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第一部 旅立ち

1.暗雲低迷

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「これから嵐が来る。ピッポ。気を付けて。」

 鉛筆の束とお釣りを手渡しながら、文具屋のお婆さんが言った。それを受け取った青年はそれをポケットに入れ……すでにポケットにはペンダントが入っており、しまうには少々手間取ったが……お婆さんの忠告に感謝し、店を出た。

 外は雲一つない晴天、だがしかしそれは嵐の前ぶれとも言えた。青年はお婆さんの言葉をよく吟味し、対策を考えた。

 最近ここパタフル郡では嵐が多い。パタフルの四大町村のひとつ・樽村で農業を営むこちらの青年ピッポ・ポップスも、この天の気まぐれには閉口していた。

 ここまで嵐が多いとなると、これはもう農業どころの話ではない。二週間前の嵐ではピッポの家の勝手口が吹っ飛んだ(ということで、ピッポの家は現在吹き曝し状態である)。どうにかしないと、次は家が吹っ飛んでしまうだろう。ピッポは買い出しを中断し、まっすぐ自宅に戻ることを決めた。

 ピッポが今いるのはパタフル郡・樽村の西市場、樽村では最も人通りのある場所である。真っ直ぐどこまでも続く‘パタフル大通り’の左右に八百屋、果物屋、本屋、文具屋などが建ち並ぶ。

 ピッポの家は市場の西、海の方角にある。ピッポはまず大通りを離れようと、まずカケス小道へ向かおうとした。

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 しかしピッポの足は結局すぐに止まった。パタフルいちの人気作家の新刊が発売になったのだ。ピッポは書店に入ると、長々と立ち読みを始めた。(10巻までは揃えたけれども、それ以降を買うお金が足りなくなってしまったのである)

 ピッポはファンタジーや冒険物が好きだった。彼は物語の主人公にある種の憧れを抱いていたのだ。それにパタフルでの暮らしは、彼にとってちょっと退屈だった。

 パタフルの人々は基本的にとても内向的で、隣村にさえ行ったことがない人もいたし、近隣国、例えば議会国家アルデマンドに足を向けた人なんてほぼいなかった。彼らにとって、パタフルでの暮らしが生活のすべてだったし、それだけで充分だったのである。

 だからピッポにとって、ひょんなことで旅に出て英雄となって帰ってくる物語の主人公は羨ましく思えた。小さい頃よく彼は

「ぼくもたびにでるんだ!」

などと言って親戚を慌てさせたものである。流石にこの年になってそういうことを表立っては言わなくなったが、だからこそ彼は、冒険物語を好んで読むのだった。

 ピッポが主人公と敵の剣士との一騎討ちに熱中していると、

「ピッポくん」

 彼に声をかけた者がいた。そこにいたのは、年はピッポと同じか、少し上ぐらい、背はピッポよりいくらか低く、どちらかと言えば肥満体型の男だった。 

「ペップじゃないか…… いったいどうしたんだい」

 ピッポが尋ねると、ペップと呼ばれたその男はにこにこしながらこう答えた。

「僕は君の今読んでる本を買いに来たんだ」

 そしてペップは『勇者の冒険』第15巻を購入した。

 ピッポはペップが読み終わったら貸してくれるというので、店を出ることにした。しかし扉に向かった二人の足はすぐに止まった。

「この音……」

 ペップがつぶやくと、ピッポが答えた。

「嵐だ」

 扉を開けたペップを、風に吹かれた大量の雨粒が出迎えた。通りの木は風に打たれて軋み、店の屋根に雨がぼとぼと音を立てる。いつの間にか嵐がやってきているのだった。

「もう来るとは思わなかったぜ。ペップ、急いで帰ったほうがいい」

ピッポが言った。しかしペップは本屋の椅子に座りこむと言った。

「いやいやいやいや!治まるのをまった方がいいって、ぜったい」

「文具屋のお婆さんが言っていた。これからもっとひどくなる。さあ行こう」

 ピッポはこう言ってペップを立たせようとしたが、ここでごろごろと大きな音が鳴った。

「雷だぜあれは!?危ないって!」

ペップが叫ぶ。彼は雷が大嫌いだった。

「でもほら、一回しか鳴ってないだろ。後からさらにひどくなるよ」

ピッポはこう言ってペップを立たせると、店を出た。

 外はひどい雨だった。霧がかかり、道がよく見えない。それどころか、ピッポはペップの姿さえよく判別できなかった。

「ペップ!僕の家に来た方がいい!君の家は遠いだろ!」

ピッポは服のフードをかぶりながら、叫んだ。実際ピッポの家ならここから大して離れてはいない。

「そうすることにしよう!それにしてもひどい雨だよ!」

ペップも買った本をマントで覆いながら、叫び返した。そうでもしないと声が雨と風にかき消されてしまうのだ。

「行くぞ!まずはカケス小道へ」

 ピッポが叫び、二人はパタフル大通りを走り出した。ピッポの家は市場を抜け海の方へカケス小道を下ったところにある。風が強くなり、雨が激しく二人の体にぶつかってきた。またもやごろごろ雷が鳴るので、ペップは耳をふさぎ、天を呪いながら走った。

 書店からパタフル大通りを少々走り、やっと市場の門を抜けると、二人はぎょっとして立ち止まった。その行く手には、カケス小道がぼんやり見えてはいるが、その先は雨と霧とで覆われ、何も視覚できなくなっていた。もしかしたらこのまま進むのは危険かもしれない。二人はふり返り、市場を見た。樽村西市場のはずれには、何軒か旅籠屋が並んでいる。この嵐のなかでも、営業はしているはずだ。

「どこかに泊めてもらった方がいいと思わないか?」

ペップが言った。ピッポもやむを得ずうなづいた。

 しかしここで大変なことが起こった。

 雷が大きく轟いた。そしてその音とともに古くからあったさびた門の地盤、石でできた支えがあっけなくくずれ落ちたのだ。門は二つに折れ、”誰でも大歓迎・西市場”と書かれた横断旗はちぎれ、吹っ飛んでいく。そして門の破片がばらばらと二人に向かって飛んでくる。二人はそれらを避けようと、地面にうずくまった。はずみでペップの本がマントを離れて宙を舞い、風に乗って嵐の中を飛んで行った。ペップはうめいたが、どうにもならない。『勇者の冒険』15巻は、あっという間に見えなくなった。

 少しして門の崩壊が終わると、二人はゆっくり顔をあげた。目の前には、数秒前まで門であったがらくたが、累々と転がっていた。

「今日はやることなすことみんな災難だ!どうするんだよ」

ペップが叫んだ。門の残骸はパタフル大通りをふさいでおり、市場に戻るという選択肢はない。依然として嵐は続いている。ならばどうにかして、ピッポの家までたどり着かなくてはならない。ペップはピッポを促すと、ピッポの家まで一目散に駆け抜けようとした。しかしピッポはじっとしたまま、動かなかった。

「おい、ピッポ!?何してるんだよお」

 ペップはピッポの服をひっつかみ、走らせようとした。しかしピッポは後ろ、つまり市場の方を指差した。市場の一本道の途中、中央広場の辺りで何かが動いている。

「見えるかい?」

 ピッポが震えた声で呟いた。ペップははっとして無言で頷いた。それは何とも言えない存在……影みたいだ、けれど自我がある、とピッポは感じた。味わったことのない、言いようのない恐怖が二人を襲った。二人は走って逃げようとしたが、できなかった。足が完全に硬直している。二人にはただがたがたと震えながら、棒のように突っ立っていることしか出来なかった。

ノーゴルとその三つの子、それらが君らの救いの手……

 二人は不思議な歌を聞いたように思った。この雨風で聞こえるはずもないと言うのに。しかし彼らからは雨も風も、市場も道も消えていた。そこにあるのは、二人と‘何か’だけだった。その‘何か’はゆっくりと近づいて来た。
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