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第一章

”大演習”

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 メナス大陸最大の人類国家”ミドガルド王国”。その北西に位置するオーリス領では、今年も隣国”ハノーヴ公国”との国境沿いで年に一度の軍事演習が行われようとしていた。
 凶作の年は毎回のように略奪目的で侵攻を繰り返してきたハノーヴ軍に対抗するため、いつの頃からか毎年恒例となったこの演習は、今となってはオーリス軍だけでなく隣領のフリア、ドメニア両軍までもが参加する祭りのような賑わいすら感じさせる大規模なもので、このためだけに徴兵された各領民たちが参加できることに名誉を感じるほど王国で知らぬ者はいない大演習だった。

「いつ眺めても、農地の稜線にはためく軍旗は壮観であるな!」

 本陣の天幕から外を眺め満足げに語るフリア領主のゼノ・フリーデに、ドメニア領主の次男ライル・クラウスはやや大げさに声をあげる。

「一糸乱れぬ行軍に私は素直に驚いています。そしてその一方、一切の指示すら求められない我が身の頼りなさを思い知らされ情けなくもありますが……」

 ライルの言葉にゼノは目を細くして笑う。

「貴公の父君がそれはオーガのような形相で将官共をしごいてきたからなぁ、模擬戦程度身に染みついてしまっておるのだ。我らはどっしりと構えて兵たちを見守っていればよいのよ」
「父にもそう教わりましたが、ただじっとしているのもなかなか落ちつかないものでして」
「そう言えるうちはまだ若い、俺なぞ贅肉がついたせいか腰が重くて立ち上がるのすら億劫だわ」

 ゼノの皮肉をどう受け止めていいかライルが逡巡していると、幕が擦れる音と共に分厚い笑い声が背後から轟いた。

「なにを仰いますか、一度腰をあげれば一日だって立っておいでだというのに!」
「おおシェヴン卿!遅かったではないか!」
「輸送部隊が少々兵器の運搬に手間取りまして、少しばかり様子を見ておりました」

 天幕一杯に身体を詰め込んだ大男は、ライルを見るなりひび割れそうなほどシワを寄せて笑みを浮かべる。

「貴公がライル殿だな。私はエルマー・シェヴンだ、お初にお目にかかる」
「お、お初にお目にかかります、シェヴン卿!」
「そう硬くなるな。この熊男はこれでいて懐が深い御仁だ、多少粗相を働いたところで気にも留めん御仁よ」

 緊張をほぐす様なゼノの言葉をありがたく思いつつも、ライルは目の前の男の威圧感に未だ気圧されたままだ。ミドガルド王国随一の武人と名高い、英雄シェヴンの前では無理もない話かもしれない。

 エルマーの誘いで三人揃って天幕を出ると、ちょうど農地一杯に向かい合った兵達が今まさにぶつかり合うところだった。

「今年は死者が出ぬといいのだがなぁ、なにしろ俺の軍は治癒師が少なくていかん!」
「そこは例年のごとく我がオーリスの治癒師の出番ですが、無論そう簡単に治癒はさせてくれんでしょうな」
「俺が懸念するのはそこよ!貴公のとこのオスヴァルトは苛烈だから、休み暇すら与えてくれんだろうが」

 二人の会話にさっそく付いていけていないライルを気遣って、エルマーが解説をはさむ。

「よいかライル殿。フリア軍旗を掲げる西軍のベック将軍は守勢に長けているのに対し、ドメニアの軍旗を掲げる東軍のオスヴァルトは攻勢に長けた将軍なのだ。それは分かるかね?」
「はい、両将軍の武勲は幼いころより聞き及んでいましたので」
「ならばオスヴァルトが挽肉器の異名で知られていることも知っているだろう、あれはその呼び名通り敵兵と戦意を丁寧に余念なく挽き潰していくのだ」
「……対するベック将軍は相手に付け入る隙を見出すまで耐えるつもりでいる、それにはいち早い陣形の復帰と消耗した兵士の回復が必要、ということですね」

 教科書通りだが正しいライルの回答にエルマーは頬を緩める。

「両軍に等しく魔法師を割り振ってはいるが、それでは本来多くの魔法師を必要とする守勢側にとって不利となる、不平等を無くすための決まり事が毎年このような不平等を引き起こすのだ。模擬戦においての取り決めは将官達に一任している手前、領主といえど口を挟みづらいのがもどかしいところよ」

 黒々とした顎髭をしごくエルマーにつられる様に、ゼノもオーク色の顎髭に手をやって難儀難儀と頷いた。

 三人が見守るなか演習は依然オストヴァルト率いる東軍の優勢が続き、対するベックの西軍は歩兵を消耗しながらも東軍の騎兵を打ち崩しながら反転攻勢の隙をうかがっていた。

「さてライル殿、ぶっちゃけた話飽きて来ただろう?」

 まったく悪びれもなく大将らしからぬことを口走るゼノに、ライルはエルマーの逆鱗に触れるのではないかと冷や汗を額に浮かべるが、当のエルマー自身もゼノに同調しまったくだと言い出す始末。

「しぇ、シェヴン卿、貴方までなんてことをおっしゃるのですか?!」

 貴族の青年らしく真面目に振る舞うライルの背中を軽くたたいて、エルマーはジョッキ一杯の大麦茶を手渡す。

「熱心に見ていたところで余程の事態が起きない限り、我々大将にできることは何もない。むしろ余程のことが起きた際、冷静な判断を下せるよう適度に頭を休ませておくのも大将の仕事なのだ、お分かりかね?」
「……わかった気もしますが、正直、うまく言いくるめられてる気もします」
「ははは!軽口が言える程度に緊張が解けたようで結構!ですよな、フリーデ卿?」
「そうだな、若造は生意気な方が愛嬌があるわ。まぁ、そろそろあの人らが動き出す頃合いだろうし、のんびりと休む訳にもいかないがな」

 ゼノはそう口にしながら気怠そうに重い腰を上げる。
 事情が呑み込めないライルがゼノに続いて農地に赴いてみれば、いつの間にか攻守が逆転していた。

「どういうことでしょう!?ひと時も経っていないのに東軍の前衛が瓦解しはじめてますよ!?」

 驚きと興奮で目を白黒させるライルに対してゼノはほくそ笑みながらまっすぐ指さす。

「ほうれ、これをしでかした犯人はあそこで悠々駆けておる」

 指先の方へ必死に目を凝らしてみれば、ライルにとって見覚えのある騎士の姿と、カラス羽のマントをなびかせその先を征く──

「子供……?!子供じゃないですか!?」

 反射的に自分の馬に向かって駆けだそうとするライルを、ゼノはいとも簡単に片手で制すると叱るように拳でブレストプレートを一突きする。

「おなじ言葉をあのお人の前で口にするんじゃないぞ、俺まで意地悪されかねんからなぁ!なぁ、シェヴン卿?」
「まったくです、特に今日などは血を滾らせてなにをはじめるか怖くて堪りませぬ」

 冗談ではないと立派な眉をぐにゃりと曲げるエルマーに、ライルは疑問で首を傾げる。

「ライル殿、貴公の父君は時に酷い悪戯をするだろう?」
「あ、はい……」
「恐らく貴公は、私がオーリス領主だと聞かされていたのではないか?」
「違うのですか!?」
「あぁ違う、虎と子猫ほども違うぞ。貴公が言うところの子供こそ私の父上、ミドガルドの英雄シグルズ・シェヴンその人だ」

 それを聞かされたライルの驚嘆は行軍ラッパよりもけたたましかったが、前線でそれを耳にしたものは誰もいなかった。
 愉快そうに馬を駆る子供と老人のおかげで、兵士の誰もがそれどこではなかったから。
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