煙の向こうは

李智明

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危険な賭け

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車をサウスベイへと走らせた、共同経営者の一人リチャードがランチミーティングを申し出てきた、リチャード・コネリー、仁義に厚い男だ、リチャード、ニック、エンリケこの三人で立ち上げた会社である、あれから何年たったことか…
リチャードが庭先にテーブルを並べ彼のワイフがそそくさと炭火で肉を焼き始めた。
ワインを注ぎ軽く三人で乾杯をした。
「メキシコシティーのやつらは我々を潰すつもりらしい、昨日エンリケの情報屋から聞いた、うちの中南米中間業が一番のねらいだ……」リチャードが一口ワインを呷る。
「……………」ニックとエンリケに言葉はない、ワインをぐっと呷り喉を潤す。
リチャードのワイフと子供が少し離れた母屋の方から笑顔を送っている、リチャードのブルーの瞳が微かに笑う。
ニックは提案がてらにゆっくりと口を開いた、
「私が彼らと話してみます、もし奴らがうちの山を分けろと言うなら、敢えて少し分けてやりましょう、戦争は避けねばならないと思う………」
「うちとしてもメキシコシティー中継利権も欲しいところだ」察しの速いリチャードは言った。
「うちの者を何人か遣そうか」エンリケは聞く。
「いらないよ………」ニックは言った。
ひと時の憂鬱を覚えた、ヘッドはルキアーノ・ガルシア、メキシコティー三代目のイタリア系マフィア。
ペネロペが急に恋しく思えた、今すぐ抱きしめたい、危ない仕事で死を目の前に控えた男の考えることだ。ペネロペ・レオーネ、ニックのすべてを最も熱くさせた女だった。

グラデーションを成しているブルーの海面に夕陽が映える、ウインカーがカチャッカチャッと鳴っている、ニックは車に靠れてシガーをふかす、海猫たちが鳴いている、ペネロペとの燃えるような情事、果てしなき思いに彼は自分を馳せるしかなかった。シガーの煙はまるでとんぼのように自由である、何を考えるでもなく漂いそして消えてゆく。
波が飛沫に変わる音がする、いつもの浜辺のレストラン“Sandy’s ”オーナーは米国の人で自分のワイフの名前を店に採った、ワインは自身の家族が経営するカルフォルニアの醸造所から仕入れている、ニックはワインに精通してはいないが、海の香りとここのワインが好きである。
「どうしたのよ、冴えない顔ね……」ペネロペは聞く。
ニックは不意を突かれた様に、
「気にしないで、さぁ飲もう、サルゥー」ニックは軽く彼女と乾杯した。
彼女は少し気になっている、
「いつものあなたらしくないわ……」
ニックは切り出した、
「数日メキシコシティーへ行く、大きな仕事が入った……」
「帰りを待ってるわ…」
少しさみしそうな面持ちで言った。
彼女といると何か温かい気持ちでいっぱいになるのだった、冷えたワイングラスの水滴が一粒落ちた。

ジェットエンジンの爆音が轟き強い風が吹き付ける、メキシコシティーは快晴であった、ニックの思いとは裏腹に滑走路の脇には椰子の葉が南国の陽光を受けて輝いていた、飛行機からタラップを下りると黒スーツ姿の男が数人歩み寄ってきた、ルキアーノの手下だと解る。
標高が高いせいか非常に涼しい。
黒のキャデラックに乗り込み屋敷へ向かう、高速へ乗ると助手席にいる白髪の男が挨拶をしてきた、
「ルイージ・パッバロッティです、ガルシア氏の秘書をしております、遠方から来ていただき誠に感謝いたします、今日はちょうどガルシア氏がチャリティーパーティーを催す日であり、メキシコシティーの財政界の方たちがいらっしゃいます、ぜひお楽しみください」
ニックは軽く感謝の意を示した。
二十分ほど走り市街地から少し外れた所に着いた、バロック式のオープンガーデンの邸宅、庭内には各種亜熱帯の植物が茂り手入れが行き届いている、すでに夕刻に差し掛かっていた、
白いマセラティーのセダンが邸内に入ってきて、エントランスにある男が下車した、いかにも財政界のお偉いさんみたいな男だった、迎えに出てきたのがオールバックの頭、ネイビーブルーのスーツ、シルクのネクタイ、そして端正で清潔感のある面持ち、ルキアーノ・ガルシアであった、その異様な圧倒感にニックは危ない香りを覚えた。その後ニックの乗った車がエントランスに着けられた、下車してルキアーノが笑顔で迎えてきた。
「ニック・藤堂です、ガルシア氏にお目にかかることができ光栄です」
軽く挨拶をする。
ルキアーノが淡々と返す。
「今晩は私のホームパーティーの日です、堅苦しいことは置いといて、存分に楽しんでください…」
彼は先に室内へ入っていった、五人の大柄なボディーガードといっしょに。
ニックもルイージに案内されてゲストルーム通され、パーティーウエアに着替えはじめた、化粧台の脇にはブランデーの一本置いてある、ヘネシー…ゲスト用に置いてあるのか、
グラスに注ぎぐっと呷った、気付けにはもってこいだ。
鏡を見ながら蝶ネクタイを締める、ニックは日系二世の父とイタリア系白人の母との間に
生まれた、特別美男とは言えないが、背丈があり、精悍な顔立ちと人柄が初対面の者にも好印象を与える、今日は黒のパーティウエアがとても似合っている。
邸宅の母屋のとなりに大きなパーティ会場が催されていた、中に入ると十八世紀ベネチアで盛行していた仮面舞踏会がまさに目の前で展開されていた、男と女たちは仮面を被り美酒と狂瀾に耽っている、ステージではオーケストラも招待しイタリアオペラの巨匠ジュゼッペ・ヴェルディの歌曲が俳優たちにより演奏されていた。
ニックもボーイにシャンパンを貰いゆっくりと歩きながら聞き入っていた、
ルキアーノが急遽舞台に上がり挨拶を始めた、
「楽しんで、グラーツェ…」拍手があがり、演奏も再開され、熱気があがる、
急に隣の仮面を被った女が話しかけてきた、
「あなた見慣れない方ね」
「何か御用ですか……」ニックは返す、
「私と踊ってくださらない」
年は二十五くらいかな、
「喜んで………」
彼女の手を取ってみなが踊ってる中へ入っていった、
何となく窮屈を覚えニックは仮面を外した、彼女もつられて外した、
「こんなパーティー初めてだ、まるで十八世紀ベネチア貴族たちの舞踏会みたいだ」
彼女は何だが冷めて答える、
「私は小さい時から見てるから何とも思わないわ、財政界のお偉いさんが集まって情報交換と金集めをする場所よ、ねぇもっときつく抱いてくれない」
鼻がつんっと上を向いていかにも気の強そう子だ、一曲踊り終え、傍の椅子に腰かけた、
少し汗ばんで暑い、冷たいシャンパンを二杯もらう、グリーンの瞳はニックを見つめてきらきらと輝いている。
「スザンナ・ガルシアよ」
「君はガルシア氏のご氏族か、よろしく…」シャンパンを一口喉を潤す、
急にルイージが歩み寄ってきてスザンナにちょっと失礼とあいさつする、
「ガルシア氏がお呼びです、こちらへお願いいたします」
私は彼に連れられてパーティの喧騒を離れ、二階の奥の部屋へ通された、中へ入ると薄暗くシガーの煙が漂っていた、壁には鹿のはく製、そして熊のそれも置いてある、その中央には大きな黒檀の机があり、椅子の背をこちらに向けルキアーノは座っていた、シガーをふかしながら、
椅子をようやくこちらに向けた
「ルキアーノ・ガルシアだ、この度は遠方から来ていただき光栄に思います、まぁかけてくれ、ブランデーでいいかな…」
彼は側近の者にニックへブランデーを注ぐよう指示した、
急遽、商談が始まった、
ニックはグラスのブランデーを一口含んだ、豪奢な香りが五感を覚醒させた、
ルキアーノは単刀直入に切り出した、
「君らの中南米中間業の利権20%にうちの株式を注入したいのだ」
ルキアーノもブランデーを一口呷った、ニックもすかさず切り返した、
「それは大きく出ましたね、相当な数字です、15%が妥当なところでしょう……」
その時側近の一人が、
「藤堂さんとか言ったね、あんた大したタマしてやがる、だがうちらファミリーの条件を呑まないないて、どうかしてるぜぇ」
ルイージが急遽ステッキでその手下を数発しばいた、血を流し気絶して倒れた、別の手下がそいつを部屋に外へ引きづりだしていった、
「すみません、うちの者が無礼を……」
ニックは至って気にせずブランデーグラスを手中でゆっくりと揺らした、
「15%ですか………少ないですね、実を申し上げますと、我々ファミリーの事業はここ数年急激な起伏を経験しました、それはこの国メキシコの保守政党たちがこの先5年で与党でなくらる可能性が大きいからです、物流、金融、運輸、これまで色々と融通が利いていましたが、長くは続きません、ですので他の事業拡大も急がれています…」
ルキアーノはシガーボックスからシガーを出し味わってみるようニックを促した、一口ふかした、コッテリとしたバターのようなタール、ココナッツの様なフレーバー、普段自身もシガーを嗜んでいるおかげで、ルキアーノのは極上品であると解った、
「これは私どもキューバ郊外の煙草農園で栽培された葉を使ってます、香りは稍まろやかで芳醇です、ぜひお楽しみください……」
ニックは切り出した、
「私たちも争いは避けたい、15%は決して低い数字ではないと思います、もしこの数字で呑んで頂けるのなら……」
しばしの沈黙が続いた、ルキアーノがルイージの耳元で何やら小声で話している、ニックにも緊張が走る、昔母から教わったイタリア語、この稼業でまさか役に立ってるとは、皮肉なものである、
「わかりました、相応の人員を数人私の方から送り込みます、グラーツェ、藤堂さん……」
プラチナフレームメガネのレンズの奥から見られるその綺麗な瞳がまだ不気味な凶光をニックに放っていた。
15%という提示を素直に呑むとは思えない、ルキアーノは側近の一人にニックを送るよう頼んだ、ドアーを出て一人階段をおりた、パーティの雑踏を抜け、バーカウンターに座った、ボーイにテキーラのショットを二杯もらう、一息つきレモンを搾り塩を一口手の甲にのせ、舐めてから一気に流し込む、うまい、結構キツイがこの飲み方が好きである、
少し考えに耽っていると、スザンナが歩み寄ってきた、
「飲んでばっかりいないでちょっとはあたしに付き合ってよ、ねぇうちに大きなお庭があるんだけど、散歩しにいかない」
確かに少し外の空気が吸いたくなった、彼女に着いて外へ出た、それにしても大きな庭園である、庭の真ん中には池があり噴水もついている、周りにはハイビスカス風の色とりどりの花たちがこそって美しさを競い合っている、一面夜の静寂に包まれている、夜虫の鳴声が少し聞こえるくらいだ、突然スザンナが私の唇を奪ってきた、目を瞑り夢見心地な表情をしている、やれやれ、なんて早熟な子なんだ、
「あたたを好きになちゃいそうよ、困っちゃう…」スザンナはニックにギュッと抱きついた。
「子供は速く部屋に戻れよ、あの父さんに叱られるよ…」
スザンナをなだめ落ち着かせ、彼女は一人部屋へはぶてた様に戻っていった。
静かに夜は更けていった。
翌日昼前に、ルイージが私の部屋の戸を叩きに来た、空港へ車を出してくれた、黒いキャデラックが陽光を受け微かに輝いた、機内で次なるプロジェクトへ乾杯、ブランデーを一口飲んで離れ行くメキシコシティーを上空から望んだ。
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