誕生日のプレゼント

くるみあるく

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0.婚約してる、という話

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2002年5月28日。今日はあたし、粟国あぐに里香の29歳の誕生日。
昨年秋、あたしは照喜名てるきな内科小児科医院の長男である裕太と婚約した。照喜名てるきな内科小児科医院は古都・首里にある。大正時代から続く沖縄でも老舗の医院だ。
どうした風の吹き回しか、長男の裕太は地元の琉海大学医学科を出てすぐ、別名アメリカ第二海軍病院と呼ばれるサザン・ホスピタルで研修医になる道を選んだ。そこへ転職したての看護師であるあたしと出会った。

父親を早くに亡くしてからというもの、母は口うるさいほどあたしたち姉妹に言ったものだ。
「とにかく女性は手に職をつけなさい。男なんか頼っちゃダメよ」
だからあたしは看護学校に進学して正看護師の資格を取った。家の近所の病院に勤めていたが、親友の多恵子がサザン・ホスピタルに転職して福利厚生の良さを吹聴した。英語を使う職場で英会話学校の授業料も割引になると聞き、あたしは多恵子の誘いに乗って転職を決めた。
親友の多恵子たちカップルの紹介であたしが照喜名てるきな医院を訪ねたのは1999年12月のこと。当時あたしはリフレクソロジーに興味を持ってて、リフレクソロジーの本場であるイギリスへの留学を夢見ていた。裕太がスコットランド育ちと聞いたあたしは裕太を質問攻めにし、気がつくと裕太をバイクの後部座席に乗っけて宜野湾の海浜公園まで飛ばしていた。

今まであたしに言いよる男たちは、どちらかというと下心見え見えというタイプが多くて話をする気にもならなかった。そいつらはバイクの後部座席に乗せてぶっ飛ばすと皆、そそくさと逃げ去った。どうやらバイクが苦手らしい。個人的にバイク嫌いを相手にする気はさらさらないので去るままにさせた。
でも裕太は違った。バイクの後部座席は苦手らしいが、代わりにあたしを乗馬に誘ったのだ。今まで接したことのない育ちの良さ、紳士的な対応をされたあたしは戸惑い、やがて優しい裕太に夢中になった。だけど、裕太は宗家むーとぅやーの嫡子だった。

沖縄で“宗家むーとぅやーの嫡子”という言葉は、特別な響きを持っている。
沖縄は強固な血縁社会だ。宗家むーとぅやーの者は、親族の長として地域の年中行事や祭祀を司る者としての使命を生まれながら担っている。一週間以上(場合によっては一年以上も)前から祭りの準備に追われ、山のようなご馳走を作ってご先祖様と親族一同をもてなさなくてはならない。地域で問題が起これば、寄り合いへの参加も義務付けられる。地域の顔として振舞い続けるというのは大変な労力だ。
そして宗家むーとぅやーの嫡子は、祭祀を担う重責とともに親族の財産も一手に握る。また、女の子が長に立つことは慣習として許されないというのが一般の見解だ。だから新民法が施行されるようになってから、争いは絶えることが無い。
そんな宗家むーとぅやーの嫡子に嫁ぐということは、親族の長として振る舞い地域祭祀を継承する覚悟があるとみなされることだ。

宗家むーとぅやーに嫁ぐのが嫌で、自由を失うのが怖くて、あたしは逃げた。裕太からのプロポーズに返事をしなかった。昨年七月にイギリスへの短期留学を決めると、裕太はロンドンに住む弟のあきらさんの住所を教えてくれた。困ったことがあったらいつでも訪ねていいからね、と。もっとも、あたしは最初からお訪ねするつもりなどなかったんだけど。
イングランドでアロマテラピーの講習中、あたしはうっかりエッセンシャルオイルの入った小瓶を床に落としてしまった。
小瓶は音を立てて割れて、あたりにゼラニウムの香りが広がった。その瞬間、頭の中で裕太との最初の出会いの記憶が蘇った。
照喜名てるきな医院の中にある、温室を兼ねたカウンセリング室。情緒不安定に効果があるとされる、ほのかなゼラニウムの香りが漂う中で、裕太はずっと顔を赤らめていたっけ。
あのときからずっと、裕太はあたしの側にいた。嬉しい時には一緒に笑い、悲しい時には抱き合って泣いた。

本当はずっと、あたしが彼のことを追い求めていたんだ。
彼があたしを必要とするより、ずっとずっと、あたしには裕太が必要なんだ。

気がつくと、あたしは泣いていた。溢れ出る涙が止まらなかった。アロマテラピーの講師にはホームシックだと言い残し、あたしは手早く荷物をまとめ、イングランドに住む彼の弟宅を目指したのだった。
あきらさんはちょうど、恋人のジュディさんとくつろいでいるところだった。突然訪ねてきたあたしにびっくりしていたけど、すぐさま帰国する航空チケットの手配をしてくれた。そして沖縄の裕太に電話をしてくれた。イギリスと日本との時差は9時間だが、3月下旬から10月まではサマータイムで8時間になってる。
「Congratulation!  兄貴、結婚するんだろ?」
夜中の12時にこんな電話を受けた裕太はからかわれていると思ったらしい。
「お前、何、寝ぼけてるんだ? 昼寝のしすぎか?」
「里香さんから聞いたよ。結婚するって。いい人だよなー。うちの彼女とも気が合って、もう仲いいのなんのって! もう俺、大賛成だよ。式にはちゃんと参加するからね。日取りが決まったらすぐ知らせてよー! じゃあな!」
「あ、あきら、あの、それ、どういうこと?」
混乱する彼の声が受話器から聞こえる。あたしは電話を代わってもらった。
「裕太、聞こえる? ということだから。明日、沖縄に帰るからね。迎えに来てよ? じゃあねー」
ガチャンと、電話を切った。そして三人で豪勢なディナーを目一杯楽しんだ。

そのままスムーズに婚約が決まった。もっとも2人とも医療関係者なので披露宴の段取りがなかなか大変で、しかも裕太は子供の頃住んでいたスコットランドのダンディ大学博士課程に入学が決まった。つまり新婚生活はスコットランドで開始することになる。結婚式の準備と海外の新生活への準備、うわー。大変だこりゃ。
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