂と共に残っているのが見えて、おれは胸を撫で下ろした。
 右腕を持ち上げて腕時計を確認する。
 もう夕方の五時を回り、完全下校時刻まで一時間もない。

 夕暮れの風が吹き、校門の柱から続く敷地を囲う煉瓦の壁沿いに植えられた桜の木が、黄色味の増した色づきかけている葉を揺らしてさらさらと音を立て、おれの左手の中で本を包んでいる紙袋の封をしない口からかさこそと乾いた音がした。
 卒業生である気安さで堂々と校内を歩き回り、教員らしき人物には会釈しながらすれ違った。
 見慣れない闖入者である自分におやといった顔は見せるが、会釈すればなにか納得した様子で仕事に追われているのか特に声をかけてくることもなく足早に去っていく。
 見覚えのある教員とは出会わなかった。
 年月を考えれば古株だろうしもう帰ってしまったのかもしれない。
 生徒の下校時刻は五時と決められおり、完全下校時刻はその後も仕事をする教員のためのものだった。
 新しい校舎が建ち、中庭も自分がいた頃とは異なる形に整備されていたが、間違いなくおれと頼子がかつていた学校だった。
 建物への興味もあり、外側だけは煉瓦の鉄筋校舎二つ、一通り見学してから木造校舎へと入った。
 入った途端に埃臭い木の匂いに、二度くしゃみが出た。
 みしみしと鳴る廊下の軋みがややひどくなっているような気がする。
 消灯した廊下は薄暗く、どうやら教室は、もう授業を行う場所としては使用されていないらしくまるで人の気がなかった。
 クラブハウスになっているのか、クラス名があった場所に吹奏楽部だの、演劇部だの、文化系のクラブの名前が張ってある。

 廊下の一番奥だ。
 あの部屋はまだ図書室として残されているのだろうか。
 新しい校舎に立派な図書室ができているのを見たばかりだったが、名前は「第二図書室」となっていた。
 他に図書室らしき場所は見当たらなかった。
 だとすれば第一図書室にあたる場所はあそこしかない。 
 その考えの通りに、かつてとまったく同じ場所に図書室はあった。
 やはり「第一図書室」はここで、真鍮のプレートの刻印がそれに変えられていた。
 重い金属製の引き違い戸のドアも健在で、鍵は変わっていないだろうかなどと不安に思っていたのが馬鹿馬鹿しくなるほど、持ってきた鍵であっさりと開いた。
 錆が所々浮いているドアをガラガラとレールを滑らせて開け図書室に入り、おれは魅入られたように部屋全体を見回した。
 静かで、古い本が多くて、少し黴の匂いがして……まったく同じだった。
 ここだけが、時間を止めたように同じ姿で残っている。
 大きな学習机を部屋の中央に並べて、壁も窓辺も本棚となっており、出入口からすぐの場所にいくつもドミノ倒しのように書架がならんでいる。
 蔵書も見覚えのあるものばかりで、さながら大きな古書店のようだ。

「これは……すごい」

 もう七年だぞ、七年。
 いくら新しい図書室をもう一つ作っているからって、普通、蔵書が増えるとか入れ替えるとか機械化されるとか様子が変わるだろう。
 半ば呆れも含んだ感嘆の溜息を漏らし、おれは後ろ手にドアを閉め、在学中に頼子を連れ込んでいた時と同じように鍵をかけて「哲学/思想」の棚の前へと進んだ。
 体は繋げなかったが、だからこそ熱く滴るような青い情事をここで頼子と何度も繰り返した。
 頼子がよく背を預けていた棚の位置に、右頬をつけるようにして寄りかかり目を閉じる。

 “譲児……”

 甘く呼ぶ声がまだ生々しく耳に残っていた。
 まだ別れて一ヶ月しか経っていない。
 うっかりすると頼子がひょっこり帰ってきそうな気がまだしていて、一人寝ていても時折頼子の匂いや体温が甦る事がある。
 あいつも同じだろうか。けど、案外冷たいからなあ。
 ほろ苦い気分でひとりごちながら本棚から本を数冊抜いて、裏板を少し押しのけると記憶と同じ隙間があった。

「悪いな、しばらく保管させてくれ」

 紙袋に入れて保護した本をゆっくりと隙間に落としこむ。
 裏板を戻し、本を戻し、違和感がないかチェックしておれは深い溜息を吐き出すと、本棚の林を抜け学習机が並ぶ場所に出て、本を隠した本棚が見える位置の机の上に腰掛けてシャツの胸元から煙草とライターを出し、尻ポケットから携帯灰皿を取り出した。

「しかしここを保管場所にしたってなあ」

 天井を眺め一服しながら呟く。 
 本が気になった時に様子を見に来たかった。
 なにせたったの七年で一つ校舎が増えている。
 県内でのこの学校の立ち位置は、進学校として有名な中高一貫の男子校に次いで、昔から公立ではそこだけ賢いとされる学校と肩を並べる二番手三番手であることはなんとなく知っている。
 加えて、三校のなかで二番目に古い。
 唯一創立当初からの共学校で、音大や美大進学を志望する者向けの芸術課もあり、近年、受験者数では一番人気であるらしい。
 定員も増えていることは知っていた。
 こんな使っているのかいないのかわからない朽ちかけた校舎、そのうち潰すにきまっている。
 知らないうちに本もろとも木造校舎が潰されて、更地にされて、その上に新たな校舎が建設される可能性は十分に考えられた。
 偶然、誰かがあの隙間を見つけるとも限らない。

「ここって教員か職員の募集してないか」

 内部の人間ならいつでも本を見に来られるし、木造校舎の扱いについての情報も随時入る。
 教員免許は一応取っていた。
 まさかこんな理由で役立つことになるとは考えもしていなかったが。
 教師を続けるつもりの頼子とのなにかしらの接点、細い糸でもなにか繋がるものを得たい気持ちもあった。
 教育への情熱など欠片もなく申し訳ないことではあるが、それだけしかない希望者よりよほど切実な仕事への動機付けではある。
 本は、いつか頼子に返そう。
 おれが頼子のことを頼子として本当に好きだったのだと伝え、この手で頼子の宝物を返してやりたかった。
 頼子は迷惑するかもしれない。
 ただの未練でしかなかった。

「寂しいぞ、おれは」

 美しい日々よりも、もう一度頼子の中で果てたい。
 頼子の声、立ったり座ったりなにかしているその様子を眺めていたい。

「頼子……」

 煙草を吸い終えたら理事長室へ向かうかと決めた。
 留守か、所用がありそうなら、明日また訪ねるか正式に訪問の約束を取り付ける。
 きっとどうにでもなるはずだ、おれがここに入学した時のように。

 本当ならおれはここには入れなかった。
 入学試験は問題なかったが、母やおれの家庭環境を理由に、一部の教員やどこから聞きつけたのか複数名の保護者がおれの入学に難色を示したらしい。
 父と母は揃って理事長室にやって来て、頭を下げ、加えて法外な寄付金を提示したそうだ。
 金で解決というわけではなく、少なくともそれだけのものを払えば内部の人間は黙らせる理由になるとして。
 たとえこの学校を諦めて別の学校を当たっても、同じことを言い出す人はいる。
 自分達は同じ提案をします。
 みすみす他校に、経営資金を渡す手もないでしょう。
 それに、そもそもここは門閥をよしとしない反骨が建学の精神の一つではなかったですか、と父は言ったそうだ。
 父もまた卒業生であった。
 彼らの葬式を済ませ、両親を失った身で入学した初日に理事長室に呼ばれて、そのことを聞いた。
 ご両親のためにも有意義な学校生活を送りなさいともっともらしく言い、母の著作は世間が言うようなものじゃないと、読者でもあることもひっそり伝えてきた。
 もっともそんな話を聞いて素直にそうする殊勝さは持ち合わせていなかったが。

 校舎を歩き回っていてすれ違った教員は皆一様に忙しそうで、おれが教えられる教科の人員については知らないが、真剣に頼めばなんとか職を得られそうな予感があった。
 仕事は真面目にするつもりだ。
 頼子を見ていて、いい加減では務まらない仕事だと思っていた。
 漂う煙をぼんやりと見つめて、またあの本の箱の絵を思った。

 涅槃――精神の迷いのない寂静、死。 
 まるであの人達だけで完結していた日々そのものだ。
 彼らが事故に遭わずとも、おれはいずれ輪の外に出たに違いなかった。
 函の絵の中におれはいない。

 母は息子を含む四人の男を、それぞれに等しく愛していた。
 おれはきっとここで教員になるだろう。
 あの本を、家族の記憶を隠した本棚のために。
 まるで墓守のようにここに居続けて、生徒を迎えてはまた送り出す。
 その繰り返しのなかで気に入った生徒や気に掛かった生徒は堂々と贔屓してやろうと思った。 
 平等なんて誰も見ていないのと同じだ。
 そんな仏にはまだなれない、まだ涅槃に至るには早過ぎる。
 ようよう大人になったばかりで女房に逃げられた、寂しくただ情けない男でしかなかった。
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