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第二章 失って得たもの
2-67 マルク視点<回想>6
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己のあまりの不甲斐なさに喪心している所に、ぼそぼそと囁かれる騒音が耳障りだった。
小声で夫を罵っていた妻は、しかし俺と目が合うと顔を蒼白にしてガタガタと震え出した。
妻が態度を急変させたのも無理はない。俺の視線がそちらに向くや否や、足元に蟠っていた冷気の残滓が生き物のように床を這って妻へと向かい、女の膝から下を見る間に凍らせたのだ。
「あ……ア……アタシの足がっ!」
「マルク様! もう隠し事は何もありません! 目障りと言うなら俺達はすぐに王都も出て行きます。だからどうか、命だけは……!」
大家は額を床に擦り付ける。
意図的に俺が力を差し向けた訳ではない。加護の力の暴走ともいうべきものだったが、かと言って凍りついた己の脚に半狂乱の妻を見ても何も感じはしなかった。
無感情なまま大家に問う。
「アンリの行き先に思い当たりは」
「職を得ていたようなので、そこで世話して貰ってるかもしれません。なんでも夜の仕事のようで、娼館辺りじゃないかと……」
娼館と聞いて無意識下に落ちていた怒りがカッと俄に沸き立つ。だが、アンリは触れることすら拒まれる忌人だ。春を鬻いで客を取っているとは考えにくい。
憤激を抑えて考える。娼館の下働きか何かだろうか。それならば雇い入れに際して容姿を問われることはないし、客前に出る必要もない。アンリの得られた職として可能性の高いものの一つだろう。
王都内の娼館は税収の関係上、カサール家でその所在を全て把握している。王都の治安維持を名目に一斉に手入れをすることも可能だ。
一連の算段を始めた頭は冷静に、公正に、あらゆる可能性を探り始める。その中にはいくつかの否定しきれない悪夢もあった。
本当に下働きで済んでいる保証は何もない。もしもアンリが汚れた手に堕ちていたら。
或いは悪烈な趣味を持つ輩の、暴力の吐け口とされていたら。
俺は悍ましい想像を追い遣るように頭を振った。
いずれにせよ一刻も早くアンリを探し出し、保護することが第一だ。アンリのいないこの場所に、最早意味も価値もないのだから長居は無用だ。俺は素早く踵を返し歩き出した。
俺の意識が外へ向くと同時に、僅かに室内に残った冷気も、湿度も、一瞬にして消失した。妻は震えた溜息を吐いて、生身を取り戻した己の膝を恐る恐る撫で摩っている。その横を通り過ぎ、扉へと手を掛けると、大家が大声を出した。
「ご温情ありがとうございます!」
床に伏せたまま、涙だらけの顔を上げて叫ぶように言う。妻は慌てて頭を下げ、夫に寄り添い震えていた。
俺はただ、この夫婦の存在よりも優先すべきことを見出したに過ぎず、決して温情などという類の感情で見逃してやる訳ではない。
だが強いて言うならば、アンリを無事見つけた時に、大家夫婦の命を奪ったと告げればきっとアンリは悲しむだろうという微かな思いが胸の奥底にはあったかもしれない。
アンリはどれほど自分が虐げられようと、相手を決して憎まなかったし復讐心も抱かなかった。それがアンリの持つ心の清らかさであり、優しさでもあるが、一番多くを占めているのは世の中への諦めなのだろう。忌人という自分の存在への諦め。アンリは世界を諦めて生きている。
けれど、そのアンリが俺のことだけは諦めず、希望を抱いて待ってくれていたのだ。
心が切り裂かれるように軋み、悲鳴を上げる。
「俺の温情じゃない。俺の中のアンリがそうさせたんだ。感謝ならアンリにするんだな」
振り返りざまにそう告げれば、意味が理解できないとばかりに大家夫婦は呆けた表情を浮かべていた。俺はそれを睨みつけて続ける。
「だが、俺はアンリのように優しくはない。もしもアンリの身に何かあれば、どこへ身を隠そうとも必ずお前達を探し出し、生き永らえたことを後悔させてやるからな」
びくりと体を戦慄かせた二人は、緩んだ表情をまた強張らせて俯いた。それを後目に俺は戸口を出て行った。
その日の内からカサール家の力を存分に発揮して、娼館の全てを片っ端から調べ上げたが、アンリに繋がる情報は何も分からなかった。治安維持の名の下に夜間の遊興業を虱潰しに調べてみても、働いていた形跡も目撃情報すら見つからない。
手掛かりを失った俺は、信頼のおけるカサール家の者を使って王都内を闇雲に探す他なかった。俺が公に動いては数多の政敵に悟られ、カサールの弱点と目をつけられたアンリの身は一層危うくなるだろう。捜索はひっそりと限られた人数で行うしかなく、当然成果は芳しくない。
全てを投げ打って自らアンリを探しに行こうかとも思った。けれど、俺は約束したのだ。アンリが笑って暮らせる世の中を作ると。今ここでカサールから逃げ出せば、アンリの幸せはもう二度と手に入らない。アンリの瞳に映る世界は諦めの色に染まったままだ。
葛藤し、迷いながら、それでも俺はカサール家に齧り付き、政務を担うしかなかった。
ただひたすらにアンリの無事を祈って。アンリの幸せを願って。
俺の人生はアンリに捧げると決めたのだから。
小声で夫を罵っていた妻は、しかし俺と目が合うと顔を蒼白にしてガタガタと震え出した。
妻が態度を急変させたのも無理はない。俺の視線がそちらに向くや否や、足元に蟠っていた冷気の残滓が生き物のように床を這って妻へと向かい、女の膝から下を見る間に凍らせたのだ。
「あ……ア……アタシの足がっ!」
「マルク様! もう隠し事は何もありません! 目障りと言うなら俺達はすぐに王都も出て行きます。だからどうか、命だけは……!」
大家は額を床に擦り付ける。
意図的に俺が力を差し向けた訳ではない。加護の力の暴走ともいうべきものだったが、かと言って凍りついた己の脚に半狂乱の妻を見ても何も感じはしなかった。
無感情なまま大家に問う。
「アンリの行き先に思い当たりは」
「職を得ていたようなので、そこで世話して貰ってるかもしれません。なんでも夜の仕事のようで、娼館辺りじゃないかと……」
娼館と聞いて無意識下に落ちていた怒りがカッと俄に沸き立つ。だが、アンリは触れることすら拒まれる忌人だ。春を鬻いで客を取っているとは考えにくい。
憤激を抑えて考える。娼館の下働きか何かだろうか。それならば雇い入れに際して容姿を問われることはないし、客前に出る必要もない。アンリの得られた職として可能性の高いものの一つだろう。
王都内の娼館は税収の関係上、カサール家でその所在を全て把握している。王都の治安維持を名目に一斉に手入れをすることも可能だ。
一連の算段を始めた頭は冷静に、公正に、あらゆる可能性を探り始める。その中にはいくつかの否定しきれない悪夢もあった。
本当に下働きで済んでいる保証は何もない。もしもアンリが汚れた手に堕ちていたら。
或いは悪烈な趣味を持つ輩の、暴力の吐け口とされていたら。
俺は悍ましい想像を追い遣るように頭を振った。
いずれにせよ一刻も早くアンリを探し出し、保護することが第一だ。アンリのいないこの場所に、最早意味も価値もないのだから長居は無用だ。俺は素早く踵を返し歩き出した。
俺の意識が外へ向くと同時に、僅かに室内に残った冷気も、湿度も、一瞬にして消失した。妻は震えた溜息を吐いて、生身を取り戻した己の膝を恐る恐る撫で摩っている。その横を通り過ぎ、扉へと手を掛けると、大家が大声を出した。
「ご温情ありがとうございます!」
床に伏せたまま、涙だらけの顔を上げて叫ぶように言う。妻は慌てて頭を下げ、夫に寄り添い震えていた。
俺はただ、この夫婦の存在よりも優先すべきことを見出したに過ぎず、決して温情などという類の感情で見逃してやる訳ではない。
だが強いて言うならば、アンリを無事見つけた時に、大家夫婦の命を奪ったと告げればきっとアンリは悲しむだろうという微かな思いが胸の奥底にはあったかもしれない。
アンリはどれほど自分が虐げられようと、相手を決して憎まなかったし復讐心も抱かなかった。それがアンリの持つ心の清らかさであり、優しさでもあるが、一番多くを占めているのは世の中への諦めなのだろう。忌人という自分の存在への諦め。アンリは世界を諦めて生きている。
けれど、そのアンリが俺のことだけは諦めず、希望を抱いて待ってくれていたのだ。
心が切り裂かれるように軋み、悲鳴を上げる。
「俺の温情じゃない。俺の中のアンリがそうさせたんだ。感謝ならアンリにするんだな」
振り返りざまにそう告げれば、意味が理解できないとばかりに大家夫婦は呆けた表情を浮かべていた。俺はそれを睨みつけて続ける。
「だが、俺はアンリのように優しくはない。もしもアンリの身に何かあれば、どこへ身を隠そうとも必ずお前達を探し出し、生き永らえたことを後悔させてやるからな」
びくりと体を戦慄かせた二人は、緩んだ表情をまた強張らせて俯いた。それを後目に俺は戸口を出て行った。
その日の内からカサール家の力を存分に発揮して、娼館の全てを片っ端から調べ上げたが、アンリに繋がる情報は何も分からなかった。治安維持の名の下に夜間の遊興業を虱潰しに調べてみても、働いていた形跡も目撃情報すら見つからない。
手掛かりを失った俺は、信頼のおけるカサール家の者を使って王都内を闇雲に探す他なかった。俺が公に動いては数多の政敵に悟られ、カサールの弱点と目をつけられたアンリの身は一層危うくなるだろう。捜索はひっそりと限られた人数で行うしかなく、当然成果は芳しくない。
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ただひたすらにアンリの無事を祈って。アンリの幸せを願って。
俺の人生はアンリに捧げると決めたのだから。
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