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第十一章 兵法者
第十一章 兵法者(2)
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一行は宵の明星が輝き始めた街道を慎重に進む。平次郎は撒菱を踏んだ右足を庇って、道端で拾った木の枝を杖代わりにしながら、跛行(はこう)気味に歩く。一行は、四半刻ほどをかけて須磨の宿所に着くと、それぞれが旅塵を落とし、亭主の案内で宛てがわれた部屋に入った。
偶然にも清太と弥蔵は平次郎と相部屋となった。
「須崎平次郎。」
暗い表情のままの平次郎が短く名乗る。
弥蔵に勧められるまま平次郎が化膿止めの膏薬を自分の傷口に塗布する。その様子を見ながら、清太が会話の糸口を探して、求められるでもなく宗景と同道するに至った経緯を語る。
そのあと、平次郎はやむを得ないという表情で重い口を開く。
平次郎曰く。以前、廻国修行の途次、備前に立ち寄って、浦上氏の家臣達と試合し、その後、短期間ではあったが、逗留して浦上家中に兵法を指南したことが縁で、宗景と知古を得た。その宗景が宇喜多直家に備前を追われ、播磨の小寺氏に身を寄せていることを耳にして、旅の途中に播磨に立ち寄り、宗景から直に摂津有岡城までの護衛を依頼されたという。
平次郎が表情の陰翳をさらに深める。
「先刻、藤佐が擦れ違う貴殿に声を掛けたように見えたのだが、奴と顔見知りか。」
平次郎の質問に、清太は、
「詳しいことは存じませんが…。」
と断った上で、伏見街道で起こった出来事の概要を説明した。
平次郎が深く大きな溜め息を漏す。その落胆した表情を見つめながら、清太は二人の尋常でない関係を察しつつ、遠慮気味に尋ねる。
「初対面でさしでがましかもしれませぬが、藤佐という悪党と平次郎殿の間に何があったのか、お聞きしても宜しいですか。」
平次郎は少し躊躇したあと、
「私事ですが、…。」
と前置きして、語り始める。
平次郎と藤佐は無心流という田舎剣法を開いた兵法者熊谷止観斎を師匠として、剣術を研鑽する同門だった。止観斎の門弟の中で二人の実力は群を抜いており、周囲の者達は、
―嫡男のいない止観斎はいずれかを一人娘幸(さち)の婿として迎え、後継者とするのではないか。
と噂した。
そんなある日、加齢により心身の衰えを感じ始めた止観斎が平次郎と藤佐を居室に呼んだ。
「一年後、わしの跡目を決めたい。今日より双方とも道場を離れて廻国せよ。一年後、ここに戻って試合し、勝者に跡目を譲りたい。」
修行の旅に出た平次郎は霊峰霊山に籠って肉食を断ち、結跏趺坐を組んで心胆を練り、時に止観斎を、時に木太刀を構える兄弟子の藤佐を夢想しながら、重い木太刀を振り続けた。厳しい鍛練は平次郎の心身から贅肉、煩悩、雑念を全て削り取った。
一年後、道場に戻った平次郎と藤佐に対して、止観斎は木太刀による三本勝負を命じた。平次郎の眼前には、一年前とは別人のように血走った眼の奥底に暗い炎を宿す藤佐が立っていた。
一本目は強引な太刀筋で藤佐が取り、二本目は藤佐の拳に平次郎の太刀が触れた。
三本目は両者譲らず、絡み合う木太刀が幾度も彼我の身体を掠めた。
何合か太刀を交えた時、突然、自我を見失った藤佐が人とは思えぬ奇声を発して、凄まじい殺気を放射しながら、平次郎の胸板を突き破らんばかりの刺突を繰り出した。止観斎は藤佐の異常を瞬時に察知し、鋭い声を上げて藤佐を制しながら、手にあった鉄扇を藤佐目掛けて投擲した。
平次郎も藤佐の狂気を感知し、藤佐の攻めに無我夢中で対応した。平次郎の身体は無心の中で動いていた。
平次郎が忘我から戻った時、藤佐は左肘を押さえながら、道場の床に片膝をついていた。藤佐の横には彼自身の木太刀と止観斎の鉄扇が転がっていた。
「正々堂々の勝負を邪魔立てするとは、師匠といえども看過できぬ。」
藤佐が凄まじい形相で止観斎を睨みながら迫った。
「藤佐。最後の瞬間、お主の木太刀は明らかに平次郎の命を奪おうとしていた。わしは、それを察して、鉄扇を投じ、試合を止めたまでじゃ。しかし、鉄扇がお主の身体に届く寸前に勝負はついていた。それを分らぬお主ではあるまい。」
止観斎は冷静に対応する。藤佐はなおも止観斎に異議を唱えたが、止観斎は沈黙したまま悲しげな瞳で藤佐を見つめるだけだった。
藤佐が言葉を切った時、止観斎は、
「お主の太刀は血と邪悪に穢れ過ぎた。」
と、呟いた。
「認めぬ。」
藤佐が木太刀を拾い、烈火の如き憤怒を露わにして、野獣のように俊敏な動作で止観斎に襲い掛かった。丸腰の止観斎は藤佐の太刀筋を紙一重で避け、さらに左袖で藤佐の顔を払った。直後、二人の間に割って入った平次郎が藤佐の右肩を木太刀で痛打した。
再び藤佐の木太刀が床に転がった。
「潔く退け。」
平次郎が鋭く命じた。
藤佐は木太刀を放置したまま、二人に背を向け、無言で道場を立ち去った。
数ヵ月後、平次郎と幸の祝言が近付いた或る日、幸は止観斎の使いで奉公の老女とともに隣村へ出掛けた。夕刻になっても戻らない二人を案じて、弟子達が探しに出た。その夜半、村外れにある神社の境内で虫の息で倒れている老女が発見された。
「藤佐さま…。」
老女は執念の遺言を伝え、事切れた。
全員の脳裏に最悪の予感が過った。
間もなく神社の背後にある鎮守の森の奥深くで、乱れた長襦袢の白い布地を鮮血に染めて倒れている幸が発見された。彼女の冷たい右手に握られた守り刀が乳房の下あたりに深々と刺さっていた。
―自害…。
幸は娘ながらも父止観斎から一通りの武術を伝授されている。相当な手練れでなければ、幸を追い詰めることは不可能だった。逆に、老女が末期(まつご)に残した、
―藤佐。
であれば、幸を襲い、そして凌辱できる。
―藤佐が殺した…。
平次郎は断定し、最愛の一人娘を失って抜け殻になった止観斎を他の弟子達に任せて、藤佐の行方を追うために再び旅に出た。その後、
―藤佐が西国の大名に雇われて裏稼業に勤しんでいる。
という程度までは掴んだが、相見えることはなかった。
ゆえに、先刻、幸の怨念を晴らす千載一遇の機会を逃したことは、平次郎にとって痛恨事だった。
「藤佐の消息を掴んだ時には、何らかの形で平次郎殿にお知らせしましょう。」
清太が協力を申し出ると、平次郎は無念そうに目を伏せたあと、初対面の清太が示した最大の誠意を感じつつ、小さく頷いた。
偶然にも清太と弥蔵は平次郎と相部屋となった。
「須崎平次郎。」
暗い表情のままの平次郎が短く名乗る。
弥蔵に勧められるまま平次郎が化膿止めの膏薬を自分の傷口に塗布する。その様子を見ながら、清太が会話の糸口を探して、求められるでもなく宗景と同道するに至った経緯を語る。
そのあと、平次郎はやむを得ないという表情で重い口を開く。
平次郎曰く。以前、廻国修行の途次、備前に立ち寄って、浦上氏の家臣達と試合し、その後、短期間ではあったが、逗留して浦上家中に兵法を指南したことが縁で、宗景と知古を得た。その宗景が宇喜多直家に備前を追われ、播磨の小寺氏に身を寄せていることを耳にして、旅の途中に播磨に立ち寄り、宗景から直に摂津有岡城までの護衛を依頼されたという。
平次郎が表情の陰翳をさらに深める。
「先刻、藤佐が擦れ違う貴殿に声を掛けたように見えたのだが、奴と顔見知りか。」
平次郎の質問に、清太は、
「詳しいことは存じませんが…。」
と断った上で、伏見街道で起こった出来事の概要を説明した。
平次郎が深く大きな溜め息を漏す。その落胆した表情を見つめながら、清太は二人の尋常でない関係を察しつつ、遠慮気味に尋ねる。
「初対面でさしでがましかもしれませぬが、藤佐という悪党と平次郎殿の間に何があったのか、お聞きしても宜しいですか。」
平次郎は少し躊躇したあと、
「私事ですが、…。」
と前置きして、語り始める。
平次郎と藤佐は無心流という田舎剣法を開いた兵法者熊谷止観斎を師匠として、剣術を研鑽する同門だった。止観斎の門弟の中で二人の実力は群を抜いており、周囲の者達は、
―嫡男のいない止観斎はいずれかを一人娘幸(さち)の婿として迎え、後継者とするのではないか。
と噂した。
そんなある日、加齢により心身の衰えを感じ始めた止観斎が平次郎と藤佐を居室に呼んだ。
「一年後、わしの跡目を決めたい。今日より双方とも道場を離れて廻国せよ。一年後、ここに戻って試合し、勝者に跡目を譲りたい。」
修行の旅に出た平次郎は霊峰霊山に籠って肉食を断ち、結跏趺坐を組んで心胆を練り、時に止観斎を、時に木太刀を構える兄弟子の藤佐を夢想しながら、重い木太刀を振り続けた。厳しい鍛練は平次郎の心身から贅肉、煩悩、雑念を全て削り取った。
一年後、道場に戻った平次郎と藤佐に対して、止観斎は木太刀による三本勝負を命じた。平次郎の眼前には、一年前とは別人のように血走った眼の奥底に暗い炎を宿す藤佐が立っていた。
一本目は強引な太刀筋で藤佐が取り、二本目は藤佐の拳に平次郎の太刀が触れた。
三本目は両者譲らず、絡み合う木太刀が幾度も彼我の身体を掠めた。
何合か太刀を交えた時、突然、自我を見失った藤佐が人とは思えぬ奇声を発して、凄まじい殺気を放射しながら、平次郎の胸板を突き破らんばかりの刺突を繰り出した。止観斎は藤佐の異常を瞬時に察知し、鋭い声を上げて藤佐を制しながら、手にあった鉄扇を藤佐目掛けて投擲した。
平次郎も藤佐の狂気を感知し、藤佐の攻めに無我夢中で対応した。平次郎の身体は無心の中で動いていた。
平次郎が忘我から戻った時、藤佐は左肘を押さえながら、道場の床に片膝をついていた。藤佐の横には彼自身の木太刀と止観斎の鉄扇が転がっていた。
「正々堂々の勝負を邪魔立てするとは、師匠といえども看過できぬ。」
藤佐が凄まじい形相で止観斎を睨みながら迫った。
「藤佐。最後の瞬間、お主の木太刀は明らかに平次郎の命を奪おうとしていた。わしは、それを察して、鉄扇を投じ、試合を止めたまでじゃ。しかし、鉄扇がお主の身体に届く寸前に勝負はついていた。それを分らぬお主ではあるまい。」
止観斎は冷静に対応する。藤佐はなおも止観斎に異議を唱えたが、止観斎は沈黙したまま悲しげな瞳で藤佐を見つめるだけだった。
藤佐が言葉を切った時、止観斎は、
「お主の太刀は血と邪悪に穢れ過ぎた。」
と、呟いた。
「認めぬ。」
藤佐が木太刀を拾い、烈火の如き憤怒を露わにして、野獣のように俊敏な動作で止観斎に襲い掛かった。丸腰の止観斎は藤佐の太刀筋を紙一重で避け、さらに左袖で藤佐の顔を払った。直後、二人の間に割って入った平次郎が藤佐の右肩を木太刀で痛打した。
再び藤佐の木太刀が床に転がった。
「潔く退け。」
平次郎が鋭く命じた。
藤佐は木太刀を放置したまま、二人に背を向け、無言で道場を立ち去った。
数ヵ月後、平次郎と幸の祝言が近付いた或る日、幸は止観斎の使いで奉公の老女とともに隣村へ出掛けた。夕刻になっても戻らない二人を案じて、弟子達が探しに出た。その夜半、村外れにある神社の境内で虫の息で倒れている老女が発見された。
「藤佐さま…。」
老女は執念の遺言を伝え、事切れた。
全員の脳裏に最悪の予感が過った。
間もなく神社の背後にある鎮守の森の奥深くで、乱れた長襦袢の白い布地を鮮血に染めて倒れている幸が発見された。彼女の冷たい右手に握られた守り刀が乳房の下あたりに深々と刺さっていた。
―自害…。
幸は娘ながらも父止観斎から一通りの武術を伝授されている。相当な手練れでなければ、幸を追い詰めることは不可能だった。逆に、老女が末期(まつご)に残した、
―藤佐。
であれば、幸を襲い、そして凌辱できる。
―藤佐が殺した…。
平次郎は断定し、最愛の一人娘を失って抜け殻になった止観斎を他の弟子達に任せて、藤佐の行方を追うために再び旅に出た。その後、
―藤佐が西国の大名に雇われて裏稼業に勤しんでいる。
という程度までは掴んだが、相見えることはなかった。
ゆえに、先刻、幸の怨念を晴らす千載一遇の機会を逃したことは、平次郎にとって痛恨事だった。
「藤佐の消息を掴んだ時には、何らかの形で平次郎殿にお知らせしましょう。」
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